第94話:やはり遊園地は気の合う友人と行くべきだ(前編)
「ちょっと待って、高木ちゃん。それはおかしいよ!」
事情を話した俺に対して麗子の第一声はそれだった。
「普通に『俺の女に手を出すな、2度と近づかないでくれ』でいいと思うぞ!」
康平は興奮気味に大声を出す。落ち着いてくれ。
「康平!」
「な、何だよ、麗子……」
しかし、やはり麗子には弱いようだ。
「たまには良いこと言うじゃない!」
「まあな!」
何だかこのふたりのやり取り、見てて和むなあ。
「理絵と悠人が言っていること、100%間違ってるから! 縁を切りなさい」
「いや、でもさ、そうすると予備校に友達が居なくなって一ノ瀬が困るから」
俺が毎日行けるのなら、それでも良いんだけど……。
「それにさ、毎回彼らの誘いを断る俺が疎ましいのは仕方ないだろ」
「それはそうかもしれないけど……!」
麗子は歯がゆそうな顔でこっちを見ている。
やっぱり、大学の皆は俺に味方をしてくれた。
とても居心地が良くて、ほっとする。
きっと、ここに居る皆は俺が間違っていても味方してくれるだろう。
「高木君の言うことは間違ってないと思うけど、君は間違っている」
「どういうこと?」
神戸さんは至って真面目な表情で、不思議な言葉を言った。
「君は神でも仏でもないだろ。正しいとか間違っているとか関係ない。
嫌な事をされたら、怒って良いんだよ」
珍しく強めな語気に少し驚いた。
……まいったな、ちょっと泣きそうだ。
そっか、俺は怒れば良かったのか。
素直に「嫌だ」とか「ふざけるな」とか言っても良かったんだな。
「で、いつ行くの?」
「夏期講習の後って言ってたから、8月の終わりか9月の頭ぐらいかな」
今からだとひと月半ってところか。
「じゃあ、ちょうど私たちも夏休みか」
「そうだな、まあ俺はずっと予備校に通うつもりだけど」
色のない夏休みになりそうだけど一向にかまわない。
悠人達をけん制したい、という気持ちもあるにはある。
だけど、一番大きいのは純粋に一ノ瀬に会いたいという想いだ。
少しでも幸せな時間を大切にしたい。ただ一緒に居たいと願う。
「時間と場所、決まったら教えてね!」
「んー、分かった。……って、もしかして来るつもりなのか?」
麗子は不敵な笑みを浮かべている。
「折角だからね。どうせ行っても何も出来ないと思うけど」
「そうそう、遠くから見守るだけだ」
康平もか。……やっぱり、楽しんでないか、コイツら。
「ふふふ、ついに俺が不良をやる時がやってきたか」
「いや、お前、すでに顔が割れてるだろ!」
確信した。神戸さんは不良をやりたくて仕方ないのだ。
「大丈夫、グラサンするから!」
「そこじゃない! 声と身長でバレるから!」
何故か自信満々なところが信じられない。
「……まあいいや、せいぜい骨を拾ってくれ」
そう答えると、全員がにやりと笑った。
皆が何を考えているのか、イマイチ良くわからないけれど。
不思議だな、何だかとても頼もしい気がした。
――そして、約束の日がやって来る。
「おー、着いたあ!」
そう言って元気に大地に降り立ったのは一ノ瀬だ。
結局、あの後も予備校生活は何となく続いていた。
一ノ瀬と悠人、理絵さんは順調に仲良くなっている。
そんな中、俺だけがどこか少し浮いている、そんな感じだった。
正直言って居心地が良いとは言えない。
それでも、一ノ瀬を放って置くことなど到底出来なかった。
「へー、高速バスって意外と快適なんだな」
「だねー、思ったより簡単に着いちゃった」
理絵さんと悠人も機嫌は良さそうで安心する。
今回のツアーは俺の方で全面的に手配した。
高速バスを使っているが、行先はそこまで遠い場所じゃない。
一ノ瀬が行きたがっていた富士急ハイランドだ。
俺としてはふたりで来たかった。けれど一ノ瀬が楽しめるのならそれが一番だ。
「なんか、初めて来る場所ってドキドキするね!」
無邪気な表情が可愛い。
夏休みも頑張っていたからな。模試の結果も悪くなかったらしい。
せっかくだから、少しは息抜き出来ると良いのだけど……。
「よし、じゃあFUJIYAMA乗るか!」
「おー、いいねえ!」
嬉しそうな一ノ瀬とふたりでさっさと列に並ぶ。
「おい、アレに乗るのか……?」
「いきなり!?」
何故かふたりとも及び腰だった。
結構、息が合っているじゃないか。
いっそのことふたりが付き合えばいいのに、などと思ってしまった。
「絶叫系、苦手なの?」
「あー、いや、俺はどちらかと言うと高い方が、ね……」
悠人はどうも、高所恐怖症のようだった。
「私は酔いそうで……」
「理絵も駄目なら、止めておくか?」
それもわかる気がするな、下から眺めてもとんでもない動きをしている。
楽しみにしていたけど、仕方がない。
人には苦手なものがあるのだ。
「俺は行きたいなー。梨香が隣に座ってくれれば大丈夫だと思う」
おい、悠人、なんだその意味不明な理由は。
「悪いから私も付き合うよ。悠人が梨香の隣なら私は貴文と乗る!」
……こいつ等、結託してないか?
