135. 連れて行って
「アルベール団長は」
クレイスが尋ねると、団員は表情を曇らせた。
「それが……団長はミネット王弟妃を強制的に連行するのではなく、説得して連れていきたいと言って最初に館内に入られました。中に入れない現在は、安否もわからない状況です」
「人が倒れ始めたのはいつからだ。団長が入るときはなにも起こっていなかったのか?」
「はい、なにも……。ですが団長は事前に、自分が入ってから三十分過ぎても、何の合図もなければ突入せよと命令をしていかれたのです」
バジット・アルベール騎士団長。
ハイネ王弟の片腕で、ミネット王弟妃とも親交があった。
そして、クレイスが今回の件で、ミネット王弟妃の罪を隠蔽しようとしているのではないか、と疑っている相手。
「決められた時間を過ぎても合図がなく、館の前に待機していた分隊が中に入ろうとしたのですが……。扉を開けた瞬間、建物に近い者から次々と昏倒していきました」
「近づくと昏倒、または錯乱状態……か」
精霊術や魔術は物質に作用し、呪術は精神に作用する。
ほぼ間違いなく、ミネット王弟妃が屋敷のなかで呪術を発動させたのだ。
「その範囲も徐々に広がっています。おそらく館から漏れ出した『なにか』が原因だとは思いますが、誰もその『なにか』を視認できないため、うかつに近づくこともできません」
漏れ出したなにかが見えるとしたら、きっとクリノクロアの人間だけだ。――ステラは思わずレビンのジャケットの裾を掴む。
それに気付いたレビンはステラの頭に手を載せ、ぽんぽんと優しく叩いた。
「館の周囲の人々の待避は」
「近隣の建物の人々は全て待避させているところです。ただ、正確な範囲がわかりませんし、このまま広がり続けるとなると……」
「危険な範囲の特定であれば、私が役に立てるでしょう」
フェルグがそう言って一歩進み出た。
それを見て、ステラは目を丸くする。
(でも、近づいたらクリノクロアの呪いが……!)
しかし、フェルグはステラに心配されるまでもなく、クリノクロアの一族として長く生きてきている人間である。こういうときの自分の限界などよく知っているのだ。
「ただし」とフェルグが付け加えた。
「私自身はあまりその場所に近づくことはできません。離れた場所から確認するだけでもよろしければ協力しますが」
「たとえ大まかであっても、範囲が絞れるのは助かります!」
パッと表情を明るくした団員だったが、クレイスは渋い表情で口を開いた。
「しかし、近付けない範囲が明らかになっても、結局は誰かが近づかなければ根本的な解決にはならない……。クリノクロア卿、そもそもあの場所で今、なにが起こっているのか、あなたにはわかるのでしょうか」
「……呪術を使用するには、精霊を使役する必要があると先ほど説明がありましたが……。今、館の周辺を汚染しているのは、その使役された精霊のなれの果てだと思われます」
「なれの果て……」
「あれらは負の力が強く、精霊の加護がない者には影響が大きすぎるのです。人々が倒れるのも、気が触れるのも、そのせいでしょう」
「少しよろしいですか、クリノクロア卿」
そこに、固唾を飲んで話の推移を見守っていたホーリス補佐官が割って入った。
「先ほども『精霊の加護』とおっしゃっていましたね。それはつまり、能力の高い精霊術士ということですか?」
ホーリス補佐官が「それであれば精霊術士団の者たちを……」と続けるのを、フェルグは首を振って止める。
「精霊の加護は、ユークレース一族に与えられた天恵です。たとえ能力が高くとも、ユークレースの血が流れていなければ呪術には対抗できない」
(……ああそっか、それであのときリシアは無事だったんだ)
エレミア・ユークレースが呪術の影響で倒れていたとき、彼女のかたわらでその世話をしていたのは娘のリシアだった。
リシアは長期間「精霊のなれの果て」と接触していたにもかかわらず、大きな影響を受けている様子がなかった。
(ということは……)
「なら、私が中に入って確認してくればいいっていうこと?」
ステラの頭の中の言葉に応えたかのように、シルバーが口を開いた。
フェルグは眉間の皺を深くして、シルバーを見つめる。
「影響を受けない可能性が高い、というだけで、無事でいられる保証はないぞ」
「それでも、誰かが行くなら可能性が高い人間が行くべきでしょう」
「……まったくもって、そのとおりだな」
フェルグとしては、年若いシルバーに行かせたくはないのだろう。頷きながらも、深くため息をついた。
