110. デザートナイフ
「水の精霊に希うっ! 転ばせて!」
半ば叫ぶように唱えたステラの呪文の必死さに、精霊が応えた。
きれいに磨かれた床の、ちょうど侍女が足を踏み出す位置に、小さな小さな水たまりが現れたのだ。――手のひらよりも小さいので、水たまりというよりも誰かがうっかり水をこぼしたような跡、と言うべきか。
(でも、協力してくれたんだから感謝しなきゃ)
しかし案の定、そのささやかな水たまりはあまりにも無力で、襲い来る侍女の足をほんの少し滑らせただけで、転ばせることまではできなかった。
あまりに粗末なステラの精霊術に、侍女がわずかに口元を歪ませるのが見えた。
ステラはムッとする。
(バカにしてぇ! でも、足、滑ったでしょ!)
足が滑れば体勢はわずかに崩れる。そこで生まれた一瞬の隙を見逃さず、ステラは隠し持っていたナイフを投げつけた。
投擲用のナイフ――は残念ながら手に入らなかったので、食事時にこっそりくすねておいたデザートナイフだ。これならば万が一隠し持っているのがバレても、「給仕の方が落としたのを拾って、返そうと思っていたのですがうっかり忘れていましたぁ」とでも言えば許される……はずである。
ステラの手を離れた小さなデザートナイフは、微かに光を反射してきらめきながらまっすぐな線を描き、侍女の手元に向かう。
「……」
それに気づいた侍女は表情を変えることなく、軽く腕を振った。武器で弾き返すつもりなのだ。
どうやら相当な手練らしい彼女は、体勢を崩していたというのに最低限の動きで、カンッと見事にナイフを弾いてみせた。
余裕の笑みが、彼女の口の端に上る。――しかし。
ゴトッ――
そんな侍女の手から、歪な形の刃が付いた武器が滑り落ち、床にぶつかって鈍い音を立てた。
「な……」
一瞬前にデザートナイフを弾いた武器だ。手のひらに包み込むように握られていたその武器が、侍女の足下に転がっている。
(うまくいった!)
ステラは心の中で快哉を叫ぶ。
ナイフと同時にこっそり投げていた、しびれ薬を塗った針がうまく刺さってくれたのだ。
その針はこんなこともあろうかと、お針子の裁縫箱から一本拝借しておいたマチ針である。そして塗ってある薬品の方は……ステラの叔父、エリオから譲り受けていたものだった。
ステラが暗器を使うのを知ったエリオは、「それほど強い薬ではありませんが、うまく刺されば一時的に動きを鈍らせるくらいの効果は期待できます」――という説明とともに渡してきたのだ。
信じられないとばかりに目を見開いた侍女の背後の壁に、弾かれたデザートナイフがぶつかって小さな音を響かせる。
カツンッ、カラン……
その響きが消える前に、ステラは侍女に向かって軽く床を踏み切った。
ナイフを握った形のままこわばった手をわななかせていた侍女は、突っ込んでくるステラに慌てて飛び退ろうとしたが、ステラのほうが少しだけ速かった。
侍女と、ステラの視線が至近距離で絡む。
つい先程まで余裕たっぷりだった女の目に焦りが浮かんでいるのを見て取ったステラは、わざと不敵に、ニッと笑って見せる。
腹を立てろ。冷静さを失え――。
ステラは馬鹿にするように嗤いをうかべながら、腕をまっすぐに突き上げた。
身を縮めて懐に入り込んだステラの手のひらは侍女の顎を捉え、――きれいな掌底打ちが決まった。
ドサッ。
静まり返った廊下に侍女の倒れる音が響く。
そう、静まり返っている。それなりに大きな音がしていたと思うのだが、まだ城の衛兵たちが駆けつけてきていないのだ。
ステラはむっと眉根を寄せ、大きく息を吸い込んだ。
「衛兵!! 来てください!」
その声に反応して、廊下の前後、城側とヨルダの部屋側の両方でガタンと慌てて扉を開け、何人かが走ってくる音が聞こえてきた。
――つまり、音が聞こえていなかったのではなく、聞こえていても意図的に無視していたのだ。
この廊下はヨルダのプライベート空間に近い場所だし、ヨルダは衛兵を信用していないため、常に会話が聞こえない程度の距離を取ってもらっている……という事情を差し引いても、ここまで完全にフリーな状態になるのはあまりにも不用心すぎる。
それに、今ここには王族が二人いて、さらにラグナは紛いなりにも第一位王位継承者なのだ。まるでこの二人の安全などどうでもいいかのような対応ではないか――。
侍女の口にハンカチを詰め込んで、倒れた背中に膝をついて後手に押さえつけながら、そこまで考えてステラはハッとする。
「ヨルダ様、大丈夫ですか!?」
二人の安全よりも制圧に意識を持っていかれた自分も同じだった。
慌ててヨルダを振り仰ぐと、彼女は血の気が引いて真っ白な顔をしていたが、それでもしっかりと頷いた。
「ええ……あなた、リンのほうこそ、怪我は?」
「ありません。あの、ですが……衛兵というのはこんなに反応が鈍いものなのですか?」
落ち着いた声で話そうと努力したが、それでもやっと姿を見せた衛兵を責めるような響きになってしまった。
