138. あなたに恋を
本棚に隠し通路があるはずだというヨルダの言葉を頼りに、シルバーたちは片っ端から本を引っ張り出すという力業で、無事隠し扉を発見した。
隠し扉を開けた先には真っ暗な闇に向かって階段が続いていた……のだが。
そこを進もうにも、壁にはランプの一つも設置されておらず、そのうえ精霊もいないため精霊術も使えない……という状況で、明かりをともすことができなかった。
「ランタンかなんかを探してこないと……」
「……あっ、まって。あそこに落ちているの、知ってるわ」
そう言ってヨルダが指を指した先を見ると、部屋から差し込む光でかろうじて見えるあたりに、白くまるいボールのようなものが落ちていた。
「これ、ダイアスのランプよ。確かこうすると……ついた!」
ヨルダがスイッチを切り替えると、そのランプはぼんやりと光を放ち始める。
「これ、本当は持ち手があって、この部分に引っかけるとランタンのように使えるの。このままじゃちょっと持ちにくいのよね」
置いて使うときは持ち手を外して、持って使うときは持ち手を取り付けて、という二通りの使い方ができるランプで、ライムが作ったものらしい。
「でも……その持ち手がなくて、階段の途中に転がっていたということは、ミネット叔母様が落としていったのかも……」
「拾う余裕もなかったってこと?」
「わからないわ……。ただどこかに置いていたのが転がり落ちただけで、叔母様自身はここにいない可能性もなくはないし……」
明かりを複数持っていたとも考えにくい。拾う余裕もないほど追い詰められていたのか、それともヨルダの言うとおり、ここにはいないのか――。
「ううん。このさきにいるよ」
キノが、まっすぐに階段の先を見つめて呟いた。
「場所がわかるの?」
「ここまで近ければ、わかる。行こう」
キノは言うが早いか、とてん、とてん、とためらうことなく階段を下っていく。シルバーは慌ててキノを追い越し、先頭に立った。
階段を降りた先は、小さな書斎になっていて、本や模型が並べてあった。
きっとハイネ王弟の趣味の部屋だったのだろう。彼の没後何年も経っているというのに、この部屋はほとんど埃もなく、きれいに保たれている。――もしかして、ミネット王弟妃が手入れしているのだろうか。
「こっち。ここ」
部屋の中のものに気をとられていると、キノが壁に掛けられた大きなタペストリーをめくりあげていた。そこに、もう一つ扉が隠されていたのだ。
「なんだか扉が新しいわね。最近作ったのかしら」
「さあ」
あけてあけて、と騒ぐキノを押しのけて、シルバーは扉の取っ手に手をかけた。その途端に――。
目の前の視界がぐにゃりと歪み、世界が色を無くして白黒に変わる。
ひどいめまいと吐き気に襲われて、シルバーはたまらずに取っ手から手を離して床に膝をついた。
「えっ、どうしたの!?」
「言い忘れた。たぶんシルバーでもつらい。この向こうが呪術の中心だから」
そう言いながらキノがシルバーの肩に触れた。
触れたその場所から清浄な空気に入れ替わっていくように、今まで感じていた息苦しさや吐き気が消えていく。
シルバーはキノを上目遣いに睨んだ。
「言い忘れる? そんなこと……」
「実際に言い忘れたからね。キノが触ってたらたぶん大丈夫」
「最初からそうしてくれればよかったのに……」
ブツブツ言いながら再び取っ手に手をかけると、たしかに今度は普通に触ることができた。
「キノは本体から離れて使える力が限られてるから、節約しないといけない。ステラを守るのにも必要だし」
「それなら仕方ないな」
どこまでもステラ一筋ね……というヨルダの呆れた声を無視して、扉を開く。
扉の向こうは、明かりの灯った広い部屋だった。
***
開かれた扉から、金色の光が見えた。
だけど、声は聞こえない。
耳元ではずっと怨嗟の言葉が渦巻いていて、他の音がなにも聞こえないのだ。
きっとこれは、私に下された罰だ。
それが罪であると知りながら、
憎しみだけを糧に命を燃やし続けて、止まることができなかった。
でも後悔はしていない。
だって、あの日、
あの知らせを受け取ったときに、私の世界は終わってしまったのだから。
「戻ったら、三人であなたの故郷の果樹園を見に行きましょうか」
出征の前の日のその言葉に、私はなぜ素直に答えなかったのかしら。
その優しさを、私はなぜ受け取ることができなかったのかしら。
紺碧の夜空のような瞳に、星を散らしたような金の髪がうつくしかった。
あなたは、すべてを優しく包み込む、穏やかな夜空のような人だった。
私はきっと、あなたに恋をしていた。
それなのに、今の私が思い出せるのは、
真っ白な花があふれる豪奢な箱のなかで横たわり、目を閉じた姿だけなの。
