10. リシア
姉弟とリシアの三人は仲が悪いというわけではないようなのだが、どうやらある種の緊張関係にあるらしい。
シンシャが喋らない……というのはおそらく常態なのでよく分からないのだが、ステラに対しては細かく話しかけてくるアルジェンが、リシアには全く話しかけないというのがなんとも異様だった。
一方のリシアは、少し離れた席に座っているというのに、姉弟の些細な動きや言葉にもおびえたような様子を見せる。ただ、ステラに対しても似たような反応を見せるので、彼らだから、というよりもだれにでもそうなのかもしれないが。
ステラは本を睨み付け、そしてこっそりため息をついた。
せっかくの読書チャンスなのに、この張り詰めた空気の中で文章に集中することができない。たまに話しかけてくるアルジェンに返事をするのも、うっかり地雷を踏みぬいてしまいそうで言葉に気を遣うのだ。
(えっと、確か図書館の本って借りられるんだよね……この本借りてもらって帰ってから読もうかな)
ステラはレグランドの住民として登録していないので本を借りることができないのだが、姉弟のどちらかの名義であれば借りられると聞いている。もうここで読むのはあきらめて、挿絵だけを眺めることにしよう。
そう決めて本をペラペラめくり始めたステラの手元に、一枚の紙片が滑り込んできた。
『リシア・ユークレース。ユークレース本家当主の娘。うちは当主の奥方にものすごく嫌われてて、うちの娘に近づくなって言われてるから基本的に関わらないようにしてる。リシア自身と仲が悪いわけじゃない。あとリシアはだれにでもおびえるタイプだから気にしなくていい』
紙片の文字に目を通して、顔を上げるとこちらを見ていたシンシャと目が合う。すると、彼女は目元を緩めて、ふ、と微笑んだ。
(な、なんか、色っぽい……)
不意打ちの笑顔はいけない。
相手は女の子だというのにときめいてしまうではないか――心臓を落ち着けようとするステラに、彼女はさらにニコリと笑顔を浮かべた。そしてステラの手元の本を指さしてささやくような声で言う。
「絵本の方がいい?」
「……」
「あれ、やっぱりステラに文字は早かったか」
シンシャは先ほどのメモを寄越してきたのだから、ステラが文字を読めないなどとは思っていないはずだ。つまり完全にからかっている。
それはそれで腹が立つのだが、「幼児用の絵だけの本もあるぜ」と言うアルジェンは本気で気を遣ってくれていて、それが逆に腹立たしい。
「だから読み書きできるって言ってるのに……」
ステラは「簡単な単語だけの本もある」となおも続けるアルジェンをぎろりと睨み、むすっとしながら本の続きを読み始めた。
***
閉館時間が近づいてきたため、リシアは数冊の本を借りて図書館を後にした。
まさか図書館で分家の二人に会うとは思わなかった。しかもシンシャと会ったのは何年ぶりだろうか。相変わらず驚くほどの美人だった。
彼らの父親のリヒターがとんでもなく美形なので当然といえば当然だが……。
しかし、そのリヒターとリシアの母はお互いにいがみ合っている。リシアが今日姉弟と会ったことを母に知られたら、母はまたしばらく情緒不安定になってリシアを罵りだすだろう。だれかに見られていなければ良いのだが……。
リシアはため息をついて、重さでずり下がってきた本を抱え直した。そして同時に、ピリッと左足に走った痛みに顔をしかめる。
その痛みで、先ほどの声をかけてきた少女を思い出した。
結局お互いに自己紹介をすることも、分家の二人が紹介してくれることもなかったので正確な名前は分からないのだが、ステラと呼ばれていたのでそれが名前だろう。
彼女がリシアを心配してまっすぐ見つめてきた瞳は、何の曇りもない綺麗な色をしていた。
(かわいい子だったなあ……)
