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鐘がリンゴン鳴ったかどうかは全く覚えていないが、気付けば聖堂での式は終わっていた。多少の酒を飲んでも前後不覚になることはないのに、このときばかりは記憶が曖昧だった。
何せ生まれてこの方、私はあんな顔の良い男と口付けたことがない。
そも、口付けの経験はおろか年頃の異性と手を繋いで仲睦まじく歩いたことすらない。
ここ数年に関しては魔獣としか顔を合わせない日もあったぐらいなので、先程のキスは寝起きにいきなり劇物を飲まされたような気分だった。
「……ケイトリン様? 聞いておられますか」
「あ、はい」
聞いてなかったです、と続けそうになった私は、言葉を飲み込むついでに浴槽に浮かんだ赤い花弁をつまみ上げた。これは一体何の効果があるのだろう。魚の身を引き締めるために酢漬けにしておくような感じだろうか。とくに塩は振られなかったが。
「子爵様より伝言です。この際、子を成してもいいから上手くやりなさいとのことです」
「こッ」
現実逃避に詮ないことをうだうだと考えていたら、とんでもない発言が耳に飛び込んできた。
慌てて顔を上げてみれば、身の回りの世話をするために子爵家から寄越された侍女のタルホが、黙々と私にお湯をかけている。
ケイトリンお嬢様専属の侍女である彼女は、私が万が一逃げたり粗相をしたりしないよう、子爵から監視の意味も込めてここまで送り込まれたのだ。
タルホはその几帳面な性格通り、私の頭から指の先まできっちり洗い上げてから、てきぱきと水分を拭き取っていく。
「……あの、タルホ、さん」
「私のことはタルホと。改まる必要もありません」
「じゃあタルホ、私そういう経験ゼロなんだけどどうしたらいいの? そもそも、その、やらなきゃ駄目?」
ピタ、とタルホの手が止まる。
逡巡の末にすぐさま動きを再開したタルホは、感情の読めない顔で淡々と告げた。
「申し訳ありませんが私も経験豊富なわけではございませんので」
「ございませんので?」
「そこは辺境伯様にご教示を」
「丸投げ!」
「言葉遣いにはお気をつけくださいませ」
タルホのアドバイスにもならない返答にがっくりと肩を落としても、着々とその時は迫っている。
そう、結婚初日の夜。いわゆる初夜。
これは北の要衝ヘーゼルダインを長く守っていくため、跡継ぎを欲しての政略結婚なのだから、当然子作りはしなければならない。両家の結婚が確かなものであると証明するためにも、初日の床入りは必須らしい。
とりあえず儀式とでも思えば良いだろうか。アーノルド様は見たところ特殊性癖の持ち主ではなさそうだったし、女に無体を働くような悪漢にも見えなかった。いや、人は見かけによらないのだが、今はそうだと信じたい。
「準備が出来ました。行ってらっしゃいませ、ケイトリン様」
「行ってらっしゃいませじゃないよ何この布切れ」
「布切れではなく服でございます」
タルホに薄っぺらいネグリジェを着せられたときにはいよいよ思考停止しかけたが、何とか気を奮い立たせて寝所へと向かう。
とにかく、自分の不用心さが起因してここまで来てしまったのだから、何とか始末をつけなくては。
偽物だと分かれば平民の私に命はない。三ヶ月間、アーノルド様の妻として程よく距離を保ちつつ、ケイトリンお嬢様が王子との結婚を諦めてくれるまで身代わりを果たす。そしてその後は全力で国外に逃げる。あ、あと形見の短剣は返してもらって報酬も絶対に貰う!
よし、と気合を入れて夫婦の寝所へと到着した私は、広々としたベッドに腰掛けてアーノルド様を待つ姿勢に入り、五分で寝落ちた。
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ベッドですやすやと眠っている新妻を見つけたとき、思わず苦笑がこぼれた。
疲労ゆえか深く寝入っているようで、そばに腰を下ろしても目を覚ます兆しはない。
ケイトリン・ソニア。ウォード子爵家の一人娘で、王都ではそれなりに有名な娘らしい。なにぶん北部の山地で一年のほとんどを過ごしているために、彼女の存在を知ったのは子爵と麦の取引をした時分だった。
ただでさえ魔獣が多い上に、地形も気候も険しいヘーゼルダインの地は温室育ちの令嬢から不人気を極めている。それを見越したウォード子爵が、跡継ぎに困っていないかと話を持ちかけてきたのだ。
『娘のケイトリンは今年十六歳を迎えまして。健康で体力もありますゆえ、ヘーゼルダインの地でも辺境伯様をお支えできるかと……』
正直な話、私自身は結婚を考えていなかった。
この辺鄙な地に貴族の娘を住まわせるのも忍びないし、適当に養子でも引き取って跡を継がせようと。
だが最近になって魔獣の出没件数が増え、討伐のために城を留守にする機会も多くなってきた。こういうときに形だけでも女主人がいれば、急な来客や王都への召喚にも代理として対応が可能だと側近に言われ、一理あると考えた次第だ。
今のところ娘をここに嫁がせたいと言う家門はウォード子爵以外におらず、ならばと婚姻を受け入れることにしたのだが──。
「……う……」
くしゃみをする寸前のような顔で、新妻が呻く。長くたっぷりとした濡羽色の髪を顔からどけてやれば、そのまま再び寝息を立て始めた。
肩からずり落ちた夜着を引き上げ、脱力した体をベッドの中に横たえる。そうして毛布も被せてしまおうとしたとき、白い肌にうっすらと残る傷跡が目に留まった。
「……」
二の腕を縦に裂かれたような痕。殆ど治りかけているそれを、私は手のひらでそっと撫でつけた。