20. クリノクロア
レビン・クリノクロア。
「私の……父親?」
「クリノクロアというのは聞いたことがなかったかな?」
リヒターが口にした全く耳なじみのない名前に、ステラは戸惑いながら頷いた。
「レビンは確かに父の名前ですが……家名はリンドグレンです」
「リンドグレンというのはお母さんの方の家名だ。お父さんはクリノクロア家、現当主の息子で……確か三男だったかな」
「当主?」
まるでユークレースと同じ名門一族のような言い方にステラは首をかしげる。
「あの、クリノクロア家って……有名なんですか?」
「ユークレース同様、古くから続く一族だよ。でもあんまり有名ではないな……彼らはほとんど表舞台に出てこないからね」
「表舞台?」
「表舞台っていうか、もう社会って言ってもいいかな。基本的に隠れ住んでるから」
「は?」
表舞台どころか社会に出てこない?
社会の裏に潜む一族――影の者、暗殺者集団、地下組織……どれもステラの頭の中に残る父の印象とはかけ離れていて二つが結びつかない。
どう考えても人違いではなかろうか。それに、父は別に人から隠れて暮らしている様子などなかったのだが。
「……なにか悪いことでもした人たちなんですか?」
「いやいや、彼らが隠れてるのは彼らの持つ能力がちょっと変わってるからだ」
そう言ってリヒターは、本棚から一冊の本を持ってきてテーブルの上で開いた。そのページには地図が書かれていて、レグランドの場所にはユークレースのシンボルである月桂樹の葉をモチーフにした紋章が描かれている。
だがリヒターが指し示したのは別の場所に書かれた紋章だった。
他に描かれている紋章は色がついているというのに、その紋章だけは白と黒の二匹の蝶がモチーフになっており、色もついていない。
「……なんかちょっと怪しい紋章」
「はは、これがクリノクロアの紋章だよ。この国には特殊な能力を持ってる家系がいくつかあってね。ユークレースが有名ではあるんだけど、クリノクロアもその一つなんだ」
「特殊な能力って……優秀な精霊術士を排出する家系ってことですか?」
「ユークレースはそうだね。精霊に祝福され、加護を受けている一族だ。だけど能力はそれぞれの家系で違う」
先日のシンシャの話によれば、ユークレースの始祖は精霊王と契約を交わして、強力な精霊の加護と精霊を見る能力を手に入れたという。
そういうふうに能力を得た家系がいくつもあるのだろうか。
「クリノクロアはその中でも特に変わっていてね。彼らの能力は神様に近いんだ」
「か……神様?」
「そう。クリノクロアの能力は精霊の分解と再構成。精霊をばらばらに分解して新しく作り直せちゃうんだよ。規格外だよね」
ステラはぱちんと瞬きをして、お茶に口を付けた。
ちまちまと飲みながらリヒターの言った言葉を反芻してみるが、頭の中に浮かぶのは疑問符だけだった。
「……ええと、どういうことでしょうか……」
「だよなあ、俺もそのへんの説明は何回聞いても分かんねえし」
完全に聞き役に徹していたセグニットが大きく頷いた。仲間だなーと笑われて、ステラは口をへの字に曲げる。
「いえ、私は何回か聞いたら分かると思います」
「なんだと。同士かと思ったら早速裏切りやがったな」
「ステラは負けず嫌いだよね。まあ僕も全部分かってるわけじゃないよ。今回僕らにとって重要な点だけを言えば、禁忌を犯して自由を失った精霊を消滅させて、新しい精霊として生まれ変わらせることができるってことさ」
そうすれば、エレミアは呪いから解放される。
だが――ステラは首をかしげた。
「……父がそんなことをできるなんて、聞いたことがありませんけど」
「クリノクロアの人たちって基本的に自分たちの存在も能力も、ほとんど公にしていないんだ。多分ステラの父親もそういうことを気安く人に話さなかっただろうね」
「公にしてないって……そんなに隠さないといけない能力なんですか?」
「能力自体っていうよりも、その副産物的な物だね。あのね、彼らには精霊術が効かないんだ」
どきん、と心臓が脈打つ。
父親の話だと言われても、人違いとしか思えないような内容だったせいでなんとなく他人事として聞いていたのに、突然、自分自身に心当たりのある話になってしまったのだ。
「心当たりがあるだろう? ――精霊達にとってクリノクロアの人間は死神のような存在だ。だけど同時に、自分たちが自由を失ったときに救ってくれる唯一の存在でもある。精霊達はクリノクロアを恐れ敬い、時に危険からも救う。攻撃するなんてもってのほかだ」
「だから、精霊術が効かない……」
「そういうこと。精霊術が効かないってことは精霊術士の天敵になり得る。精霊術士からは敵視されるし、精霊術士と敵対している奴からしたら利用価値だらけだ。だから面倒ごとを避けるためにクリノクロアの人間は正体を隠すんだよ」
それはまさに、ついこの間、シンシャから警告されたことだ。
ステラがそうであるということは――父は本当にその『クリノクロア』という一族の人間なのだろうか。
そしてステラすら知らなかったその事実を知っているリヒターは……。
「……リヒターさんは最初から私がどういう生まれなのかを知っていて、嘘をついて連れてきたんですか」
ステラが精霊に恐れられる、その原因を調べたいと言っていた。
その原因が分かれば、シンシャの助けになるかもしれないから、と。
「……全てが嘘ではないよ。僕はたまたまクリノクロアのことを知っていたけど、だからといってステラがそうだという確信はなかった。いま、こうやって確信を持って話ができるのはこっちに戻ってきてから調べ回った結果だからね」
「調べ回った……?」
