第84話B:君に寄り添う道を選ぶことにした
あれから俺は引退試合を経て正式に予備校通いとなった。
入った先は一ノ瀬と同じ予備校だ。もちろん、俺は1番安いプランにした。
俺は基本的に自習室が使えればそれで十分、どこの予備校でも構わないのだ。
彼女と同じ予備校なら、上手くすれば一緒に帰るぐらい出来るかもしれない。
「一ノ瀬!」
「あ、高木くん!」
廊下を歩く姿を見つけて声をかけた。目が合うと嬉しそうな顔をしてくれる。
「次も授業か?」
「うん……今日も遅くなると思う。先に帰ってていいよ?」
何故、そんなことを言うのかな。少し寂しくなる。
「嫌だよ、待っている。お前だって俺のこと待っててくれただろ?」
「そうだけど……」
どうにも釈然としない表情だ。
他人に迷惑をかけるのだけは変に嫌がるんだよな。
待ち合わせに遅れたり、我儘を言ったりすることは良くある。
けど、俺が彼女の為に何かを犠牲にしようとすると途端に難色を示す。
「一緒に帰りたい……駄目か?」
だから俺は、彼女に言い聞かせる。これは俺の我儘だ、と。
「もう、しょうがないなあ。じゃあ、終わったら自習室来るね!」
良かった。やっぱり、お前はそういう態度の方がしっくりくるよ。
俺達はすでに夏休みに入っている。
受験勉強における天王山だ。
学校も休みでまとまった時間を勉強に費やせる大切な期間。
ここでどこまで勉強できるかが合否の鍵となる。
当然のように一ノ瀬には授業がギッシリ詰まっている。
そんな彼女を待つ間、俺は普通に受験勉強を始めた。結局、こうなるのか。
最高の環境で勉強が出来ている。つくづく、俺の過去は度し難いな。
これなら、わざわざ決別なんかしなくても合格できたかもしれない。
更に今回は過去の経験もある。勉強の効果は上々だった。
もちろん、大学受験時の知識などすっかり忘れている。
しかし、最初から無かったのではなく、思い出すという作業だ。
おそらく、過去の半分程度の勉強時間で済むだろう。
まあ……それでも1日に4時間は勉強しないと駄目だというのは厳しいが。
でも、俺は別に合格なんか出来なくても構わない。
むしろ、下手に俺だけ大学に通うより一緒に浪人した方が良いと思っている。
確かに今は、幸運にも「彼氏」という立場だ。
だが、この地位は永遠を確約されたものではない。
ともすれば、簡単に崩れ去ってしまうことを知っている。
やることは今までと変わらないだろう。出来ることは全部したい。
だから、俺は少しでも一ノ瀬と一緒に居られるのなら、進学も諦める。
「お待たせ」
一ノ瀬がひそひそ声で話しかけてきた。
どうやら、授業が終わったようだ。
俺の方はいつでも帰れるのでさっと支度をして自習室を出た。
「お疲れ様、大丈夫か?」
「うん、でもちょっと眠いー」
授業中に居眠りしていないかちょっと心配になった。
「高木くん、ずっと自習で平気なの?」
「ああ、俺は自分のペースでやる方が楽だから」
俺は何事もそうだった。
学校の授業ではペースが遅すぎる。
先生がのんびり教科書を読み上げている間に俺は問題を解いていた。
かといって、予備校ではついていけない。
板書を取るので精一杯だ。内容を理解するのはいつも復習する時だった。
……予備校の先生って何であんなに文字書くの早いんだろう。
「もうすっかり暗いな」
「そうだねー、夏なのになあ……」
ふたりで予備校の外に出るとすでに暗かった。
一ノ瀬の表情は少し寂しそうに見える。
本来なら全力で遊ぶ季節だ。朝から晩まで予備校なんて確かに辛いだろう。
かといって、遊びに誘うのも不謹慎だよな……。
「風が生温かい……」
「でも、炎天下よりはマシだろ? 夏らしくていいじゃないか」
予備校を出て、最寄駅まで歩く。
俺は夏の夜が好きだ。地面からアスファルトの匂いがする。
日の光が無いのに暖かい。ずっと起きていたいと思うぐらいだ。
「そうだねー。でも私は春とか秋の方が好きだな」
やはり、俺たちの価値観は相違している。まあ、どっちも嫌いじゃないけどな。
「なあ、一ノ瀬。滑り止めは同じ大学にしないか?」
「別にいいけど……、私、行く気ないよ」
一ノ瀬は少し、不満そうな表情だった。
「ああ、それは分かっているよ。でも選択肢は多い方が良い」
「それって、私が受からないって思っているってこと?」
なんて答えれば良いか迷った。一ノ瀬はこのことに触れられたくないはずだ。