自分の地味な茶色い髪と比べて、彼女の薄い桃色の髪はいかにもかわいらしさを象徴するかのような色だった。色白で、小柄で、明るくて……。
(きっとアルはああいう子が好きなんだろうな)
どうしてもすぐそばで交わされる彼らのやりとりを耳が拾ってしまって、今日は全然本が読めなかった。
もう一度重いため息をつく。
二つの家の親同士が、なぜいがみ合っているのかを知らなかった幼い頃は、年の近い親戚の子供として無邪気にアルジェン達と接していた。
だが今のリシアは、母がリヒターを憎み、リヒターが本家を憎むその理由を知っている。
今となっては、過去の自分の言動も、こんなに地味な見た目で精霊術を上手く使いこなせないことも、どちらに対しても申し訳ないという気持ちしか湧いてこない。
それでも、引っ込み思案なリシアの手を引いて、太陽のように笑っていたアルジェンを想う気持ちだけはずっと変わらなかった。
だけど――彼の隣にふさわしい女の子が現れたのだ。
ずっと不毛な片思いをしていたが、これがあきらめる良い機会かもしれない。
ずっとうつむいて歩いていたので、涙は頬を伝わずにそのまま地面に落ちていった。そのしずくが地面にじわりと広がった、その場所に――
赤黒いしぶきが散った。
(え?)
しぶきは地面だけではなく、リシアの頬も濡らしていた。上から落ちてきたそれは温かくて、(ちょうど、人の体温くらい)。
どきんと心臓がはねる。人の血? まさかこんな街中で?
「チッ、逃げるからこういうことになるんだ」
「う……ぁ……」
乱暴な足音と台詞が聞こえ、同時にだれかのうめき声が上がった。
どう考えても危険な状況、どころか、今まさに何らかの事件が起きている最中である。
(また、私は……っ)
リシアはまた自分の考え事に夢中になっていて、周りの音を聞いていなかったのだ。それにこの場所はどこだろう。きちんと前を見ていなかったせいで路地の奥に入ってしまっていたらしい。
ひとまず異変が起こっている場所を特定しなければ。声がしたのは上の方だ。恐る恐る視線を上げ――そして、男と目が合った。
二階建ての建物に設置された外階段の踊り場。その腰壁に身を乗り出すように寄りかかっているその男は血まみれで、そしてすがりつくような視線をリシアに向けた。
「た……す……」
「うるせえ」
鈍い音がして、男の体がずるりと腰壁の向こうへ消える。
リシアは悲鳴を喉の奥でかみ殺し、来た道を戻ろうとした。少なくとも少し前までは人通りのある道だったはずだ。そこまで戻って人を呼ばなければ――。
だが、身を翻した拍子に足が痛み、抱えていた本を落としそうになる。落としてしまったら、間違いなく音で気付かれてしまうだろう。今すぐ逃げ出したくて早鐘を打つ心臓をなだめながらリシアは本を抱え直した。
そして――。
「おいお前、ガキに見られてんじゃねえか」
「きゃっ……」
後ろから突き飛ばされ、リシアの体は簡単に地面に倒されてしまう。せっかく抱え直した本も、全て地面に散らばってしまった。
(下にも仲間が……)
「マジか! どうする?」
「どうするったって……ほっとくわけにはいかねえだろ」
二人の男はだれかに目撃されたときのことは想定していなかったようで、困ったように話を始めた。逃げるならこのタイミングしかないだろう。リシアは地面に擦ってじくじくと痛む頬を押さえながら、精霊へと呼びかけ始める。
「大気の精にこいねがう……」
「くそ、精霊術使いか!」
「っあ……っ!」
こういうとき、ある程度の声量を必要とする精霊術は非常に不利だった。
どうやら男は精霊術をよく知っていたらしい。即座にリシアの顔を蹴り、詠唱を強制的に止めた。
――私がアルのように、詠唱を省略してでも精霊術が使えたら。それか、シンシャさんのように小さな声でも使えたら。きっとなんとかなっていたのかも。
私は当主の娘なのに。何の役にも立てない、残念なリシアのままで終わってしまうのね。