「アントレルに行ったのは本当に偶然だった。『精霊が枯れた土地』には前から興味があったんだけど、あそこは行きにくくてね。でも、アントレルは僕が想像していたよりも精霊が多かった。……クリノクロアの介入があって、再生したのだろうかと思っていたところで、君を見つけたんだ」
「じゃあリヒターさんは、あのとき森に迷い込んだんじゃなくって、精霊の様子を見るためにわざと森に入ってたんですね」
「うん。精霊の様子を見るだけのつもりだったんだ。――だけど、そこにどう考えてもクリノクロアの特徴を持った子がいるからびっくりしたよ。普通に考えて父親がクリノクロア家の人間だろうなという予想はついたけど、その本人は行方不明だし、奥さんも村の人たちも彼の正体を知らないときた」
レビンはある日突然現れて村に住み着いた男だった。彼の過去について村の人間が知っているのは、家族はいないこと、そしていろいろな土地を旅して歩いていたということだけ。
しかし朗らかな人柄で、とても博識で、村人たちに慕われていた。
そして、ある日突然、妻子を残して忽然と姿を消してしまった。
「レビン氏がなぜ姿を消したのかは分からないが、おそらく不測の事態が起きたんだろう。……ステラを放っておくのが非常に危険だということを彼は知っていたはずだからね。……アントレルの人々はステラの特殊性に気付いていなかったけど、僕が見つけたように、いずれ誰かが見つけてしまったら、ステラが無自覚なまま悪事に利用される可能性があった。だからひとまずそれを避けるために、僕の目の届くところに来てもらったのさ」
「……それならそう、説明してくれれば良かったのに」
自分が争いごとに巻き込まれるということは、母やアントレルの村人も巻き込む可能性があるということでもある。それを説明してくれれば、嘘などつかずともステラは大人しくリヒターについてきただろう。
「うーん、できればステラに自分の意思で自分の道を判断して欲しかったんだよね。『ここに居たら危険だ、周りの人にも危険が及ぶかも』って言われたら君は間違いなくついてきてくれただろうけど、無理矢理故郷から引き離したくなかったんだよ。もちろん最終手段としては考えてたけどさ」
「……なんか、もっともらしく聞こえますね」
むむむ……とむくれながらつぶやいたステラに、リヒターは「なかなか手厳しいね」と笑った。
「それとね、全てが嘘じゃないって言ったけど、きちんと調べたかったのは本心なんだ。僕が知っている限り、クリノクロアの人間は本当に精霊術が使えないんだよ。でもステラは使えるだろ? だからちょっと自分でも半信半疑でさ。クリノクロアとは本当に無関係で特殊体質の可能性もあるって考えてた。あと、その体質がシンにとってはプラスになるって考えたのも本当」
「……半信半疑だったのに、今は確信を持ってるような言い方をしましたよね。なにか証拠があったんですか?」
「クリノクロアについて調べたんだよ。なかなか情報がなくて大変だったんだけどね。――で、分かったのは、『レビン・クリノクロア』という人物が約二十年前に出奔しているという事実さ。特徴はステラと同じ薄桃色の髪。ついでに彼は一族の中でも少し変わり者だったらしい。一族の方針に反発して家を出てしまった彼を、クリノクロア家は密かに探しているらしい」
今から十八年前にアントレルに現れた、薄桃色の髪のレビン。
クリノクロア家を飛び出して、行き着いたのがアントレルだった。そしてコーディー・リンドグレンと出会って、ステラが生まれた。
約二十年前に出奔しているのならば、確かに合致している。
(密かに探していたってことは、じゃあ、十年前に姿を消したのは――)
「……もしかして、今は見つかって連れ戻されている?」
「いや、探ってみたところ、今も継続して探してるっぽいからまだ戻ってないみたいだよ。十年前から行方不明になっているのはまた別の原因だろうね」
「そうですか……」
消息不明の父の手がかりを掴めたのでは、と一瞬期待したステラはがくりと肩を落とした。そのステラの頭をセグニットが大きな手で撫でてくれる。
「そう気を落とすな。レグランドは情報が集まる場所でもあるから、いつか嬢ちゃんの親父さんの消息も入ってくるかもしれん」
「ええ。諦めてはいません。見つけたら縄で縛り上げて引きずって帰ると母に約束してますからね」
「……んん?」
元気づけたはずなのに不穏な返事が返ってきて「聞き間違いかな」と首をかしげるセグニットを脇目に、ステラはリヒターを見つめる。
「それはそうと、リヒターさんはエレミアさんの使い魔になった精霊を解放したいって言いましたよね。でも、それができる父の消息は分からない……ってことは、もしかして、私に期待していますか?」
「はは、ご名答。クリノクロアに頼んでも動いてくれないことは明白だからね。もしもステラができたらラッキーくらいには期待しているよ」
笑いながらそんなことを言うリヒターに、ステラは大きく顔をしかめた。
当主殺しの手伝いをしろと言われるよりかは何十倍もマシだが、それでもとんでもない無茶振りである。しかも今後のシンシャの人生を左右してしまうような大仕事だ。
「無理です。ご期待には添えません。だって私は父の記憶すらおぼろげですし、精霊の分解? なんてやり方の見当もつきませんよ!」
「うん、そうだろうね。ステラを見てたら分かるよ」
「じゃあ……」
「だから、精霊に聞こうと思うんだ」
「は?」
「ほら、言っただろ? ユークレースの当主は精霊の声が聞こえるって。もしかしたら能力の使い方についてなにか分かるかもしれない」
「……はあ」
「というわけで、今日この後本家の島に行くからそのつもりでね」
「……は!? この後って……この後ですか?」
ぽかんと口を開けて頭の悪い質問をしたステラに、リヒターは「この後はこの後だよ」と微笑んだ。