111. 報告書
一夜明けて――。
座り心地の良さそうな椅子に、優雅に腰掛けたヨルダの前には、報告書を持ってきた二人の男が揃って見事な直立不動の姿勢を披露していた。
二人の男のうち、少し前にヨルダへと恭しく報告書を手渡して以降、完璧な無表情のまま立っているのが王族の警護責任者である近衛兵長だ。何千といる王宮所属の兵士の中でもトップレベルに偉い人物である。
もう一人の男は、そんなとても偉い兵長の横で額に冷や汗を浮かべ、不安そうに視線をうろつかせていた。
ヨルダも怖いし近衛兵長も怖い。可能ならば今すぐ回れ右をして部屋の外へ駆け出していきたい――という考えが表情から漏れ出している彼は、ヨルダの居住区画の責任者である。
彼は昨夜の一件が発生したときは非番だったのだが、あの後すぐ呼び出されて報告書作成のために奔走したらしい。おそらくまともに寝ていないのだろう、顔に疲れが浮いている。
「馬を追いかけて持ち場を離れる……素敵な理由ね。楽しそうだわ」
報告書から目を上げたヨルダが微笑む。ステラは思わず(馬?)と怪訝な顔をしてしまった。
ヨルダは壁際に控えるステラとマールにも分かるように、報告内容の一部を声に出して読み上げた。
曰く――。
昨夜、ヨルダの部屋側にいるはずの衛兵が現場にやって来なかったのは、ちょうどそのタイミングで、廊下に面した中庭に馬が飛び込んできたから……だった。
その馬は騎士団の所有する一頭だったのだが、手綱などは付いていなかったらしい。ということは、厩舎の馬房から脱走してきたということになる。
しかし、厩舎は中庭からだいぶ離れているし、たとえ近くても馬が気軽に王宮内を歩き回れるわけがない。しかも王族の部屋の近くなど、なおさら入れないようになっているはずだ。
なのに、 なぜそこに馬がいたのか――。
調査の結果分かったのは、昨夜、なにかの拍子に偶然その馬の入っていた馬房の鍵が外れて、厩舎の外にまで出てしまった。そして偶然、厩舎の管理をしている馬丁が全員目を離していたため、誰も馬が出ていったことに気付かなかった。
さらに何故か偶然、厩舎から中庭までの間にある幾つもの扉が全て開いていて……結果として、足止めされることなく悠々と駆けてきたらしい。
そして四人いた衛兵は、突然現れた大動物に驚き、全員揃って馬を中庭から連れ出そうと持ち場を離れたのだ。
「まったく、あってはならないことです……」
マールの怒りを押し殺した低い声に、区画責任者の男がビクリと肩を震わせた。一方の近衛兵長は奥歯を噛み締めているような顔をしている。きっと、同じことが言いたいのだろう。
何故か偶然が重なって馬が走り回っていたことも、四人全員が持ち場を離れたことも、どちらもマールの言うとおり「あってはならないこと」だ。言い訳のしようもない。
そんな彼らの様子を、冷めきった目で見つめていたヨルダは、ふうとため息をついてから優しい声を出した。
「仕方がないわ。今まで私を狙う刺客などいなかったのだし、警護する価値もない小娘だと思われていて当然だもの」
「王女殿下、決してそんな――」
このヨルダの発言にはさすがの近衛兵長も慌てた声を上げた。だがそれにかぶせて、ヨルダは「分かっているわ、兵長」と大きく頷く。
「心配しなくても良いのよ。立っていれば給料がもらえるけれど出世コースから外れた人材の墓場だとか、王女よりも前庭の庭師のほうがよっぽど守り甲斐があるだとか――日常的にそういう発言があったことを責めるつもりはないの、私は」
「あの……いえ……」
その発言にばっちり心当たりがあるらしい区画責任者の顔色は、面白いくらいに血の気が引いて文字通り真っ白になった。人間の顔色というのはここまで変わるものなのか、と、場違いながらも思わず感心してしまうくらいの変わりようだ。
――ヨルダは柔らかな笑みを張り付けたまま続ける。
「ただ、ただね? あなた方が持ち場を離れていたということは、あの時、私の側にリンがいなければ、私は……いいえ、私だけでなくお兄様も凶刃に倒れていたかもしれないの。これは区画責任者だけの問題ではないわ」
