106. 側仕えの見習い
王宮から忽然と姿を消し、何日も行方をくらましていたヨルダの帰還は、驚くほど粛々と受け入れられた。
偽名を名乗るステラも、軽く持ち物チェックをされただけですんなり入れた。――さすがにいつもの隠し武器は置いてきたが。
スムーズだったのは中継都市で宿を取ったこと、そして馬車を操る御者の上着にひっそりと刺繍されたユークレースの紋章の効果もあったのだろう。
そして同時に、王女であるヨルダが王子たちほど重要視されていないという証拠でもある、とヨルダは皮肉っぽく笑った。
そんなヨルダが帰還後真っ先に行ったのは、城にある玉座の間での国王謁見申込みだった。
広大な敷地を持つ王宮のなかでも、『城』は国王や高官が執務を行い、多くの儀式などが行われる重要な建物を指す。
ヨルダが国王との謁見に玉座の間を指定したのは、これが親子の会話などではなく、『国王』と『王女』の会談であるということを意味している。
ユークレースの影をちらつかせる王女が、国王に謁見を申し込んだという事実は王宮内をとんでもないレベルでざわつかせている。――はず、なのだが。
王宮内、しかもステラは注目の王女のそばにいるのに、そんなざわめきは不気味なくらいに届いてこなかった。
「これが王宮なの。物事はすべて水面下で進むわ。気持ち悪いでしょう?」
「あはは……」
ヨルダにそう言われ、ステラはなんと答えていいのか分からず、曖昧な笑みを返した。
確かにヨルダの言う通り、なんとも言えず気持ちが悪い。
誰もがこちらに興味ないように振る舞っているのに、その実、あちこちから痛いほど注目されている気配だけは感じる。
水面下で進む、争っている――これが王宮での日常なのだ。こんなところで暮らしたら、ステラならあっという間に胃に穴が開いてしまう。
やはり王子の妃は特殊な訓練を積んだ人でなければなれないに違いない。どう考えてもステラには務まらない。
「さて、通常なら会いたいと言ってすぐに謁見が叶うことなどないのだけど、今回はどうかしらね。……ひとまず私の部屋に行きましょう。あなたの身なりを整えないと」
「はい」
ステラは今回侍女、そのなかでも特に主人の近くで仕える側仕え(見習い)の役割をすることになっている。そのため、王女付きの侍女のお仕着せをまとわなくてはならない。
そのお仕着せはいわゆるメイド服で、なんだかコスプレのようで気が進まないが、それでもこの場所の薄気味悪い空気から逃れられるならばなんでもいい。
(なにか武器になりそうなものを仕込めるスペースがあるといいけど)
ヨルダの少し後ろをしずしずと歩きながら、ステラはいつもの隠し武器の重みがなくて頼りないワンピースの袖口をきゅっと握った。
***
「彼女にはしばらく側仕えとして付いてもらうから、よろしくねマール」
王宮のなか、ヨルダのために用意された一角の、そのなかでも特にプライベートな色合いが濃い寝室の入り口で、ステラは値踏みするような視線に耐えていた。
「この方を側仕えに? ヨルダ様の?」
本当にできるの? と言わんばかりの表情を隠しもせずに、マールと呼ばれた侍女はステラに厳しい目を向けたまま首を傾げた。つやつやとした栗色の髪が肩の少し上で揺れる。
ヨルダが頷いて、緊張で固まったステラの肩に「そうなの」と手を載せた。
「この子には貴族階級の行儀作法を覚えてもらうため、一時的に来てもらったのよ。そんなに長い期間ではないけれど、ここにいる間はなるべく私のそばで周囲の人達のマナーを観察して、覚えてもらおうと思っているの」
「ですが……」
マールはヨルダが言ったことに対して狼狽した表情を浮かべる。ステラは心のなかで「分かる」と頷いた。きっとヨルダも内心では同じだろう。
突然やってきた一般市民を王女の隣にくっつけておくなんて、どう考えても前代未聞なのだ。
