第88話:携帯電話と野獣のような女の子
俺は一ノ瀬と昼ご飯を食べた後、自宅に戻って母と一緒に出掛けた。
契約書にサインして、品物を受け取る。名義は父や母ではなく俺だ。
本来ならもう少し後になって手に入れるはずだった携帯電話。
不思議と、番号は過去の世界と同じだった。
「通話料は自分で出したい」
「そう……、でも無理しないでいいわよ?」
母にはそう告げた。
大学に行ったらひとり暮らしをする。
固定電話は引かない予定だ。だから、この電話が一ノ瀬との繋がりになる。
気兼ねなく使いたいから、自分が稼いだお金で払いたかった。
アルバイトをして、大学に通いながら一ノ瀬のいる予備校にも通う。
忙しそうだけど何とかなるだろう。
今回はサークルには入らない。友達は限られた人数で良いんだ。
俺が欲しいものは、そんなに多くない。
だから、そのひとつひとつを大切にしたかった。
俺は母と別れて、再び予備校に向かう。
今日はなかなか忙しい1日になってしまったな。
一ノ瀬はもう授業も無い。おそらくテスト形式で過去問と対峙しているだろう。
俺は彼女の邪魔をしたくないから、自習室のいつもの席で待った。
ここに居れば、彼女はすぐに気が付いてくれるだろう。
もう勉強をする必要はない。けれど別に退屈を持て余すということも無かった。
元来、俺は紙とペンがあれば時間などいくらでも潰せる男だ。
色々と物語を浮かべてはあらすじを紙に書く。我ながら汚い字だ。
登場人物の名前や年齢、設定を考えるのが特に好きだった。
名前の下にロールプレイングゲームのステータスのような特徴を書き込む。
ストーリーはいつも後付けの適当だ。
まずキャラクターを作って、次に動いて欲しい舞台を作る。
あとは勝手にやってくれるのを待つだけだ。
一ノ瀬が好きな話はハッピーエンド、だから俺はそうなるように話を作る。
舞台設定は複雑なのに最後は分かりやすく王道だ。
このアンバランスな結末が俺は結構気に入っている。
「何してるの?」
妄想に浸っていると、大好きな声が聞こえた。
他の人の迷惑にならないためとはいえ、耳元で囁くのはやめて欲しい。
ゾクゾクしてしまうだろ。
声に応えて静かに自習室を後にした。
扉の外に出たら、俺たちはいつものよう会話を始める。
「新しい話を考えていたんだよ」
「おおー! じゃあ今度聞かせて!」
なんだかとても嬉しそうにしている。この顔を想像して考えるから楽しいんだ。
「ちゃんと出来たら聞いてくれ。ところで、今日はもういいのか?」
「うん、今は体調を整えるのが大事だからね。あんまり遅くならないようにした」
おお、偉いぞ。それが一番大事だからな。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
「うん!」
なんだか、普通の会話がとても嬉しく感じる。
「一ノ瀬、コレ、買ってもらったんだ!」
そう言って俺は携帯電話を見せる。
「おー! 凄い、PHSじゃなくて携帯電話!? いいなあ!」
「お前の番号しか入ってないけどな……」
表示される電話帳はとても寂しい。
「友達、少ないんだね……」
「いや携帯持っている人が少ないだけだから!」
これは事実である。
今でこそ当たり前に普及しているが、この頃はまだ少なかった。
でも、テニス部の女子とかクラスメイトとか、何人かは持ってたな。
……友達は本当に少ないかもしれない。
「私もPHSから乗り換えようかな、同じ会社にすればメール送れるし」
「お、それは嬉しいな! でも俺からは送れるぞ?」
公衆電話や家の固定電話でやっていることを携帯電話でやれば良いだけである。
この頃、まだ電子メールは使えなかった。
代わりにショートメッセージは送れる。
だがキャリアが同じである必要があった。
当然、俺の携帯と一ノ瀬のPHSでは端末間でメッセージのやり取りは出来ない。
「でも、番号変わるのがちょっと面倒臭いんだよね」
「それは確かにな……」
この頃はPHSから携帯への過渡期だったので番号が変わることが多かった。
受信メッセージの中で一番多いのが「番号変わりました」だ。
電子メールが使えるようになった後は「メアド変えました」だな。
そういえば初期設定のままだと迷惑メールが頻繁に飛んできたっけ。
今となれば懐かしい。当時の迷惑メールは広告の類がメインだった。
今は危険なものも多いから、まだ平和だったと言える。
まあ、そもそもオンライン決算とか無かったしな……。
「これからはいつでも電話出来るぞ」
「そうだねー、まあ、私からはかけないけど」
一ノ瀬は相変わらずだった。
「なんでそんな寂しい事を言うんだよ……」
「ふふふ、だってどうせ高木くんから掛かってくるし」
意地悪そうに笑う。本当に悪いヤツだ。
「でも、もしも話したい時は1コールしてくれればかけ直すよ」
「えー、何で?」
意味がわからないと言った顔だ。
「通話料、俺が払うから」
「ああ、そういう事か。気にしなくていいのに……」
一ノ瀬のPHSの料金は両親が払っている。
だから、あまり自由に使えないと言っていたのを思い出す。