「――全くもって、殿下の仰る通りでございます。弁解の余地もございません」
近衛兵長は厳めしい顔に痛切さを滲ませて頭を下げた。茫然自失といった様子の区画責任者も、少し遅れて頭を下げる。
「分かってくれたのならそれでいいわ。私はあなた方に厳しい処分を与える気はないの。誰にもね」
その言葉で露骨にホッとしたような息を吐いた区画責任者を、近衛兵長はぎろりと睨み付けた。
「殿下の寛大なご判断には感謝を禁じ得ません――しかし、お言葉ですが、事が事ですし、適切な処分を与えねば示しがつきません」
近衛兵長は丁寧に、しかしどこか子供を諭すような口調で軽く頭を振った。それに対してヨルダは再び、分かっていると頷いて見せた。
「そう、事は王宮の保安に関わることですものね。もちろん多少の罰は受けてもらうわ。……私も始めはね、職務放棄をしていた人たちは懲戒処分、部下への指導ができていない上層部は揃って降格するのが適当かしらと考えたのだけれど」
『懲戒』『降格』という言葉の響きに男たちが息をのむ。
「でも、それでは今後の人員配置や指令系統まで含めて、警備計画を抜本的に見直さなくてはいけなくなってしまうし……それでもいいのだけれど、見直しとなると新体制に移行するまでに時間がかかるし混乱も生まれるでしょう? 襲撃があったこの時期にそんなことをするのは得策ではない、と考え直したの」
ヨルダは「そう思わない?」と微笑む。
優しいから、甘いから許すのではない。こちらは必要であればお前たちをクビにすることも可能だ、と。
これが話に聞くパワハラってやつかな? とステラが見ている前で男たちの顔色はどんどん悪くなっていく。
今のヨルダはこれまでの力を持たない王女ではなく、有力な王位継承者候補の一人なのだ。
男たちは二人とも、心のどこかでヨルダのことを軽んじていたらしい。処分といっても一時的な謹慎や減給程度で済むと思っていたのだろう。
だが今のヨルダは、その気になれば理由をつけて近衛兵長を更迭することもできる。風向きはすでに変わっているのだ。
顔色が土気色に近くなってきた男たちは、揃ってビシッと姿勢を正した。
「――はっ! 仰る通りです!」
「処分は数か月の減給程度で済むように口添えしておきます」
「「感謝いたします!」」
「では話はおしまいよ。もう行ってもいいわ」
「「はっ!!」」
綺麗に揃った動きで敬礼をして、近衛兵長たちはそそくさと部屋から出ていった。
***
「納得いきません! お言葉ですが、近衛兵長の言うように、処分が軽すぎては周囲に対して示しがつきません!」
近衛兵長たちがいるときには見事なポーカーフェイスで通していたマールは、扉が閉まり足音が遠ざかっていったのを確認するやいなや、柳眉をつり上げヨルダに詰め寄った。
「いいのよ、これで。むしろ兵士たちには『王女への襲撃を防げなくてもたいした罰を与えられない』と思ってもらいたいの」
「そんな……!」
「あのねマール。私は本気で玉座を取りにいく。そのためには他の候補者よりも優位に立たなくてはならないの。……一番簡単なのは、他の候補者に『間違い』を犯してもらうことでしょう?」
「ですが……」
マールは不安そうに眉を下げ、「危険すぎます……」と力なく呟いた。しかし、それ以上は反論しなかった。彼女はヨルダが言い出したら聞かないことをよく分かっているのだ。
そのまま黙り込んでしまったマールに変わって、ステラが口を開いた。
「……昨日の襲撃のようなことを起こしやすいように、わざと警備の手を緩めておくんですか? さすがに相手も誘われていることに気付くのでは?」
「相手が賢ければそうね。でも、昨日のタイミングは完全に賢くないタイミングだったわ」
「まあ、そうですが……だからまたやるだろう、ということですか」
「そうなれば潰しやすくて助かるわね。もし、相手がこちらの意図をくめる程度に賢くて罠にかからないのなら、その時は次の計画を仕掛けるだけよ」
ヨルダはそう言って小さく笑うと、手に持ったままだった報告書を机の上に置いた。その動きで、マールがハッと顔を上げた。