「うーん、本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫!」
白々しい返事だった。
まあ、いいか……。アトラクションで隣に座れないぐらいは我慢してやるよ。
予備校でも、終始こんな感じで中々ふたりで居られなかった。
そんな状況に少しずつ慣れ始めている自分が怖い。
しかし、並んでいる間は結局4人には変わりがなかった。
一ノ瀬とは普通に話せるから、会話をしている時間は悪くない。
無言になるよりはよっぽどマシだ。
他人からはダブルデートにように見えるのかな……?
でも残念ながらひとりだけ低スペックなのが混ざっている。
「楽しみだねー! 何せ世界一だよ、ギネスブックだよ!」
「天国に一番近いコースターだっけ。俺もちょっとドキドキするよ」
彼女の笑顔が見れるのなら全てのことが些細なことだ。
「お前ら、マジか? 怖くないのか?」
「それも含めて『楽しい』なんだよ!」
今日の一ノ瀬はずっとテンションが高い。
やっぱりここに来ることにしたのは良かったと思う。
彼女がとても楽しみにしていたのが手に取るように分かった。
「はい、じゃあここまでです、4人ですか?」
「そうでーす!」
残念ながら、俺たちの直前で定員になってしまったようだ。
……ここではぐれることにならなくて良かった。
内心、分断されたらどうなるか不安だったのだ。
先に降りたふたりで何処かへ行かれてしまったら、探すのも大変だろう。
まあ、流石に分断されそうになったら後ろの人に譲るつもりだったけど。
「じゃあ、一番前は梨香と悠人ね!」
「おおやった! 先頭だ!」
一ノ瀬は大喜びだったが、悠人の表情は険しい。
せっかく先頭車両で一ノ瀬の隣なんだから嬉しそうにしろよ。
俺は仕方なく理絵さんの横に座る。
「ヤバイ……、怖くなってきた」
安全装置が下ろされると、みるみる理絵さんの顔色が悪くなっていく。
「大丈夫か? 怖かったら上に着くまでは目を閉じてなよ」
「それはそれで怖いよ!」
結構必死な声だ。……流石にこうなると心配だな。
そして、コースターはカタカタと高度を上げていく。
……長い。どこまでも上がっていく。正直、少し甘く見ていたかもしれない。
――カタカタカタカタ……。
止まった場所は凄まじい高度だった。遊園地の敷地が全部見える。
そして、富士山は相変わらず美しかった。
「やー、ちょっと待って! マジで待って!」
コースターが止まると理絵さんの絶叫が響く。
うん、これはちょっと怖いね。この高さから落ちるなんて……。
――ゴオオオオ!
