第90話:新しい日々が始まっても変わらないものはある
そして、春になった。俺は今日から大学生だ。
一ノ瀬は……やはり駄目だった。そもそも後期日程は募集人数も少ない。
厳しい戦いになることはわかっていたのだろう。
残酷な現実を前にしても彼女は泣かなかった。
むしろ当たり前のように「来年こそ合格する!」と意気込んだ。
本当に強いと思う。
結局、彼女は春休みも休まずに勉強を続けていた。
俺としては少しぐらいは休んで欲しかったところだ。頑張り続けることは辛い。
でも、「予備校の授業が始まる前に下地を作りたい」と言って聞かなかった。
だからデートには誘わない。俺は彼女のやる気を尊重することにした。
その代わり、都合がつく限り予備校で少しの時間を一緒に過ごす。
ただ黙って見守ることしか出来ないのが歯がゆい。
でも、俺は一ノ瀬に寄り添うと決めた。
今後もこうやって付き合っていくつもりだ。
大学の入学式が終わるとすぐにオリエンテーションが始まる。
学生証が配れて、自己紹介をし、授業や単位など色々と説明を受けた。
が……すでに知っているのであまりちゃんと聞いていない。
そんなことよりも古臭い教室が懐かしくてうれしくなる。
この部屋に集められた人は全員、顔も名前も憶えていた。
中学生の頃とは偉い違いである。
休み時間になると、さっそく隣の席の友人から声をかけられた。
「えーっと、高木君だっけ?」
「ああ、そうだよ神戸さん」
声をかけてきたの、金髪の長髪で目つきの悪い男だ。
「俺の名前をちゃんと言えるとは凄いな」
彼は少し嬉しそうにそう言った。
確かに、誰がどう見ても神戸だもんな。
フルネームは神戸 聡。
風体はものすごく悪いのだが、彼には素晴らしい愛嬌があった。
身長がとても低いのだ。身体検査で学内では下から3番目である。
なお、比べる対象の生徒には女子も含まれていた。
「神戸君ってさ……どっちかって言うと林君って感じだよね」
まるで意味の解らない台詞を言ったのは後ろ隣の杉本 麗子。
茶髪でセミロング、おそらくパーマをかけているのだろう。
大人びた雰囲気だ。鼻が高くて、ハーフのような印象を受ける美女である。
このクラスに女子は3人しかいないから、否が応でも目立つ。
「いや、たしかにな! お前は林っぽいよ!」
すぐ後ろの席の武村 康平がその言葉に乗った。
彼は黒髪だが、ハードジェルで頭をツンツンに仕上げている。
顔立ちは柔和だけど、どこか尖っているように感じた。
「意味が解らん。大体、林君はあっちにいるだろ」
神戸さんが指を指した先には長身で天然パーマなイケメンがいた。
「いやー、アレは林君じゃない。どっちかって言うとレオって感じ」
それ、外人じゃないか。
俺達の所属する情報工学科は頭文字をとってJ科、と略されている。
なぜ、日本語のまま頭文字を取っているのかは謎だ。
電子工学科はちゃんとE科なのに……。
それはともかく、我らがJ科は2クラスに別けられていた。
そのうちJ1クラスとJ2クラスがあり、俺はJ2クラスだ。
……別にJ1クラスが優れているわけではない。
単純に出席番号順で分けられているだけだ。
どうもア行の苗字が多いようで、J1クラスの一番後ろは佐々木君だった。
1クラスは概ね50人、女子は本気で希少である。
「じゃあさー、神戸はエセ林ってことだな!」
「ああ、それしっくりくるね! 林君の偽物」
傍で聞いていて笑いしか起こってこない。
「いや、おかしいだろ! そもそも俺は林じゃない!」
神戸さんの主張は誰よりも正しいが、誰も聞いていなかった。
「でも偽林もエセ林もちょっと呼びにくいよね」
「確かに……、しっくりこないな」
会話は神戸さんを置き去りにして、どんどん進んでいく。
