第87話:わだかまりを解消する
合格発表の後、俺は一ノ瀬を家まで送ってから家路についた。
自宅に到着した俺を待っていたのは第1志望の合格通知だ。
「おめでとう、貴文! 何かお祝いに欲しいものある?」
母にそう言われた俺は、真っ先にある物を願った。
本来なら大学入学時に手にしたものだ。
だけど俺はどうしても、今すぐに欲しかった。
「うん、分かった。じゃあ、明日一緒に買いに行こうね。
お父さんにも連絡しておくから」
俺の申し出に、母はなんとも優しい声で答えてくれる。
ああ、こんなことならもっと早く欲しいと言えば良かったかな……。
翌日、俺は久しぶりに学校へ顔をだす。
学校は2月に入るとセンター試験の自己採点日以外は自由当校になっていた。
制服に袖を通すのは久しぶりだ。
「高木くーん!」
「お疲れ様」
一ノ瀬が手を振ってこっちに走ってくる。転ばないか少し心配だ。
この日は卒業式のリハーサル日だった。
体育館で行ったのは、着席と起立、そして礼のタイミング合わせ。
正直、一般生徒にはあまり有意義な時間とは言えないだろう。
中森の答辞も読まれることは無く、段取りの確認だけで終わった。
この日は過去に、一ノ瀬と徹底的な決別を迎えた日だ。
あの時はストーカー紛いに付きまとって何とか話をしてもらったっけ。
……普通に隣に居る今とは、えらい違いである。
「なんだか、進路も決まってないのに卒業式って不思議だね」
「そうだよな、どうも手放しに喜べないよ」
俺が合格したことは昨日の夜、すでに電話で告げていた。
どうしても、一ノ瀬の心境を想うと胸が痛む。
他にも似合たような状況の人もいるだろう。
そんな人たちの前で、嬉しそうに振舞うことに罪悪感を感じる。
「もう! そういうの気にしないでって散々言ったでしょ?」
「ああ、ごめん、悪かったよ」
むくれている顔も可愛い。でも、これは結構本気で怒っているな。
「今日はこれからどうするんだ?」
「うん、予備校に行って勉強するよ。まだ後期試験あるし」
そう言った一ノ瀬の表情はやはり良い顔ではなかった。
彼女自身、届かないことは解っているのだろう。
それでも最後まで諦めずに頑張ろうとしていた。
その強さは心から尊敬できる。だけど、俺は心配だった。
「お前は本当に偉いな」
「そんなことないよ、自分のことだしさ……」
俯いた表情が切なかった。早く解放してあげたいけれど、俺には何も出来ない。
「じゃあ、俺も予備校行くよ。そしたらお昼は一緒に食べられるだろ?」
「うん、いいけど……、無理に私に付き合わなくていいんだよ?」
一ノ瀬の言う通り、俺が予備校に行く必要はない。
もう勉強をしなくても良いのだ。行ってもやることが無い。
それでも、このまま疎遠になっていくのは嫌だった。
これは完全に俺の我儘だ。
下手をすると俺は彼女の邪魔をしてしまうだけかもしれない。
「その……、少しでも一緒に居たいんだ。それじゃ駄目か?」
俺の言葉を聞いた一ノ瀬はほんの少しだけ、困った顔をした。
何かを考えている、そんな表情だ。
気持ちを伝え合ったはずなのに、この時間は怖かった。
拒絶されたら、俺はきっと踏み込めない。
「もう、……しょうがないなあ」
そう言って、一ノ瀬はいつもの笑顔をくれた。心底ほっとする。
「良かった……。断れたらどうしようかと思ったよ」
「うーん、本当は断らなきゃ駄目なんだろうけど……」
やはり、一ノ瀬は俺の提案に乗り気ではなさそうだ。
「高木くんがそうしたいって言うのなら、良いよ」
「ありがとな、一ノ瀬!」
申し訳なさそうに笑う彼女に、俺は精一杯の気持ちを込めてお礼を言う。
でも、この問題はちゃんと解決しておくべきだと思った。
何故なら俺と一ノ瀬はこれから、別々の道を歩くことになる。
俺は多少の犠牲を払ってでも彼女と居たいと思う。
それを、一ノ瀬はどこまで許容してくれるのだろうか?