もう二度と、あの夜空に私の姿が映ることはない。
もう二度と、その手をとって歩くことはできない。
そこで私の世界は終わってしまった。
そこからは、優しい微笑みも暖かなぬくもりも、
恋しさの分だけ、冷たい憎しみで塗り替えられていった。
あなたを奪った世界などなくなってしまえばいいと、それだけを願った。
夢の中にすら会いに来てくれなかったあなたは、
きっと、私の罪を許さないでしょう。
***
「ミネット叔母様!!」
駆け寄ろうとしたヨルダは、キノによって引き戻された。
部屋の奥の床には大きな魔法陣があり、おそらく血液で描かれたのであろう茶色い線が、くすんだ光を放っていた。
その魔法陣に覆い被さるように、ミネット王弟妃が横たわっている。
魔法陣の光に照らされた彼女の顔は、痩せてこけた頬の陰が暗く落ちていて、その薄く開いたまぶたから覗く瞳に輝きはなかった。
「だめだよ、もうあれは手遅れ」
「手遅れ……かも、しれないけれど……」
「魔術で、たくさん人と精霊の命を奪ってる。あれの周りには怨嗟の声が渦巻きすぎてて、きっと、もう声も届かない」
「でも、術を止めるのではなかったの?」
「今止めたら、外に漏れ出してる子たちは散り散りになったままだよ。神の代行者がいるからなんとかなるとは思うけど、レビンとステラが大変になるからおすすめしない」
どうやらキノのなかの優先順位は、自分のために時間を犠牲にしたレビンと、その娘のステラという二人への恩返しが一番上位にあるらしい。
それはそれでシルバーとしては嬉しいのだが……。
「なら、どうするの?」
「この術はもうすぐ完成する。完成したらすぐに、全部なかったことにする」
「……なかったことって?」
「なかったことだよ?」
「そっか……」
何回か経験したので、このモードに入ったキノからはもう、何の情報も得られないということはわかっている。シルバーは早々に会話からの離脱を決め込んだ。
「えーと……?」
困った顔のヨルダと説明を終えた顔のキノが、お互いに首を傾げ合っているのを横目に、シルバーは部屋の中を改めて見回した。
部屋の広さは、ちょうど先ほど議会が開かれた会議室くらいだ。
奥の方に引き戸があって、その戸の下の方からは濁った液体が流れ出した跡がある。部屋の中に満ちている異臭はきっとあそこから来ているのだろう。……シルバーは本能的に、そこから目をそらした。
壁際の本棚には、魔術や呪術の研究書のようなタイトルが数多く並んでいた。その横に、一冊だけタイトルのない黒表紙の薄い冊子が立てかけてある。
(契約書の、控え……? 相手はカエレウム・フロース……人の名前?)
手に取ってめくってみるが、内容はごくごく平凡な宝石取引の委任契約書だった。カエレウム・フロースというのは個人名ではなく、商会の屋号らしい。
しかし後ろめたいものでないのならなぜ、こんな場所に置いてあるのだろうか。
「そろそろかな」
キノの声に振り向くと、魔法陣の光がゆっくりと消えていくところだった。
まだほんのりと暗い光を放つ魔法陣の横に倒れているミネットは、かろうじて呼吸をしているようだ。
キノはヨルダの手を握ったままぽてぽてと魔法陣の横まで歩いていくと、すとんとその場にしゃがみ込んだ。
「逆向きになぞるんだよ」
シルバーたちに言ったのか、それともただの独り言なのか、そう一言告げて、キノは人差し指でザリザリと魔法陣の線の上をなぞり始めた。
ステラのしなやかな白い指が赤茶けた汚れ――しかも、誰かの血液――に染まっていくのが非常に不愉快だが、必要な手順ならば仕方がない。
シルバーとヨルダが見守る中、キノは無事に線をなぞり終えた。
「キノはこれからちょっと両手を使うから、ヨルダは肩とか背中に触っててね」
「わ、わかったわ」
キノは魔法陣の横に膝をついて座り、とんっ、と両手を陣の中についた。
そしてすぐに詠唱を始める。
「神と精霊の約定を見届ける北の竜、
クェノアルバェイラが導く
枷に囚われ夢幻を彷徨う魂よ
再生の円環を巡り、理に還れ」
詠唱にあわせ、魔法陣は先ほどのような暗い光ではなく、柔らかな金色の光を放ち始める。
それと同時に、例えるならばめまいのような、しかし不愉快ではない――なんともいえない感覚がシルバーの全身を包む。
「――ここに、破約を承認する」
最後の言葉がキノの口から紡がれると、魔法陣はひときわ強く輝きはじめる。
そのあまりのまぶしさに、目を開けていることができず、シルバーは硬く目を閉じた。
「うん。これで、なかったことになった」
キノの声がして、まぶしさで閉じていた目を開くと――。
地面に描かれていたはずの魔法陣は、まるで、はじめからなかったかのようにきれいに消えていたのだった。




