112. 気づかれなければ
「気晴らしに散歩にいきましょう、リン」
「ユークレースが来るまでは大人しくしている」と宣言したのは自分自身であるにも拘わらず、ヨルダはその舌の根も乾かぬうちにそんなことを言い出した。
どうやら彼女はマールの手前あんなことを言ったものの、実際に行動を自粛するつもりなどさらさらなかったようだ。
一応、彼女は今まで大人しく机に向かい、今朝になってあちこちから舞い込んできた手紙に返信を書いていたのだが、マールが席を外した途端に集中力が切れてしまったらしい。
ちなみに、昨夜の件がどういう具合に王宮内で伝わっているのかは分からないが、やってきた手紙はすべてその襲撃に対するお見舞いで、ヨルダはひたすら定型文を書き続けていた。
息抜きしたいのは分かる、が、ステラもできればヨルダには部屋に引きこもっていてほしい。そのほうが安全だからだ。
ステラは小さく肩をすくめてヨルダを見た。
「私はマール様に怒られたくないです」
「気づかれなければ問題ないわ。マールはいつも納品物の検品に時間をかけるから、しばらく戻ってこないのよ」
マールはつい先程、搬入された物品の検品に行くと言って部屋を出ていった。確かにヨルダの言うとおり、彼女はいつも時間をかけて入念にチェックをするのだ。
が、しかし。
ステラは視線をヨルダからずらし、部屋の入り口へ向けた。
――そこには、先ほど出ていったはずのマールが不穏な笑顔を貼り付けて立っていた。
ちょうどステラが「怒られたくない」と言っているあたりで部屋に入って来たのだ。なにか用事があって戻ってきたのだろう。
ステラが声をかけようと口を開くと、彼女はゆっくりと人差し指を立て、自分の唇に当てた。黙っていろ、ということらしい。
「……ええと、ヨルダ様……目を盗むような真似は良くないと思います」
しかしヨルダは、困った表情を浮かべているステラの様子に気づかないまま椅子から立ち上がると、大きく伸びをした。
「あら、リンは意外と真面目なのね。あまり若いうちからマールのように頭が固いと、年を取ったときに大変よ」
「あー、……ええと」
「……? なあに、そんな変な顔をして。そんなにビクビクしなくても、意外とバレないものよ」
「いえ、あの――」
「まあヨルダ様……その仰りようですと、これまでも常習的に抜け出していたように聞こえますが?」
挙動不審なステラの言葉にかぶせて、部屋の中に猫なで声が響いた。同時に、ヨルダの動きが固まる。
「……ん?」
ヨルダはパチクリと瞬いて、ステラを見た。だが今喋ったのはステラではないので、ステラはヨルダを上目遣いに見ながら小さく頭を振った。そして、手で部屋の入り口を指し示した。
「……」
たちまち、ヨルダの表情が苦虫を噛み潰したように歪む。そして、ひどくぎこちない動きで首を巡らせ、後ろを振り返った。
「……マール、いつからいたの……」
「『気づかれなければ問題ないわ』のあたりですわ」
「……リン、あなた、気づいていたなら教えなさいよ」
「私がリンに黙っているよう指示したのです」
ヨルダは少しの間恨みがましげにステラを見ていたが、すぐに肩を落としてため気を吐いた。
「はあ……どうしたの、マール。あなたさっき検品に行ったばかりでしょう?」
「ええ、贈り物が届いたのでヨルダ様に確認していただこうと思い、戻ってきたのです」
「贈り物?」
「ですが、その前に一言二言よろしいでしょうか?」
一応口では「よろしいでしょうか」と意思を確認するような言い方をしているが、その言葉を発したマールの顔には「良くないとは言わせませんが」をいう脅し台詞がデカデカと書かれていた。先ほど肩を落としたばかりのヨルダは、今度はがくりとうなだれた。
「……ええ、二言までなら……」
それを聞いたマールは静かに微笑み、そして大きく息を吸い込んだ。
「――ヨルダ様に深い考えがあることは存じております。存じておりますとも。ですがそれを承知の上で差し出口を挟ませていただきますが――」
そこからマールは一切表情を変えず、いかにヨルダが守られるべき存在であるか――王国の成り立ちと王家の血筋、そして昨今の近隣で起きた物騒な事件、更には、ヨルダが王宮を開けていた間に残された者たちがどれほど気を揉み心をすり減らしたか――を滔々と語り続け――一言二言どころか、十分以上ノンストップで喋り続けた。
「分かった。分かったわ!! 今後気をつけます!……そっ、それよりも、わざわざ確認に来るなんて一体なにが届いたの!?」
幼い頃、大事にしていたぬいぐるみを兄が飼っていた犬に持っていかれ、腕がちぎられてしまい一晩泣き続けた――というエピソードの途中でついにヨルダが音を上げ、マールの声を遮った。