「そうです……! 調査の結果、誰があの侍女の入宮の手引きしたのか分かったのですか? 誰がヨルダ様を害そうと?」
「ああ……あの侍女はオーチャード家の推薦で入ってきた子で、王宮内で働いているのを見たお兄様が気に入って自分の侍女に加えたそうよ。オーチャード家はラティートの支持派と繋がりのある家ね」
「では、元々はラティート第二王子殿下がラグナ第一王子殿下を狙うために……?」
引き入れたのがラティードと関係のある人物だとすれば、ラティードがラグナを狙ったと考えるのが自然ではある、が――。
「そうかもしれないけれど、あまりに露骨すぎるわ。そこの判断は保留ね」
「オーチャード家への聴取はまだ、ということですか」
「まだ、というか、オーチャードはあの侍女を紹介した後、少ししてから不正取引の咎で家を取り潰されているの。当主は失踪して行方不明。あの侍女の正体も現時点ではそこまでしか判明していないようね」
「取り潰し、とは穏やかではありませんね」
「ええ、おそらく利用されて切り捨てられたのでしょうね」
「それでは、黒幕は――」
「この話はここまでにしましょう。とにかく、警備が緩いと思った間抜けな弟が仕掛けてきてくれることを期待しているの」
ヨルダはそこで話を切った。
ほぼ間違いなく王弟妃が黒幕なのだろうが、今はそこに言及したくないらしい。
マールはやや消化不良な表情を浮かべ、話を戻して食い下がった。
「ですがヨルダ様、いくらリンがいると言っても危険なことには変わりありません。今回は相手が一人でしたが、複数人だったりしたら……」
それにはステラも同意する。
ステラは人を守る訓練を受けたわけではないし、それに昨日の様子を見る限り、ヨルダも場馴れしていない。
不測の事態――どころか、襲撃を防ぎきれいないという未来が容易に予測出来てしまう。
ヨルダはそれが分かっているのかいないのか、余裕のある表情で「そうそう」とステラとマールの顔を見た。
「そういえば伝えていなかったわね。明日にはもう一人、警護専門の女の子が来る予定なの。リンより少し年上くらいの子よ」
「警護専門ですか……? その方もリンと同じように商会の関係の?」
マールがステラを見る。だが、ステラは商会とは全くの無関係なので答えようがない。もう一人来るという話も今初めて聞いたのだ。
商会にそんな人物がいるなら、初めから同行してもらえば良かったのに――と思っていると、ヨルダが意外な言葉を口にした。
「その子はユークレースの紹介なの。ユークレースが謁見で来るときに一緒に連れてくる予定よ。それまで警護は実質リン一人のようなものだから、私もなるべく大人しくしているわ」
「……ユークレースの紹介?」
ステラはぱちり、と瞬く。
ユークレースにそんな女の子がいただろうか。
女の子と言われて思いつくのはリシアくらいだが、彼女はステラよりも年下だし、どう考えても警護になど向いていない。
しかしユークレース本家の敷地内では何人もの人が働いていたので、ステラが知らないだけでそういう人物がいたのかもしれない。
(少し年上の女の子……)
ユークレースの関係者なら、シルバーとも面識があるのだろうか。
ユークレース家の仕事で関わりがあるなら……ステラよりもよっぽど頻繁に顔を合わせているかもしれない。
「リン、どうしたの眉間にしわを寄せて」
「えっ」
ヨルダにそう言われて、ステラはパッと自分の額を押さえた。胸のモヤモヤが表情にまで出ていたらしい。
(って、顔を合わせてたって別に問題ないのに。シンは私を選んでるんだから……!)
「な、何でもないです」
「そう? その子とは私もまだきちんと会ったことがないのだけれど、綺麗な子らしいからまたお兄様に狙われないように気をつけないといけないわね」
そう言ってヨルダは、意味ありげにフフッと笑った。
――両手の親指でぐいぐいと眉間をのばすステラと、それを上機嫌で見つめているヨルダの様子に、マールはひっそりと首を傾げたのだった。




