12. お友達の命が
入り組んだ路地裏を、精霊が残した跡を頼りに進む。
レグランドは領主の離島と中央の広場を中心に、重要な建物が最初に建てられ、その後人々が集まってきて一気に発展していった都市だ。
そのため、後から流入してきた人々が好き勝手建てた住居区画はまともに区画整理をされておらず、路地に一歩踏み入れるとまっすぐ進めるところはあまりない。意気込んで入り込んだのはいいが、ステラ一人ではおそらく出られなくなっていただろう。
一人でも行くなどと啖呵を切ったが、シンシャが一緒に来てくれたことに実はホッとしていた。
そのシンシャは移動しながら曲がるたびに建物の角にチョークで短く白い線を引いている。後から追いかけてくるアルジェンのための目印だろうが、この街を歩くなら必要かもしれない。
ステラも、次から外出時にはチョークをポケットに忍ばせよう……と考えながら足を動かした。
やがて入り組んだ路地を抜け、正面が壁になっているT字路に突き当たったところで二人は足を止めた。
「ありゃ、これだと跡が分かんないね……」
ここまでの路地は地面が未舗装の土だったので跡がよく見えたのだが、建物の隙間を抜けたこの場所はやや広めの通路になっており、石畳で舗装されていた。左右を見回してみても、白っぽい石畳の上には目立った跡はなにも残っていない。
正面はステラの身長の倍ほどある石造りの堤防で、その先の視界を遮っていた。
「上から見てみようか。――よっ……と」
シンシャの返事を待たず、ステラは堤防へ飛びついて石の継ぎ目に足をかけ、勢い良く堤防の上まで駆け上がった。
登り切ったところで顔を上げると、視界いっぱいに海が広がっていた。潮風で髪がなぶられ、濃い潮の匂いが鼻をつく。
視線を下げて登ってきたのとは反対側の足下に向けると、海と堤防の間には少し広めの通路があり、おそらく漁師の作業小屋と思われる小屋がいくつか建っているのが見えた。
ステラは上からシンシャを見下ろし、明るい声で呼びかけた。
「ねえ、海! この向こう海だよ!」
「そう、でしょうね……」
海沿いで、堤防があるのだから向こう側は当然海だ。それに、海は広場でも見えていたはずなのに今更なにを騒いでいるのだろうか。
(っていう顔をしてるなあ!)
シンシャは喋らないが、その分伝えたい感情(主に不快感)を顔に出すようにしているらしく表情はかなり読みやすい。彼女は今非常に不審そうな顔をしながら、ステラの意図を読もうとしているようだ。
ステラはそんな彼女ににこりと微笑みかけ、膝立ちになったまま辺りをさっと見回した。
「向こうに階段があるから海のそばまで下りられそう。行ってみよう」
そう言って、ステラは堤防の上から滑り降りるようにシンシャの隣に降り立った。そしてそのまま彼女の腕を引き、身を寄せて囁く。
「……めっちゃ真下にいた。目は合ってないけど見られた」
「!……いた、っていうのはなにが」
堤防の上に登ったステラが見たのは、堤防に張り付くように建てられた作業小屋の、潮で錆びた赤いトタン屋根の上で小さなつむじ風が渦を作っている光景だった。ステラがそれに気付くと、つむじ風は役目を果たしたとばかりにすっと消えていった。
そこまではよかった。問題は、その屋根の下にいた男だ。
男はデッキブラシを手に、通路の汚れを一生懸命磨いて落とそうとしていた。その汚れが、おそらく血の跡だったのである。
――ステラたちはここに来る途中で、人が争ったような形跡を見つけていた。
そこに残っていたのは、飛び散った血痕、人が倒れたような跡、そして、本から剥落したと思われる図書館の蔵書票。
そこから推理できる状況は――。
被害者は犯人に殴られるかなにかして倒れた。――その時に抱えていた本を落とし、弾みで蔵書票が剥がれ落ちた。その後襲った犯人は被害者と本を回収してその場所を離れた。
蔵書票は地面に置かれた荷物の隙間に挟まっていたため、犯人は気付かずに放置したのだろう。
その場所から、点々と血痕が続いていた。
少し歩いたところで犯人が気付いて処置をしたのか、その血痕は途切れていたのだが……。
怪我をしたのが被害者なのか、犯人なのかも分からないし、被害者がだれなのかも分からない。
だが、険しい表情で血痕を見つめていたシンシャに、ステラは「リシアじゃないといいね」などという気休めの言葉はかけられなかった。
とにかく、精霊が通った道沿いに争いの形跡があり、さらに最終的に示した場所のそばで血の跡を落とそうとしている男がいる……ときたら、どうあっても二つの間に関係があるとしか思えない。