「ここからがかわいらしいところですのに」
「止めて。お願いだから止めて。もう抜け出そうとしたりしないから」
話を中断させられたマールは若干不満げな顔をしながらも「分かりました」と頷いた。
「ですがもしまた抜け出そうとなさったら、今度は『ピンクのレースのリボン』の話をリンに聞かせますので」
「やっ、……っ、……分かったわよ」
ギリッと悔しげに歯噛みをしたヨルダは渋々頷いた後、大きく長いため息を漏らした。
――図らずも幼少期の恥ずかしいエピソードをばらされるという精神攻撃をくらう形になったヨルダには申し訳ないが、ステラはこの展開にこっそり安堵の息を吐いていた。
(ヨルダ様は、敵がそんなに連続して仕掛けてくることはないって思ってるみたいだけど……)
王弟妃が裏で糸を引いているとはいえ、実際に動いているのは弟のラティードだ。ヨルダは弟の性格を知っているからそう確信しているのだろう。
(でも、万が一ってことはあるし。その時、また戦えるのが私だけなんてことになったら……)
ステラはぶるりと震え上がる。
ヨルダにはできる限り部屋に引きこもっていて欲しい。せめてユークレースの護衛とやらが来るまでは――。
ヨルダの生活区画は、私室、応接室、その他の部屋(衣装室や使用人部屋)、そして回廊で囲まれた中庭で構成されている。
簡単に言ってしまえばレグランドでステラが住ませてもらっている別館のような雰囲気で、王宮の他の区画から独立しているのだ。
他の区画からこちらの区画へと入るには、まず東西の二カ所にある門のどちらかをくぐる必要がある。
門をくぐり、そこから伸びる通路を抜けると、中庭をぐるりと囲む円形の回廊に出る。その回廊からさらにいくつか扉を抜けると、やっと応接室などに繋がる廊下へ入ることができる。
門や扉などの要所要所には(頼りないとはいえ)衛兵が立っているため、ヨルダが自分の区画の最奥にある私室にいる限り、襲撃の心配はほぼない。
今ステラたちのいるこの場所が、その一番安全な『私室』だ。ここは室内から直接浴室と寝室につながっていることもあり、食事さえ運んでもらえば一切外に出る必要がない。それなのにわざわざそこから出たがるのだから、マールが怒るのも当然である。
ちなみに、昨夜襲撃を受けたのは東門をくぐる前の通路だった。――付け足すと、馬が入ってきたのは西門である。
「それで! ……あなたがわざわざ戻ってくる『贈り物』とはなんなのかしら。動物の首なし死体とか?」
「縁起でもないことを言うのはやめてくださいませ。ラグナ王子殿下からの贈り物です」
「お兄様から?」
首を傾げたヨルダの表情は、分かりやすくしかめられていた。
「いらないと言っておいたのに。……死体と同じくらい受け取りたくないわね」
「そう仰るとは思いましたが、第一王子殿下からの贈り物を、使用人の一存で受け取り拒否することはできませんので」
「まあそうね……食べ物とか香水とか……あと以前のような変ないやらしい下着とか、兎に角肌に触れるもの以外なら考えるわ」
(王子様……妹にいやらしい下着を贈ったんだ……)
変な悲鳴が口から漏れないように奥歯をかみしめる。ちらりとマールの方を見ると、彼女も大体同じような表情になっていた。相手が王子だと、気軽に気持ち悪いと言うこともできない。
「一応、肌には触れません。花束です……念のため一本一本検めましたが、おかしな所はありませんでした。ラグナ様付きの執事が今朝ラグナ様に命じられて、王宮の出入り業者から買い上げたものだそうですので、花自体は普通のものかと」
「花ねえ……菓子折は駄目でも花なら良いと思ったのかしら。まあ良いわ、完全に受け取らないのも角が立つでしょうし、一応見るだけ見てから捨てましょう」
結局捨てるんだ、とステラは心の中で突っ込んだ。だが花に罪はないものの、昨日の襲撃の件もある上に、もとより兄妹間で仲良く贈り物を贈り合うような関係性ではないことを鑑みれば仕方のないことなのだろう。
「かしこまりました。東門の前まで運んでもらっているので、受け取ってまいります」
マールはそう言って、きびすを返し――出ていくと思われたところでふと足を止め、ヨルダを見た。
「すぐ戻って参りますので、脱走しようなどとお考えにはなりませんよう」
「考えないってば! 早く行きなさい!!」
忙しかったり、書いては納得いかずに消して……を繰り返しているうちに、前回の更新からものすごく期間が空いてしまいました。なんとか前のペースに戻していきたいです。