ほんの少しだけ怒気をはらんでいるようにも聞こえる。
「厳しいと思っている。でも無理だとは思ってないよ」
俺は正直な気持ちを言った。
上手くいかなかった時はいつもその場を取り繕った時だ。
一ノ瀬の機嫌を取ろうとしたり、自分の気持ちを誤魔化したり。
俺はいつだって見透かされていた。彼女は俺の浅はかさが嫌だったのだろう。
「そっか……。やっぱりそうだよねえ」
一ノ瀬は少し考えた後、諦めたような表情でそう言った。
「俺は、応援しているからな」
「うん、ありがとう。大丈夫だよ、それはちゃんと伝わってる」
そう言って、笑ってくれたことにほっとする。
ひとまずはこれで良い。滑り止めだけでも同じ志望校にしておく。
そうすれば、もしもの時にちゃんと逃げ道が作れる。
今の彼女なら、応じてくれるかもしれない。
けれど、俺はその未来を望んでは居ないんだ。
彼女には夢をかなえて欲しい。それはきっと俺の片想いと同じ強度の願いだ。
たとえ、俺から居なくなるとしても、一ノ瀬には夢を追い続けて欲しい。
これはもう、俺の願いでもある。
「ねえ、高木くん。今日はもうちょっと一緒に居たいな」
その言葉に耳を疑う。
予備校の最寄り駅から電車に乗ればすぐに一ノ瀬の最寄り駅だ。
一緒に帰る時間は学校の帰り道より遥かに短い。
「……駄目かな?」
「お前なー、俺が今、どんな気持ちだと思う?」
正直に言って胸が張り裂けそうだ。
「うーん……。嬉しくて泣きそう、とか?」
解ってるじゃないか!
「そうだよ、俺は常にお前と一緒に居たいんだ」
「それはちょっと重たいかなー」
相変わらずだな、コイツ。
「あははは! 嘘だよ、高木くん」
……駄目だ、可愛い。悔しいけど、俺は絶対に彼女には勝てないな。
一ノ瀬には門限がある。
だから俺は駅の改札から出て、彼女の自宅近くの公園まで行く事にした。
「なんかごめんねー」
「良いよ、気にするな。俺は少しでも長くお前と一緒に居たい」
これは揺るぎ無い本心だ。
公園のベンチにふたりで並んで腰を掛けた。
……この使い方、人生で初めてだな。こんな用途もあったのか。
「ふふふ、なんか悪い事してるみたい」
好きだな、その表現。一ノ瀬は俺に寄りかかってそう言った。
夏だから汗をかいているので色々と心配だ。
でも、頬にあたる髪の感触が心地良い。
それに、甘くて優しい匂いがするのは相変わらずだった。
「ねえ、高木くん」
「何だ?」
一ノ瀬の声が近い。勝手に優しい声で返してしまう。
「第1志望、ちゃんと合格してよ?」
予想外の台詞だった。
「どうした、急に?」
「私、嫌だからね」
今になって気がつく。一ノ瀬はきっとこの話がしたかったのだろう。
俺と一緒に居たい、その言葉は口実か……。
彼女は寄りかかるだけでは無く、俺の腕を掴んでいた。
白くて細い、とても華奢な手だ。でも、とても逃れられそうにない。
「前に、どこでも良いとか言ってたけど……。
私のために志望校変えたり、合格を諦めたりしないで」
分かっていたのか……。何でだよ、凄いな、お前。
俺の進学先はどこの大学でも困らないと今でも思っている。
その言葉に嘘はない。
だけど俺が1番行きたい場所は過去の世界で通っていた大学だ。
あそこに行きたい、あそこじゃなきゃ嫌だと思う。
それは……一ノ瀬の為じゃない。
もちろん、就職の為でも、将来の為でも無い。
ただ、あそこには大事な友人が居るのだ。
社会人になってからも続いている数少ない友達。
一ノ瀬が居なくなった後も俺を支えてくれた人達が居る。
それは無くしたくない繋がりだった。
だから、俺は彼らにもう1度会うために、あの大学に行きたい。
この願いを叶えるには、現役合格しかないのだ。
俺は、一ノ瀬の為ならこの願いは諦める覚悟だった。
どうして、この気持ちを見抜かれてしまったのだろう。
「うん、出来るだけ頑張るよ」
「絶対だからね!?」
一ノ瀬は真剣な眼差しで念を押した。
仕方ない、お前がそうしろと言うのならそうするよ。
本当に嫌なんだな、他人に迷惑をかけること。
でも違うんだぞ、一ノ瀬。そんなの、俺にとっては少しも迷惑じゃない。
お前が願ってくれるのなら、俺の人生なんていくらでも差し出す。
それは俺にとって、とても嬉しい事なんだ。
どうしたら、この気持ちを伝えられるのだろうか。
「なあ、一ノ瀬」
「なーに?」
ああ、可愛いなあ。彼女の頬に手を添えた。
「目を閉じて」
「こう?」
やっぱり、良く分かってないのか?
