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結婚適齢期に達すると、貴族のご令嬢は特殊な理由がない限り社交界に顔を出すようになる。そこで家門の得になるような結婚相手を探すのだ。
下から数えて二番目の子爵家の娘であるケイトリンお嬢様は、出来るだけ位の高い男性を捕まえなくてはいけなかったのだが、ここで彼女は天賦の才を発揮する。
白い肌を際立たせる濡羽色の髪に、十代半ばとは思えぬ蠱惑的な微笑み。男を惑わせる甘い言葉の数々を駆使した結果、ケイトリンお嬢様は社交の場で常に紳士から囲まれるようになったのだ。
確かに子爵家にはほとんど毎日と言ってもいいほど、お嬢様宛てに贈り物が届けられていた。あれは彼女が骨抜きにした複数の殿方からの貢ぎ物だったらしい。
「いやでも十五股って何!? そんなにあれこれキープできるものなの!?」
「はい。家督を継げない次男坊は特にコロッと落ちると仰っていました」
「ま、魔性の女ケイトリン……! それでも王子殿下と結婚したいのね?」
「ケイトリン様の本命は王子殿下のはずですので」
王子妃ともなれば社交界をある程度は掌握する力が必要だろう。その点、ケイトリンお嬢様は十分に基準を満たしているのかもしれないが──さすがに十五股は如何なものか。あまり派手に遊んでいたら純潔を疑われてしまうのに。
「って……だから何となく距離を感じるのか……王都で遊びまくってた女が来たんだものね……そりゃ近寄りがたいわ……」
アーノルド様も驚異の十五股について知っているのだろうか。婚約を受け入れるにあたって身辺調査は行っているだろうし、諸々を承知の上でケイトリンお嬢様を引き取ったのなら器が大きすぎる。
改めて今朝のゆったりとしたアーノルド様とのやり取りを思い返しては、意図せず唸り声が漏れた。……彼の名誉を守るためにも、やはり三ヶ月で離婚するべきだと。
既に城の者たちからの私に対する好感度は低めのようだし、このまま無難に過ごして「辺境伯領に馴染めないので実家へ帰らせていただきます」の流れを目指そう。
「アーノルド様も城を空けていることが多いみたいだし、夫が構ってくれないって理由で離婚したがっても不自然じゃないわよね?」
「はい、ケイトリン様のイメージと概ね一致するかと」
タルホのお墨付きも貰えたところで、私は手に持ったままだった香炉の蓋を閉じた。
ウォード子爵とケイトリンお嬢様、どちらの要望を叶えるべきかと悩んでいたが、相手方の迷惑を考えれば離婚一択。今日からは良くも悪くもない存在感の薄い辺境伯夫人を目指し、つつがなく離婚できるよう準備を整えるのみだ。
──なんて決意したときの私は、とんでもなく呑気だったのかもしれない。
昼過ぎになると、ヘーゼルダイン城は吹雪に包まれた。
分厚い硝子の向こう、縦横無尽に吹き荒れる豪雪と暴風を、私は口を開けて眺めていた。
「凄い雪……」
今朝は雲ひとつない快晴だったのに。混ざりけのない濃い藍色の空が、今は大地との境界ごと灰色に塗りつぶされてしまっている。
時折、群れからはぐれた綿のような雪が硝子にはりついて、魔石の熱で溶けていった。
「奥様、辺境伯様がお帰りになりました」
「あ、ありが……」
アーノルド様の帰還を知らせに来た侍女は、私の返事を待つことなくさっさと玄関口へ向かってしまう。連絡してくれるだけマシかと、私は苦笑いを浮かべつつその後を追った。
エントランスへ着くと、冷たい風が私の上衣を揺らした。開け放たれた大扉から雪風が入り込み、それを振り切るようにして討伐に出た騎士たちが屋内へと戻ってくる。彼らは荒れに荒れた天気を嘆きながら、体にまとわりついた雪を払い落としていた。
「城主様! 早くお入りください!」
そんな声に応じて、最後に屋内へ入ってきたのはアーノルド様だった。
厚手の外套を脱ぎ、雪と同じ真っ白な髪をくしゃりと掻き上げた彼が、不意にこちらを見上げる。ばっちり目が合ったことに気付き、私は慌てて階段を下りた。
「お、お帰りなさいませ。アーノルド様」
ぎこちない挨拶をすると、周囲から窺うような視線が寄越される。辺境伯に仕える騎士たちにも、自己紹介がてら労いの言葉をかけるべきかと悩んだ瞬間だった。
──閉じられていく大扉の隙間、吹き込む雪とは別の何かがこちらへ向かってくる。
人でもなければ動物の気配でもない。明確な意思を持った足取りに全身が総毛立ち、私は弾かれるようにアーノルド様の腕を掴んだ。
「アーノルド様っ、後ろッぬぁれ!?」
しかし彼を大扉の前から突き飛ばそうとしたはずが、逆に背中を抱き込まれて身動きが取れなくなる。混乱する私を器用にも片腕で押さえ込んだまま、アーノルド様は腰に佩いた白い剣を引き抜いた。
柄と鍔、そして刃に至るまで純白を宿した美しい剣に、私の呆けた顔がちらりと反射する。
刹那、視界に一筋の稲妻が走った。
「うわ!?」
閃光が弾け、大きな破裂音が鼓膜を叩く。
同時に獣の唸り声が地へと落ちれば、エントランスにどよめきが広がった。
「城主様! お怪我は……」
「ない。……仕留め損ねた魔獣だ。やはり後をつけていたらしいな」
アーノルド様と騎士たちの会話を聞きながら、私は恐る恐る顔を上げる。
そこには毛深い猿のような魔獣が、長く強靭な四肢を投げ出して息絶えていた。私が王都近辺で討伐していた小型の──狼に似た魔獣とは全く異なる姿だ。
私よりも体躯の大きいこの魔獣が、吹雪に身を隠し、退却するアーノルド様たちの後を追ってきたのかと思うと背筋が冷える。
そして、今しがた一撃で魔獣を屠ったアーノルド様に対しても、私は本能的な恐怖を覚えてしまった。純白の剣から発せられた雷の魔法は、獲物の命を瞬く間に刈り取った。
──これがヘーゼルダインを守る城主の実力なのだと、私はこのとき初めて思い知ることになったのだ。
「なぜ前に出ようとした?」
「……えっ?」
魔獣の死骸が外に引きずり出されていく傍ら、剣を鞘に納めたアーノルド様が静かに尋ねる。彼の腕にしがみついたまま、私はその不思議そうな眼差しにたじろいでしまった。
「と、扉の隙間から……変なものが見えたので……」
「目が良いのだな、リーンは」
すり、と大きな手に頭を撫でられると、忙しなく脈打っていた動悸が次第に落ち着いていく。
そのまま宥めるように背中も摩られ、私がゆっくりと息を吐き出したとき。
「だが好奇心で見に行くのはやめておけ。怪我をする」
「…………」
──いや、一応あなたを助けようとしたんですが。
余計なお世話とはこのことを言うのかと、私は情けない気分で「はい」と答えるしかなかった。