1. レグランドから来た精霊術士
精霊の加護を失い雪に閉ざされた小さな村、アントレル。
ステラが生まれるはるか昔、この地を拠点としていた魔族たちにより、精霊はほとんど狩られてしまった。
永い時が流れ、魔族がいなくなった今となっても、精霊たちはこのいまいましい土地に寄りつかない。――と、言われているが、それが本当なのか嘘なのか、アントレルの住民たちは誰も知らない。
精霊がどうこうと言われても、その姿を実際に自分の目で見ることができないのだから、嘘も本当も判じようがないのだ。
ただ間違いなく言えるのは、アントレルの周辺が「精霊の加護を失った」と言われるのも納得できるほど農作物の育たない、貧しい土地であるということ。
そしてもう一つ、精霊術は存在する、ということ。
「泉の精に希う。澄んだ水で器を満たせ」
そう唱えたステラの前に置かれた木桶の中には、さっき森から採ってきたばかりの木の実がコロコロと入っているだけで、水は一滴も入っていない。
桶を見つめたまま数秒待って、――ステラはふっと鼻で笑った。
彼女はかがみ込んで足下に置いてあった水瓶を持ち上げると、ざばざばと木の実が入った桶の中に水を注いだ。
――これが精霊術だ。……残念ながら、今の術は発動しなかったが。
「今日はいける気がしたのになあ」
精霊術を使える者は精霊術士と呼ばれ、精霊たちは彼ら願いに応えて奇跡を起こしてくれる。
先ほどのステラのように「桶を水で満たせ」と言えば、精霊たちは桶の中を澄んだ水で満たしてくれるのだ。
しかし――精霊術の才能がなければもちろんなにも起こらないので、ただのむなしい独り言になってしまう。
今のステラのように。
「ううー」
ステラはふくれっ面になって桶の水に腕を突っ込み、ぐるぐるかき混ぜながら木の実についた土や虫を落としていく。しばらくかき混ぜて、ゴミの浮いた水を捨てたあと、もう一度水瓶から水を注ごうとして……手を止めた。
「泉の精に希う。桶に水入れてー」
――やはり桶が水で満たされることはなく、その代わり、とばかりに赤い木の実が一粒ころんと転がった。
ステラは大きくため息をついて、再び水瓶を持ち上げた。
こうやって何回も呼びかけていると、稀に、本当に稀に精霊術が発動することがある。
発動するということは、ステラにも術士の才能があるはずなのだ。……しかし、成功の頻度は十回――いや四・五十回に一回くらい。
そんな低頻度なら成功していないのとほとんど同義だ。その一回だって、なにかの自然現象が奇跡的に重なって成功したように見えただけかもしれない。
ステラ自身、いっそ全く成功しなければまだ諦めがつくのに……と何度思ったか知れない。
「はあ……母さん、採ってきたものここに置いておくからね」
洗い終わった木の実を古びたバケツに移し、母の仕事場の隅にごとんと置いて声をかけた。
その声に、木の枝――これもステラが森で採ってきたものだ――を煮出した液で糸を染めていた母が振り返る。
「ありがとう、ステラ。……だけどついさっき村長さんが来てね、森の中で狼を見た人がいるから気をつけろって注意されたの。今、村中に知らせて回ってるんだって。……今がいい収穫時期なのは確かだけど、危ないから森に入るのはしばらく控えた方がいいわ」
そう言った母はひどく不安そうで、ステラは肩をすくめた。
「今しか採れない実とか葉っぱとかじゃないと出ない色があるでしょ。大丈夫だよ、森の中って言っても私は入り口のあたりまでしか入らないから」
「でも……」
「大丈夫だって。それより、今日はラズベリーがたくさん採れたからジャム作るね」
まだ顔を曇らせている母の言葉をさえぎり、ステラは一方的に話を終わらせて台所へと向かった。
(不安なのはわかるけど、私にできることはこのくらいだし……)
ステラの家は母一人娘一人の母子家庭で、母が作った刺繍小物を売った収入で生活をしている。
その刺繍に使う糸を染めるための素材を森から採ってくる、というのが、不器用すぎて針仕事ができないステラの数少ない仕事の一つだった。
アントレルの夏は短くて、しばらくしたらまた雪が降り始めてしまう。多少危険があろうとも、短い実りの季節を少しでも無駄にしたくない。
それに普通、狼は人の気配がするあたりまでは出てこない。ステラが染色用の素材を採取している場所は村に近く、そこまで奥深い場所ではないため、遭遇する可能性は低いのだ。
もっと森の奥まで行けば、たくさん花の咲く明るい水辺がある。父がいた頃にはそこから採ってきた花も染色に使っていたのだが――。
女が森の深くまで行くと森の神が怒るという言い伝えがあるせいで、女性であるステラは残念ながらそこまで行くことができない。
