2. ユークレース
男のその短い言葉に応えて、今まで優しくそよそよとそよいでいた風が突然牙をむいた。
「ギャンッ」
ゴウとうなりをあげて襲いかかった突風が、狼たちの体を易々と持ち上げて地面にたたきつける。ついでに、ステラが登っている木もゆさゆさと大きく揺らした。
「わわっ」
ステラは揺れる幹にしがみつきながら、男をまじまじと見つめた。
そよ風を一言で凶暴な風に変えてしまった。
省略された詠唱。だが、確かに――。
(今の、精霊術……だよね?)
地面に落ちた狼たちはすばやく体勢を立て直したものの、得体の知れない術を使う人間の登場に恐れをなしたらしく、文字通り、尻尾を巻いて森の奥の方へと走り去っていった。
「ああ、逃がしちゃったけどよくなかったかな。……ま、いいか」
狼たちが去っていくのを見送った男は、仕方ないよね、と肩をすくめてから木の上を見上げた。もちろん、ステラがしがみついている木だ。
「やあ、大丈夫だったかな。 かわいそうに、怖かっただろう」
男はちょっと大げさなくらいに明るい声で笑いかけてきた。きっと、狼に追われていた子供を安心させるためだろう。
だが、当の子供――ステラの頭の中から、狼のことなどすっかり消えていた。それよりも。
「精霊術士……?」
どう考えても、あの風は精霊術によるものだった。先ほどの短い詠唱が精霊への呼びかけなのだろう。――だが、あんなに簡略化された詠唱など、ステラは初めて聞いた。
そして、あそこまで威力の強い精霊術を見たのも生まれて初めてだった。
ステラのつぶやきを拾った男は小さく首をかしげる。
「うん、そうだよ。……でもそんなに驚くことかな。だって君もさっき精霊術を使ったよね? 精霊の動く気配がしたし」
「……え? ええと……そうですけど……」
確かに先ほど、精霊術を使ったが。
(精霊の、動く気配?)
ステラの困惑を感じ取った男は、苦笑しながら再び肩をすくめた。
「……とりあえず木から下りようか。手伝いは必要かい?」
男はそう言いながら両腕を広げてみせた。もしや、木の上からそこに飛び込めということか――。
ステラは小柄な方だが、それでもここから飛び降りたら結構な衝撃になるはずだ。そして足下の男は、どちらかといえば優男風で、筋骨隆々とはほど遠い。
精霊術を使う気なのかもしれないが、受け止め損なわれたら怖いし、万が一、上に落ちて押しつぶしてしまうのも怖い。
「自分で下りられます」
ステラはふるふると頭を振って、自力で下り始めた。
***
「よっ……と」
一番下の枝まで幹を伝い下りて、そこから飛び降りる。
数歩たたらを踏んだステラの前に、スッと男の手が出てきて支えてくれる。
「どうも」
「どういたしまして」
どういたしまして、などという言葉は本の中でしか見たことがない。おそらく旅人だと思うが、さすが美形は使う言葉が違う。それに、さらっと人を支える所作もスマートだ。
「怪しんでると思うから、自己紹介しておくね。僕はリヒター・ユークレース。レグランドから来た精霊術士です」
男――リヒターは自己紹介しながら、ステラが投げ出した籠を拾いあげた。そしてステラに差し出し、ニコリと微笑む。
「はあ……ユークレースさん」
差し出された籠を受け取りながら、ステラはその名前に眉をひそめる。
レグランドのユークレースといえば、ステラだって知っているくらい有名な一族だった。
アントレルの、いや、おそらくこの国の子供たちなら誰もが聞かされて育つおとぎ話に、その名前が出てくるのだ。
おとぎ話の舞台ははるか昔、人間と精霊がともに暮らしていた時代。
魔族が北の地からやってきて、人間たちの世界を蹂躙するところから始まる。
魔族は大地を焼き払い、抵抗する人間を殺し、精霊からはその生命の源である魔力を奪い取った。そして奪った強大な魔力を使い、さらに蹂躙を続ける――。
誰もが絶望する中、世界を守るべく立ち上がったのが、英雄ウェロガン・ユークレースだ。
精霊の愛し子とも呼ばれた彼は、多くの精霊と人間の協力の下で魔族との戦いに勝利し、人々の暮らしに平安をもたらした。
魔族が滅びて人間と精霊たちに平和が戻ったあと、ウェロガンはその功績を称えられ、もっとも豊かな土地であるレグランド半島を領地として授けられたのだ。
――その、ユークレース。
を、名乗るイケメン。
「……」
詐欺師だろうか。
ステラはとっさにそう思ったものの、先ほどの精霊術が超一流に値するものだというのはなんとなくわかる。
それと、彼はステラが精霊術を使ったことも見抜いていた。
彼は先ほど「精霊の動く気配がした」と言っていた。優秀な精霊術士は精霊の姿を見て、なおかつ会話することもできる――という話はステラも聞いたことがある。
ちなみにステラ自身は声も気配もわからないので、今の今までそんな話は眉唾だと思っていたし、精霊術を使うときはただ闇雲に虚空へ話しかけている。
「うんうん。そういうリアクションは慣れているよ。僕は一応英雄の血筋だけど、本家じゃなくって分家の下っ端なんだ」
リヒターが苦笑交じりに言う。ステラは『詐欺師』という単語を頭に思い浮かべただけで、決して口にはしていないはずだが、なんとなく伝わってしまったらしい。
しかし、いくら分家といっても英雄の血筋。
こんな田舎に住む――術の発動率が一割を大きく下回る――精霊術士もどきからしたら雲の上の存在である。そんな立派な人物が、こんな精霊の枯れた田舎の村にやってくるわけがないではないか。