「いや、だから普通に神戸でいいだろ」
俺はその主張を聞きながらも、話を先に進めることにした。
「昔さー、バッタもんのTシャツとか流行ったよな」
「あー、あったあった! azidesとかNAIKIとかあったよね!」
そして話はどこまでも逸れていく。なんだか楽しいなあ。
「じゃあ、神戸さんのあだ名はろっちにしよう!」
これは俺の完全な悪ノリだった。今思えば失礼極まりない。
「どういうこと!?」
神戸さんの反応はもはや、悲鳴に近かった。
「ほら、昔さチョコレートであったじゃん?」
「あー、いいね! しかもなんか可愛いくて似合ってる!」
「決まりだな、神戸は今から偽林あらため、ろっちだ」
本人の意思確認は一切なかった。
うーん、皆、本当に若いなあ……。
もう何だかずっとニヤニヤしてしまうよ。
特に神戸さんは過去の世界で最後まで仲良くしてくれた数少ない友人だ。
他にも大人になってから毎年開かれる忘年会で顔を合わせる連中も健在だった。
正直に言って……もう一度逢えて、本当に嬉しい。
過去の世界で、大学生活は本当に楽しいだけだったんだ。
この場所に居れることは本当に幸せだった。
「ところで高木はサークルどうするか決めた?」
「うーん、迷っているところだよ」
なお、俺は大学の友人にもあだ名や名前で呼ばれたことが無い。
せいぜい、「高木っち」ぐらいかな。高木って呼びやすいみたいだ。
「俺はサークルには入らないが、一通りの新歓コンパには参加するつもりだ」
格好良く言ったのは神戸さんだ。
「どういうことだ、ろっち?」
神速で定着したな、そのあだ名。
「安くお酒が飲めるんだぞ! こんなに良いことはないじゃないか!」
なお、神戸さんはかなりの酒豪だ。高校生時代から普通に飲んでいたらしい。
大事なことだが、未成年は飲酒禁止だから真似しちゃいけない。
……とはいえ、過去の世界の俺は彼に乗っかった。
一緒になって色んなサークルの新歓コンパに参加するのは楽しかったな。
そして浴びるように酒を飲んだのは内緒である。
大学1年生って大概は未成年だけど、もう普通にお酒飲んで良い印象あるよね。
「なるほど、いいな! 麗子はどうする? 女子はたぶん無料だぞ」
「いいかもね、乗った! 高木君は?」
ふたりとも目をキラキラさせている。うん、いいね、大学生っぽい。
「あー、ごめん、俺は行くところがあって……」
本音を言うと、行きたい。このメンバーで飲みに行くとか凄く楽しそうだ。
サークルの新歓コンパのノリは今だとちょっと辛そうだけど。
今でこそ、結構厳しくなったが、この頃は一気飲みなんかも良くやっていた。
俺も悪ノリしてコールしたことがある。これについては、本気で若気の至りだ。
今は反省している。おそらく見かけたら止める側になるだろう。
なお、未成年の飲酒そのものに罰はないが、飲ませた方には刑事罰がある。
お酒を飲むのは構わないと思うが、他人に勧めるのは良くないことだ。
もちろん、酔って多くの人に迷惑をかける行為は以ての外である。
よく「この時期に飲み方を覚えた方が良い」という言葉を聞く。
俺も反論はしないが、それには自分のペースで飲むことが大事だと思う。
「ノリ悪いなー! いいじゃん、せっかくなんだし!」
「そうそう、今しかないぞ、こんな機会」
誘ってくれるのはとてもありがたい。
たまたま席が近かっただけで、よくここまで仲良くなれるものだ。
「まあまあ、康平も麗子もその辺にしときなよ。高木君にも都合があるのさ」
「大人だね、ろっち」
正直、彼のことは神戸さんと呼ぶ方がしっくり来る。
だけど、名付けた俺がこのあだ名を使わないのもおかしいだろう。
「俺は君たちより、歳がひとつ上だからな。敬いなさい」
