123. 一番の願い
クレイスは完全に言葉を失い、ただまっすぐにヨルダを見つめていた。
騎士団員しかいないはずの宿舎の部屋のドアを開けたら、目の前に王女が飛び出してくる――なんてことは普通あり得ないのだから、思考停止してしまうのも仕方がない。
しかしそんな彼に対し、ヨルダは片眉を持ち上げて皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「まあ、なんて間抜けな顔」
「……ヨル――」
ようやく思考停止を抜けて言葉を絞り出したクレイスに、ヨルダはすかさず、鼻先に向けていた指をぐいっと彼の顔に近づけて、早口で告げる。
「今ここで私が見つかったら、大変な騒ぎになるの。黙って部屋に入れてくれるわよね? もちろんそこにいる二人も」
「いやしかし――」
「黙って入れてくれるわよね」
「……」
「ね?」と、顔に刺さりそうなくらいに突きつけられたヨルダの指から逃れるため、ぐぐっと背をそらしていたクレイスは、苦虫をかみつぶしたような顔で返事の代わりに深いため息をついた。
ドアノブを握ったまま立っていた彼が、渋々……と言わんばかりのノロノロとした動きで斜め後ろにずれて「……どうぞ」と言うと、それでいいのよと言わんばかりの勝ち誇った笑顔でヨルダが部屋の中に入っていった。
ついでに、当然という顔でアリシアがそれに続く。
(なんか……ごめんなさい……)
ステラは心の中で詫びたものの、しかしこのまま廊下に立ち尽くしているわけにもいかないので、二人を追って足早にクレイスの横を通り抜けた。
そのステラの背後で、部屋の主は「はあーーーーー……」という深く長いため息を漏らしながら、古びた扉をしっかりと閉ざした。
***
「ヨルダ様、申し上げたいことは諸々ありますが、まずはそのような格好で出歩かないでください」
扉を閉めたクレイスが真っ先に行ったのは、ヨルダに苦言を呈しつつ彼女の肩に上着を掛けることだった。
「最初に言うことがそれなの?」
そう言うヨルダの今の服装は、動きやすさ重視の質素なパンツスタイルだ。上質な白のブラウスは埃の中を通り抜けてきたせいでうっすらと色がくすんでいる。そして四つん這いで来たせいで、黒いパンツの膝の部分は白っぽくなっている。
いつも専門の侍女たちの手でていねいに梳られている長く美しい金の髪も、――まるでステラの普段の髪型のごとく――雑に一つにまとめてポニーテイルにしてある。ついでに言うと、頭のてっぺんあたりにちょこんと蜘蛛の巣が引っかかっていた。
「仕方がないでしょう、非公式にあなたに会うには、ここに忍び込むのが一番確実だったのだから……」
ヨルダは面倒くさそうにそう言いながら、身体を覆うようにかけられたクレイスの上着に手をかけ――。
「ってこれ……」
そしてたっぷり数秒間、絶句した。
「……こ……これ、式典用の正装じゃないの!!」
絶句の後の、ヨルダの極限まで抑えた叫びを聞いて、ステラはヒイッと思わず一歩後ずさりしてしまう。
式典用の正装――とはその名の通り、国の重要な式典で着るための衣装である。
年始行事に始まる恒例行事のほか、王族の婚礼や戴冠式、さらには近年は行われていないが、戦勝記念祝典など――。
とにかく、このティレーという国における重要なイベントで、限られた高い地位の人だけが身に纏うことを許される、――ステラの語彙力で表現するなら、『とんでもなくお値段の張るありがたいお洋服』なのだ。
もちろんこのありがたいお洋服は、王族の一員であるヨルダも所持している。
彼女のワードローブ内に大量にある衣装の中でも、特に格式高い服であるため、ステラは保管場所に近づくことすら許されていない。
ヨルダ本人ですら身につけるときは緊張すると言っていたくらい、大切に扱われるのが普通なのだ。
そんな服を、ひょいと肩に掛けられたヨルダの心中は察するにあまりある。
(っていうか……)
ステラの見間違いでなければ、信じたくはないが、ソレは先ほどまで無造作に椅子の背もたれにかけてあった。
「あなたに、そこに落ちているような布を掛けるわけにはいかないでしょう」
顔を青ざめさせたヨルダに対し、クレイスは真面目な――むしろ、驚かれたことが意外だというような顔で、部屋の中に二つあるベッドのうち、使われていない方の上を指さした。
その先には確かに布――服が散らばっていた。
