23. 光の蝶
「あっ、あの、り……リシア・ユークレースと、申します……。ス、ステラさん、改めてよろしくお願いします」
ノゼアンに呼び出されたリシアは、どもりながらそう言うと、勢いよく頭を下げてお辞儀をした。そして勢いがよすぎて軽く前によろけた。
「ステラ・リンドグレンです。あの、呼び捨てでいいですよ。というか私、すでに何回か呼び捨てにしちゃってますし」
「ははははい、ステラさ……ステラ……」
パニック状態のときって人から見たらこういう感じなのかな、などと考えながら、ステラは真っ赤になってうろたえるリシアが落ち着くのを待つ。
呼び捨てにして、などと言ったせいで焦らせてしまったらしい。
悪いことをしたなあと思っているところに、ノゼアンが微かにため息をついた。
「……少し落ち着きなさいリシア」
「も……申し訳ありません……」
ビクッと肩を震わせたリシアが、今度は真っ青になる。
どう見ても、親子関係が破綻している。
リシア大好き人間のアルジェンが見ていたら怒り出しそうな光景だ。彼が本家の事をよく思っていないというのも頷ける。
「ステラさんたちをエレミアの部屋へ案内してさし上げなさい」
「は……お、お母様の部屋、ですか……?」
リシアは青い顔で部屋にいる面子を見回し、戸惑いの表情を浮かべた。
エレミアと因縁のあるリヒターに、セグニット。そこに全く関係のないステラが加わっている……という謎のメンバーなのだから、戸惑って当然である。
「そうだ」
だがノゼアンはそんなリシアに説明をする気がまったくないらしく、短く頷くだけだった。
「僕は部屋の中には入らないから心配しないで。入るのはステラと、一応護衛としてセグの二人だけだから」
ノゼアンの態度を見かねたリヒターが付け加える。なんだかんだ言って、彼は面倒見がいいのだ。
「あ、わ、分かりました……」
リヒターの説明で少しだけ落ち着きを取り戻したリシアは、ステラに向き合った。
「で、では、ご案内します……」
「はい。お願いします」
深々と頭を下げるリシアに、つられてステラも深く頭を下げる。
後ろでセグニットが忍び笑いを漏らしたのをギッと睨みつけ、ステラはリシアについてエレミアの部屋へと向かった。
***
広い部屋の中はきれいに整えられ、大きな窓からは太陽の光が注いでいる。
潮の匂いの混じった風が通り抜けて、夏の暑い空気を外に追い出してくれているので、暑さに弱いステラでも過ごしやすく感じる。
海鳥の声と、波の音。そして波間で光がキラキラと反射して部屋の中を輝かせ――全てが明るく、爽やかなはずなのに。
(なんか暗く感じるし、空気がねっとりと重い気がする……)
部屋は明るいのに、なぜか闇の気配を強く感じるのだから頭が混乱する。
「あの、は、母は今、休んでいるようです。さ……最近は、体調が優れず横になっている時間の、ほうが長くて……」
窓の近くに据え付けられたベッドに横たわるエレミアは、固く目を閉じて死んだように眠っていた。
目鼻立ちが整っていて、健康であれば美しい人なのだろう。
だが今は、頬がこけ、目は落ち窪み、顔色は青白いのを通り越して土気色である。思わず呼吸しているか確認してしまったくらいに生気が感じられない。
「……で、姫様は何か分かったのか」
すっかり姫様で定着してしまったセグニットの言葉で、ステラはため息をついた。
「……申し訳ないですけど、なにも」
『行けば分かる』としか言われていないのだ。『来たのに分からなかった』場合には一体どうしたらいいのか全く分からない。
分からないままここにいても仕方がない。一度戻って、ノゼアンにもう少し精霊から情報を引き出せないか聞いたほうがよさそうだ。
「一度もど……」
「……ぁ……」
一步引いたところに立っているリシアを振り返り、戻ろうと言いかけたところで、微かな声が聞こえてステラは言葉を止めた。
そして、エレミアの方を振り返って目を瞬かせる。
「た、多分、幻覚か幻聴が始まったんです……こういうときに目を覚まして、そばに人がいると、怒鳴ったり暴れたりすることがあるので……部屋から出ましょう」
