113.小さな花
しばらくして戻ってきたマールの腕には真っ白な花束が抱えられていた。
一輪咲きの優雅な白い花一種類だけで作られた花束は、質素でありながらも目を引きつける魅力があった。ステラが昔見た図鑑の絵が間違っていなければ、この花は確かイメリアという名前で、温暖な場所で咲く品種だったはずだ。
イメリアは優しい香りとその凜とした美しさで人気のある花である……が、人気に比例してお値段はだいぶ張る。この花束一つで、アントレルにいた頃のステラ親子の一ヶ月の食費を優に超えるだろう。
「ラグナ殿下からのメッセージカードも添えられております」
さすが王族……と慄くステラの前で、マールはそう言いながら花束の包み紙に差し込まれていた封筒をヨルダに差し出した。金で箔押しされた封筒は中身を確認するためにすでに開封されており、封筒と揃いの意匠が箔押しされたカードが覗いていた。
ヨルダは面倒くさそうに封筒を受け取り、やはり面倒くさそうにカードを取り出した。
ステラが首を伸ばしてのぞき込むと、そこには優雅なカリグラフィーで一言だけ記されていた。
『美しき小さな花』
イメリアはどちらかと言えば大輪の花であって、決して小さな花ではない。つまり、これはヨルダに向けた言葉、ということだろう。
ヨルダが「妹」だから「小さな」と形容したのかもしれないが……今の状況で、ラグナからヨルダに向けて『小さな』花という表現を使うのは微妙に馬鹿にしているような気がして、ステラは眉をひそめた。マールも同じように感じているらしく不愉快そうな顔をしている。
――しかし、ヨルダだけは違った。
彼女は先ほどまでの面倒くさそうな表情を消し、真剣な――どこか思い詰めたような――まなざしでじっとそのカードの文字を見つめていた。
「……ヨルダ様?」
そのただならぬ主人の様子に、マールが心配そうな顔で声をかけた。だがヨルダはそれに応えることなく、しばらく文字を見つめ――
「小さな、花……」
と、消え入りそうな程の微かな声で呟いた。
それとほぼ同時にヨルダの指先で、パチンッと、静電気のような小さな音が鳴った。
「……っ……!」
ヨルダは反射的にカードを手放し――宙に放り出されたメッセージカードは、ひらりひらりと下へ向かって泳いでいく。そして、床に落ちて――。
ボッ、と燃え上がった。
「……え!?……えっ……?」
ヨルダが落としたカードを拾おうとして腰をかがめていたマールは、突然目の前で炎が上がったことに驚いて尻もちをついた。そしてそのまま、呆然と目の前の炎を見つめる。
しかし、さすがベテランであるマールはすぐに自分のやるべき事を思い出した。彼女は素早く立ち上がると、立ちすくんでいたヨルダの肩を押して炎から引き離しながら、ステラに向かって鋭く叫んだ。
「……――リン、人を呼んで水を持ってきてください!」
「あ、ええと……」
「リン!!」
マールは苛立った声でもう一度名を呼んだ。
マール自身は現場で指揮をしなければならないため、人を呼ぶのも水を運ぶのも下っ端であるステラがやるべき仕事なのだ。
だが、それが分かっていてもステラは動けなかった。
「早く――」
「……あのっ、マール様、これは水では消えません」
「!? それは一体どういう――」
「おそらく、自然に消えるのではないかと……」
「なにを言っているのですか! 消えるわけが……」
ない、と叫びかけたマールの目の前で、ごうごうと燃えていたはずの炎は、まるで時間を巻き戻したように急速に小さく縮んでいった。
消えた、というよりも、縮んでいった、という表現がぴったりくる奇妙な挙動で、マールに尻餅をつかせた炎は、慌てふためいた彼女をあざ笑うかのように、豪華な絨毯に黒い焦げ跡だけ残して幻のように消えてしまった。
激高しかかっていたマールは、目の前の出来事が理解できず――むしろ理解できる人間の方が少ないだろうが――虚を突かれた様子でぱちぱちと何回も瞬きをした。
「……あり……ました、ね」
マールは絨毯のコゲ跡を見ながら、信じられないという顔で小さく頭を振った。そして、頭痛のするこめかみを押さえようとしたところで、自分の手がまだ自分の主を抱きしめたままであることを思い出した。
炎から引き離すために抱き寄せていたのだ。慌てていたため、我ながらかなり乱暴な動きだったような気がする。マールは慌ててヨルダから離れ、頭を下げた。
「大変申し訳ございませんヨルダ様、痛みなどは……」
「…………いい、え……ゲホッ……だい……ゴホッ」
ヨルダは大丈夫よ、と言おうとしたのだろう。
しかし彼女の声は途中から完全に激しい咳に取って代わられてしまった。背中を丸めて咳き込み、最終的にはその場にうずくまってしまう。
「ヨルダ様!?」
マールはすぐにヨルダの隣に膝をつき、彼女の背中をさする。しかしヨルダの咳が治まることはなく、次第にひゅうひゅうと苦しげな音が混じり始めた。
「リン、宮医を呼んできて!」
再びマールが声を上げたが、ステラは困った顔で立ち尽くしていた。
「いえ……医者の領分ではないのではないかと……」
「リン!? 先ほどから、何を言っているのですか!」
マールの声はもう悲鳴のようで、その瞳にはステラに対する不信感が浮かび上がっていた。
そのマールの気持ちはよく分かる。もしもステラがマールの立場だったとして、今のステラのような態度を取られたら『こいつが何かやったんじゃないか』と思ってしまっただろう。
しかし、これは本当に病気や怪我などではなく、魔術――呪術だ。ヨルダは呪われたのだ。
ステラが持つクリノクロアの能力で、この呪術に使われている精霊を開放してやればヨルダは助かる。医者を呼ぶ必要はないし、むしろそんなことをしていたらヨルダの苦しみを引き伸ばすだけだ。
だが、それをどうやって、何も知らないマールに説明したらいいのだろう。
普段のステラなら、それなりに上手くごまかせたかもしれないが……。
(うぐぐ……もう、精霊を開放することしか、考えられない……!)
