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もしも人生をやり直せるとしたら俺は過ちを繰り返さない  作者: 大神 新
俺は一ノ瀬梨香と添い遂げる
14/18

第96話:階段は自分たちのペースで登れば良い

 そして、季節は夏から秋、冬を経て春になろうとしていた。

 去年の今頃はまだ寒かったのだが、今年は幾分か暖かいようだ。


「駄目だ、超怖い……」

「大丈夫だよ、安心しろ」


 一ノ瀬は少し震えていた。もちろん、ここはお化け屋敷などではない。

 今日は合格発表の日だ。彼女は去年と同じように、俺の袖を掴んでいる。


 会場は相変わらず、喜びと悲しみが入り混じった独特の緊張感で満ちていた。

 そんな中をふたりで歩いて掲示板の前に立つ。袖が強く握られるのを感じた。

 でも俺は彼女の合格を確信している。これまでずっと、勉強する姿を見て来た。

 本当に真面目に頑張っていたんだ。これで落ちるなんて、あまりに救いが無い。


 だから、俺は掲示板に目を向ける一ノ瀬の横顔を見ていた。

 その瞬間を見逃したくなかったからだ。


「……あった!」


 不安そうな表情からパッと嬉しそうな顔に変わる。

 多分きっと。この瞬間は彼女が今まで経験した中で最も幸せな時間なのだろう。


「あったよ! 高木くん! 私、合格した!」

「うん、良かったな」

 こっちを向いた一ノ瀬は目に涙を浮かべていた。

 俺はその顔を見て、彼女を思い切り抱きしめる。涙が止まらなかった。


「高木くん……?」

「良かった……。本当に良かったな!」

 これはもらい泣きではない。俺の涙だ。本当に嬉しかった。


「何で高木くんが泣くのさ?」

「だって……、俺、お前が誰よりも頑張っていたことを知っているから……」

 努力が報われる瞬間は、いつだって尊い。


「ふふ、相変わらず、馬鹿だなあ」

「何でもいいさ、本当に、おめでとう」

 一ノ瀬は背中に手を回してさすってくれた。……これでは立場が逆である。


「もういいでしょ? 恥ずかしいから離れて」

「あ、ああ……」

 またしてもやってしまった。ここは大衆の面前だったのだ。


 一ノ瀬の方が冷静だった。これはかなり恥ずかしい。

 そして、そっけない態度にちょっと傷ついた。俺達は相変わらずだ。


「よし、じゃあ帰るか」

「何言ってるの? 高木くんの家に行くんでしょ?」

 一瞬、彼女が何を言っているのか理解出来なかった。


 覗き込むようにその顔を見ると、目を反らして赤くなる。

 なんだ、その反応は。……ん? これ、もしかして……。


「約束したじゃん。合格したら家に行くって……」

「あ、ああ、そうだったな」

 頭の中がグルグルと回っていた。


 俺の家に来るということは、そういうことだ。

 コイツ、理解しているのかな、と思ったのだけど……。

 どうやら、分かっていての事のようである。


 大丈夫、俺と一ノ瀬がそういうことをするのは何もおかしくない――。


 