「多分怪我したところに巻いてた布かなにかを、隠れ家に入るときに落としたんじゃないかな……結構ベチャってついてたし、それできれいにしようとしてたんだと思う。すぐに顔をそらしたから、私が見たことは気付かれてない……と思うんだけど」
「不用心に堤防に登るから」
「ごめんなさい……まさかあんなに近くにいるとは……」
静かに怒りをにじませるシンシャに、ステラは返す言葉もない。咄嗟に下手な芝居をしてしまったが、あれでごまかせただろうか。
「人数は?」
「外にいたのは一人だけ。その人は怪我してなかったように見えたよ」
「少なくとも、怪我をした人物が他にいるっていうことね」
「そうだね……とりあえず警吏を待つとしても、ここからは移動した方がいいよね」
「見られた人がいるからね」
「すみません……」
くるりと身を翻し、シンシャは先ほどステラが示した海のそばまで続く階段へ向かって歩き出した。ステラもしょんぼりしながらその後を追おうとして、足を止めた。
「あ! シン、待って」
「なに……」
ステラの声に振り返ったシンシャの目が見開かれる。その瞬間、ステラの真後ろでドッと重い音が聞こえた。
「なあお嬢ちゃん、見たよな。見たなら逃がすわけにいかねえんだわ」
背後からややうわずった男の声が聞こえて、ステラはチラリとそちらを確認した。そこには予想通り、先ほど堤防の向こう側で一生懸命ブラシを動かしていた男が立っていた。
こちら側から登れたのだから、反対側からも登れる。身軽さはステラの専売特許ではなかったのだ。通りすがりとして見逃してもらえるかとも思ったのが、あちらはそう楽天的ではなかったらしい。
(……狙われたのがシンじゃなくてよかった)
触られるのを嫌がるシンシャだと、精霊が暴走してしまうかもしれないから。
男は、特に抵抗をしなかったステラに後ろから抱きつくように拘束すると、腕で首を絞め上げながらシンシャの方へ目を向けた。
「お前らあの眼鏡の嬢ちゃんを探しに来たのか? おっと、お友達の命が惜しければあんたも大人しくしてな」
「……っ」
シンシャは咄嗟になにかを言おうとして、言葉を飲み込んだ。ステラを巻き込む危険性を考えたのか、それとも相手を殺してしまうことを恐れたのか。
どちらにせよ、それでいい。ステラはシンシャの世話になるつもりはないのだ。
男は首を絞めているせいでステラが大人しいと思っているようだが、実際は完全に絞まらないように男の腕と自分の首の間に片手を差し入れているのでまだステラには余裕がある。ステラは血の気の引いた顔をしているシンシャを安心させるために微笑んでみせた。
「私なら大丈夫だよ」
「は、健気なことだな!」
ステラが強がって、友人を逃がすために嘘をついた、とでも思っているのだろう。
だが――。
「本当に大丈夫なんだって」
ステラが自由な方の腕を軽く振ると、袖の内側にゆるく縫い止めてあった小さなナイフが糸から外れ、手のひらに滑り出してくる。彼女はそれを握りこみ、男の二の腕に軽く突き刺した。
「いてえ!!! ……何だ!?」
突然予想もしていなかった位置から攻撃された驚きと、刺された痛みで男の力が緩んだ。その隙にステラは男の腕からするりと逃れた。そして振り返りざまに握ったナイフの柄で、男のこめかみをゴッと打ち付ける。
「!……」
男は白目をむいて数歩よろめいたあと、どうと倒れた。
ステラはふうと息を吐いて、男がきちんと気絶しているのを確認して、ナイフの血をハンカチで拭き取ると再び袖の中に隠した。
その一連の様子を見ていたシンシャは口をぽかんと開けたまま、眉根を寄せて若干引いたような声を出した。
「え……つよ……」
「自分の身は自分で、ある程度守れるよ」
「まあ、うん……」
「それより、縄かなにかで拘束しておきたいんだけどどこかに落ちてないかな」
今こそ、猟師直伝である大型獲物の縛り方を試すとき、と、やや浮かれたステラは縄を求めてキョロキョロと辺りを見回した。――そのせいで、ステラは堤防の上にあった人影に気付くのが遅れた。
「この……よくも兄貴を!」
先ほどの男よりも少し小柄で若いその男は堤防の上から駆け下りてくると同時に、握ったナイフを振り回しながらシンシャの方へと突っ込んでいった。
先ほどの光景を見ていて、ステラには敵わないと思ったのだろうか。だからせめて大人しそうなシンシャを、と考えたのかもしれない。
「精霊術を使って」とステラが言うよりも先に、破れかぶれに振り回されたナイフがシンシャを袈裟懸けに切り裂いた。
「シン!!」
ほとんど悲鳴のようなステラの呼びかけに、シンシャは薄く微笑みを返した。