第92話:皆の前では結構ハツラツとしている
一ノ瀬と理恵さんが俺の大学に来ることになった。その前日。
俺は事情を友人に話すことにした。
「ふむ、……ようするに、俺に不良の役をやって欲しい、と」
「いや、誰がそんなことを言った」
神戸さんはむしろ、不良の役をやりたがっているようにしか見えない。
「学校案内かー。そう言っても私たちもそんなに詳しくないよね?」
麗子の言うことはもっともだ。俺たちはまだ入学したての1年生である。
「まあ、そっちは来てみれば何とかなるんじゃね?」
康平はいつも通り、能天気である。
「それにしても、イケメンのライバルか……。高木ちゃんも大変だね」
「恋に障害はつきものなのだな……」
麗子と神戸さんは真剣に話を聞いてくれた。
正直言って、相談するのは恥ずかしい事だ。
だが、今の俺に出来ることは全てやりたかった。
些細な事でも構わない。何か突破できる方法があるのなら知恵を貸してほしい。
長く生きたのは間違いないが、俺の恋愛経験は大したことが無いのだ。
「ところでさ、ふたりはどこまで進んでいるの?」
康平の無邪気な質問を受けて、俺は言葉に詰まった。
そうだな……ずっと棚上げにしていたけど、これも俺が抱える問題の一つだ。
でも出来るなら言いたくないなあ。こんなこと、他人に話したくない。
「……Aまでだ」
俺のその言葉を聞いて、康平が右手をすっと差し出した。
「よかった。お前と俺は、まだ友達だったんだな……」
「あー、うん……」
仕方なく俺はその手を固く握った。
この場合、どうなんだろう。俺は経験が無い、と言うことになるのかな。
「高木ちゃん……、確かさ、付き合って2年って言ってたよね?」
「ああ、もうすぐ2年半かな」
麗子の目つきはちょっと怖かった。
俺の認識では付き合ってから1年弱だ。でも一ノ瀬はそうじゃないだろう。
「変じゃない? 本当にその子のこと、好きなの?」
「うん、そうだよ」
意図していることはわかる。そうだよな、ちょっとおかしいよな。
「まあ、俺も付き合ってから半年かかったから、一概に変とは言えないさ」
神戸さんは一応、理解を示してくれた。
「お前らなあ! 高校生なんだから、してなくてもおかしくないだろ!」
「康平は少し黙ってなさい!」
康平は麗子に言われて大人しくなる。俺もどっちかって言うと康平派だよ?
「女の子だって不安になることもあるんだよ。そこはもうちょっとさ……」
「まあまあ、麗子。高木君も馬鹿じゃないんだから大丈夫だよ」
神戸さんには馬鹿じゃないと言われたが、俺も少しは不安だった。
一ノ瀬がそういうことを望んでいるとは思えない……わけじゃない。
過去の世界で一緒に暮らしている時を思いだせば、そう思える。
抱きしめて欲しいと言われたことだってあるんだ。
「アイツが大学に合格するまでは、待とうと思っている」
これが、俺の気持ちだった。
今は余計なことを考えさせたくない。
もちろん、彼女が望むのなら話は別だ。でもきっと、今はまだだと思う。
自然体で一緒に居られる状況を壊してまで、その先へ進もうとは思っていない。
「高木ちゃん……。それは難しいよ?