風の音が色々とかき消していく。ああ、これは楽しいな。
身体中にかかる風圧が凄まじいスピードを実感させる。
コースターから見える景色は止まることなく、直ぐにコーナーが迫って来た。
「きゃー! 楽しいー!」
一ノ瀬の絶叫が聞こえて来る。
対して、理絵さんと悠人はもはや黙り込んでいた。
……やっぱり、一ノ瀬の隣に座りたかったな。
「理絵、大丈夫?」
「貴文……怖い、死ぬ」
大丈夫、流石にこの程度で人は死なない。でもちょっと可哀そうだった。
ジェットコースターを降りると道中で撮影された写真が見れる。
一ノ瀬は手を離して笑っていた。流石だ。
悠人と理絵さんは目をつぶっている。そして俺は、普通の顔だった。
……我ながら面白くない。
「あははは! 高木くん、なんで無表情なの!?」
予想外に一ノ瀬は大爆笑だった。まあいいや、お前が笑ってくれるなら。
しかし、悠人と理絵さんはぐったりしていた。
俺と一ノ瀬は顔を見合わせて、ふたりのことを気に掛ける。
「大丈夫か? ごめん、調子に乗って……。少し休もう」
「あっちにベンチあるよ」
俺たちは一ノ瀬が指を指した方向に移動することにした。
「ごめん、梨香の前なら格好つけられると思ったけど……。あの高さは無理だ」
悠人がそう言うのもわかる。俺ですら恐怖を感じる高さだった。
「ごめんねー、私だけ夢中になっちゃったよ」
そう言って、悠人の背中を撫でている。
……看病しているということは理解できるよ。
だけど、一ノ瀬が他の男に触れるのはやっぱり嫌だな。
対する理絵さんはさっきから、ほとんどしゃべっていない。
「大丈夫?」
「酔った……」
仕方なく俺が様子を見る。かなり辛そうだった。
恐るべし、FUJIYAMA、開始早々に戦闘不能者を出してしまうとは。
……っていうか、アレ、今まで乗った中で一番怖かったぞ。
でも、一ノ瀬は「もう1度乗りたい」って思っているだろうな。
この状況だ、流石に言い出すことはないだろう。
どこかのタイミングでもう1度、今度はふたりで乗れれば良いのだけど……。
「悪いから、しばらく3人で回ってきなよ」
身勝手な事を考えていたら理絵さんからそんな提案が出た。
「いや、いいよ、元気になるまで待ってるからさ」
「そうそう、気にしないで」
俺と一ノ瀬はふたりで理絵さんの様子を見ることにした。
「でも……悪いよ、いいから皆は楽しんできて」
「……じゃあさ、理絵の傍には交代で着くようにしようか」
殊勝な理絵さんに悠人がそう提案する。
「えー、でも……」
「いいからさ、貴文、最初はお前な。頼んで良いか?」
一ノ瀬の言葉を遮って、悠人が言った。……結局、こうなるのか。
悠人と一ノ瀬をふたりきりにはしたくなかった。
でも、流石にこれを断る気にはなれない。
一ノ瀬には今日一日、楽しんで欲しかったんだ。
俺となら、いつでも一緒に居られる。だから……。
「分かったよ、仕方ないな」
俺は、そう答えてしまった。
言い出した悠人が残るべきだろ、そう言えない自分がいる。
俺は昔から、そうだった。自分が不利益を被ることに、抵抗が無い。
悠人と俺、どちらと過ごすのが一ノ瀬にとって楽しい時間になるのか。
頭はそればかりを考えていた。
「じゃあ、頼んだぞ!」
「高木くん……」
そして俺は一ノ瀬の手を引く悠人を見送る。嫌だな、こんな自分。
いつか、ふたりが付き合うようになったら……。
俺はずっとこんな気持ちでいなきゃいけないのか。
嫌でも過去の触れられない日々を思い出してしまう。
涙が溢れてくるが、こんなところで流したくはない。
「理絵、大丈夫か? ちょっと待ってな、何か飲み物買ってくるよ」
俺はそう言って、自動販売機へ向かった。
乗り物酔いだからな、麦茶辺りがいいだろう。
ペットボトルを買ったら理絵さんの元に戻った。
「貴文ってさ……、優しいよね」
何故か、しみじみとそう言う理絵さん。
「そうか? 普通だろ」
「いや、なんて言うか……、騙すのが悪いというか……」
騙す……? どういう意味だ?
「ちょっと待って、もしかして、平気なの?」
「あー、うん……。私も絶叫系は好きだから……」
青い顔してたのも、演技だって言うのか?