「へー、ここが高木くんの家かあ」

「狭くてすまない……」

 部屋に入るなり辺りを見回す一ノ瀬。こういうところは過去と変わってないな。


 大学の最寄り駅から2駅ほど離れた駅周辺は学生の独り暮らしが多い。

 俺が借りているのは6畳1間にユニットバスというありふれた格安物件である。

 正直、女の子を連れ込むのに適しているとは言えないだろう。


「一応、掃除はそれなりにしてあるんだけど……」

「本当ー?」

 流石に母親ほど行き届いては居ない。


 家具はソファーベッドと座卓、小さな冷蔵庫とテレビだけだ。

 タンスの類は無く、洗濯物は部屋に干しっぱなし。

 着ている物を洗濯機に放り込んだら、干してある服を着るようにしている。

 あえて言おう、横着というよりもだらしのない生活だ。


「まさか今日、来るとは思わなかったからさ……」

「なんか、男の子の部屋って感じだね」

 一ノ瀬から嫌悪感が伝わってこなくてホッとする。


 まあ、きっと一ノ瀬の部屋も散らかっているのだろう。

 一緒に暮らしている時もコイツはいい加減だった。

 だからこそ、ふたりで居るのが苦にならなかったかもしれないけどな。


「親にはちゃんと報告したか?」

「あっ! そうだった!」

 そう言って一ノ瀬は慌てて携帯電話を手に取った。


 その様子を見て俺は少し離れて静かにする。

 流石に俺の家に来ていることは内緒にしているだろう。


「あ、お母さん! 受かったよ!」

 凄く嬉しそうな顔を見て嬉しくなる。……また泣いてしまいそうだ。


「うん、今は高木くんの家」

 おい、ちょっと待て! その情報は開示して大丈夫なのか……?


「えー、いいよー。じゃあ、また明日ね」

 一ノ瀬はそう言って電話を切った。


「お前、今日ここに来ることを親に言ってあったのか……?」

「うん、そうだよ。合格したら高木くんの家に泊まるって言ってあるの」

 おー、凄いな。俺の知らないところでちゃんと話が進んでいたのか。


 ……アレ、今、コイツ。俺の家に泊まるって言ってなかった?


「えっ!? 泊まるの?」

「約束したじゃん!」

 確かにしたけど……、まさか合格発表の日に泊まるとは思っていなかったよ。


「あの、お母さんはなんて?」

「少し困ってたけど、『高木くんなら良いよ』って言ってくれたよ」

 まさかの親公認。コイツ……もしかして普段から親に俺の事を話しているのか?


「もしかして……迷惑だった? 驚かせようと思ったのに……」

「迷惑なわけあるか! 凄く嬉しいよ。ただ、掃除はしたかったけど」

 こんなサプライズならいくらでも大歓迎だ。


「えへへ、なら良かったー」

 そう言って抱き着いてくる。


「あの……、止めて下さい、一ノ瀬さん。それ我慢出来なくなるよ?」

「別にしなくて良いんじゃない? 誰も見てないよ」

 耳元で囁かれて、本当に理性が吹き飛んだ。 


「ん……!」


 たまらずにキスをする。なんだか随分とハードルが下がってしまったな。


「ねえねえ、高木くん。私、今、凄く幸せだよ」

「それはこっちの台詞だ」

 頭を撫でながら話す。


 傍に居て、いつでも触れられる。嬉しくてたまらない。

 これが当たり前だと言える日々が、この先に待っているのだとしたら……。

 こんなに幸せなことはない。


「ねえ、高木くん。今日は……その……するつもりなの?」

「あー、うん。そうだな……」

 言われて胸の奥が高鳴る。何故か緊張してしまった。


 落ち着け、俺と一ノ瀬は過去の世界では何度も愛し合っている。

 今回が初めてというわけじゃないんだ。

 そっと一ノ瀬の顔を覗き込む。緊張しているのが伝わって来た。


 この世界では彼女はこれが初めてなんだ。俺がリードしてやらないと。

 そう思う程に緊張する。どうすればいいんだ、コレ……。


「優しくしてよ?」

「あ、当たり前だろ」

 声が上ずってしまった。恥ずかしい……。


「ん……」

 とりあえず、一ノ瀬を抱き寄せた。甘くて優しい香りがたまらない。


 彼女は黙って俺の首筋に腕を回す。温もりが伝わってきた。

 そして、とても柔らかい。こうして居るだけで十分に幸せだと思える。

 でも、今日はこの先に進むんだ。


 ――ぐうううううぅぅぅ!


