34. 六十センチ
ステラが自分の荷物を部屋に置いて宿のロビーに向かうと、そこにはすでにリヒターとシルバーが待っていた。
ちなみに、アグレルは部屋に入るなり会話もそこそこにベッドへと潜り込んでしまったらしい。
「じゃあ僕は精霊術士の協会に行ってくるけど……」
「いってらっしゃーい」
明るく送り出そうとするステラに、リヒターは不安そうに顔を曇らせた。
「いいかい? 珍しいものがたくさんあるからって夢中になって遅くまで出歩かないこと」
「はーい」
「露店につられて路地裏に入ったらだめだからね」
「もう! そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、リヒターさん。私はシンよりもお姉さんですし」
余裕たっぷりに任せておけと胸を張るステラとは対照的に、リヒターは眉を下げて大きくため息をついた。
「ステラのその謎の自信、逆に不安をあおるんだよねえ」
「なんですって」
リヒターは本気で心配している場合と、ふざけてからかっているだけの場合がある。ステラはまだ完全に見分けられるわけではないが、表情を見るに今回は心配七・からかい三といったところだろう。
その割合がどうであれ、もう少しステラのことを信頼してほしいものである。
ステラはむっと頬を膨らませてリヒターに詰め寄ろうとした――のだが、突然体をぐいっと後ろに引っ張られてよろけてしまった。後ろにいたシルバーが腕を掴んで、ステラを自分のほうに引き寄せたのだ。
急に後ろへと引っ張られたせいでよろけたステラは、ぽすんとシルバーの胸に背を預ける格好になる。単によろけてぶつかっただけだが、端から見ればまるで後ろから抱きしめられるような体勢になっているではないか。
ステラは慌てて横に飛び退いて体を離すと、シルバーを見上げた。
「び、びっくりした。シンってば、急に引っ張らないでよ……」
見上げたシルバーは非常に不満げな表情をしていた。おそらく彼からはステラが嫌がって逃げたように見えたのだろう。
シルバーはどうやらステラに対してだけは適切な距離感という感覚がバグってしまうようで、ほぼゼロ距離でも全く気にならないらしい。むしろ他人の目がなければ積極的に距離を詰めてくる。
だがステラとしては、人目があろうとなかろうと、できれば最低でも半歩分くらいの距離を常に保っておきたい。つまりお互いのパーソナルスペースが合致していないのだ。
しかも今、ロビーにはステラとユークレース親子の他に宿の受付のお兄さんがいる。どうやらシルバー的には宿の人はノーカウントの扱いになっているらしいが、ステラの中では完全に他人の目がある状態なのでものすごく気まずい。
受付のお兄さんも美形親子に翻弄されている普通顔の少女という図が気になるらしく、ちらちらとこちらを気にしているのだ。とてもではないがノーカウントにはできない。
「早く外に行こうよ、ステラ」
そんなステラの心情を知ってか知らでか、シルバーはビッと宿の外を指さした。
ガラス張りになっている入り口のドアの向こう側には観光客達が店を冷やかしながらそぞろ歩き、その隙間を縫うように職人らしき人々が足早に通り過ぎていくのが見えた。いかにも楽しそうで、わくわくするような雰囲気があふれている。
シルバーも表情では不満げな雰囲気を出しているものの、瞳は外の街に対する好奇心でキラキラと輝いていた。
「私よりもシンのほうが浮かれてるじゃん……」
むう、と口をとがらせたステラに、シルバーはふるふると頭を振った。
「仮にステラより浮かれてても、私のほうがしっかりしてるから大丈夫」
「……なんかさらっと馬鹿にされた気がする」
「大丈夫、馬鹿にはしてないよ。事実だから」
「なんだとお!」
キッと目をつり上げたステラの頭にリヒターの手が乗せられた。そのままなだめるようにポンポンと軽く叩かれる。
「ステラ落ち着いて。喧嘩しないで、せっかくなんだから仲良く観光してきなよ」
「いきなり喧嘩を売ってきたのはシンなのに私ばっかり……もう。とにかく、リヒターさんはお仕事頑張ってください。私! は! しっかりしているので心配しなくて大丈夫ですから」
シルバーを睨みながら言葉を強調したステラに、リヒターは笑いながら「わかったわかった」と頭をくしゃくしゃと撫でた。
明らかに「しっかりしている」とは思っていない態度は不服だが、ステラは撫でられること自体は嫌いではない。
幼いころに父がいなくなってしまったせいか、大きな手で頭を撫でられると懐かしさのようなもので胸がきゅっとなる。その甘い感覚が好きなのだ。
ステラは全く気付いていなかったが――きいきいと怒っていたステラが大人しくなって満足げに撫でられているのと対照的に、彼女には見えない頭上ではシルバーが不満全開の表情でリヒターをにらみつけていた。
