109. そう、配慮。
兄がこの居住区画にやってくることなど、記憶にある限り一度もなかった。ヨルダの十七年の生涯で、ただの一度もだ。ヨルダは眉をきゅっと寄せる。
やや心配そうな表情を浮かべつつステラが後ろに下がった後、少ししてヨルダの耳にも足音が聞こえてきた。
せっかくあの態度の悪いシルバーへの意趣返しとしてステラに諸々バラしてやろうと思いついたところだというのに……生涯初の訪問が今とは、なんともタイミングが悪い。
「やあヨルダ、もしかして待っていたのかい?」
ようやく声の届く範囲にやってきたラグナは、驚いたようにほんの少し目を丸くして声をかけてきた。
ヨルダだけ、もしくは他の――例えばマールがいても、近づいてくる気配を察して待ち構えることはできなかっただろう。乱暴な足取りの弟とは違い、ラグナやその付き人の足取りは上品で静かなのだ。それゆえ、察知されるとは思っていなかったらしい。
「ええ、お兄様。随分急ぎのようですけれど、一体どのような御用でしょう」
「大したことではないよ。ただ私の立場を表明しておこうと思っただけさ」
「お兄様の立場ですか?」
宣戦布告――をするような男ではない。
一体なにを言うつもりなのか……と身構えるヨルダの前で、ラグナは夢見るような面持ちで口を開いた。
「お前も知っているだろうけど、私は美しいものが好きなんだ。絵画、彫刻、音楽、詩歌……芸術と呼ばれるものの全てがね」
「……ええ、知っていますわ」
「そして私はあくせくと働くということが嫌いだ。優雅でないものに時間を取られるのは非常に苦痛でね」
なにを言っているのだ、この男は。
ヨルダですら引きつりそうになったのだ。後ろにいるステラの顔は見えないが、表情を隠すことに慣れていない彼女など、ほぼ間違いなくぽかんとした顔をしているだろう。ぽかんとするのを通り越して、侮蔑の表情を浮かべたりしていなければいいのだが。
「……ええ。そのようですね」
「私は芸術のために一生を捧げたいと思っている。そのためにはね、ヨルダ。私には玉座というものに座る暇がないんだ」
「!」
思わず息を呑む。今交わしているこの会話は正式なものではなく、単なる立ち話だ。それでも――。
「……継承権を放棄されるということですか?」
「さあ、どうかな」
ラグナは薄く微笑んだまま、さすがに明言は避けた。
それはそうだ。第一王子で、言っては悪いが他に取り柄のない彼が、王位継承権放棄を宣言してしまえば――周囲の人間は一気に彼から離れていく。そんなことは彼も分かっているはずだ。
「ずっと考えていたんだ。もしもラティードがあの椅子に座ったら……あれは芸術なんて理解できないし、それどころか無駄だとすら思っている。きっと後に残るのは、士気を高揚させる銅像、軍歌や凱旋曲くらいだろう」
そう言って、ラグナは皮肉っぽく口を歪める。
「ではクレイスなら。彼ならば、理解できずとも排除しようとはしないだろう。……だけど彼のママは私のことを嫌っているからね。そう、例えば緊張状態が続く国境の前線に送られるかもしれない。かつてのハイネ殿下のように」
あり得る、とヨルダは心の中で激しく頷く。
ラグナの容姿は若い頃の父親にそっくりなのだ。きっとミネット王弟妃の憎しみもひとしおだろう。
そんなラグナはやっと夢から覚めたようにヨルダに視線を向けた。
値踏みするような視線だ。
「ときにお前は、優雅さには欠けるけれど、それでも芸術作品の持つ価値を理解できるだろう? 愛でる方ではなく、経済を回す方の価値を」
「……つまりは私が玉座を取り、お兄様が芸術を楽しみながら優雅に暮らせるように配慮することを約束しろと?」
ラグナは「そう、配慮。いい言葉だ」と頷く。
「私はただただ芸術を愛で、育てることに時間を使いたい。それを邪魔しないよう配慮すると約束してくれたらとても嬉しい。もちろん、自分のお小遣いの範囲で済ませるつもりさ。多少の援助は断らないけれどね」
芸術の振興以外のことはやりたくないから、やらなくていいという言質が欲しい。そのかわり自分につけられる予算以外、国庫には手を出さないと約束する。
こうもはっきり言い切られるとなんとも清々しい。