待っている間に取られちゃったら、後悔すると思う」
麗子は静かにそう言った。
「高木君、大事にするのは良いことだ。でもそれは危うい。
人間はね、新しい物の方が良いものに見えるんだ」
神戸さんも、その言葉に続く。
ふたりの言い分は、とても正しいものに思える。
手を出さないことが大切にする、というわけでもないだろう。
全ては一ノ瀬の望むようにしてあげたい。
俺が一ノ瀬にあげられるものは安心だけじゃない、そう思いたかった。
「分かった。機会があれば、挑戦してみる」
「高木ー! 複雑な気持ちだけど、俺は応援するからな!」
康平の暑苦しい応援も、何だか嬉しかったな。
でも、もし……。彼女が俺ではなく悠人と一緒に居たいと言ったなら。
俺はそれを受け入れる覚悟もしておかなければならない。
――そして、大学見学当日。
俺と一ノ瀬は大学の最寄り駅で待ちくたびれていた。
「おはよー、梨香、貴文!」
そう言って声をかけてきた理絵さんは30分ほどの大遅刻だ。
「理絵! 遅いよ!」
「あははー、ごめんね!」
遅刻魔の一ノ瀬が遅刻した理絵さんを怒っている。
なお、俺は一ノ瀬の最寄り駅まで迎えに行っていた。
もちろん、彼女も10分程遅れている。が……理絵さんは規格外だった。
「普通、連絡するよね?」
「だって、電車に乗っちゃったんだもん」
こうしてみると、一ノ瀬が随分と真っ当に見えるから不思議だ。
「まあ、ほら、約束を忘れちゃったとかじゃないからさ、許してよ」
今、さらっと、とんでもないことを言わなかったか?
どうやら彼女、約束したことを忘れることがあるようだ。
流石にそれは酷すぎるだろ。ちゃんと手帳を持ち歩きなさい。
「ところで、ここから結構歩く?」
理絵さんは速攻で話題を反らした。こういうところは上手いな。
まあ、待っている間は一ノ瀬とふたりきりだったのだ。
俺としては別に、その時間は悪くなかった。
「10分かからないぐらいかな」
そう言ってふたりを先導する。
駅前から人通りや交通量の多い大通りを歩くとすぐに看板が見えていた。
そこから少し狭い歩道を進めば正門だ。
特に警備など無く、学生証を提示する必要もない。
俺達はあっさりと学内に入った。
「こんなに普通に入れるんだ」
「ね、拍子抜け。もうちょっと忍び込む感じだと思ったのに」
女子ふたりがガッカリしていた。一体、何を期待していたのか。
「とりあえず、カフェテリア行くぞ」
そう言って、俺は正門から大通りを進み、大学会館を目指した。
カフェテリアと言えば聞こえが良いが、普通の学生食堂である。
道中でざっと掲示板や建物の説明をしておく。
理絵さんは興味深そうに聞いていたが、一ノ瀬は退屈そうだった。
……まあ、そうだよな。
「おー、高木! そのふたりがこの前言ってた子か!」
康平がこちらに気づいて声をかけてくれた。
単位の取り方にもよるが、大学の授業には空き時間というものが存在する。
俺達は大抵、カフェテリアで時間を潰していた。
「いいなー、ふたりとも可愛いじゃないか!」
そう言いながら席をあけてくれる康平。割と気配りが出来るヤツである。
俺は空いた席にふたりを誘導しつつ、麗子と神戸さんの対面に座ることにした。
馴染みの顔にほっとして一息をつく。
「お疲れ様」
麗子が優しい表情で答えてくれた。
「えっと、こっちが一ノ瀬 梨香。で、こっちが橋元 理絵」
俺は適当にふたりを紹介した。
「で、これが神戸 聡、この人が杉本 麗子」
「高木ちゃん、紹介が雑」
麗子に文句を言われてしまったが仕方ない。俺はこういうの、苦手なんだ。
「俺は武村 康平ね、よろしくー」
「あの、よろしくです……」
一ノ瀬は相変わらず人見知りだった。
「ねえねえ、貴文! 私、メニューとか見てきたいんだけど!」
「ああ、分かったよ。康平、理絵を案内してあげて」