 俺が意を決した瞬間、誰かのお腹の音がなった。実に、俺達らしい。


「ぷっ、ははは!」

「うう……、笑わないでよ!」

 照れている一ノ瀬の顔も可愛いものだ。


「そういえば、昼ご飯も食べてなかったな。何処か行くか?」

「えー、作ってくれるんじゃないの?」

 そんな約束もしていたっけ。よく覚えているな、コイツ。


「うん、じゃあ何食べたい?」

「美味しければ何でも良い、高木くんに任せるよー」


「お前、それ一番難しいヤツだぞ?」

「ふっふっふ、頑張って!」

 相変わらず、意地の悪い顔をしてやがる。


 まあ、いいか。一ノ瀬の好みは大体把握している。

 しかし、冷蔵庫の中は流石に碌な物が入っていない。


「じゃあ、買い出しに行かせてくれ」

「うん、いーよー、一緒に行こう」


 と、言うわけで俺達は近所のスーパーに行くことになった。

 なんだか、過去の世界で初めて彼女が家に来た時を思い出す。

 あの時も大概、色めき立ったが今回も似たような状況である。

 でも……こんな嬉しい気持ちになれるのなら何度繰り返したって構わない。


「高木くん……、それお酒?」

「ああ、せっかくだから乾杯しようよ」

 一ノ瀬はこう見えて結構飲める口だ。余程飲ませない限りは大丈夫だろう。


 献立は辛くない麻婆豆腐とカプレーゼ、豚肉オイスター炒めと卵焼きだ。

 見事な和洋中華混在。ちなみにお酒はロゼワインを選んでいる。

 全部、彼女の好きなものだ。


「他に何か食べたいものあるか?」

「うーん……焼きそばとか?」

 