だが結果的に無事だったとはいえ、もうひとりいる侍女がグルだったらステラには対処しきれなかっただろう。どう考えても援護が必要だった。
「――で、殿下方、ご無事ですか!?」
到着後真っ先にステラの皮肉を浴びる形になった衛兵は、こちらもヨルダと同じように顔面蒼白にして、そして足を止めると同時に前のめりになって勢いよく叫んだ。おそらく焦りすぎて音量調節を誤ったのだろう。
ヨルダとラグナはどちらもその声の大きさにやや顔をしかめながら「無事よ」「ああ」と言葉少なに返事をした。
(全員ショック状態、って感じだなあ)
ラグナはどうか分からないが、少なくともヨルダは襲撃を受けることに慣れていない。気丈に振る舞っているが、低い位置から見上げているステラには彼女の膝が小刻みに震えているのが見えてしまう。
出過ぎた行動かも知れないが、ステラが仕切ったほうが良いかもしれない。
そう判断してステラは口を開いた。
「……この方がヨルダ王女殿下を害そうと襲いかかってきました。武器はそこに。……ヨルダ様、連行してもらって構わないですか?」
「……ええ、そうね……。でもその前に一つ確認を」
ヨルダは気持ちを切り替えるように小さく頭を振ってから、ラグナのほうを見た。
「……お兄様、ここに来るときに、衛兵に対して『この通路に入るな』と命じられたのですか?」
衛兵が来なかった理由として一番考えられるのは、ラグナが意図的に人払いをした可能性だ。内密な話をするため――または、ラグナが襲撃を計画していた可能性、である。
しかし、ラグナは困惑気味に頭を振った。
「いいや、私は何の指示も出していない。むしろ、この通路に入るとき扉の前の兵に『王女殿下がこの先に兵を入れるなと言っている』と言われたから置いてきたんだよ。私はヨルダの指示だと思っていた」
「そうですか……」
ヨルダが眉をひそめる。
ラグナが嘘を言っている可能性もあるが、侍女が武器を振りかざしたときの彼の表情は、本気で衝撃を受けていたように見えた。
そしてラグナは――王族としては残念なことに――そういう演技ができるほど器用な人間ではないと聞いている。
「それでは、誰かの罠にはめられたということですね」
「……」
ヨルダの硬い声に、ラグナの視線が床に倒れた侍女に落ちた。
彼の表情から察するに、だいぶこの侍女を気に入っていたらしい。それはこれまで彼が彼女に対して取っていた態度からも明白だ。
(――でも、大切にしてたとか、可愛がっていたとかって言うにしては)
その目には過分に、恨みがましさと腹立たしさが混じっている。
大事な相手に裏切られて悲しんでいるのではなく……目をかけていた下僕に裏切られたのが面白くない、という目だ。
ヨルダも同じように感じたのか、ラグナを見ていた目が冷たく細められた。それから、一番職位が高い――確かこの区画では二番目に偉い――衛兵に顔を向けた。
「では、その侍女の聴取はおまかせします。その女性の目的、雇用されたルート、武器を持ち込んだ方法――それと、衛兵が駆けつけるのに、ここまで時間がかかった理由。それらを明日までにまとめて、私に文書で報告しなさい」
「――はっ!」
ヨルダの冷え切った声に、冷や汗を浮かべた衛兵がキレのある動きで敬礼する。続けて彼女は視線を動かすことなく「それでよろしいですわね、お兄様」とラグナに投げかけた。
「あ、ああ。構わない。ただ報告は私のほうにも欲しい。……それ次第でこちらの人員を見直さないといけないようだから」
「ええ、そうでしょうね。ですが、その侍女の身元がどうであれ、お兄様の身辺は全体的に見直しが必要だと思いますわ。現状では、いつ寝室で寝首をかかれても不思議ではありませんものね」
「はは……、耳が痛いな」
ヨルダは険のある声で寝室という単語を強調した。……つまり、そういうことだろう。ステラは微妙に目を泳がせてしまう。
そうなると、さきほどラグナが言っていた「うちで指導」だの「可愛らしいメイドさん」の言葉も趣が変わってくる。
(……ああー、そういう感じの人かあ……)
芸術の振興とかなんとか言っているし、皆が言うほど駄目な人間ではないのでは?……などと思いかけていたステラは、自分の認識を再び軌道修正した。同時に、可能な限り近づかないようにしようと心に誓う。
「ひとまず、私は部屋に戻ります。報告を受けた後にまたお話しましょう、お兄様。後日こちらへお呼びしますから」
ヨルダは言葉にしなかったが、「異論はないよな?」という圧を感じる。ラグナは苦いものを飲んだような顔で肩をすくめた。
「こちらの侍女が引き起こしたことだからね。異論はないよ。お詫びの菓子折りでも持っていこ……」
「必要ありません」
兄の言葉を途中でピシャリと叩き折って、ヨルダはくるりと身を翻した。そのまま自室の方向へ歩き出す。
「行きましょう、リン」
「――は、はい」
ステラはそこに立ち尽くすラグナと侍女の片割れに頭を下げ、足早に去っていくヨルダの背を追った。