リヒターはそんな息子の視線に笑いをかみ殺しながら、わざと気付かないふりでステラを存分に撫でたあと、最後にちらりとシルバーを見てにやりと笑ってみせる。
「!」
「じゃあ後でね」
キッと眉をつり上げたシルバーの様子に笑いをこらえきれなくなったリヒターはパッと顔をそらし、手を振ることでふるえる肩をごまかしながらそそくさと宿を出ていった。
「いってらっしゃーい」
そんな頭上の攻防に全く気付かなかったステラはのんきにひらひらと手を振ってリヒターを見送ったあと、シルバーを振り返って、おや? と首を傾げた。
彼は眉間にシワを寄せ、リヒターの去っていった方向をにらみつけていた。明らかに機嫌が悪い。ステラが知らない間にリヒターとなにか喧嘩でもしたのかもしれない。――なるほど、きっとそれでステラに当たるような態度を取ったのだろう、と勝手に納得する。
それなのにステラは……てっきり自分が彼の腕の中から逃げ出したことが不満だったのだろうと思ってしまったのだ。
(うわ、私自意識過剰すぎじゃん……)
恥ずかしい……と羞恥で赤くなった顔を手でぱたぱたと扇いで冷やす。
「……ステラ、どうしたの?」
「な! なんでもない。行こう」
「? そう?」
シルバーは慌てて顔をそらしたステラの様子にやや不審げに眉を上げたが、特にそれ以上追求してくることはなく、自然な動きでステラの手をとって出入り口へと歩き始めた。
「ってちょっと待って」
「……なに?」
引っ張られるままに歩き始めたステラだったが、ハッとして声を上げた。シルバーが振り返る前に軽く舌打ちしたような気がするが、それはきっとステラの気のせいだろう。
「私に触ってたらだめでしょ? 目立っちゃいけないっていうんだから、少し離れて歩かないと」
精霊がいないと目立つからシルバーと共に行動しろと言われているのに、手を繋いでいたら彼の周りからも精霊が逃げていってしまう。それでは一緒に行動する意味がないではないか、とステラは引っ張るシルバーの力に抗って足を止めた。
「……むう……」
シルバーは再びムッと眉間にしわを寄せてしばらくそんなステラをじっと見つめ返していたが、やがて渋々といった空気を醸しつつ手を離した。そして、ぽつりとつぶやく。
「ステラは父さんと一緒にいるとき、いつも嬉しそうにしてるよね」
「へ? 嬉しそう?」
「……ごめん、何でもない」
なぜそこでリヒターが……? と、何でもないと言いながらムスッとした顔をしているシルバーの横顔を見つめ、ステラはぱちぱちと瞬きをした。
・やけに機嫌が悪い。
・リヒターに怒っている。
・ステラがリヒターといるときに嬉しそうなのが面白くない。
――それを総合すると。
(……もしかしてシンは、私とリヒターさんが仲良さそうだから妬いてるの?)
別にリヒターとは普通に話をして、ついでにちょっと撫でられただけだ。思い返してみても大体普段通りのやりとりのはずである。
いくらシルバーがステラのことが好きで、ヤキモチをやいたといっても……たかがそれだけのことでこんなに機嫌が悪くなるものだろうか。
それとも、誰かに恋をしたらそうなるものなのか。
ステラだってシルバーのことが好きだが、もしも逆の立場で――例えばステラの母がシルバーと仲よさそうにしていたら?
(微笑ましいとしか思わない気がする……)
それに、ステラがシルバーに恋をしていたら「ヤキモチやいて拗ねてるのがかわいい!」とキュンとするところなのかもしれない。だが今、ステラの脳裏に浮かぶ言葉は「とりあえず出かける前にご機嫌取らなきゃなあ……」だった。自分でもなんとも残念なトキメキのなさだ。
(これって、やっぱり恋愛感情じゃないってことなのかな……)
恋愛経験など皆無なので、自分の中のシルバーに対する『好き』が親愛なのか恋愛なのかが、自分でもよく分からないのだ。
しかし――分からないことは考えても仕方がない。
切り替えの早さはステラの美点だ。さっき脳裏に浮かんだ通り、より良い観光のためにシルバーのご機嫌を取るのが先決である。
「シンと出かけるのもすごく嬉しいよ。手はつなげないけど、なるべく離れないように歩くから」
ね、とステラが真横に立って首を傾げてみせると、シルバーは少し機嫌を持ち直したらしく、やや嬉しそうにステラの顔を見た。
「じゃあ、六十センチ以上離れたらだめ」
「え、なんか妙に具体的な数字出してきた……」
「緊急時にすぐ手が届く距離」
「ああ、なるほど……じゃあ行こうか……」
そばにいたいという意味かと思ったら安全重視の実務的な距離だった。
やっぱり、私の自意識過剰じゃん――。
「お出かけですね。お気をつけて」
「……ハイ……」
ステラが恥ずかしさに内心で悶えているところに、宿のお兄さんの声が追い打ちをかけてくる。
そういえば、彼がそこにいたのだ。
(し……死にたい……)
いいねやブクマ、評価ありがとうございます!
週1・2回更新を目標にしていますが、しばらく忙しくて更新滞りがちです……orz