 言われて買い物かごに追加する。ちょっと多いが全部食べる必要はない。

 今日はお祝いだ、とにかく彼女の望み通りにしたかった。

 もちろん、残った食材は後で俺が美味しく頂く。


「何か、一緒に買い物するのも楽しいね」

 言いたい事を先に言われてしまった。 


「俺はお前と一緒なら何をしていても楽しいよ」

「また、そんなこと言っている。高木くんはお手軽でいいねえ」

 その通り、一ノ瀬からすれば俺はお手軽だ。


「そうでもないよ……。最近はずいぶんと贅沢をしていると思う」

 元々はただ、会えるだけでも良かった。それが今となっては恋人同士だ。


 一緒に居るだけじゃない、彼女から少なからず愛情を貰っている。

 そんな時間が、こんなにも長く続いてくれたことに俺はずっと感謝していた。


「手伝わなくていいの?」

「お前に包丁を渡すのは心配だし、台所は狭いからな」

 部屋に戻った俺はさっそく調理を始める。


 大学を卒業したら、広い家に引っ越しをしたい。

 前に、一ノ瀬と一緒に住んでいたあの家がいいな……。

 あそこの広いキッチンなら、ふたりで並んでも大丈夫だ。


「じゃあ、向こうで大人しくしてるね」

「ゲームやってていいぞ。もう勉強しなくて良いんだから」


「わー、本当!? どれがおススメ?」

「これとこれがいいかな、お前、こういうの好きだろ?」


「わかった。でもネタバレは禁止だよ!?」

「大丈夫だよ、安心しろ」


 1個しかない電気コンロで何品も料理を作るのは少し骨が折れた。

 やはり、料理をする時はガスに限るな。熱が伝わるのに時間がかかりすぎる。

 まあ、学生向きの安アパートで高望みするわけにもいかないか――。



「お待たせー!」

「おー、凄い、並べると壮観だね!」


 座卓の上は料理でいっぱいになっていた。一ノ瀬の対面に座って人心地を着く。

 残念ながらワイングラスの用意が無かったのでコップにワインを注いだ。


「ごめんな、味気が無くて。グラスも買って来れば良かったな」

「ううん、良いよ! 綺麗なピンク色、なんか美味しそう」

 残念ながら、お酒の味と色はほとんど関係ない。


「でも、お酒飲んじゃっても良いのかな……?」

「良いんだよ。飲み過ぎないようにすれば大丈夫」

 彼女が躊躇するのもわかる。今までずっとNGを出して来たわけだしな。


「心配なら止めておくか?」

 一ノ瀬も未成年であることには変わりがない。本来はまだ駄目だ。


「やだ! 高木くんは普通に飲んでるんでしょ? なんかずるい!」

「そういう問題じゃないんだけど……」

 でも、気持ちは理解できる。


「ずっと我慢してたんだから、今日ぐらい良いよね?」

「うん、その意気だ。それじゃあ、コップ持って」

 むくれた顔が、ぱっと笑顔に変わる。やはり一ノ瀬はこの表情が一番だ。


「では、一ノ瀬 梨香の新たなる門出を祝って……乾杯!」

「かんぱーい!」


 ふたつのコップはコツン、と小さな音を立てた。

 一ノ瀬は恐る恐る、ワインを口元へ運ぶ。なんだかその姿に緊張してしまった。


「ん! 思ってたより美味しい!」

「そうか……? まあロゼワインは飲みやすい部類だしな」

 アルコールを最初の一口で美味しいと思えるのは中々に大人だと思う。


「お酒ってこんな感じなんだ。特に何も感じないよ?」

「飲んですぐは大丈夫なんだよ。しばらくすると、酔ってくるんだ」

 得意げな表情にほんの少しだけ釘を刺しておく。


「そうなんだ……、ちょっと怖いかも」

「そうだぞ、だから一気に飲まないで、ご飯を食べるついでに飲むんだ」

 不安げな表情になった。少し言い過ぎてしまったかな。


「うん、分かった」

 真面目な表情で頷く。何だかんだ言って、素直なんだよな。


「ご飯も炊いてあるから、欲しければ言ってくれ」

「至れり尽くせりだね!」


「当たり前だろ、今日はお前のお祝いなんだから」

 ふたりでご飯を食べるのは久しぶりだった。

 前に一ノ瀬の家に行った時以来、か。やっぱりこうして居られるのは幸せだ。


「これ、美味しい! 何で出来てるの?」

「チーズだよ、こういう食感、好きだろ?」


 カプレーゼを口に運ぶ一ノ瀬の表情がたまらない。

 作って良かった、と心底思える。笑ってくれるのが何よりのお礼だった。


「流石にクリスマスのディナーには及ばないけどな」

「ううん、今日はお酒もあるから、何か凄く美味しく感じるよ」


 一ノ瀬の言う通り、お酒には確かにそんな効果もある。食前酒と言うヤツだ。


「でも全部食べられるかな……」

「無理して食べなくていいよ、冷蔵庫にしまっておけば良いだけだ」


「うん、分かった!」

 そう言って料理をつまむ一ノ瀬。その度に美味しいと言ってくれた。


 一緒にお酒を飲みながらご飯を食べる。ただそれだけで本当に楽しい。

 俺達は笑いながら、何度もコップを傾けた。


「なんか……ちょっとフワフワしてきたかも……?」

「俺も少し酔ってきたかな? ちょっと気持ち良いでしょ?」


 とは言え、ふたりでワインボトル1本では少ない方だ。

 過去の世界で俺と一ノ瀬が飲む時は大抵、2本は空けていた。

 ……それだとちょっと多い、と言うのが俺の認識だ。


「そうかもー! なんか楽しい! ねえ、そっち行って良い?」

「え……? あ、ああ、いいけど……」

 そう言って、一ノ瀬はしっかりとした足取りで俺の隣に座った。


 肩がぶつかって、髪の毛が触れる。近くに来てくれるのが嬉しかった。


「えへへー、何かいいね! こういうの」

「そうだな……」

 酔っぱらっている、というわけでは無さそうだ。


「お酒のおかげで、ちょっと勇気が出たかも」

「それは、お酒のおかげというよりも、お酒のせいと言うんだぞ」

 ぼそりと呟く一ノ瀬。勇気、か……。やはり今日は少しいつもと違う。


「えー!? そうかなあ」

「でも、まあ、少しぐらいなら力を借りても良いのかな」

 基本的に酒の力など借りない方が良い。大抵は暴走して失敗する。


「ん……」

 キスをすると再び緊張が走る。鼓動が大きくて、怖いぐらいだ。


「少し、お酒の味がする……」

「そうだな……」

 