――助けて、クリノクロア、約定を、苦しい――
頭の中で、魔術で囚われた精霊の声が何重にも折り重なって響いている。
(クリノクロアの呪い……キッツい……)
誰かが放った呪いがヨルダを捉えたのと同時に、ステラの身には、その呪いを解く、というクリノクロアの呪いが降りかかったのだ。
(精霊を、開放しなければならない……)
頭の中がその一つの激しい衝動に支配され、口からは契約の呪文が今にも溢れ出てきそうだ。
(でも、だめ、多分、まだ)
マールには、ステラがクリノクロアの人間であることを知られたくない。それに、ヨルダにもきちんと説明しなければならない。
「誰か!! 医――」
「やめて!」
しびれを切らして部屋の外に呼びかけようとしたマールを止めたのは、ヨルダだった。
「ゴホッ……大丈夫よ、騒がないで。リンの、言うとおりだから」
大きな声を出した反動で激しく咳き込んだヨルダの顔色は、誰がどう見でも大丈夫ではなかった。マールは泣き出しそうな顔になってそんなヨルダにすがりついた。
「ヨルダ様、そのような顔色で何を仰っているのですか!」
「――いいから、黙っていなさい」
ゼイゼイと肩で息をしながらも、強い光を宿した目でまっすぐにマールを見つめるヨルダの様子には、どこか鬼気迫るものがあった。
さすがのマールもその眼光に飲み込まれたようで、青ざめた顔で唇を結び、こくんと頷いた。
「……かしこまりました」
「マール、少しの間、部屋から出ていて。私が良いと言うまで、誰も入れないで」
「で、ですが……!」
普通だったら、たとえヨルダがなんと言おうと、こんな状態で置いていくわけにはいかない。だが。
「いえ、かしこまりました。……リン、ヨルダ様をよろしくお願いします」
拳をきつく握りしめ、マールは頭を下げた。
ヨルダは、そしてヨルダが連れてきた少女は、この事態についてなにかを知っている。
――だがその秘密はマールには明かされない。
ならば、主の回復を願って下がるしかないのだ。
***
静かにドアが閉ざされたところで、ヨルダが短く息を吐いた。苦しそうに肩を上下させながら、何とか椅子に腰掛ける。
「これは呪術、なのでしょう?」
わずかに焦点の合わないヨルダの瞳を見つめ返しながら、ステラはためらいつつ頷いた。
「そうだと思います」
本能的に間違いないと感じるのだが、ステラは生まれてこの方、正常に――というと語弊があるが――呪われた人間というものを見たことがないのだ。
たとえばエレミアの場合、自分の呪術が跳ね返されて呪われていた上に、時間が経ってかなり悲惨な状況になっていた。そしてシルバーの場合は呪いが彼自身の一部のように混ざり合っていた。
それらと比べると、今のヨルダの状況は――かなり辛いだろうが――呪いとしては軽症である。
「……ステラ、あなたならなんとかできるのよね?」
「はい」
「じゃあ、お願い」
「はい!」
やっと、契約を果たせる。胸の中に喜びの感情が沸き上がる。
だが、その前に言っておかなければならないことがある。ステラはかすかに残る理性をフル動員させた。
「……あの、私の心臓、止まるかもしれませんが、放って置いて大丈夫なので」
「……え? しんぞう?」
「死なないので平気です」
「え……?」
断片的すぎる説明は、ヨルダに全く理解してもらえなかったようだ。まあ当然だろう。
だが、理解してもらえるまできちんと説明しようにも、すでにステラの口からは呪文が紡ぎ出されていた。
「我、クリノクロアの名を継ぐ者。約定に基づき、彷徨う魂へ終焉を――」
「ええ……ちょ、……」
こうなってしまえばもうステラの意思など関係がない。ほぼ自動で進んでいく契約の儀式を他人事のように眺めるだけだ。
(あれ……?)
なのに、おかしい。ステラは違和感に眉をひそめる。
何かとても大事なことを忘れている気がする――。
だが、忘れるもなにも、この儀式は始まってしまえばフルオートだ。術者は身を委ねていればそれでいいはずである。不十分なのは仕方がないとして、一応ヨルダにもひとこと告げてある。
(でも、なんだろう……)
心の中の引っかかりとは無関係に、朗々と紡がれる契約の言葉に呼応して、空中に白く光る魔方陣が浮かび上がっていく。
その魔方陣が完成するのと同時に、陣の内側から柔らかな光があふれだした。
そう、この光の洪水はレグランドのエレミアの部屋でやったときと同じ光景だ。この後、精霊が分解されて、再生して……ステラにその代償が発生する。
――代償。
やっとそこに思い至って、ステラの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
(ああああっ、私……私、虫かごを……!)
開き忘れている。
(今、今からでも開いて! お願いしますーーっ!!)
そんなステラの必死な心の叫びとは裏腹に、ヨルダは光に包まれた神秘的な光景に息を呑み、静まりかえった部屋の中はやがて、精霊の砕ける、シャリン、と澄み渡った音で満たされていったのだった。