ただしそれは『脱ぎ捨てた服』という感じではなく、『きちんと畳まれた洗濯済みの服を積み上げておいたら、積み上げすぎで崩れました』……という様相だ。
部屋にはちゃんと作り付けのクローゼットがあるのだが、クレイスはそれを使わず、空いているベッドの上に無造作に着替えを積んでいた……のだろう。
「……あなた、騎士団では真面目で品行方正と言われているくせに、私生活のだらしなさはちっとも変わっていないのね……」
「余分なところに労力を使いたくないので」
「整理整頓は余分ではないと思うわ」
「それよりもヨルダ様。王位継承者候補に名乗りを上げたと聞きましたが、事実ですか」
「しかも、昔と変わらずマイペース……」
ヨルダはこめかみを押さえて、ため息をついてから頷いた。
「……ええ、その通りよ。これからは、あなたと私は王位を奪い合うライバルということになるわ」
「そうですか……では……」
少しだけ表情を曇らせた――ように、ステラには見えた――クレイスはそこでいったん言葉を切って、一呼吸置いてから再び口を開いた。
「それでは、ユークレースの人間と婚約されたというのも事実なのですか?」
「ええ。事実よ。――そうそう、あなたも婚約したのでしょう? おめでとう」
「僕のことはどうでもいいんです」
「どうでもいいって……大事なことでしょう」
「ライム嬢との婚約がどうでもいいというわけではありません。今は、僕があなたに質問しているところだからです」
「……そうね。どうぞ、続けて」
ヨルダは肩をすくめ、先を促した。
アリシアが口の動きだけで「めんどくせえ」と言っているのが視界の端に見える。彼は確かに真面目で、そしてカタブツな性格のようだ。
「その婚約は、ヨルダ様ご自身が望んだものなのですか?」
「ええ。私から彼に持ちかけた話だもの」
「持ちかけた……。やはり、王位継承者候補になるための後ろ盾として?」
クレイスの声にはほんの少し、苦いものが含まれていた。ヨルダはそれを非難と受け取ったようで、皮肉っぽく口元をつり上げた。
「そうよ。……旧家の威光を借りてまで、玉座を得ようとする女の姿は滑稽に見える?」
「滑稽などではありません」
「そうね、あなたの母君もそうだものね。あなたは彼女の望みを叶えるために候補者で居続けているのだし」
「……母のことは、関係がありません。それに、僕はあの人の望みのために今の立場にいるわけでもありません」
クレイスの声には、更に苦いものが混じる。アリシアが言っていた、母親と関係が良くないという話は事実なのかもしれない。
ヨルダはその答えに、意外そうな表情を浮かべて「そうなのね……」とつぶやいた。
「ミネット叔母さまのためでないというならば、あなた自身が玉座を望んでいるのね」
「いいえ、僕は……王になりたいわけではありません」
「……では、ただ継承権を放棄していないというだけ?」
「それも違います。……僭越ながら――」
そこでクレイスは目をスッと細めて、声をひそめた。
「ラグナ殿下とラティード殿下に、国を導く資質があるとは思えないからです」
「……ええ、資質に関しては、皆無でしょうね」
ヨルダもこれには苦笑交じりに頷いた。そんな彼女にちらりと視線を向けてから、クレイスが続ける。
「しかし、王家の血に価値があると考える人々の気持ちも理解できます。民衆が期待しているのは、初代国王の血を受け継ぐ者が国を治めることでしょう」
「……国の指導者は血ではなく、資質と実力で選ばれるべきだと、私は思うわ」
「僕もそれには同意します。いずれそうなるべきだと。……しかし、今ではない。ヨルダ様もそれはおわかりでしょう? あなたは市井での事業を通じて民衆の声を知っているはずだ」
「……残念ながら、あなたの言うとおりね……」
「はい。ですから傍系の僕が、その役を引き受けるべきだと考えました」
その答えを聞いたヨルダは深くため息をついた。
「……つまり、あなたは王様なんてやりたくないけれど、他に適任がいないから仕方なくやる、ということかしら」
クレイスはフッと口元を緩ませ、そして、ゆっくりと頭を振った。
「僕の望みは玉座ではありませんが……王として自分の役目を果たすことで、一番の願いを叶えることができるんです」
お読み頂きありがとうございます!
長すぎる一週間でしたすみません。一応、更新ペース週1回以上は諦めておりませんので緩く見守って……頂けたら本当に嬉しいです……




