18. はちみつとハーブの飴
「……シンはそれでいいの? 当主になるってことは、レグランドを治めて、王様ともやり合って、一族もまとめるってことだよね?」
あと一年足らずで十五になって、あと一年足らずでその重責を負うのだ。
どう見てもシンシャはそれを望んでいるようには見えないし、当主に問題があったとはいえ、代替わりを心から望んでいるのはリヒターくらいではないだろうか。
「……仕事は当主一人で回しているわけじゃない。代替わりすれば当面の間、少なからず上層部は混乱するだろうけど、過去にもこういう交代劇の例があるし、レグランドは揺るがない。リヒターなら王家とも渡り合える。一族は、今だってまとまってない」
「そうかもしれないけどそういうことじゃなくて、ええと」
「ステラの言いたいことは分かるよ。リヒターのやろうとしてることは関係ない人たちの生活にも混乱を招くことだし、正しいとは思ってない。それに私は、別に当主も奥方も憎んでない。ラウラは……親だと思ったことがないから他人事みたいな感覚だし。だけど――」
そこで初めて、シンシャは一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべた。
「ラウラが本格的に壊れたのは妊娠が発覚してからなんだ。あの人はだれにも相談できずにいて、周りが知った頃にはもう堕胎が難しい時期だった。妊娠さえしていなければラウラの精神的なショックももう少し軽かったかもしれない。大嫌いな当主の血を引いてるうえにラウラを狂わせた私のことをリヒターは憎んでる。――それでも、目的のために私を生かしたなら、それに従うのが私の存在価値だと思う」
「シン……」
一瞬だけ見せた苦しみなどなかったかように、シンシャは表情を消して喋る。
ステラはシンシャの顔をのぞき込むように体の向きを少し変え、繋いでいない方の手をぎゅっと握りしめた。
そして――その拳をシンシャの顔面めがけて放った。
「!? な!?」
「あ、ちょっと。ここは大人しく殴られておくところでしょう?」
「ここは普通殴りかかってこないところだよ!」
シンシャの顔面を襲うはずだった拳はシンシャの手で受け止められてしまった。ならば第二撃、と拳を引こうとしたが手首をがっしりと握られてしまう。繋いでいた方の手も押さえつけられている。
「むう、無念」
「なんなの急に。突然襲いかかってくるなんて野生の猛獣かよ」
「寝ぼけたことを言ってるから目を覚まさせてあげようと思ったの」
「はあ?」
眉間にしわを寄せ苛立った声を出したシンシャに、ステラはぐっと顔を寄せる。
「――あのね、妊娠したことで母親が狂ったとしても、それは生まれる子供のせいじゃないでしょ。そんなのシンにはどうしようもないことじゃん」
「それでもリヒターからしたら、アイツさえ生まれてこなければ、って思うのは仕方ないことで……っつ!」
両手が押さえられているのでステラはシンシャの顎に軽く頭突きをして言葉を止める。恨みがましく睨むシンシャを、ステラは下から見上げ、睨み返す。
「仕方なくない。親がだれだろうと子供は生まれた瞬間親とは別の人間だし、生まれたこと自体に責任があるわけないでしょ。それで責めてくる人がいたらその人が間違ってるの」
「当事者はそう割り切れるもんじゃないだろ」
「割り切れなくても子供を責めるのは筋違いでしょ」
「だから――」
「そもそも! シンはリヒターさんとちゃんと話したことあるの? 私はそこまであの人のことをよく知ってるわけじゃないけど、でもシンのこともアルと同じように大事にしてるように見えるよ。逆にシンは自分で自分を罰したがってるように見える」
「っ――お前になにが分かる!」
シンシャの怒りの感情に精霊が応じてステラの頬に空気の刃が飛び、薄い桃色の髪が数本、ハラハラと散っていく。
「――ごめん」
シンシャは握ったままだったステラの手を離し、頬の傷を確認する。刃の威力は弱く、ステラの肌を切り裂くことはなかったようだが、それでも微かに赤い筋が残っていた。
「……そうだね、シンが知ってることの十分の一も私は知らないよ。私が分かるのは私が見て、聞いたことだけ。――リヒターさんは上の子が精霊で苦労してるから助けたいって言ってた。私はそれを聞いたとき、声も、表情も、嘘じゃないって思ったんだ。だから、もうちょっと信じてあげて欲しいなって思う」
「それは……悪いけど私には、単なる建前にしか聞こえない。私がリヒターの立場だったら、アルと私を同じように大切に思うのは難しいと思う」
シンシャの瞳を縁取る長いまつげが影を落としている。
彼の美しい顔立ちはリヒターによく似ているので、おそらくシンシャは母親似なのだろう。愛する姉の面影のある子供と十四年も一緒に過ごして、それでも愛情が芽生えないということがあるのだろうか。
ステラはリヒターのように家族を汚され壊されてしまったことなどないし、憎む相手の血を引く子供を引き取ったことだってない。ステラがリヒターの立場で考えることはできない。