 結局、しばらくの間、黙ってしまった。なかなか先に進むことが出来ない。


「あれ、もうお酒無くなっちゃった」

「ん? そうか、じゃあ今日はこのぐらいにしておこう」


「えー、私、もうちょっと飲みたいよ!」

「お酒はな……、そこで止めておくのが丁度良いんだよ。

 泥酔すると最悪だぞ。気持ち悪くなって吐いてしまうこともあるんだ」


「うえー、それは嫌だな」

「さらに翌日記憶が無くなっていることもある。二日酔いはもっと酷いぞ……。

 アレはこの世の地獄だ。頭が痛くて吐き気が止まらない。何をしても辛いんだ」

 しかし、何度後悔しても繰り返してしまう。本当に酒は毒だ。


「うん、私、絶対に飲み過ぎないようにする!」

「わかってくれて嬉しいよ」

 一ノ瀬は俺の言葉を真摯に聞いてくれた。


 だけど、そうはいっても飲み過ぎてしまうのがお酒というものである。

 しかも飲める人の方が深みにはまりやすいのだ。

 若いうちだけでは無く、大人になっても永遠に気をつけなければならない。

 まさに、麻薬のようなものだ。


「じゃあ、私、シャワー浴びてこようかな……」

「え、ああ……。うん、いいよ。でも、お酒が回るから気をつけてな」

 本当はお酒を飲んだ後の入浴は良くない。


 でも今日の飲み方ならば大丈夫だろう。大量に飲んだわけでもない。

 それにお湯を溜めて湯船につからないのであれば危険はほとんどないはずだ。

 一ノ瀬がシャワーを浴びている間に、俺は料理を片付けることにした。

 面倒だが、それぞれ保存用の容器に入れて密封する。

 冷蔵庫にしまっておけば明日の朝も普通に食べられるはずだ。


 台所のすぐ後ろがユニットバスなので、普通にシャワーの音が聞こえる。

 何だろう、この異様な緊張感。酔うほどは飲んでいないはずなのに動悸がした。

 一通り片付けたら、ベッドの上で一ノ瀬を待つ。


「お待たせ―」

 帰ってきた一ノ瀬は寝巻だった。その姿も可愛いな。


「じゃあ、俺もシャワー浴びてこようかな」

「うん、わかったー」

 普通の会話をしているはずなのに、どこか緊張感が漂う。


 シャワーを浴びている間、悶々と考えてしまった。

 一番、緊張しているのはきっと一ノ瀬だ。

 アイツが自分から好意を示すのは苦手だということを良く知っている。

 だから……今日はずいぶんと頑張ってくれたのではないだろうか。

 そんなことをしなくても良い、とにかく安心させてやりたいと思った。


 不安が無いと言ったら嘘になる。でも、一ノ瀬だってきっと同じだ。

 だから、俺は意を決して部屋に戻った。


「一ノ瀬……?」

 しかし、彼女の姿はどこにも見当たらない。


 この部屋に隠れるようなところなどないのだけど……。

 良く見るとベッドの布団が盛り上がっている。普通に布団に入れるのが凄い。


「お前、何をやっている」

「えへへ、見つかっちゃった」

 うん、可愛い。少しだけ酔っているのかな、頬が赤い気がした。


 仕方が無いので電気を消して布団に入る。もちろん、常夜灯は残しておいた。

 

