2-5
「竜の涙」に異変が生じたのは、魔獣が増え始めて半年ほど経過した頃だった。
物見の塔から東南方面を向くと、険しい山々と豊かな緑に包まれた巨大な湖の一部を見ることが出来るのだが、アーノルド様はその日「竜の涙」を一目で捕捉することが出来なかったという。
「あの湖は天竜族の祝福を受けているおかげで、真冬でも雪を被らないからすぐに見付けられるはずなんだが……いつの間にか、ヘーゼルダインの景色に同化してしまっていてな」
湖を囲む木々は樹氷に飲まれ、陽光を反射して煌めいていた湖面にも分厚い氷が張っているのか、その存在を全く主張してこない。
かつて生命の源泉とまで謳われた地が、静かに死にゆく様を見ているような──物見の塔に上るたび、落ち着かない気分になるとアーノルド様は語った。
確かに、それは言ってしまえば湖を保護していた天竜族の力が、何らかの要因で消えてしまったとも捉えられる。代々「竜の涙」を守ってきたヘーゼルダインの城主としては、看過を許さぬ由々しき事態に違いない。
「つまり『竜の涙』に棲みついた魔獣が、湖を凍らせてしまった、ということですか……?」
「詳しくはまだ分からんが、そう仮定するなら辻褄が合うとは思わないか?」
天竜族の加護すら打ち破ってしまう強い力を持った魔獣が、湖の周辺を縄張りにして繁殖を続けている──それも凄まじい速さで。不気味な話だが十分に有り得るだろう。
私はごくりと唾を飲み込み、真剣な面差しで地図を見詰めるアーノルド様に尋ねた。
「もしかして、北部の雪がまだ解けてないことも関係あるんでしょうか」
「ああ、恐らく。今年は特に寒気が長引いて…………寒いか?」
「あっ、あ、大丈夫です、薪は足さなくていいです」
ふと眉間から力を抜いたアーノルド様が暖炉の方を見たので、両手を広げて彼の視線を遮っておく。
「そ、それでどうするつもりなんですか? これから『竜の涙』を調べるなら、ええと、私も微力ながらお手伝いしますし」
補佐官のエルヴェからは即座に断られたが、このような不穏な状況を聞いて「はいそうですか頑張って」となる人間がいるだろうか。本物のケイトリンお嬢様だってきっとここは……邪魔にならないように実家へ帰るかもしれない。
いやいやそれはともかく、私個人の気持ちとしてはアーノルド様の力になりたかった。彼を騙している罪悪感ゆえではなく、フォルナート国民として彼を支えられるなら光栄だし、彼を手伝うことで魔獣の被害も減るかもしれないし。
──そうよ、私みたいな被害者はもう出しちゃいけないでしょ。
過去を思い出して下向きかけた気分を、私は頬を叩くことで持ち直させた。
「アーノルド様が何の憂いもなく調査できるように、お城の留守番でもなんでも……!」
「それならリーン、一つ聞きたいことがある」
ぺちぺち叩いたせいで赤くなった頬を、アーノルド様の手がそっと撫でる。そのあまりに優しい手つきに、私の頬は腫れとは別の赤みを帯びてしまった。
途端に大人しくなった私をどう思ったのかは知らないが、鋼の瞳には微笑が浮かぶ。そして──。
「ひぐっ」
きゅっと右手を握られた瞬間、またあの痺れるような感覚が全身を駆け巡った。
一体何なのだろう。昨日もアーノルド様と手を繋いだら、まるで静電気に触れたような些細な痛みに襲われたことを思い出す。
私が不可解な面持ちで右手を凝視していると、アーノルド様の低い声が耳朶を打った。
「リーン、魔法は使えるか?」
「……えっ」
予想していなかった問いに、ぎくりと頬が引き攣る。
魔法は、使えることには使える。
この大陸には生まれつき体内に魔力を保有する人間がいて、それを魔法として昇華させた人々を魔道士と呼ぶ。実は私もその内の一人なのだけれど、胸を張って魔導士を名乗れるほどではなかった。
魔道士は自身に流れる血ごとに、魔力の属性が予め決まっていると聞く。たとえば火や風、水に土など……貴族の間では、その属性にあやかって爵位名を授けられることもよくあるのだとか。
そして魔法とはつまり、己の魔力に適応する精霊を召喚して、初めて発動するものなのだが──。
「あ、あの……私、魔力はあるんですが……応じてくれる精霊が、いなくて、ですね……」
悲しいことに、何故か私の魔力はどの精霊にも適していなかった。
私に魔法のいろはを教えてくれた育ての親──叔父のレジスによれば、こういった現象は稀にだが起こり得る。初めは無理でも十年後か二十年後、急に自分と適合する精霊が現れて魔法が扱えるようになった、なんて事例は過去に幾度も確認されているそうだ。
ただ、その明確な理由や適合精霊を探し出す方法などについては、未だ何一つ分かっていない。
「でも少しだけ、適合精霊でなくとも力を貸してくれることがあるので、全く魔法が使えないというわけじゃ……」
ろうそくに小さな火を灯したり、ぬるい水を冷やしたり、吐息ぐらいの風を吹かせたり、指折り数えてみて虚しくなってきたが、取り敢えずその程度の魔法なら私も扱える。
と、少しの焦燥感に駆られて使用可能な魔法を挙げていたら、数える手をそっと掴まれた。
「リーン。私は別に責めていないから、焦らなくていい」
「あ……」
「それに適合精霊が未発見ということなら……可能性はある」
言葉の真意を問うようにアーノルド様を見上げてみても、彼は曖昧な笑みを刻むだけだった。
「とにかく無用な心配はするな。もしも私の留守中に魔獣が侵入したとき、魔法が使えるからと無茶をされる方が困る」
「は、はい。あの、じゃあそういうときはどうすれば……」
「エルヴェの指示に従ってくれ。彼は優秀な魔導士だから」
もしやエルヴェも戦闘員だったのかと、私が意外な気分で頷いたとき。
ひょいと体が抱き上げられた。
何だこれは。噂に聞く姫抱っこかな?
急な展開に戸惑い、腹筋を使って姿勢を維持しているうちに、アーノルド様は素知らぬ顔で寝所の扉をくぐり、どさりと私をベッドの上に横たえてしまった。
え? まさか、え? 初夜の仕切り直し?
いやさすがにまだ夕方だしそれはないと思うけどでも初夜をすっぽかした責任が私にはあるわけで!
「さて、寝るか」
「ひぇえ!? ちょっと待っ──」