だがそれはシンシャとて同じである。今は、リヒターがシンシャを愛しているか否かということよりも、シンシャ自身が愛されることをかたくなに拒んでいることが問題なのだ。
「無理に考え方を変えろとは言わないけど、とりあえず、次に話をするときは『もしかしたらこの人私のこと好きかも?』って思いながら話してみなよ」
「……無理……」
「もー。じゃあ『そんなにものすごく嫌ってはいないかも』ぐらいでもいいから」
「……」
「返事!」
「……」
「あ、ほっぺた痛いかも」
「……努力はする」
煮え切らない返事だが、まあいいでしょうとステラは「うむ」と頷いた。
頑固な考えを変えるには少しずつ変えていくしかないのだから。
「大丈夫、リヒターさんはガイさんが村に連れてきても平気って認めた人だからね。ガイさんが認めた人に悪い人はいないんだよ」
「……ガイってだれ……」
「アントレルの猟師のお爺ちゃん。凄く気難しいの」
「はあ……」
シンシャは不審げな顔をしているが、ガイロルの人を見抜く目には村人全員が一目を置いていた。その彼がリヒターを森から連れて帰ってきたのだから、少なくとも根からの悪人ではないと思っていいはずだ。
「あと私が知ってるのは、シンが周りをよく見てて、人に気遣いができて、優しい人だってこと。当主になんてならなくても、私はシンのそういうところ好きだし、十分価値があると思うよ」
「……」
ね? と微笑むステラに、シンシャはぱっと顔をそらした。だが、ステラはすぐに手を伸ばして彼の顔を掴み、無理矢理向き合うように固定する。
「離し……」
「あのね、リヒターさんのしようとしてること、正しくないって思ってるんでしょう? そう思うなら正しなさい。大人だって道は間違えるんだから、違うって思ったなら抵抗しなよ。自分を生かして育ててくれたことに感謝してるならなおさらね。わかりましたか?」
シンシャは視線をさまよわせ、しばらくして観念したように頷いた。
「……わかった」
ステラは「よろしい」と一つ頷き、シンシャの顔から手を離した。根負けしたのが悔しかったのか、彼は即座に顔をそらしてしまう。
「付け加えておくとね、そういうのを正しくないって思えるのは、そういう風にリヒターさん達がシンを育てたからだよ。だってシンはあんまり外に出てないから外での交流ってないでしょ? それならリヒターさんは自分の言うことに絶対服従するように育てることだってできたのに、そうしなかったってことだよ」
シンシャは顔をそらしたまま、視線だけをチラリとステラの方へ向けた。
「ステラは、アルと言い合ってるときは完全に小さい子供なのに、時々大人っぽいことを言うよね」
「小さい子供っていうのは余計なんですけど……私はシンより少しだけお姉さんだからね。大人なの」
「大人ね……大人のお姉さんは、今どういう体勢なのか分かってる?」
「へ?」
そういうシンシャはソファの肘掛け部分にもたれかかっている状態で、ステラはソファの上に膝立ちになって、そのシンシャにのしかかるような体勢になっていた。
ステラは静かに体を起こし、ソファにきっちりと座り直して、両手で自分の顔を覆った。
「……大変申し訳ございませんでした……」
「……別に、いいけど」
少しかすれた声でそう言って、シンシャも体を起こしてこほんと咳き込んだ。
「あ! そうだ、ちょっと待ってね」
「?」
ステラはぴょこんとソファから立ち上がり、ベッドの上に放り出してあった鞄の中身を漁りだした。そして小さな四角い缶を引っ張りだしてソファに戻る。
ぺこん、と音を立てて開いた缶の中には紙に包まれた飴が入っていた。
「これね、はちみつとハーブの飴なの。アントレルだと風邪引いたときになめるんだけど、喉にいいからいくつかあげるね。普段あまり声出さないのにたくさん喋ったから喉疲れたでしょ?」
手の上にバラバラと落とされた飴のうち、シンシャが一つの包みを開くといびつな形の飴がコロリと入っていた。
「ステラの手作り……?」
「ええ、どうせ不器用ですよ。でも飴は材料と製法が合ってれば最終形状なんてどうでもいいでしょう?」
「最終形状って……ふふっ」
シンシャから特になにかを言われたわけでもないのに言い訳を始めたステラの様子に、シンシャが肩をふるわせて笑い声を漏らした。
(アルはよく笑ってるけど、シンがこうやって笑うのは初めて見た……)
それだけ普段はステラの前で隙を見せないように緊張していた、ということだろう。それが緩んだのがうれしくて、胸の奥にポッと火がともったようにじわじわと全身に熱が広がっていく。
「えと、あの、気に入ったらまたあげるから言ってね」
「……わかった、ありがとう」
笑いは収まっても、緊張がほどけたシンシャの表情は柔らかい。その表情のままありがとうと微笑みを浮かべるのだから笑顔の効果は五割増しである。
(う……眩しい……)
「こちらこそありがとうございます……」
「は?」
「なんでもない」
そわそわと浮き立つような落ち着かない気持ちに戸惑いながら、ステラは飴の缶の蓋を閉じた。