「……配慮は配慮ですから、及ばない場合もありますわ。ただ、芸術的な作品や活動がこの国に暮らす人々の幸福にとって重要な意味を持つことは理解しています。……ですから、どなたかが、ご自分に割り当てられた予算の範囲内で保護や振興にかかわることに、私が異論を唱えることはないでしょうね」
「ふふ、優秀な妹で嬉しいよ。あの椅子は他の二人に座られては困るから私も話を合わせていたけれど、いい加減うんざりしていたんだ。――お前が私の敵に回らない限り、私もお前の敵にはならないことを約束しよう」
敵に回らない。
これは完全な継承放棄の言葉だ。
ラグナはヨルダが玉座を取ることを望み、その後の庇護だけを求めている。
「!……ありがとう、ございます」
想像すらしていなかった発言に、思わずそんな言葉がヨルダの口からこぼれた。少なくとも、これで実の兄と争わずに済むのだ。
「さて、お礼を言われるようなことを私は言っただろうか」
ラグナは片眉を引き上げてとぼけてみせた。
「ただ私がそう言いたかっただけですわ」
ヨルダが済まして答えると、ラグナは「そうか」と、フッと口の端を上げた。そして照れ隠しなのか、視線をさまよわせる。
「……ところで、ヨルダ。今日連れているその侍女は初めて見る顔だね」
「はい。彼女は私が運営する商会のメンバーで、礼儀作法を覚えてもらうために一時的に私の側仕えとして付いてもらっているのです」
ステラが静かに頭を下げる。そんな彼女のつま先から頭のてっぺんまで、ラグナは「ふうん……」と興味深げに視線を走らせた。
「だったらうちの侍女たちの指導を受けさせるのはどうだい? そちらは人数が少なくて新人にかける時間が限られるだろう?」
違った。照れ隠しではなかった……と、思わず苦笑が漏れそうになる。
ラグナはステラに興味を持っているのだ。色ボケ的な意味で。
こんな重大な話の直後に、よくもまあそんな好色ぶりを披露できるものだといっそ感心してしまう。
(やっぱりさっき私が言った通り、可愛い系に興味津々だったのね)
だが、ステラに手を出させるわけにはいかない。そんなことになったら間違いなくシルバーが黙っていない――黙っていないどころか、ヨルダもラグナも仲良く命を奪われかねないのだから。
「ご心配には及びませんわ。彼女は優秀で、すでに基本的な作法は身についていますから。人数が少ない私のところでは貴重な人材になっているので、そちらに行かれてしまうと逆にこちらが困ってしまいます」
「そうか、残念だな。可愛らしいメイドさんが増えるかと思ったのに」
「ねえ?」と。ラグナが自分の連れていた侍女たちに微笑みかける。
「ええ。残念ですわ、殿下――本当に」
美しい侍女の一人が、そう答え、妖艶に笑った。
そして――。
「きゃっ!!」
「失礼します!」というステラの鋭い声とともに、ヨルダの体は強く後ろに引っ張られる。それとほとんど同時に、ちょうど今までヨルダの首があった位置を、銀色に光るなにかが通り過ぎていった。
一瞬の出来事だったが、ヨルダの目の奥に一筋の銀の線がはっきりと焼き付く。
(なに、これ……)
確かに目に入っているのに理解できない。
頭が回らない。
(――っ、しっかりしなさい、ヨルダ・アウイン・ティレー!! 玉座を争うと決めたときに覚悟したでしょう!)
あれは刃物。武器だ。
侍女の手にはまるで鉤爪のような形の小さな刃物が握られていて、その刃物がヨルダの首を掻き切ろうとした。
――殺されそうになった。ラグナの侍女に。
ヨルダは混乱を無理やり飲み下し、ラグナの表情を確認しようと視線を向けた。
(……違う、これを仕掛けたのはお兄様ではない……)
彼は、少なくとも表面上は、この事態がまったく把握できていないらしかった。呆然と目を見開いて立ちすくんでいる。
自分で企んだのならもっと顔に出ているはずだ。彼は昔から、そういう駆け引きができない人間なのだ。
「……よっ、ヨル、ダ……!」
見開かれたラグナの目がヨルダを捉えている。かすれた声がやけに耳につく。
ヨルダの目の前で、第一撃を仕損ねた侍女が、くるりと身を翻して再び踏み込んで来ていた。
(ああそうか、初撃で失敗したら第二撃に移るのが当然よね)
まるで舞い踊るような――こんな状況だというのに、思わず見とれてしまうほどの優雅な動きで。
ヨルダは目を閉じることもできないまま、迫り来る美しい女の手元に輝く、歪な形の刃物を見つめていた。
年度末って忙しいですね……_(:3ゝ∠)_