「えっ? もう寝るの?」

「あー、それもいいね」

 そう言って布団の中に潜り込んで一ノ瀬を全力で抱きしめる。


「高木くん……?」

「良い匂いがする……。柔らかくて気持ち良いな」


「私も、何だか安心する。高木くんの匂いがするからかな」

「ずっとこうして居たいよ」


 このまま眠りについてしまいたい。そう思えるぐらい、安らかな時間だった。


「ん……」

 キスをして、髪を撫でる。


「あはは、ちょっと緊張してきちゃった」

「大丈夫だよ、嫌だったらいつでも言ってくれ」

 出来るだけ優しい声で、不安そうな表情に応えた。


 そして、腕を回して彼女に触れる。


「んっ! やだ……、変な声でちゃう……」

「ふふふ、それはなんだか嬉しいな」


 一ノ瀬は俺の背中に両手を回して肩を掴んだ。

 その手に力が入るのを感じる。


「うう……」

「我慢しないで良いよ、その声、好きなんだからさ」


「もう! これ、凄い恥ずかしいんだからね……」

「力を抜いてくれ、大丈夫だから」


 しかし、肩はさらに強く掴まれた。


「なんでわかるの……? 何か怖い……」


 経験があるので、何処を触れば良いか知っている。

 これは確かに、ちょっとズルいかもしれない。


「嫌だったらいつでも止める。だから安心して」

「大丈夫、止めないで。私、ずっとこうしたかった」


 その言葉に驚きを隠せない。一ノ瀬はいつも何も言わなかった。

 触れるタイミングが悪いと殴られるぐらいだ。


「高木くん、泣いているの? 何で?」

「大丈夫、嬉しいだけだよ」


 付き合ってくれてはいる、でもどこかで片想いだと思っていた。

 想いの強さが違う、いつだって、俺の方が大きい。


「ん……」


 キスは一ノ瀬からだった。違うと言ってくれた気がする。

 ちゃんと彼女も俺の事を好きなんだ。その想いが伝わってきた。

 嬉しくてたまらない。何で彼女はいつも、こんなに幸せをくれるんだろう。


「んんっ!」


 力が緩んだ隙に、手を伸ばす。


「高木くん……、恥ずかしいよ」

「怖くないか? 大丈夫?」


 空いた方の手を背中に回した。彼女の身体が熱を持っているのを感じる。


「怖いけど……続けて欲しい」

「お前は本当に可愛いな」


 見つめ合っていられるのも嬉しかった。


「くぅ……」


 しかし、変なうめき声ととも一ノ瀬は顔を俺の胸に押し付けてくる。


「どうした? 大丈夫か?」

「大丈夫……、お願い、止めないで」


 そう言う割に苦しそうだった。

 思わず俺は一度手を離して彼女を抱きしめる。


「やだ、何で……」

「少し休憩しよ」


 抱き寄せて耳元で囁く。一ノ瀬の髪が頬に当たって心地よい。


「俺さ、こうやってくっついているだけでも凄く幸せなんだよ」

「高木くん……?」


「だからさ、無理しないでくれ」

「無理してないよ! 私だって、ちゃんとしたいの」


「じゃあ、続きするよ?」

「うん、して……」

 その言葉は脳みそに食い込んで理性を突き破る。


「ちょ、ちょっと待って」

 服に手をかけた俺を一ノ瀬は慌てて止めた。


「続き、するんだろ?」

「恥ずかしいの!」

 その声は、悲鳴に近かったと思う。


「うん、じゃあいいや。このまましよう」

「……見たくないの?」


「死ぬほど見たい」

「エッチ! 変態!」


「見たくない方が変態だと思うぞ?」

「ううう……」


「だから、嫌ならいいんだって。俺は我慢するからさ」

「やだ! 高木くんに我慢してほしくないの!」


 なんていうか、今日は変な我儘ばかり言う。きっと、必死なんだろうな。

 だから、黙って頭を撫でた。


「うう……」

 何故かうなり声を上げる。


「そっち向いてて!」

 そして、彼女は俺の手を振り払ってそう言った。


「えっ……?」

「いいから、そっち向いてよ!」

 そう言われて仕方なく、一ノ瀬に背を向ける。


「こっち見たら、殺すからね!」

「そんなに簡単に彼氏を殺さないでくれ」


 衣擦れの音に胸が高鳴る。なんだこのシチュエーションは。

 