「……まあいいよ、じゃあ一ノ瀬達と合流しよう」
「待って! 少し酔ったのは本当なの!
ただ悠人と梨香をふたりにしてあげたくて……」
相変わらず、押し付けの善意に巻き込まれたのか。
――嫌な事をされたら、怒って良いんだよ。
神戸さんの言葉が頭の中に浮かぶ。
俺は怒るのが嫌いだ。だから大抵の事は許す。でも一ノ瀬のことだけは駄目だ。
彼女は俺だけではなく一ノ瀬も騙した。それは、どうしても嫌な事だ。
アイツは今日を楽しみにしていた。皆で回りたい、ただそれだけだったんだ。
「理絵さん、何で俺は一番大事な一ノ瀬を放っておいて……。
全く興味のない君と一緒に居なきゃいけないんだ?」
「貴文……?」
突然の俺の反目に、理絵さんは驚いたようだった。
「その呼び方も止めてくれ。俺と君は名前で呼び合うほど仲が良いわけじゃない」
「なんで? ちょっと止めて、なんか怖いよ?」
たちまちに険悪なムードになる。俺だって、こんな風に人に接したくはない。
「そんなの知らないよ。俺は一ノ瀬を探す。そっちは勝手にしてくれ」
「待ってよ! どこに行ったのかもわからないんでしょ?」
理絵さんは俺の腕を掴んで止めた。
「携帯電話がある、電話して聞くさ」
「お化け屋敷だよ! 悠人、ああいうのには強いから……」
言われて、背中に冷たい物が走る。あのお化け屋敷は駄目だ!
「何でそんなところに連れて行くんだ!? 一ノ瀬は暗闇が怖いって話したろ!」
「だって、定番じゃん! 悠人が居れば大丈夫だよ!」
未だに俺を食い止めようとしている理絵さんの腕を振り払った。
「何で人が嫌がることを平気でするんだよ!」
俺は叫んで走り出した。きっともう、手遅れだろう。それでも俺は走った。
「待ってよ、貴文!」
理絵さんは追いかけて来たけど、元運動部の俺にはとても追いつけやしない。
あっという間に見えなくなった。
お化け屋敷に着いたら、すぐに受付をする。
だが、予想外の問題が発生した。
「あの、原則としておひとり様では……」
そんな縛りがあったのか! 理絵さんを置いてきたのが悔やまれる。
「すいません、その……先に入った人が心配で……」
俺が必死に事情を説明すると別のスタッフが出てきてくれた。
「特徴を教えて下さい。こちらで探してみます」
言われて俺は悠人と一ノ瀬のペアを説明する。
「長身で短髪、褐色の男と、長髪で細身、色白の女の子です」
俺が息を切らせながら説明すると、スタッフは優しく対応してくれた。
無線で中に居る人とやり取りをしているようだ。
俺は黙ってそれを聞いている事しか出来なかった。
なんで俺はいつも無力なんだろう。
「どうやら、リタイアされたようで、すでに出られていますよ」
と、教えてくれた。
「ありがとうございます!」
俺は礼を言って、すぐにリタイアの出口へ向かう。
とにかく、一ノ瀬が心配だった。泣いてないだろうか。
アイツは暗闇に加えてお化け屋敷も苦手なんだ。
しかもここは機械ではなく人間が脅かしてくるタイプ、耐えられるわけがない。
全速力で出口に回り込むと、やっと彼女を見つけることが出来た。
声をかけようとして、状況に絶句する。
一ノ瀬は悠人に抱き着いていた。後ろに回した手が彼の洋服を掴んでいる。
もう嫌だ、他の男と一緒に居る姿を見たくない。
それでも俺は、意を決してふたりに近づいた。
「梨香……」
「悠人……?」
ふたりの声が聞こえてくる。
そして、悠人は一ノ瀬にキスをした。その姿は、恋人同士にしか見えない。
まただ。また、真っ白になった。
頭を何かで殴られたみたいに、意識が濁っていく。
立っていられなくて、膝から崩れ落ちる。
辛うじて、地面には手を着くことが出来た。
大丈夫だ。
俺は必死になって、自分にそう言い聞かせた。
悠人と一ノ瀬は3年後には別れる。
そうだ、そういう過去だった。だから、それまで待てば良いんだ。
手紙も指輪も渡してある。就職した後、俺たちはきっとまた会える。
それに、友達関係だって続ければ良い。
