24. 春のような
カタン
キィ……
微かな音が聞こえ、少し遅れて穏やかな風が頬をなでた。
誰かが窓を開けたから、風が入ってきたのだろう。
しかしその風は、レグランドに来てから若干うんざりしていた蒸し暑い夏の風ではなく、ほのかに花の香りの混じった優しい風だった。
まるで春のような――。
ステラはゆっくりと目蓋を上げて、何回か瞬きをした。
目に飛び込んできた天井には見覚えがある。
ここは、リヒターの家で、ステラに与えられた部屋だ。
ステラの感覚ではつい先程までエレミアの部屋にいたのだが、おそらくその後気を失って運ばれたのだろう。そしてベッドに寝かされている。問題はどのくらいの間眠っていたかというところだが――。
あの時頭に流れ込んできた情報によれば、精霊の破壊と再生というクリノクロアの能力は、術者が生きるはずだった時間を代償として発動するらしい。
具体的にどのくらいの時間を、どういう形で奪われたのかはよく分からないのだが――ステラはエレミアを救う代償として自分の人生の一部を失ったのだ。
(うーん、やりたいことをして生きないとね。うんとワガママ言ってやろう)
とりあえず起きようと、ごろん、と体の向きを変えてぎょっとする。
部屋の中に見慣れぬ人がいる。
そういえば窓が開けられたのだから、開けた人がいて当然だった。
ただその人物は窓を開けた後そのまま外を眺めているらしく、こちらに背を向けていてステラが目を覚ましたことに気付いていないようだ。
光を透かして輝く髪の色は多分プラチナゴールドだろう。
リヒターの家族の髪色はブロンズと黒で、プラチナはいない。ステラの記憶の中にいるプラチナの髪の持ち主はノゼアンくらいなのだが、まさかここにノゼアンがいるわけはないだろう。それに、あの線の細い体つきはどうみても少年である。
(……っていうか、当主様と同じプラチナの髪の少年って、まさか)
その時、ステラの心の声が聞こえたかのように少年が振り返った。
「……ステラ!」
形のいい群青色の瞳を大きく見開いて、一瞬言葉を失った少年の顔に、すぐに喜びの色が広がる。
もそもそと体を起こしたステラと視線を合わせるようにベッドの横に跪いた彼は、両手を伸ばしてステラの頬を包み込んだ。
「良かった……全然起きないから心配したよ」
「う、あの、えっと……シン、だよね?」
「え? うん」
おかしなことを聞かれたとばかりに瞬きをして首をかしげる少年の動きは、確かにシンシャだ。なのだが――。
「ああそうか、ステラが眠ってから半年以上経ってるんだよ。……というか、ほとんど一年かな。あの時は夏の初めだったけど、今は春の初めだからね。……私は、そんなに変わってる?」
「いっ……ちねん……っていうか、変わってるどころじゃないというか」
やりたいことをして生きようと思ったばかりだというのに既に一年失っているらしい。それはそれで物凄くショックだが……。
だが今この瞬間、なによりも衝撃なのが、目の前の少年の変わりようだった。
十四歳だったシンシャは十五歳になり、少女らしさはすっかり消えて完全に少年になっている。
長かったブロンズの髪は短いプラチナに。おそらく染めるのをやめたのだろう。
声は低く落ち着いて、ステラの頬をなでる手は大きく、多分、背も伸びている。
そして何よりも。
(表情が違いすぎません!? え、女の子の格好やめると表情も変わるの!?)
女装をしていたときのシンシャはほとんど無表情か不機嫌かのどちらかだったというのに、今のシンシャはとても柔らかい表情をしている。――というよりも、いっそ、甘い。
(そしてなんか距離が近い……!)