「いいよ、こっち見て」

 言われて振り返ると、一ノ瀬は布団の中に隠れていた。


「高木くんは着たままなの……?」


 俺にそういう趣味は無い。慌てて服を脱ぐ。


「えいっ!」

 裸になった俺に一ノ瀬は掛け声とともに抱き着いてきた。


「ふっふっふ、これなら見えないでしょ?」

「いや、お前さ、この状態の方が恥ずかしくないのか……」


 素肌はわかりやすく体温を伝えていた。柔らかさも段違いである。


「だって……、私、胸小さいし……」


 気にしていたことは知っている。けど、ここまで嫌がるとは思わなかった。

 過去の世界では色々と段階をすっ飛ばしていたことを思い知る。


「気にするなよ。俺はお前のこと、凄く綺麗だと思っているんだから」

「見てもないのに言わないでよ!」


 そう言われても見せてくれないのだから仕方ない。


「ん……!」


 なので、触ることにした。一ノ瀬は細身で華奢だ。

 だけどそれでも触ると気持ちが良い。俺の身体とはまるで作りが違う。


「すべすべで柔らかくて気持ち良い」

「エッチ!」


「それは否定しない」

「うう……なんか複雑。恥ずかしくて死にそう」

 大丈夫だ、一ノ瀬。それで死んだ人はいない。


「ねえ、……なんか足に固いのが当たってるんだけど」

 残念だが、それは仕方のない事だ。


「お前だからこうなるんだよ」

「変態! 嫌だあああ、高木くんに汚される!」

 何て言うか、それも否定できない気がする。


「嫌なのか……?」

「そんなわけないじゃん、馬鹿」

 パシン、といつもよりかなり優しく叩かれた。


「んんっ!」


 そして、俺はもう一度彼女に触れた。

 すかさず、一ノ瀬は俺の肩を掴む。そこには服が無いから少し爪が当たった。


「高木くん、それ駄目! なんか変!」

「大丈夫だよ、安心しろ」


 そうはいっても、相変わらず一ノ瀬は緊張しているようだ。

 空いた手で髪を撫でる。そっとこっちを向いてもらった。


「俺は、お前のことが好きだよ」


 そう言ってキスをする。


「んっ……」


 吐息が漏れる、ほんの少し、彼女の力が緩むのを感じた。


「くぅうう……」


 苦悶の表情に、俺の手が止まる。一ノ瀬はすぐにその手を掴んだ。


「お願いだから、続けて……」

 その瞳に、ほんの少し涙が浮かんでいることに気が付いた。


 どうするべきか、迷う。俺もそう簡単には止まれない。

 この先に行きたいと思っている。でも、それが正しいことだとは思えなかった。

 

「なあ、一ノ瀬、本当に大丈夫か? 無理してないか?」

 真剣な表情で彼女を見つめる。そうすると申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんね、高木くん。私……ちょっと痛い。でも我慢するから……」


 恋のabcについて。俺は今までbとcを分ける理由が良くわからなかった。

 だって、普通bまで進んだらcまで行くよね?

