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フォルナート王国の東方には、「竜の涙」と呼ばれる巨大な湖が広がっている。
遥か昔に天竜族という種族が暮らしていたとされ、当時から呼び名は変わらない。その規模はもはや海と見紛うほどで、一度そこを訪れた者ならば生涯を終えるまで忘れ得ぬ絶景だと聞く。
そういえばこのヘーゼルダイン辺境伯領は「竜の涙」の入口に程近いことから、湖の守人として代々役目を全うしてきたのだったか。
子爵家で教わった知識を掘り起こすことに成功した私は、パッと笑顔を浮かべて窓硝子の向こうを見遣る。
「そうなのね。もしかして彫刻に竜の模様が多いのも、『竜の涙』が近いから?」
「ええ、ヘーゼルダインの城主は……七百年以上昔から湖を守っていますからね」
エルヴェは再び城案内に戻ると、アーノルド様の家系について軽く話してくれた。
ヘーゼルダイン辺境伯、もといキアン家というのは七百年前の暗黒時代──魔獣が大陸全土に蔓延っていた頃から既に「竜の涙」のそばで暮らしていたという。
もちろん当時はキアン家という名前も、ヘーゼルダインという爵位も持たない一平民だったそうだが、やがて地主となりフォルナート王国から取り立ててもらうに至ったのだ。
「暗黒時代がなぜ到来したのか、理由はご存知ですか?」
ふと尋ねられ、黙考する。
魔獣が主役の暗黒時代は約三百年間も続いたと言われており、それまでは何と現在のような人間社会が築かれていたと聞く。
人間を中心とした世界が一度破滅を迎えた最大の原因、それは。
「天竜族が大地を離れたから……だっけ?」
神と同一視される天竜族が何らかの理由によって大地を離れたことで、対抗勢力を失った魔獣が爆発的に増えてしまった、というわけだ。
元より天竜族は人前に姿を現さない孤高の種族だったが、その存在感は圧倒的だった。一年を区切る十二の月にも、天竜族を主題とした御伽噺が添えられることが多い。
例えば今月、年始から数えて三つめにあたる蒼樹の月は、人間の少女と天竜族の少年が互いの素性を隠して神秘の森で逢瀬をする話が、名前の由来として語られる。
二人がキリの葉でつくった仮面をかぶり、束の間の時を踊って過ごすと、大地から無数の草木が芽吹いたという伝承だ。
そういった不思議な話が数多く残っていることからも、天竜族は人々に恵みをもたらす存在だったことが窺い知れる。
「天竜族がいなくなってから、『竜の涙』も荒廃する一方でした。透き通っていた水は黒く濁り、魔獣の死骸で溢れた時期もあったぐらいです」
「……それを復活させたのが、アーノルド様の御先祖様なのね?」
「ええ。付近に棲みついた魔獣を一掃し、何代にもわたって死骸を取り除かれました」
そうして現在「竜の涙」は大昔の姿を取り戻しつつあるのかと、納得しかけた私は首をひねる。
「今は大丈夫なの? 何だか最近、魔獣の数が特に増えていると聞いたけど……」
この情報は子爵家の教育範囲ではなく、私が酒場の傭兵仲間から聞いた話だった。
ヘーゼルダインの地は平素から魔獣が頻繁に出没するが、ここ数年の増え方は異常だと。辺境伯家の手腕により王都に被害が及ぶには至っていないが、警戒した方がいいだろうと皆が口々に語っていた。
「エルヴェ、私にも何か出来ることがあれば」
「いえ大丈夫です」
「え」
「大丈夫です」
期間限定の離婚前提とはいえ、辺境伯夫人としての仕事はしようと思っていた矢先、エルヴェから静かに壁をつくられた。
私が笑顔のまま固まっていると、対するエルヴェも隙のない笑顔を浮かべて「お部屋へ戻りましょうか」と告げたのだった。
「タルホ、私もしかして嫌われてる?」
「はい?」
辺境伯夫人に宛てがわれる居室は、タルホを含む侍女やメイドによって綺麗に整えられていた。
ケイトリンお嬢様の年頃を考えて新しく用意されたであろう調度品は、品のよい白や栗皮で統一されている。小卓に置かれた小さな鍋のようなものは何かとタルホに尋ねたら、「香炉です」とだけ返ってきた。お嬢様本人ならいざ知らず、私は恐らく使わないものだろう。
「いや、何ていうか……エルヴェからちょっと腫れ物扱いされてるような気がして」
「お会いして間もないですし、距離を測られているだけではありませんか?」
「まぁそうなんだけど、さっき廊下で会ったメイドも変な顔してたから」
私が香炉の蓋を開けて中を覗き込んでいると、直立不動だったタルホが何か思い当たった様子で瞼を伏せる。
「もしかすると」
「うん?」
「ケイトリン様の噂が北部まで広がっているのかもしれません」
ケイトリンお嬢様の噂。王子に懸想しては他人にべらべらと妄想をぶちまけていることだろうか。私以外にも意気揚々と話していたのかと肩を竦めたのも束の間、タルホから語られたのは全く違う方向の話だった。
「ケイトリン様は王都で十五股をなさっていましたので」
「何て?」