……つまり、やっぱり偽物の可能性の方が高い。
そう結論づけたステラは「そうですか」と愛想笑いを浮かべた。
「とにかく、助けていただいてありがとうございました」
英雄の親族を騙るやばい人でも、ステラにとっては狼から救ってくれた恩人であることに変わりはない。お礼を言いながら深く頭を下げる。
(あっ……詐欺師だったら、もしかしたら救出料とか請求してくるんじゃ)
もしかしたら今、請求金額を考えてものすごく悪い顔をしているかもしれない。――などと考えながらそろそろと視線を上げたステラの目に映ったのは、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような目で、ひどく興味深そうにステラを見下ろしているリヒターの姿だった。
いったいなにを思ってそんな顔をしているのかわからないが、リヒターは特になにかを言うでもなくステラを見つめている。いや、見つめているというよりも、「観察している」という方が近いかもしれない。
(う……なに考えてるか全然わかんなくて怖い……)
じっと見られるだけでも居心地が悪いのに、さらに加えてリヒターは恐ろしく容姿が整っている。夜明け前の空のように澄んだ群青色の瞳がこちらに向いていると思うだけで、ステラはなんとなくそわそわしてしまう。
「あの……」
沈黙と視線に耐えきれず、ステラは口を開いた。
「ええと……狼はああやって追い払われたらしばらく村には近づかなくなるので、家畜の被害が抑えられるんです。きっと、村の人はみんなユークレースさんに感謝すると思います。村長に話して宿を提供するくらいのお礼しかできませんが、よければ村の方に……」
「いや、お礼なんていらないよ。むしろ僕は君に興味があるんだ」
「⁉ ろりこ……ゴホン」
ステラは咳払いをして口から飛び出しかけた言葉を途中で止めたが、なにを言おうとしたのかはバレバレだったらしい。しかし、リヒターは気を悪くするでもなく笑い出した。
「あははごめん、言い方が悪かったね。そういう心配はしなくても大丈夫。……ちなみに僕は妻も子もいるし、子供はたぶん君と同じくらいの年だよ」
「同じくらい⁉」
思わずまじまじと見つめてしまったが、それでも目の前の男は村にいる親世代の男性たちよりもはるかに若く見える。下手したら二十代半ばくらいではないのか。
対するステラは今年十五歳。もしかしたらステラが実年齢よりも幼く見られているのかもしれないが、それにしたって十代前半くらいには見えるはずだ。
(確か母さんが今年三十五になるから、たぶん同じくらいだよね……ていうか妻子いるんだ)
――いや、妻子がいようがいまいが関係ないけれど。
別に、全く、そんなつもりはないのに若干がっかりしている自分が悲しい。
「……で、興味があるっていうのは君の精霊術なんだ。さっき君は精霊術で音を鳴らしただろ?」
「え? あっ、はい」
ステラは脇道に逸れていた思考を慌てて元の内容に戻した。そう、リヒターがステラに興味を持っているという話だ。
「君は確かに精霊術を使った。それなのに、今の君のまわりにはびっくりするくらい精霊がいないんだ」
そう言ったリヒターの視線は、ステラではなく、その周囲に向けられていた。
「精霊がいない……?」
その視線につられて、ステラも思わず自分のまわりを見回してしまう。そして首をかしげる。
「昔からアントレルには精霊がほとんどいないと言われていますけど……」
有名な話だと思っていたが、考えてみれば山奥の小さな村の周辺環境など、外の人、それもレグランドという都会から来た人が知るはずもない。きっとそれで不思議に思ったのだろう。
だがリヒターは、「うーん」と小さく唸った。
「そうだねえ、他の土地と比べるとかなり少ないかな。……けどね、それでも普通の人間ならまわりに精霊が何人かくっついてるものなんだ」
「……そう、なんですか?」
「そう。今の時代は精霊の姿が見えない人の方が多いから実感は湧かないだろうね。アントレルに見える人はいないのかな?」
「はい、一人も」
「なら君の特殊性に気づかなくても無理はないな」
リヒターはそう言いながら足下に落ちていた枝を拾って、地面にザリザリとステラを囲む円を描き始めた。
「だいたいこのくらいの範囲かな……この円の中には精霊がいない。まるで君を避けているようにね」
ステラは自分のまわりにぐるりと描かれた円を見回す。およそ半径一メートルほどの円だ。
普通の人間ならくっついているはずの精霊に、一メートルくらい避けられている。
――見えない。見えないけれど……かなりショックだ。
「ど、どうして……?」
ステラが若干泣きそうな気持ちで問いかけると、リヒターは困った顔で肩をすくめた。
「残念だけど、僕は精霊の姿を見ることはできても、声は聞こえないから理由まではわからないんだ。ああ、でも安心して……嫌われてはいないと思うんだよね」
「嫌われる? 精霊にも人間の好き嫌いがあるんですか?」
「あるらしいよ。うちの家系には会話できる人もいるんだけど、精霊も簡単な喜怒哀楽や好き嫌いの感情は持っているって言っていたから」
これまた本当のことを言っているのかどうかは怪しいが、「嫌われてはいない」という言葉に少しだけ安心する。ステラがピンチのときに助けてくれるのは、そこに起因しているのかもしれない。
ステラは心の中で(ありがとうございます)と精霊に手を合わせた。
「おや」
リヒターがふと顔を上げて後ろを振り返った。
「人が来たようだね」