はっきりとさせておきたかった。
そのために俺は彼女の心に踏み込まなければいけない。
きっと一ノ瀬はこんな話、好きじゃないだろう。
それでも、このままじゃいけないと思ったんだ――。
「ごめん、一ノ瀬。どうしても話したいことがあるんだ」
「何? 急にあらたまって……」
俺は昼飯を食べ終わった後、そう切り出した。
ここは何の変哲もないファーストフード店だ。店内は喧騒にあふれている。
正直言って、シリアスな話をするような場所じゃない。
笑い声に、「マジで!?」、「うける!」そんな言葉が飛び交っていた。
「明日からもさ、こうして予備校に来ても良いか?」
「えー! 来なくていいよ。高木くんだって他にやりたいことあるでしょ?」
案の定、一ノ瀬は困った顔をする。
俺は今まで、その理由をちゃんと理解できていなかった。
単純に俺と会いたくないのだとばかり思っていたのだが……。
きっとそれは違う。俺たちはどこかですれ違っている。
そんな気がしてならなかった。
俺は、なんとかこのわだかまりを解消したい。
こんな時の解決方法はひとつしか思いつかなかった。
だから、ありのままの気持ちを伝える。
「俺さ、本当は大学には行かずに、お前と一緒に浪人したいと思ってる」
「な、何言っているの!? そんなことしたら、私、別れるよ!」
一ノ瀬は大慌てで、叫ぶように言った。
「何でだよ、一緒に居たくないのか……?」
流石に「別れる」の言葉は痛い。胸の奥に突き刺さる。
「嫌だよ……、私。そういうの。重たい……」
一ノ瀬は泣きそうな顔でそう言った。
そう、なんだよな……。俺の気持ちは重たい。
一ノ瀬が受け止め切れないのは良くわかる。
でも、一緒に居ないと駄目なんだ。俺はこの先に何が起こるのかを知っている。
悠人……、一ノ瀬は彼に出会うのだ。
男性の恋愛は「名前つけて保存」だと言われている。
対して、女性の場合は「上書き保存」だそうだ。
正直言って、俺はそんなものを真に受けてはいない。
それは性差の問題ではなく人によるものだと思う。
恋愛観は人それぞれだ。俺はそのどちらも否定はしない。
そして、他の形もあるだろう。決まった形なんて無い。
ただ、一ノ瀬については間違いなく「上書き保存」だ。
それはこれまでの経験から解っている。
つまり俺と過ごした時間は、より強力な思い出が出来れば上書きされてしまう。
そうなった時、俺は彼女が去っていく事を止められない。
俺はそういう愛し方をしている。彼女が望むのなら、離れるしかない。
やはり、大学に合格すべきでは無かったのかもしれないな。
友人に会いたいと願ってしまったのがいけなかった。
これじゃ俺はまた、肝心な時に傍に居られないではないか。
でも……これ以上は踏み込めないよな。
「高木くん……?」
「ごめん、我儘を言い過ぎた」
これは仕方のないことだ。俺と一ノ瀬では愛情の量に差がありすぎる。
やっぱり、まだ片想いみたいだ。
彼女はまた、居なくなってしまうかな……。
俺はなす術もなくそれを見守ることしか出来ない。
そんな未来が頭を過った。上手くいかなくて、悲しくなる。
「違うよ、我儘なのは私の方だよ! だって……いつも高木くんが損してる」
「一ノ瀬……?」
予想外の答えに少し驚いた。俺は少しも損などしていない。
「本当はね、私。高木くんが大学落ちたら別れなきゃいけないと思ってたんだ」
「な、何だと……!?」
今、まさにそうであれば良かったと思っていたところだった。
「足を引っ張りたくないの! 私、高木くんとは対等で居たいから」
一ノ瀬は俺の目を真っすぐに見て、そう言った。
そうだったな……。お前は負けず嫌いなんだ。
俺に心配されるだけの女の子だなんて、嫌だろう。
そんな扱いをしたつもりはない。けど、確かにこのままではその通りだ。
俺はどこかでお前の為に「何かを犠牲にしている」と思った。
それは、対等じゃないよな。俺はいつのまにか奢っていた。
傍に居て欲しいのは、俺なんだ。
「私が居なければ、高木くんは大学に行けたのに……。
そんな風に思ったら、もう一緒には居られないよ。
高木くんの人生を狂わせるようなら、私には彼女の資格はないと思う」
たとえ、そうなっても俺は一向にかまわない。
けれどそれは自分勝手な都合だ。それじゃ一ノ瀬が救われないんだな。
「分かったよ、ちゃんと大学に行く」
「うん、そうして!」
そう答えると、一ノ瀬はやっと笑ってくれた。
「でも……お願いがあるんだ」
「何? 私に出来ることなら聞いてあげるよ?」
彼女は優しい表情でそう答える。
でも、違うんだ。俺は何かをして欲しいわけじゃない。
ただ俺の気持ちを受け止めて欲しいだけだ。
「大学に行っても、お前には会いたいから予備校に来させてくれ」
「えっ!? どういうこと?」
一ノ瀬は俺の言葉の意味が解らなかったらしい。
「大学の授業が終わった後、それから授業が無い日。
そんな時はさ、今まで通りお前に会いに来たいんだ。
勉強を邪魔したくないから、デートは無理のない範囲でいいよ」
「いや、そんなの悪いよ! 普通に友達と遊べば良いじゃん!」
彼女は悪いよ、と言った。嫌だといったわけではない。
「一ノ瀬、俺さ、お前と居て損したなんて思ったことなんて1度もないよ」
「高木くん……?」
これは、徹頭徹尾、俺の我儘なんだ。
「俺は友達と遊ぶよりは少しでもお前と一緒に居たいんだ!」
「……うわー。その発言、ちょっと引く」
しまった、言い過ぎたかもしれない……。
「ごめん、でも、本当に会いたくて……。許してほしい」
「ふふふ……、馬鹿な高木くん」
笑いながら意地悪そうな顔をする一ノ瀬。ああ、本当に勝てないな。
「うん、わかった……。それに来てくれるのは、私も嬉しいかな」
「本当か!?」
一ノ瀬がそう言ってくれるのなら、俺はいくらでも予備校に来たい。
「その代わり、留年したら別れるからね? あと、友達も作ること!」
しっかりと釘を刺されてしまった。
「それは……努力します」
「あははは! よろしくねー、高木くん!」
良かった、どうやらこれで、納得してもらえたみたいだ。
これで、高校卒業における一ノ瀬との別れは回避できたと思う。
彼女は俺が何かを犠牲にすることを拒んだ。なら仕方ない。
いいだろう、受けて立ってやる。
上手く出来るか自信はない。むしろ、分の悪い戦いだ。
でも、やるしかない。俺は自分を大切にした上で彼女の傍に居る。
彼と一ノ瀬の出会いは防げない。
でも、そう簡単に上書きなんかさせてやるもんか。