そうすれば、顔を見ることも、声を聴くことも出来る。
触れ合うことは難しいかもしれないけど、一緒にいる時間は貰えるはずだ。
だから、大丈夫……。
俺と一ノ瀬は2回しかキスをしていない。
夏の夜と、春先の夜。きっと上書きするのは簡単だ。
生徒会執行部での思い出も、3年間しかない。
ふたりが付き合っている間に、きっと全部、消えてしまう。
「嫌だ……」
言っても無駄なのはわかっている。
どんなに願っても、どんなに頑張っても、失ったものは戻らない。
俺はまた、駄目だった。それだけだ。
後は頑張って、ずっと傍に居れば良い。
あの頃のように、触れられないままでも、傍に居れば……。
「うぐ……」
胸の奥が痛い。絶望が心を支配していく。
そうだ、俺は知っている。あの日々がどんなに辛かったのか。
半年と保たなかった。あっという間に心がズタズタに引き裂かれる。
どうしよう、涙が止まらない。
「うああああ!」
俺は、耐えきれず慟哭した。
みっともない、色んな人に見られている。それでも……止められなかった。
「貴文……?」
理絵さんが息を切らせて走ってきた。そしてこっちを見ている。
ああ、良かったね、君の思い通りになったよ。
そんな皮肉が思いついたけど、もう何も言えない状態だった。
涙がひたすら溢れてくる。
「ごめんね、私……、そんなに梨香のことが大事だったなんて……」
今さら、何を言っているんだ。何度も踏みにじったのは君たちじゃないか。
どうして、そんなに簡単に他人の一番大事なものを奪えるんだ!
憎しみをぶつけてやりたかった。怒鳴り散らして、泣き叫びたい。
でも……俺は知っている。そんなことをしても、何も得るものは無い。
一ノ瀬はもう、返ってこないんだ……。
「貴文、ごめん、俺……」
その声にハッとなる。
「悠人!?」
「俺、お前たちの事、ちゃんと解ってなかった」
そう言った悠人は落ち込んだ顔をしている。
その表情に困惑していると携帯電話が鳴った。慌ててポケットから取り出す。
でも手が上手く動かなくて、地面に落としてしまった。
動揺が全身を駆け巡っている。それでもなんとか拾い上げて、電話に出た。
「高木くん……、どこにいるの?」
一ノ瀬の声が聞こえた。
「一ノ瀬? お前は何処だ?」
「理絵がいたところ……。どこ行っちゃったの?」
彼女の声はかすれていた。泣いている!
「今すぐにそこに行くから、待ってろ」
俺はそう言って、理絵さんと悠人には目もくれずに走り出した。
一ノ瀬のことが、何よりも大事なんだ。
そう思っていたのに……。どうしてこうなってしまったのだろう。
相変わらず、涙が止まらない。けれど、構っていられなかった。
今の感情が何なのかわからない。悲しいでも嬉しいでも切ないでもなく。
ただ、胸の奥が痛かった。一ノ瀬と居ると、いつも知らない感情に出くわす。
「高木くん……!」
ベンチに座った一ノ瀬がこっちに気がつく。
その顔が見えるなり、俺は走り寄って座ったままの彼女を抱きしめた。
「ごめん、一ノ瀬。すぐに追いかけたんだ。だけど……」
「悠人にキスされた……。もう嫌だ、私……」
一ノ瀬は震えていた。俺と一緒だ。
「高木くん……ごめんね、私、最低だ」
「何でお前が謝るんだよ。お前は何も悪くない」
また、俺は一ノ瀬の頭を撫でてあげることしか出来なかった。
「何でそんな風に言えるの!?」
「お前が好きだからだよ」
俺には許す以外の選択肢はない。愛しているんだ。
だから一ノ瀬が幸せになれるのならそれでいい。
「意味わかんない! 好きだったら嫌でしょ、こんなの!
私ね、高木くんがなっちゃんとキスしたって聞いた時、凄く嫌だったの。
高木くんがどんなに私の事を好きでも別れたいって思ってた」
俺は、その言葉を聞いてまた泣いてしまう。
一ノ瀬はそんな俺の頬に優しく手を添えてくれた。
少しだけ冷たいけれど、心地良い温もりが伝わってくる。
「高木くんも、私が悠人とキスしたの、本当は凄く嫌なんでしょ?