ステラの頬をなでていたシンシャの手は今、ステラの髪を梳いている。話をするのにステラとの接触が必要、というのは分かるのだが……。髪だけではなく、いつの間にか手も握られているのだ。
「あの……シン」
「うん?」
ステラがおずおずと名前を呼ぶと、シンシャは微笑んで小さく首をかしげる。
その絵面が麗しすぎて頭が真っ白になってしまう。
「ええと……そう、そうだ、そういう格好をしてるっていうことは、もう女の子の格好をしなくてよくなったっていうことだよね?」
「うん、ステラのおかげでね。……精霊が解放されたおかげでエレミアの呪いが解けたんだ。今は体調も回復してきて、当主ともちゃんと話をできてるってリシアが言ってたよ」
「本当?」
「呪いの解呪直後はかなり衰弱してて、だいぶ危ない状態だったらしい。解呪がもう少し遅れてたら手遅れだったかもしれないから、ステラが目を覚ましたら、当主から改めてお礼をしたいってさ」
「そっか……手遅れにならなくて良かった」
ほっと息を吐くと、シンシャが嬉しそうに目を細めて「それとね」と続けた。
「エレミアの呪いは、なんだかんだで今まで私にも影響を与えていたみたいでね。解呪されたおかげで精霊の暴走がかなり軽減されたんだよ。落ち着いていれば普通に会話できるくらいに」
「え、本当!? じゃあ普通に人と話ができるの?」
「うん。イライラしたり怒ったりすると多少アレなんだけど……まあ概ね大丈夫」
「良かった……良かったね!」
ならば、もう性別を偽ることも、わざわざ筆談をする必要も、会話で強い言葉を使わないように気を遣って苦労することもないのだ。
これからはきっとアルジェンと同じように無邪気に笑うこともできるはず。
嬉しくてシンシャの手をギュッと握り返すと、シンシャは少しだけ頬を染めて照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
「……あれ……? っていうことは今、手を握ってる必要はないんじゃ?」
「え? これは私がステラに触りたいから触ってるだけだよ」
「さわ……!?」
(……りたい、って、え、どういう意味?)
「今まで、眠ってる人に勝手に触るのはよくないって思って我慢してたんだ」
「が、我慢?」
「うん。でももう目が覚めたなら遠慮はいらないかなって」
(わぁ、いい笑顔……って、シンはそんなキャラじゃなかったよね!?)
ステラの知らない約一年の間に、彼に一体なにがあったのか。
それとも――今までエレミアの呪いの影響を受けていたと言っていたので、実はこれが呪いの解けた本来のシンシャの性格なのだろうか。
(でも、性格がどうあれ、触りたいとか、我慢してたとか、少なくとも好意を持っていない相手には思わない、よね……?)
ということは、そういうこと?
まさかの、シンシャが、ステラのことを?
そこに思い至って、突然火がついたようにカッと頬が熱くなる。
(いや、思い上がったらいけない。シンからしてみれば私なんか田舎の小娘でしかないんだし、第一シンが私を好きになる理由がないもん)
意識したら駄目だ、と考えれば考えるほど赤くなっていくステラを楽しそうに眺めていたシンシャだったが、ふとなにかを思い出したらしく、微妙に苦々しい表情を浮かべた。
「……そういえばステラが目を覚ましたら連絡しろって父さんから言われてたんだった。多分本家の方に行くことになると思うけど……ステラ、その前に着替えとか食事とかしておきたいよね」
「え? あ、うん、そうだね」
なにせ一年近く手入れをしていないのだから、いつもバサバサの髪などもっとバサバサに――。
「あれ……髪が伸びてない」
一年あったら髪はだいぶ伸びているはずなのに、そんな様子は微塵もない。手足の爪も同様だ。――誰かが相当丁寧に手入れをしてくれていた……と考えるのは少し怖い。
それにずっと寝たきりだったら筋肉が衰えていそうなものだが、目覚めてから今まで、動作に不便を感じた覚えがない。
「……なんか、あの……私って、ずっと寝てたんだよね?」
なにかがおかしい。
まるでステラだけがあの日のまま、時間に取り残されたような。
頬に昇っていた血がすっと引いていく。
シンシャは一瞬動きを止めてステラを見つめ、困ったように眉を下げた。
「……知らなかったのか。――ステラの時間は約一年、止まってたんだよ」