信心深い猟師や樵に見つかったら厳重注意どころか、最悪、しばらく獲物を売ってくれなくなるかもしれない。さすがにそれは困るので、ステラも大人しくその決まりに従っているのだ。
(私が男だったら、猟師になって森を駆け回ってたのにな……)
ステラは何度そう思ったことか。
性別はどうしようもないとしても、せめてもう少し器用であれば、村に数件ある食堂で料理人になれただろう。
もっとまともに精霊術が使えれば、都会に行って精霊術士として活躍できたかもしれない。
ふつふつと赤紫色に煮立つ鍋をぼんやり眺めながら、詮ないことを考える。
それが、ステラの日課だった。
***
――そして、今。
木の枝に腰かけたステラは、足下の狼たちを見下ろして、何度目かのため息を落とした。
とっさに選んで登った木だったが、枝がしっかりしているので折れる心配はなさそうだ。よほどのことがない限りは落ちたりしないだろう。……それはいいのだが。
狼たちは、ステラが放り投げた籠から転がり出た木の実の匂いをふんふんとかいだり、前足で弄んだりしている。その様子を見るに、今は特に空腹ではないのかもしれない。
「お腹空いてないなら、早くどっか行ってよお……」
いや、空いているならなおさらどこかに行ってほしいが。
立ち去る気配のない狼たちに、ステラはなすすべもなく足をぶらぶらと揺らしながら再び大きなため息をつく。
「……ん?」
自分のため息の音に紛れて、微かに新たな足音が聞こえてきた気がして、ステラは顔を上げた。四つ足の動物ではなく、人の歩くような音だ。しかも、こちらに近づいてきている。
下にいる狼たちもそれに気づき、耳をピンと立てて気配を窺っていた。
ステラは慌てて両手を口の横に添え、足音の聞こえる方に向かって声を張り上げた。
「おーい! ここに狼がいるから近づかないで!」
精霊術で鳴らした音を聞いて猟師が来てくれたのならばいいのだが、たまたま森に来た運の悪い村人だったら大変だ。
幸い、その警告は無事伝わったらしく、近づいてきていた誰かの足音がピタリと止まった。
木の実などの採取に来た村人だろうか。できれば、ここから動けないステラの代わりに村へ知らせに行ってほしい。
「村に行って……」
猟師を呼んできて――そう続けようとしたのに。
一度足を止めたはずの『誰か』は、ステラの警告など聞こえなかったかのように――むしろ聞こえたから逆に興味を持ってしまったのか――茂みをかき分けて再びこちらへ向かってくる。
まさか、狼が危険だと知らないのだろうか。――いや、このあたりの住民でそんなことはありえないし、仮に外から来た人だとしても、麓の街で危険な動物がいるという話くらい聞いているはずだ。
(どうしよう、上から枝を落として狼の気を引く? 逃げる時間を稼いで……ううん、そんなことしても焼け石に水だよね)
いっそ飛び降りて、ダメ元で精霊術を使って攻撃をするか。そんなことまで考え始めたステラの混乱をよそに、まるで散策をしているような悠々とした足取りで、木々の間から足音の主があらわれた。
「え」
やってきたのは一人の男だった。――その姿を見て、一瞬、ステラの頭の中にあったすべての思考が停止する。
さらりと柔らかそうな髪は磨き上げたブロンズのように輝き、夜を映したような群青の瞳は切れ長。顔のパーツが信じられないほどきれいに整っていて、手足はすらりとしなやかに長い。
(……え、人間?)
そんなバカな感想が浮かんでしまうほど、アントレルの村では一生お目にかかることがないレベルの、とんでもない美男だったのだ。
「グルル……」
しかし当然ながら、あまりの美形ぶりに固まったのはステラだけだった。狼たちは新たな闖入者に対し、全身を低く沈めて警告のうなり声を上げ始めた。
ぽかんと口を開けて美男に見入っていたステラは、そのうなり声で今の状況を思い出して、ハッとする。
――狼が二頭に対して、やってきた男は一人。しかも武器を持っているようには見えない。
「あっ……危ないですよ⁉」
狼は走って逃げ切れるような生ぬるい生き物ではない。上から援護しようにも、ステラが持っていた唯一の武器は足場代わりに木の幹に刺さったままだ。やはり飛び降りて――。
ステラが先ほどと同じ思考をなぞり、飛び降りようと身を乗り出したのと同時に、男がすっと腕を上げて手のひらをステラに向けた。動くな、とばかりに。
「大丈夫、そこにいて」
その顔には、余裕の微笑みが浮かんでいる。
(さすが、きれいな人は声もいい……)
余計な思考が浮かぶが、重ね重ねそれどころではない。いったいどうするつもりなのか。
ステラの不安をよそに、男はスッと狼たちを指さした。
そして、口を開く。
「――風よ、奔れ」