「アルバイトするから大丈夫だよ」
「ひとり暮らしでアルバイトか……いいなあ」
しまった。自慢するような形になってしまったか。
「ごめん、一ノ瀬。俺、調子に乗ってたかも……」
「もう! そういうの止めて。気にしてないから!」
一ノ瀬は優しくそう言ってくれた。
「私もすぐに追いつくもん!」
「ああ、お前なら大丈夫だ」
やはり、彼女はとても強い。
「それにしても、明日で制服着るのも最後かー」
「そう考えると寂しいよな」
一ノ瀬は空を見上げてぼそりと言った。
少しずつ日が長くなっているとは言え、まだ夜は長い。
一ノ瀬の寂しそうな横顔を街灯が照らす。
たまらなく切ない気持ちなった。
学生で居られる時間なんて、長い人生において半分もない。
それなのに、色んな事があったと思う。
過去の世界の俺は本当に駄目だったな。
寂しいのは自分だけだと思っていた。
「なあ、また家の近くまで送っても良いか?」
「またー? 昨日も送ってくれたじゃん」
送るというのはもはや口実だ。俺はただ一緒に居たいだけだった。
「一ノ瀬が嫌なら、駅で帰るよ」
「ううん、いいよ。なら、ちょっと公園で話そっか」
その言葉が心から嬉しい。一緒に居られる時間がまた増えた。
せっかく早めに勉強を切り上げたのに、俺と話すのは時間が勿体無いだろ。
そう思うけれど、流石にそんな台詞は言えない。
だから俺たちは他愛のない話をしながら、いつものようにふたりで歩いた。
このありふれたような時間が、何よりも愛しいのはずっと変わってない。
ただ、この日々がこれからも続いてくれること、それだけが俺の願いだ。
「何見てるの……?」
「いや、制服姿を目に焼き付けておこうと」
公園に着いた後、俺はベンチには座らずにじっと一ノ瀬を見ていた。
「うわっ! マジで気持ち悪い……。見ないでよ、変態!」
――ドスン!
久しぶりにボディーブローが炸裂した。
「痛い……」
「高木くんが悪い!」
まあ、それは認めよう。
「……それにしても、私の高校生活の思い出は高木くんばっかりだなあ」
「嫌なのか?」
ちょっとドキドキする。
「嫌なわけないじゃん。そういえばさ、何で初めて会った時、泣いたの?」
「あー、あれかあ。なんでだろうな……」
過去の記憶、このことは誰にも言うつもりはない。たとえ一ノ瀬にもだ。
もちろん、馬鹿にされるだけだろう、というのもある。
こんな魔法みたいなことがあっていいわけがない。
でも、俺はそれを利用して生きている。これはズルいのだ。
だから、話す気にはなれなかった。
「もう! 誤魔化さないでよ」
「んー……、俺も良くわからないんだよ。前世の記憶かな?」
一ノ瀬が前世の事を信じているのは知っていた。
3回に1回は俺と付き合っても良い、そんな事を言っていたっけ。
今回はその3分の1なのかな。
あながち、前世の記憶という設定も嘘では無く事実なのかも知れない。
こんなパラレルワールドが存在するなら、魂の数が増えても輪廻は出来る。
「だとしたら、私、前世で高木くんを泣かせるような事しちゃったのかな……?」
何でそんな寂しそうな顔をするんだ。
「わからないけど、そんなことはないと思うよ。
だって、あの時は嬉しくて泣いたんだから。
きっと俺はずっとお前に会いたかったんだよ」
「ふーん、そっか。ならいいや。でも……もう、泣かないでよ?」
優しい声が心地よかった。目の前に彼女が居ることに心から感謝する。
ずっと、会いたかったんだ。つい、その気持ちを思い出してしまう。
人生最悪の日があって、それでも、辛くても一緒に居ようとした。
でも結局駄目で……。決別して、一ノ瀬は居なくなったんだ。
それなのに、俺はずっと忘れることが出来なくて、会いたいと願った。
「ごめん、その優しさで泣きそうだ」
「ばーか!」
そう言って一ノ瀬は立ち上がって俺を抱きしめる。
「一ノ瀬はいつも良い匂いがするな」
「変態!」
口が悪い、野獣のような女の子だ。
俺はそっと一ノ瀬の髪を撫でた。
手触りが心地よい。そして、とても暖かかった。
「ん……」
触れられることを受け入れてくれる。そのことがたまらなく嬉しい。
思わず、彼女を強く求めてしまう。
「目を瞑って」
「えー、嫌だよ、エッチな事考えてるでしょ?」
それはその通りだ。左手を頬に沿えて髪をかき上げる。
「もう、駄目って言って……んっ……!」
問答無用でキスをした。優しく触れるだけのキスだ。
これ以上は、今は出来ない。きっと拒絶されるだろう。
俺の背中に回された華奢な腕が優しく身体を引き寄せる。
唇が離れた後は、しばらく黙って抱き合っていた。
「高木くんって……ときどき凄く強引だよね」
「ごめんな、我慢出来なかった」
一ノ瀬の勉強の邪魔はしたくない。そう思っていたのに……。
「いいよ、高木くんなら。……えへへ、私、割と幸せかも知れない」
「そう思ってくれるなら、俺も幸せだよ」
夏の夜と違って、肌寒い夜だった。だけど、ふたりで居れば温かい。
この温もりが、ずっと続いて欲しいんだ。
俺はただ、それだけを願っている。