俺は一ノ瀬が心配なので、ここから動きたくない。
「おう、いいぜ。ついてきなよ、理絵」
康平も順応が早い。アイツも割と、イケメン属性だよな。
「えーっと、ろっちくん?」
一ノ瀬は神戸さんを指さしながら俺に問いかける。
「いえ、違います。神戸です。
俺は歳上だから、ちゃんと『さん』を付けて下さい」
神戸さんは明らかに笑いを取りに行っている。
「あははは、聞いてた通り、おもしろい人だね。ろっちさん?」
「惜しい! でも、いい子だ。『さん』を付けてくれたのは評価に値する」
人相は悪いけど、表情は柔和なんだよな、神戸さん。
「ねえねえ。いい子って言ってたよ! 褒められた!」
何故か俺の方ばかり見ている一ノ瀬。まだ人見知りしているな。
「……可愛い。高木ちゃんってこういう子が趣味だったんだ!」
「ま、待て麗子、理絵さんに聞かれたら困る」
俺と一ノ瀬が付き合っていることは理絵さんには伏せたままだ。
……本当に、これのせいで面倒なことになったと思う。
やはり、正直に話すのが何事も一番なのだと思い知った。
「ん? どうした一ノ瀬?」
一ノ瀬は何故か赤くなっていた。
「麗子ちゃんも美人だね。高木くんの言ってた通りだ」
ああ、褒められて嬉しかったのか。何故か小さな声でそう言った。
「ふーん、高木ちゃん、私のことは美人だと思ってくれてるんだ?」
「あっ、馬鹿、一ノ瀬。余計な事を言うな」
俺の方も赤くなってしまう。
「えー、いいじゃんー、本当のことなんだから」
悪そうな顔で答える一ノ瀬。どうやら、いつものペースに戻ってきたようだ。
「一ノ瀬さん、俺のことはなんて聞いてるのかな?」
「おい、やめろよ、ろっち」
これ以上、余計な事を言われたら困る。
「あ、梨香でいいですよ、ろっちさん。確か……『ちっちゃい人』、だっけ?」
「高木君、君は俺の心の大きさを知らないからそんなことを言うんだよ」
どうやら、一ノ瀬はちゃんと言葉を選んでくれたようだ。
この場に笑いが起こって、和んだ。
「なんだかんだ言って尊敬できる人」みたいな台詞を言われたら白けてしまう。
この場合、後で困るからな。
「あー! 何笑ってるの? 私も混ぜてよー」
その間に理絵さんと康平が戻ってきた。
「面白いものあった?」
「うどんが200円だった!」
理絵さんは若干、興奮気味だ。
カフェテリアの食べ物はピンキリである。
うどんは200円で安いけど、定食は500円を超えるものも多かった。
そして、美味しいとは限らない。
「あれー、女子多いね、どうしたの?」
声をかけてきたのは同じJ2クラスの田中君だ。
「学校見学だよ。うちを受験するんだってさ」
「橋元 理絵でーす。よろしくお願いしまーす」
だから、理絵さん。いたいけな理系男子の腕に触るのを止めなさい。
……彼女、この大学に来たら大変なことになる気がする。
耐性の無い男子、多いぞ、多分。
結局、俺たちはカフェテリアでひたすら談笑をすることとなった。
「この後はどうする? 4限はたしか大教室だ。授業受けてみるか?」
「えっ、いいの!?」
理絵さんは目を丸くして答えた。
本当は駄目である。授業料を納めていない人が受けて良いわけがない。
しかし、大教室は学生が200人ぐらい余裕で入る。
当然、座席も決まっていないし、空きも結構多い。
出席確認は授業中に回ってくる用紙に署名するだけだった。
今はきっと、電子化されているからこんなこと出来ないだろうな。
「一ノ瀬はどうする? 流石に90分は退屈だろ」
ここで一ノ瀬が帰ると言ったら、俺は康平に理絵さんを任せるつもりだった。
「んー、せっかくだから見てみたいかな。問題集持ってきてるから大丈夫」
流石だ。じゃあ、いいか。学内で一緒に居られるのもちょっとレアだしな。
そんなわけで俺たちは6人で大教室に向かうこととなった。
「へええー、すごいなー。なんか大学生になったみたい」