「いや、普通に浪人してるだけだろ。偉そうにするなよな」
康平は神戸さんに厳しかった。まあ、年上でも同じ学年には変わりない。
「全く、これだから最近の若いヤツは……」
ひとつしか歳が変わらないだけで精神年齢はそこまで変わらないだろう。
これは彼なりの冗談だ。
俺達には現役と浪人の間で差別するような空気は一切なかった。
皆、同じ学年の仲間、という感じだ。
中にはもっと歳の離れた人もいる。別の大学を卒業して入り直したらしい。
大学は高校以前と違って多様性がある。
集められた人間も無作為ではなく、趣向が似通った人間だ。
だから、気の合う友人と好きなだけつるむことが出来た。
「まあ、そういうわけだから、今日はお暇するよ。今度また飲みに行こう!」
「分かった、じゃあ、また今度な!」
3人に別れを告げて、教室の外にでる。
大通りに出ると新入生の勧誘を目論む上級生で溢れかえっていた。
サークルの名前が書かれたボードを掲げて、通りを歩く学生に声をかけている。
中には仮装している人もいて、まるで文化祭のようだった。
当然のように俺も声をかけられるまくる。いちいち断るのが面倒だ。
ふと、過去の世界で所属したテニスサークルの看板が目に入る。
懐かしい顔ぶれの先輩達が必死で勧誘をしていた。
インカレで女子も多いサークルだったのに、彼女のひとりも出来なかったな。
……これはちょっと思い出したくない過去かもしれない。
喧騒溢れる学内を抜けたら、1度、自宅に寄って荷物を整理した。
何だか、不思議だな。過去の俺は今頃、お祭り騒ぎをしていたはずだ。
でも、これで良い。俺は一ノ瀬が勉強している間に遊びたくなかった。
もちろん、彼女はそんな俺を嫌がるだろう。
きっと「私のことは良いから楽しんでおいでよ」と言う。
それでも俺は、彼女の心に寄り添っていたかった――。
「橋元 理絵でーす。よろしくね!」
「あ、ああ……、高木です。よろしく」
予備校に行った俺を待っていたのは、一ノ瀬の友人との邂逅だった。
緩くウェーブがかかった少し明るい色の長い髪が色っぽい。
中央で分けられているから、少し額が広く見えた。
パーマでは無く、くせっ毛なのかな。でも良く似合っている。
全体的に小さな顔、鼻が低くて、日本人らしい顔つきだ。
でも、目がとても大きいので可愛く見える。
そして、何より雰囲気が一ノ瀬に良く似ていた。
何故、普通に話しているだけなのに右手に触ってくるのだ。
そういうの、大抵の男子は勘違いするからやめて下さい。
「高木くん、この子ね、凄い馬鹿なの」
「梨香!? 酷くない、それ! そんなことない、普通だよー!」
一ノ瀬は珍しく辛辣な言葉で友人を紹介してくれた。
俺は過去の世界でも彼女と1度、会っている。
その時はファミレスで会話する2人のために、子供の面倒を買って出たのだ。
もちろん、目の前にいる橋元さんのお子さんである。
あれは凄く大変だった……。思い出してもぞっとする。
大学に通うようになっても彼女とだけは連絡を取っていると言っていた。
似たもの同士、波長があうのだろうか。
「普通、模試に筆箱を忘れてくるかな?」
「いやー、あの時は助かったよ、ありがとうー」
一ノ瀬はジト目だったけど、楽しそうだ。
こんな友達がいるのなら少しは気を休められるだろう。
俺はそう考えて少しほっとした。
「で、高木くんは梨香の彼氏さん?」
「あー、えっと……」
一ノ瀬はそこで言葉に詰まった。
俺としては「彼氏」と言い切って欲しい。
でも冷やかされるのが嫌なのだろう。アイツは逡巡しているようだった。
……仕方ないな、少し助けてやろう。
「高校時代からの友達だよ。俺は仮面浪人しているんだ」