でも、彼女は拒まなかった。だから、俺はそっと口をつける。
「ん……!」
吐息が少しの間だけ、溢れて止まる。
その時間はとても長かったような……、短かったような……。
「大好きだよ、一ノ瀬」
俺は優しくそう言った。
彼女は俺の方をじっと見たまま、静かに指で唇に触れる。
まるで、起こったことを確認するかのように……。
「ああああああ!」
そして、叫び声を上げた。やめなさい、夜の公園で。
「き、キスした!? 何で!?」
「いや、そんなに驚くことじゃないだろ?」
あー、やっぱり駄目だったかな。
「私、初めてだったんだよ!? 何でよ!」
「嫌だったのか……?」
その反応は流石に少し、心配だ。
「もっとちゃんとしたところでしてよ!」
そっちですか。
「誰も居ない、夏の夜の公園だよ? 他にどんな場面なら良いんだ?」
「展望ビルの最上階のレストランが良い!」
いや、それは学生には無理だからな。
「それはプロポーズの時だろ」
「もう! 最悪だ、最低。変態!」
酷い言われようだった。
「心の準備だって出来てなかったのに……」
「それは悪かったよ。でも聞いたら絶対に『嫌』って答えるだろ?」
そもそも、あのシチュエーションで何故気がつかない。
「あーん! 高木くんに汚された! もうお嫁に行けない」
「別に行かなくてもいいだろ……」
結婚すらしたくないと言っていたのを思い出す。
「責任取ってよね!」
「いいのか? 全力で取るぞ?」
むしろ、願ったり叶ったりだ。
一ノ瀬はどうも、この手の言葉が好きみたいだな。
中学まではテレビっ子だったと言っていた。
ドラマの台詞を真似したいのだろう。
両親が共働きだった一ノ瀬家は俺の家より裕福だ。
だけど寂しかったのかもしれない。
俺の家はいつも母が居てくれた。
だから「ただいま」には必ず「おかえり」が返ってくる。
どっちが良いのかなんて俺には分からない。
だって母が居る日々が当たり前だったからだ。
きっと俺に、一ノ瀬の本当の気持ちは理解できない。
「うー……! もう高木くんの前では油断しないから!」
「それは困ったな」
まるで獣のようなヤツだな。でも怒っているようには見えない。
「私、せっかく真面目に高木くんの心配してたのに……」
「ありがとう、それは伝わっているよ」
そう言って俺は一ノ瀬を抱き寄せた。
「もう、暑いよ!」
文句を言うくせ、ちゃっかりとその手は俺の背中に回されていた。
「お前の言う通り、ちゃんと合格するよ。
だから、俺の事なんか気にするな。やりたいようにしてくれ」
「うん……わかった」
抱き締めると、塩らしくなる。可愛いなあ。
「でも、無理だけは絶対にするなよ」
「それは無理。だって無理しなきゃ受からないもん」
それはその通りだろうけど……嫌だな。
「じゃあせめてさ、辛い時は俺に言ってくれ」
「うん……そうする」
素直にそう答えてくれてほっとする。
「ねえ、高木くん。私のこと、好き?」
「ああ、大好きだよ」
そう答えて強く抱きしめた。
この温もりはもう2度と離したくない。
どうか、伝わって欲しいと思う。俺の気持ち、俺の願い。
俺は、この先に何があろうとも、ずっと一ノ瀬の味方だ。
ただ彼女に寄り添って生きたい。