理絵さんがそう思うのも無理はない。
教卓を中心として円形に机が配置された大教室はなかなか絵になる。
まさに、大学生の授業、といった風景だ。
……だが、実際にはあまり大教室は使われていない。
専門分野となる必修科目は席が決められた古臭い教室で受けることが多いのだ。
そして3年生になり、研究室に配属されると授業を受けることも少なくなる。
「……いいなあ、私も早く大学生になりたいな」
一ノ瀬が問題集を解きながら、ぼそりと呟いた。
「大丈夫、きっと来年はなれるよ。俺はお前が頑張っているのを知っている」
こんな言葉、気休めにしかならないだろう。それでも一ノ瀬は頷いてくれた。
なお、理絵さんはすでにぐっすりとお休みになられている。
……まあ、途中から受ける授業なんて意味わかんないよね。
「んー! 楽しかった。なんか、いいねー、この大学」
特に何もしていないのだけど、楽しんでもらえたようで良かったよ。
あの後、いくつかの施設を説明し、何人かの友人を紹介した。
基本的にこの大学は特に優れた部分は無い。
でも、何となく良い人が多いように思える。
「よし、じゃあ帰ろうか」
「えー! 折角だから飲みにいこうよ!」
俺が撤収しようとすると、康平が声を荒げた。
……まあ、わかる。折角、女子もいるのだ。
俺だって行けるのなら行きたい。
「ごめん、でも一ノ瀬は受験生だし……」
「まあまあ、たまには息抜きも必要だよ!」
理絵さんは見事に乗り気だった。しかしなあ……。
「一ノ瀬、どうする? お酒はちょっとアレだよな」
「うーん……、ちょっと行きたいなー、私。でも駄目だよね」
一ノ瀬が飲めることは知っている。そして、本人も行きたがっているのだ。
だけど、こういうのは良くないと思う。
新しい遊び方を覚えたら、もう一度、と思ってしまうだろう。
もちろん、一ノ瀬が大学生になっていれば問題ない。
でも、今は……。
「なあ、飲み会じゃなくてカラオケにしないか?」
「おー! いいね!」
一ノ瀬の顔がパッと明るくなった。
「高木! 俺たちがカラオケボックスで飲むのはいいよな?」
「それはもちろん。でも、一ノ瀬には飲ませるなよ」
康平は酒が飲めればそれで良い、といった感じだ。
「えー、私は?」
「理絵は好きに飲むと良い」
そもそも、俺は誰に対しても制止する権限は無いのだ。
「やったー!」
「よし、じゃあD大の稲葉と呼ばれた俺の美声を披露するとするか」
神戸さんがまた盛大な冗談を言った。
「誰が呼んだんだ?」
「主に、俺だな」
彼は後にこの言葉を後悔することになる。
何故ならば俺が事あるごとに自称、「D大の稲葉」と彼を紹介するからだ。
ただ、彼の凄いところはその過大過ぎる広告でも通用してしまうところである。
そして、俺達は大学を出て最寄り駅方面へ向かった。
夕方から夜に差し掛かる時間だ。居酒屋もすでに開店していた。
後ろ髪を引かれつつ付近のカラオケボックスに入る。
「すごーい! ろっちさん、上手い!」
自称、「D大の稲葉」は一ノ瀬も絶賛だった。
何を隠そう、俺のカラオケ1000本ノックに付き合ってくれた友人は彼なのだ。
彼と知り合えなければ、俺は今でもマイクを持つ手が震えていただろう。
……これも一ノ瀬のための努力だったな。
「梨香も少しぐらい飲んだら?」
理絵さんはそう言って一ノ瀬の前にファジーネーブルを差し出す。
「こらこら、止めなさい」
俺はそれを突き返した。
「もー、貴文は過保護だよ!」
むくれている顔は可愛いな。
でも、それはその通りかもしれない。
一ノ瀬もお酒には興味があるようで、少し寂しそうにしていた。
胸が痛む。けど、これは本当に良くない物なのだ。
俺はそれを嫌というほど知っている。
「高木ちゃんも飲まないんだ?」
麗子はこっそりとそう聞いてきた。
「一ノ瀬に我慢させて俺だけ楽しむなんて出来ないよ」