「とりあえず、私の隣にいても大きな問題がない程度の姿勢や振る舞いを教えてもらえる? マール、あなたなら教育係として適任だと思うし、信頼して任せられるから」
「は……はい!」
中々の無茶振りのような気がするのだが、マールは「あなたなら」「信頼して」という単語に瞳を輝かせ、さらには頬を微かに上気させて勢いよく頷いた。
マールは頷いたその勢いのままバッとステラを見る。
「ええと、リンさんでしたよね」
「はい、リン・メルリノと申します。よろしくお願いいたします」
出発前にリシアとヨルダに教えてもらった付け焼き刃のカーテシーをして見せる。一応この部屋に入ったときにも同じ自己紹介をやっているのだが、その時は『何だこいつ』という目を向けられていたので、合格点には及んでいないのかもしれない。
だが、視線を上げてマールの表情を窺うと、彼女は真面目な顔でステラを見ていた。
「……先程も思いましたが、お手本のようなお辞儀ができるのですね。どこかで学ばれたことが?」
「基本的なお辞儀と姿勢は、ヨルダ様と友人から少しだけ教えていただきました」
どうやら合格ラインを超えていたらしい。ホッとしながらステラはそう言ってヨルダに視線を向けた。それを受けてヨルダはニコリと微笑む。
「リンは覚えがいいから教えるのにそれほど苦労はしないと思うわ。武術をやっているから勘がいいのね」
「まあ、武術ですか?」
マールは目を丸くして、期待のこもった視線をステラに向ける。
――かかった。
すかさずステラは笑顔を浮かべた。
「はい、多少心得がございます。お店で接客をしていると、たまにあまり歓迎できないお客様が来られることもありますので……。他のお客様のご迷惑にならないよう、大人しくお帰りいただくために必要なのです」
――という設定にして、それをマールに事前に話しておけば、ステラが四六時中ヨルダの横に控えていることに対し、彼女が不満を抱きにくい。さらには積極的に協力してくれるはず。
マールは私に対する忠誠心が強いから……と、ヨルダからこの小芝居を提案されたときには、そんなものが通用するのだろうかと思ったが――。
「それは素晴らしいですね! ヨルダ様の身の安全をお守りする人間は、何人いても多すぎるということはありませんから」
マールはぱっと眉を開き、嬉しそうに顔を輝かせた。どうやらヨルダの読みは大当たりだったらしい。
「では、基本的な立ち居振る舞いは必要があれば指摘することにして、まずは側仕えとして必要となる業務や知識についてお教えしますね」
「よろしくお願いいたします」
「まずは業務についてですが――」
『自分の髪を結ぶのもままならない不器用な侍女なんて無理がある』――そんなシルバーの言葉に不安を抱いていたのだが、蓋を開けてみれば主人の身なりを整えるのは主に専門の侍女の役割だった。
マールの説明によれば、側仕えと呼ばれる者は執務管理や公務のサポートを主な業務としているらしい。それでヨルダはステラを『側仕えの見習い』として潜り込ませたのだ。
「短期間ということですし、お任せするのは主に書類の整理や荷物運び程度になりますね。後は、ヨルダ様から指示があった場合にそれに従ってください」
「はい」
いくら見習いという名目で入り込むとはいえ、大事な場面で失敗してヨルダに不利益が発生しては大変だ。つまるところ、ステラは実質小間使いということになる。
手先の器用さも、高度な知識も求められない。
ステラはこっそり安堵の息を吐いた。もしもマールから「まず城を出入りする全員の顔と名前と役職を覚えてください」などと言われたらどうしようかと戦々恐々としていたのだ。
だが、その安堵はたった数秒後のマールの笑顔とともに崩れ去った。
「では、まずは城内で会うことの多い高官の方々の顔と名前と役職を覚えてくださいね」
「……はい」




