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『ジャクリーン? ……一人かい?』
泥と血にまみれた私を見て、叔父は動揺を押し殺したような声で尋ねた。
切れ切れの息は喉を焼き、砂利と枝葉で傷付いた裸足は、もはや痛みも感じぬほどだった。私の手に収まりきらない古びた短剣もまた、誰のものか分からない血で汚れている。
『母さんと父さんはどうした。一体何が……』
『助けてレジスおじさん、おねがい』
魔獣が、と口にした直後、私の体は浮いていた。血相を変えた叔父の腕に抱かれて、真っ暗な街道を突き進む。
裾野を赤く滲ませる夜空の下を駆け、馴染みある丘へと到着したなら、眼下に広がる景色に叔父が息を呑んだ。
『何だ……これは……』
◇◇◇
目尻からぬるい雫が転がり落ちた。
濡れた睫毛を何度か瞬かせれば、重たい眠気が次第に瞼から取れていく。体を包み込む人肌の温もりは、私の引きつった呼吸をゆっくりと落ち着かせてくれた。
……人肌……。人肌?
「え?」
心地よいまどろみからようやく脱却した私は、同じベッドに眠る白髪の美丈夫を見付けて声なき悲鳴をあげる。
添い寝なんてレベルではない。私は何と図々しいことに彼の左腕を枕にして、その逞しい胸板にしがみついて爆睡していた。
そして当然のことながら、少し視線を上げればそこには端整な寝顔がある。
私の期間限定の夫、アーノルド・キアンだ。
「わ、わわ、まっ、え? き──昨日やったっけ?」
品位ゼロどころかマイナスの発言が意図せず飛び出た。ここに子爵家の教育係がいたら即行で叱られていると思う。
辛うじて声量だけ抑えることに成功した私は、口を手で塞ぎつつ自分の体を見下ろす。ネグリジェは寝乱れているが、特に違和感はない。
ということは。
「……まさか……寝ちゃった……?」
何てことだ。初夜で毛布をかぶって朝までぐっすり眠る花嫁があるか。
今の状況的に見てアーノルド様が私を起こさなかったであろうことも、無性に恥ずかしく感じる。
いや、これは安堵すべきか? 本音を言えば床入りに不安しかなかったのだし、間違って子どもができたら三ヶ月経っても偽物の役目から逃げられなかったかもしれないし──それにこのまま夜を有耶無耶にしていれば、子爵には悪いがスムーズに離婚が出来るかも……。
「……起きたのか」
「べぇっ!」
掠れた声が下から聞こえ、脳内で離婚計画を立てていた私はつい奇声をあげる。
今しがた起床したアーノルド様は、枕に頬を埋めたまま前髪を掻き上げた。たったそれだけの仕草で色気がダダ漏れとはどういうことだろう。
はだけたシャツの隙間から覗く胸元を直視できず、私は慌ただしく視線を逸らした。
「お、おはようございます、あの、昨晩はまことに申し訳ありませんでした」
「先に一人で寝たことか?」
「ハイそうです」
食い気味に肯定すると、アーノルド様が喉の奥で笑う。そうして肘を立てたので起きるのかと思いきや、彼は私の手を掴んで引き倒した。
ぐるりと視界が回転し、仰向けになった私を鋼の瞳がまっすぐに見下ろす。自然と結婚式での口付けを思い出し、私は息を止めてしまった。
しかし待てども待てどもアーノルド様は口を開こうとせず、限界が来た私は大きく息を吐き出す。
「はっ……な、何でしょう……!?」
「いや。早めに就寝したわりには、あまり寝付きが良くなかったようだから」
アーノルド様は大きな手で私の頬をすっぽりと覆うと、湿った目尻をくすぐった。体の内側まで触れられるような不思議な感覚に、もぞもぞと反対側へ逃れようとすれば、もう一方の頬も同様に捕まってしまう。
何だ、これは遊ばれているのかと、頬をむにむにされながら私は両手を持ち上げた。
「う、あの、勝手に辺境伯様を抱き枕にしたことは謝りますので、そろそろ解放していただけると」
「名前」
「はい?」
「アーノルドで構わない」
夫婦なのだから。
平然と付け加えられた言葉に、私の良心が絶叫している。こんな詐欺の片棒を担ぐような平民が、誉れある辺境伯の名前を口にするなど烏滸がましい。というか本当の妻は私ではなくてケイトリンであるからして。
「呼んでごらん」
「はびゃ……」
騒がしかった頭の中が、その一言で水を打ったように静まる。両手で顔の向きを固定されたまま、私は何度か口を開閉させてから声を絞り出した。
「……ア、アーノルド様」
……は、恥ずかしい。心の中で呼ぶのと実際に声にするのとで、どうしてこうも気恥ずかしさが違うのか。背中が痒くなってきた。
無い逃げ場を求めて身を縮めたとき、すぐそこにあった鋼の瞳がやわらかく細められる。瞬間、頬の朱がぶわりと全身に巡り、首筋が炙られたように熱を持った。
今の今まで、異性との交遊がないからこれほどまでに緊張するのだと思っていたが、どうにも違うような気がしてきた。例え私がどれだけ数多の男と遊んでいたとしても、アーノルド様の前では今と全く同じ反応をしてしまいそうだ。
それぐらい、アーノルド様は不思議な魅力で人を惹きつける。
「私は何と呼べばいい」
「え!? ええと、ケイトリンでは、いけませんか?」
「愛称は?」
ケイトリンお嬢様の愛称──は何だったか。そもそもあったか?
考え込む私を見かねてか、アーノルド様が思案げに候補を口にする。
「ケイト? それとも……リーン?」
チラとこちらを横目に窺った瞳が、また笑みを滲ませた。
「リーンが良さそうだな」
「えっ、な、なにゆえ」
「気に入ったような顔をした」
図星である。ジャクリーンのリーンと同じだなぁ、なんてちょっぴり喜んでいたことがバレてしまった。そんな可愛らしい愛称で呼ばれた試しがないから余計に──いやいや待て、なにをすっかり新婚気分になっているのだ。身の程を弁えろ偽物め。
何故かどうしてもアーノルド様を前にすると浮つく心を叱咤し、私は相変わらず頬を挟まれた状態で表情を引き締めた。
「気に入ってなど……」
「そろそろ朝食にするか、リーン」
「あ、はい」
撃沈する私の頭を撫でて、アーノルド様は一足先に寝所を出て行った。