「ふふっ、そりゃそうか」
何故か満足そうだ。ちなみに彼女もお酒はとても強い。
楽しそうに歌っている一ノ瀬を見てほっとする。
相変わらず上手いな。アイツの声、本当に好きだ。
またモニターでは無く、彼女の顔ばかり見てしまった。
「おー、梨香ちゃんも上手いね!」
「本当!? 凄い嬉しい!」
俺が褒めてもあんな顔はしない。
「ねー、高木くん、聞いた!? 上手いって!」
「うんうん、俺もそう思うよ」
……普段からほめ過ぎているのも良くないのかな。
「高木くんは音痴だからなあ」
そういうことですか。
結局、6人で歌うと2時間はあっという間に過ぎてしまった。
お酒を飲んでいた連中はすっかり出来上がっている。
「2次会いくぞー!」
康平の言葉にその場の雰囲気が賛同する。
やはり、こうなったか……。まあ、仕方ないよな。
お酒を飲むということは馬鹿になるということだ。
「ごめん、俺達はここで帰るよ」
「えー、ノリ悪いなあ!」
理絵さんに突っ込まれてしまった。彼女もそれなりに飲めるようだ。
「私はひとりで大丈夫だから、高木くんは行ってきたら?」
「お願いだから、そんな悲しい事を言わないでくれ」
結局、俺はいつものように頼むしかない。
「もう、しょうがないなあ」
一ノ瀬も、いつも通りに答えてくれた。
「じゃあ、またね!」
「おう、明日なー!」
俺達は手を振って4人と別れた。
「理絵、置いてきちゃって大丈夫かな?」
「麗子もいるし、あのメンバーなら大丈夫だよ」
間違いが起きるとは思えない。
カラオケボックスから最寄り駅はすぐだった。
俺達は電車に揺られながら会話をしている。
帰宅ラッシュは終わり、車内は空いているとは言えないまでもゆとりがあった。
もちろん、一ノ瀬の門限には余裕で間に合う時間だ。
「……麗子ちゃん、美人だったよね」
「モデルみたいだよな、初めて会った時はビックリしたよ」
何だか少し不機嫌な顔をしている。心配だな。
「高木ちゃんとか呼ばれて、デレデレしてたよね?」
「してないよ!? 大体、さっきだって俺はお前のこと見てたし……」
言い訳をしている最中に気が付いた。コイツ、また俺で遊んでいるな。
「ふーん? また私のこと見てたんだ?」
悪そうな顔をしている。でも、この表情すら可愛いと思ってしまうんだ。
「なんかごめんな……、今日は遅くなっちゃって」
「それはいいよー、だって、凄く楽しかったし! やっぱりカラオケはいいねえ」
なんだか晴れ晴れとした顔をしている。少しは息抜きになったかな。
「でも、本当は私も2次会とか行きたかったな……」
やっぱり、そうだったのか。そうだよな、一ノ瀬も遊びたいはずだ。
「ごめん、余計なことしちゃったか? お酒とかもさ……」
いくら彼氏だからとはいえ出過ぎた真似をしたかもしれない。
「ううん、高木くんが居なかったら、私、流されちゃったと思う。
むしろ止めてくれてありがとうね」
やっぱり、寂しそうな顔をしている。
「でもなんか、高木くんが遠くに行っちゃった感じするなあ」
「えっ!? そんなことないよ! 俺は何も変わってない」
遠い目をしないでくれ。俺はすぐ近くに居る。
確かに高校時代より、一緒に居る時間は減ったと思う。
だけど気持ちは少しも変わっていなんだ。
一ノ瀬と離れたくない。ずっとそう思っている。
「新しい友達作って、大きな教室で授業して、お酒飲んで……大学生って感じ!」
「いや、まあそれはそうだけど……」
俺は必死になって考えた。一ノ瀬が今、何を思っているのか。
「楽しそうで安心した。ちょっと羨ましいよ。
私、もし生まれ変わったら高木くんと同じ大学行きたいなー」
「そんなの……生まれ変わらなくても出来る。お前ならうちの大学は合格するよ」
医学部にさえ拘らなければ、一ノ瀬の学力は十分に高い。
やっぱり、大学に来てもらうのは良くなかったかな。