半分は嘘である。予備校に通うもっともらしい理由をとってつけた。
「ふーん……、友達かあー」
そう言って、橋元さんはじっくりと俺の顔を覗き込む。
そして、何故か両腕を掴まれた。
うん、近いからもう少し離れて欲しいな。
「ふふふ、よろしくー!」
「よろしくね、橋元さん」
俺はそう答えつつ、さりげなく1歩下がって彼女の両手を振り払った。
「えー、なんか冷たい! 理絵でいいよー」
「……よろしく、理絵さん」
本当に……、一ノ瀬によく似ている。
苦手だな、こういうところ。
「じゃあ、梨香、また明日ね!」
「あー、うん、またね」
理絵さんは元気に挨拶をした後、すぐに別の男性の元へ走っていった。
「今日はもういいのか?」
「うん、模試終わったし、自己採点は帰ってからするよ」
ふたりきりになって、少しほっとする。
予備校を出て、一ノ瀬を家の近くまで送ることにした。
短くてもふたりで居られる時間が愛おしい。
このためなら大学近くの自宅と予備校を往復するのも苦にならなかった。
「友達出来て良かったな」
「うーん、ちょっと心配な人だけどね」
そう言う割には嬉しそうな顔をしていた。
「人当たり良くて、可愛い子じゃないか」
「んー? もしかして、高木くん、ああいう子が好みなの?」
不満そうな顔だ。……一ノ瀬に似ているとか言ったら殴られそうだな。
「むしろ、ちょっと苦手だ。俺も人見知りだからな」
「ふふ、そうなんだ。あの子、誰とでもすぐに仲良くなるんだよね」
つくづく似ていると思う。
ただ、一ノ瀬は元来、人見知りだ。
自ら友達をどんどん作る、というタイプではない。
どちらかというと、理絵さんの方が凶悪だな。
「あー、何かごめんね、彼氏って言わなくて」
「いや、いいよ。恥ずかしかったんだろ?」
大した問題じゃない。友達でも彼氏でも、俺は一ノ瀬の傍にいる。
色々と聞かれるのが嫌だったのだろう。
特に理絵さんは進捗や馴れ初めなんかを根掘り葉掘り聞いてきそうだ。
「……高木くんで良かった」
一ノ瀬はぼそりと呟いた。
「ん? 何がだ?」
「えへへー、内緒!」
そう言って、俺の腕をからめとる。
春の風の匂いに、一ノ瀬の甘くて優しい香りが混ざった。
まだ夜は少し肌寒い。右腕の温もりはとても暖かく感じた。
「これ、凄く嬉しいよ」
「ふーん、良かったねえ、高木くん」
一ノ瀬と一緒に居る時間は、いつも嬉しいことばかりだ。
彼女は俺ばかりが損をしている、そう言うけれど。
むしろ、俺だけが得をしているような気がする。
「なあ、一ノ瀬。いつもありがとうな」
「えっ!? 何で?」
そんな変な顔をしないで欲しいな。
「一緒に居る時間をくれて、さ。なんて伝えたらいいか、わからないんだ。
その……予備校、来させてくれて助かったよ」
「……私もなんて伝えればいいのかわかんないや。
来て欲しくないけど、来てくれて嬉しい」
難しいな、言葉でも態度でも、伝えられない。
「私……、頑張って早く高木くんに追いつくから!」
「俺はお前が思うほど、前に居ないから安心しろ」
でも、そう思ってくれるのなら、俺もちゃんとしていないとな。
「無理だけはするなよ? 辛かったら、いつでも休んでいいんだぞ」
「うん……」
右腕はさらに強く抱きしめられた。
一ノ瀬の身体はとても柔らかい。
感触が心地よくて、ずっとこうして居たいと思ってしまった。
「じゃあ、またね」
「ああ、またな!」
それでも別れの時はやってくる。
一ノ瀬の自宅近くで手を振って別れた後。
俺はポケットに手を突っ込んで、駅へと向かう。
右腕に残った彼女の温もりが、たまらなく愛しく感じる。
春になり、俺達を取り巻く環境は大きく変わった。
不安も寂しさもある。
でもいいんだ。俺たちはまた会えるのだから。