申し訳なさそうに眉を寄せたリシアの声は、ステラに届いていなかった。
――神と精霊とヒトとの約定に叛いた魂へ
枷に囚われ夢幻を彷徨う魂へ
汝、終焉と再生の翅を与える者
既に泥濘に沈んだ者を掬い上げる、代償を
その高潔なる魂の刻む時の流れを捧げよ
頭の中で、ぐわんぐわんと声が鳴り響く。
同時に、『契約』の内容が頭に流れ込んでくる。
――契約を履行する
今まで見えなかった姿が見え始めて、
聞こえなかった声が聞こえ始める。
終わらせて。苦しみを、飢えを、痛みを、契約を、全て。
姫、すてら、姫、れびんの姫。
明るいのになぜ暗いと感じたのか――その正体が見えてしまえば何ということはない。
自由を奪われ、生命の源となる魔力を得ることもできずに飢えているというのに、わずかに残る魔力のせいで未だに消滅することすらできない精霊たちが、死霊のようによどんだ気配をまとって部屋のそこここに漂っているのだ。
「……なるほど、必要になったら分かる契約ね……」
一気に増えた情報を処理しきれずにステラはへなへなと座り込んだ。できれば一気に頭に流し込むのではなく、何回かに分割してほしかった。
「あのっ……スっ、ステラ!?」
「姫様、どうした。――立てるか?」
座り込んだステラに、リシアとセグニットが慌てて駆け寄ってきた。
目の前に差し出されたセグニットの手を、ステラはぼんやりと見つめる。
「……なんか、まずそうだな。部屋を出よう。姫様、悪いが抱え上げるぞ」
言うなり、セグニットはステラを抱きかかえようとする。だがステラは手でそれを制し、ゆるゆると頭を振った。
「だ……いじょうぶ、平気、立ちます。……ちょっと色々と、見えるようになってしまって混乱しただけです。すみませんセグニットさん、手だけ貸してください」
「本当に大丈夫か?」
セグニットの手に掴まり、引っ張り上げてもらって立ち上がる。少し頭がくらくらするが、立っていられないほどではない。
「む、無理しないでください、ステラ。日を改めることもできますし……」
「大丈夫ですよ、本当に。……ええっと、じゃあ精霊の解放、始めます」
泣きそうになっているリシアに微笑んでみせて、ステラは深呼吸をする。
エレノアのベッドに近づき、「よし」とつぶやいて気合を入れた。
「我、クリノクロアの名を継ぐ者。約定に基づき、彷徨う魂へ終焉を――」
ステラは両手を伸ばしてエレノアの頭上にかざし、契約の言葉を唱え始める。
その言葉に呼応して、かざした手の先に、白く光る魔方陣が浮かび上がっていく。――そして言葉が終わると同時に、魔方陣から白く柔らかな光があふれだした。
ゆっくりと包み込むように広がるその光が精霊たちに触れた途端、彼らはまるで繊細なガラス細工のように澄んだ音を立てて砕け散り、キラキラと光を弾く破片となって床に降り積もってゆく。
リシアもセグニットも呆然と口を開けてその光景を見つめた。
光に飲み込まれていく精霊たちや、降り積もる光の欠片ももちろん気になるのだが、それよりも二人の目を惹きつけたのはステラの姿だった。ステラの薄桃色の髪も、ヘーゼルの瞳も、どちらも金色に輝いているのだ。
あふれた光が柔らかく部屋中を満たして、彷徨っていた精霊たちが全て破片となったところで、魔方陣は静かに輝きを失い、消えていった。
部屋を満たしていた光もゆっくりと消えていく。
その中で、ステラは最後の言葉を唱える。
「――旅を終えた者たちに、新たな地へと飛び立つ翅を与える」
降り積もった欠片が、無数の蝶へと形を変えた。そして次々と飛び立っていく。
「きゃっ……ひ、光の蝶……?」
淡く光る蝶はリシアがそっと伸ばした手のひらをすり抜けて、窓の外へと飛んでいってしまう。
やがて、空に溶けて見えなくなってしまった。
「って、姫様!」
慌てた様子のセグニットの声で、ぼんやりと窓の外を見つめていたリシアはハッと部屋の中を振り返った。
「あ、ス、ステラ!!」
ステラは糸を切られた操り人形のように力を失って床に崩れ落ちていた。
セグニットに抱き抱えられた彼女の髪の色は薄桃色に戻っていたが、瞳の色は、固く閉じられていたせいで元の色に戻っているかどうかは分からなかった。