きっと、彼女の中では時計が止まっているのだ。
そして俺の時間だけが動いている。そんな風に思ってしまったのかもしれない。
「ううん、違うの。麗子ちゃんに康平くんにろっちさん。
あの輪の中に、私も居たかったな、って。だから来年受けても駄目なんだ」
「そっか……。そう思ってくれたのは、凄く嬉しいな。皆にも言っておくよ」
あの場所は、とても居心地が良い。一ノ瀬もそう思ってくれたのだろう。
「うん、伝えておいてくれると嬉しいな……」
「だけど、それだったらいつでも叶えられると思うよ。
一ノ瀬が遊びに来れば良いだけだ。皆も喜んでくれるよ」
きっと遊び相手が増えたと喜ぶだろう。
「飲み会だけじゃなくて、バーベキュー行ったり、旅行行ったりさ。
お前も一緒について来れば良い。誰も迷惑だと思わないよ」
「そっか……。いいなー、それ。凄く楽しそう!」
良かった、笑ってくれた。一ノ瀬にはいつもこの顔でいて欲しい。
それから、俺は未来の話をたくさんした。彼女が悲しくならないように。
話をしていると電車に乗っている時間も短く感じる。
気が付けば、彼女の最寄り駅だった。
「また家の近くまで行っても良いか?」
「えー、ここでいいよ!」
一ノ瀬は改札口で別れようと提案する。
「その、ごめん……。ちょっとでも長く一緒に居たくてさ。こういうの、嫌か?」
「もう! しょうがないなあ」
その言葉に安心した。
春も深まって、夜でも気温はかなり高くなっている。
ふたりで歩く時間も、俺にとっては嬉しい時間だ。
「……なんか、私、高木くんに貰ってばかりだな」
「いや、それ、むしろ俺の台詞なんだけど」
一ノ瀬にはいつも、暖かい時間を貰っている。
「何でよー! 私、何もあげてないじゃん」
「今、この時間だよ。俺は一緒に居られれば、それで良いんだ」
これ以上に、欲しいものなんてない。
「高木くんは時間もお金も、友達まで私にくれようとしてるのに……」
「そんなの、気にしなくていいんだよ」
こういっても、彼女は気にしてしまう。
神戸さんの言葉を思い出してしまった。
――片方が無理し続ける関係って、いつか必ず壊れるものだと思う。
俺は無理をしているつもりはない。
けど、きっと一ノ瀬にはそう映るのだろう。
「じゃあさ、今度、俺の家に遊びに来てくれよ」
「高木くんの家?」
少しぐらい、我儘を言うことにした。
「大学に受かってからでもいいからさ。1日中、一緒に居たい。ご飯も作るよ」
「……エッチなこと考えてない?」
流石に女の子だけあって鋭いな。
「考えてる。俺は、お前が欲しい」
「うわー! 何それ、絶対行かないよ!」
引かれてしまった。ちょっと傷つくな。
「うん、怖いなら、それでも良い。でも俺は、お前とそうなりたいんだ」
「別に怖いわけじゃ……。まだ、そういうのは考えられないというか……」
うろたえている姿も可愛い。ちょっと癖になってしまいそうだ。
「ん……!」
だから、また頭を撫でてしまった。
「もしも、一ノ瀬が俺に何かをしたいと思うなら。遊びに来てほしい」
「……分かったよ。考えとく」
これは、難しい答えだな。まあ、最初から期待はしてなかった。
「それでいいよ。その気になるまで待ってるからさ」
「高木くん……」
これで少しでも彼女の劣等感のようなものを拭い去れれば良いのだけど。
俺にはこんなことぐらいしか思いつかなかった。
傍にいられるだけで、本当に十分だ。俺は一ノ瀬が居ない日々を知っている。
だから今は本当に幸せなんだ。この気持ちがどうしても伝えられない。
「えいっ!」
掛け声ととも腕が引かれた。そして頬に何か冷たい物が触れる。
「今日のお礼! じゃあ、またね……!」
「あ、ああ。またな!」
表情は見えなかった。気が付くと後姿だ。
思わず立ち尽くして見送ってしまった。
……一ノ瀬さん。そこは頬じゃなくて唇にして下さいよ。