私の事、嫌いになってもいいんだよ……?」
頬に添えられた細い手に、俺は自分の手を添えた。
俺は大人だ。だから、大抵の人には過去に別な相手が居る事を知っている。
こんな事を言ってしまったら、まともな付き合いなんて出来なくなるだろう。
でも、多分、目の前の一ノ瀬が望んでいるのは、そういう理屈じゃない。
彼女は感情……、心の話をしているんだ。
「ごめん、お前の言う通りだ。俺はお前を独り占めしたい。
だから凄く悔しくて、悲しいよ……。許せない気持ちが無いと言ったら嘘だ。
でも、俺は一ノ瀬に居なくなって欲しくない。それだけじゃ、駄目かな?」
「高木くんは私の事、許してくれるかもしれないけど……。
私はそういうの絶対に許さないよ? それでもいいの?」
一ノ瀬は俺の眼を真っすぐに見て、そう言った。
「お前、馬鹿なのか? 俺がお前以外の人に惹かれるわけないだろ」
「……ごめんね、高木くん」
彼女はそう言って、俺の胸の中に深く顔をうずめた。
「私、高木くんを泣かせてばっかりだ。駄目な彼女だね」
「ばーか、俺は嬉しくて泣いている方が多いよ。ありがとうな、一ノ瀬」
頭を撫でながら、俺は自分で言った言葉を噛み締める。
「ねえ、高木くん。私の事、好きで居てくれる……?」
「大好きだよ、一ノ瀬。お前の事が、本当に好きなんだ」
そうだ、俺は今、ちゃんと嬉しい。お前に触れて居られる今が大切だ。
「もう少し、こうして居てもいいか?」
「うん……良いよ。特別に許してあげる」
どうやら、一ノ瀬の方は少し落ち着いたみたいだ。
俺たちは涙が止まるまで、しばらくそうして居た。
大丈夫、まだ一緒に居られる。その事がただ嬉しい。
なんだかとても優しい時間が流れた。
「でも、ちょっと恥ずかしいかな」
その言葉で、我に返る。
そういえば、ここは公衆の面前だった。
俺は急に恥ずかしくなって一ノ瀬の隣に座り直す。
「ごめんな、完全に一杯一杯だった」
「ふふふ、いつものことじゃん」
全くもって、みっともない。これのどこが大人なのか。
「でもちょっと残念、今日、凄く楽しみにしてたのにな……」
一ノ瀬は少し寂しそうにそう言ってうつむいた。
きっと、彼女は皆でわいわいと賑やかに遊びたかったのだろう。
今から悠人や理絵さんと合流するのはキツイよな。
まあ、たまにはふたりきりっていうのも悪くないか……。
「お、居た居た! 高木ちゃん、さっそく会えたね」
「なあ、麗子。なんか、凄いお邪魔感がするんだけど……」
このタイミングで茶々が入るのが、実に俺達らしい。
「麗子、康平……?」
「もしかして、何かあったの?」
康平の間の抜けた顔と麗子の心配そうな表情に、心底ほっとする。
「お前らさ、そこで声かけちゃ駄目だろ?」
後ろからやって来たのはサングラスをかけた神戸さんだ。
「ろっちさん……?」
顔を上げた一ノ瀬は神戸さんをみて即座に判別する。
やはり、サングラスに彼が期待する効果など微塵も無かった。
速攻で正体を見抜かれているぞ。
「梨香ちゃん、違うよ? 俺は不良の番長、『神戸さん』だ」
「あはは、いつも面白いねー」
なんだろう。何も面白い事はないのに、彼が作る空気は確かに面白かった。
「ねえ、高木くん! 私、もう1回、FUJIYAMAに乗りたいな!」
一ノ瀬は意地悪そうに、そう言った。すっかり元気だな。
彼女は「女の子の顔」を俺には見せてくれない。
でも、この「悪い顔」はきっと、俺にだけしか見せないのではないか。
なんとなくだけど、そんな気がした。
どっちかって言うと……、俺はこっちの顔の方が、好きだな。