 この認識が過りだったと、今になって初めて知った。


「はあああ……、良かった」

「え!? なんで?」

 俺は心から安堵のため息をつく。


「良いんだよ、それで。ちゃんと言ってくれてありがとう」

「高木くん……!?」


「お前に無理させなくて良かった。ごめんな、俺、少し勘違いしてたかも」

「え? 何で、止めちゃうの?」 

 一ノ瀬のことは、わかっていると思っていた。


 過去の世界の経験は、ここでは役に立たない。

 目の前にいる彼女の反応は、まるで別人のようだった。

 これは、決して彼女だけの問題じゃない。俺たち、ふたりの問題だ。

 俺はちゃんと彼女を見なきゃいけない。もっと優しく触れなきゃいけなかった。


「今日はここまでにしようよ。また今度でいいからさ」

「やだよ! 私、ちゃんと最後までしたい」

 そう言って、一ノ瀬は俺の手を強く握る。それが嬉しくてたまらない。


「焦らなくていいよ。俺たちはさ、一歩ずつ進もう」

「高木くん……」

 そうだ、俺が欲しいのは快楽じゃなくて彼女の心だ。


「俺さ、お前とこうやって一緒に進めることが凄く嬉しいんだ」

 過去の世界では、もう終わってた。俺は一ノ瀬と歩めなかったのだ。


「おいで、一ノ瀬」

 そう言って、思い切り抱きしめた。


「今日はたくさん進んだじゃないか。十分だよ」

「だって、私、ずっと我慢させてたのに……」

 彼女が俺を想ってしてくれること、その全てが尊いと思う。


「俺は我慢なんてしてない。今、凄く幸せなんだ」

「うう……ごめんね、私のせいで」

 謝られるのは嫌いだと言うくせに、一ノ瀬は最近、俺に謝ってばかりだ。 


「何でお前が謝るんだよ。ごめんな、優しく出来なくて……」

「違うよ! 高木くんのせいじゃない!」

 そう答える一ノ瀬の頭を優しく撫でる。


「じゃあ、お前も『私のせい』なんて言うな」

「……もう、ずるいなあ」

 抱きしめている都合、表情は見えないけど、きっと笑っているはずだ。


「なあ、一ノ瀬、このまま寝ても良いか?」

「えー? まだ夕方だよ?」


「お前の匂いに包まれて、お前の体温を感じて居たいんだ」

「……なんか凄い変態みたいだよ」

 そうかもしれない。でも男なんて全員、そんなもんだ。


「いいんだよ、それで」

「ねえ、じゃあさ、服着ても良い?」

 一ノ瀬は許しを請うようにそう言った。


「何でだよ?」

「凄く恥ずかしいんだもん!」

 耳元で大声を出さないで欲しい。


「駄目だ、許さん」

 俺は即答した。


「意地悪!」

「これも練習だよ。次のためにもさ、今日はちゃんと触れ合おう」

 そうだ、まずは一ノ瀬の「恥ずかしい」を何とかしなきゃいけない。


「もう! ……しょうがないなあ」

 そう言った後、一ノ瀬の手が肩から背中にまわった。


「風邪ひかないようにちゃんとくっついてろ」

「うう……、やっぱり私、高木くんに汚されてる」


 それから、ふたりで静かに目を閉じた。


「ねえ、高木くん。前に家に来てくれたこと、あったでしょ?」

「ああ。アレは楽しかったなあ」


「起きた時にね、隣に居てくれたの、嬉しかったなあ」

「俺もさ、お前の隣で眠れたのが凄く嬉しかった」


 お互いの話をして、しばらくの間、黙る。

 その間、俺達はきっと、お互いの事を感じていた。


「ねえ、高木くん、ずっと梨香の傍にいてね」

「なあ、一ノ瀬。ずっとお前の傍にいさせてくれ」


 こんな時、大抵同時に話してしまう。


「あははっ!」

「ふふふ……」


 目を閉じたまま、笑いあった。


「おやすみ、高木くん」

「おやすみ、一ノ瀬」


 眠いわけじゃない。でも心から安らぎを感じた。

 匂いが混ざり合って、温もりを共有する。でも今日はひとつになれなかった。

 それでも、ちゃんと前に進んでいると実感する。

 だから今日は、この幸福を分かち合って眠りに着く。


 焦らなくていいさ。俺達にはまだ明日が残っている。

 少しずつ、お互いに向き合って、近づいて行けば良いだけだ。

 そして、いつかきっと……。今の俺は、それを確かなものと信じられる。

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[一言] 祝合格! 不合格からの破局とならず一安心。 しかし、最後の一線は超えず。主人公の振る舞いは、到底童貞ではあり得ず、一ノ瀬に、「誰と経験したんだろう。まさか、風俗??」との疑惑を持たれやしない…
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