本当はステラたちクリノクロアの力で精霊を解放できれば良いのだが――。
さすがに、被害の規模を考えると、ここにいる三人だけでどうにかできる状況ではないかもしれない。
でも。
嫌だ。
「ここだって安全とは限らないんだから、当主は王家の人たちを集めてそばについてた方がいい。それと……」
ステラが手を強く握ると、シルバーはほんの少し微笑んで――絡めていた指を離した。
「うちが精霊の加護で影響受けにくいっていうなら、逆にダイアスは影響を受けやすいってことでしょう?」
「おそらくな」
「それなら、ダイアス家も一緒に集めて、アルとリシアもついてて。錯乱した奴らが来てもアルがいればなんとかなるでしょう」
「ん、なんとかする」
アルジェンが頷くのを確認して、シルバーはクレイスのほうへ歩いて行ってしまう。
「で、中でなにをしてくればいいの」
「……さすがヨルダ様が選んだ人間だな……。君にならヨルダ様を任せられる……」
「冗談やめてよ」
感心しきったクレイスの声と、嫌そうなシルバーの声が耳を通り過ぎていく。
離された手にはまだぬくもりが残っている。
たしかに、ユークレースの人間は影響を受けにくいのだろう。――でも、呪術が効かないわけではないと、シルバーが一番わかっているのに。
王族を集めた場所には、当主であるノゼアンがいるのが一番ふさわしい。そして、そこにライムたちが加わるなら、人数が欲しい。
だからリシアとアルジェンをそこに。
一番危険な場所には自分一人だけ。
もし何かあっても、犠牲は一人だけ。
嫌。行かないで。
そう言いたいのに、きっと今この場所ではこれが最適解だという冷静な自分の声がする。
頭の中でいろいろな感情がぐるぐる回って、だんだん目の前が暗くなってきている錯覚すら覚える。
嫌、せめて一緒に。
(連れて行ってほしいよね? だったらちょっと、貸してくれる?)
貸す?
――あなたは誰?
***
手を離したとき、ステラは明らかにショックを受けた顔をしていた。
シルバーは苦い気持ちのまま、クレイスから館内の構造の説明を受けていた。
それでも、もし自分が呪術を止めることができれば、ステラはクリノクロアの力を使わずに済むかもしれない。
あんな力、できればレビンにも、フェルグにも使わせたくない。
――だって、ステラが悲しむから。
「呪術というのは、発動していても止められるものなのですか」
ヨルダがフェルグに尋ねる。
「完全に発動してしまったものはどうにもできないが、発動中なら魔法陣を破壊してしまうのが一番早い。描かれている模様を消したり、塗りつぶしたりしてな。……ただしその分、術者に反動が返るが――」
フェルグはそう言って、クレイスに目を向けた。
術者、つまりミネット王弟妃はクレイスの母親だ。大規模な術の反動が返るということは、命を落とす可能性が高いということでもある。
「お気遣いありがとうございます。……ですがそれは、やむを得ないでしょう。己の罪が己の身に返る。それだけのことです」
「ふむ……。それではシルバー公子、魔法陣は基本的に――」
どさ。
フェルグの言葉にかぶせて、なにかが倒れたような音がした。
「ステラ!?」
「おい、どうした!?」
「……!」
すぐに響いたレビンとライムの戸惑いの声に、シルバーは弾かれたようにステラの元へ駆け戻った。
「どうしたの?」
「わからん。急に倒れた……」
焦燥した様子のレビンに抱えられたステラの体は、ぐったりとしているものの、顔色は悪くない。
これはまるで。
「呪い?」
「いや、まさか。さすがにそれなら俺やジジイが気付かないわけがない」
「ならどうして……」
ライムがスッとステラの腕を取って脈を測る。そして、「特に異常な感じはしないな」と眉をハの字に寄せた。
なんの異常も予兆もなく、突然倒れてしまったステラは――、突然、パチリとまぶたを開いた。
ちょうど目の前にいたライムがビクッと後ずさる。
「うお!? なんだよ、いきなり倒れたり起きたり……心臓に悪いなお前」
「ステラ、良かった。驚かせないでくれ……」
安堵の息を吐いたレビンに抱き寄せられたステラは、大人しく抱きしめられたままじっとシルバーを見つめてくる。
その視線にどことなく胸騒ぎを覚えて、シルバーは「ステラ……?」と名前を呼んだ。
ステラはニコッと笑顔を浮かべて、そして。
「やあ、銀色の子。ひさしぶりだね」
ステラの顔で、声で、――ステラではない言葉を発した。




