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ヘーゼルダイン辺境伯領は、フォルナート王国北方の雪深い山脈地帯にある。
いにしえの時代から人々を脅かす異形──魔獣の棲息地が点在していることから、非常に危険な地域として有名だった。
ケイトリンお嬢様は王都で華やかな生活をすることが夢だから、あんな寒くて魔獣しかいないところに嫁ぎたくないと駄々をこねたそうだ。それに嫁ぎ先の辺境伯本人も、魔獣討伐ばかりしているからきっと獣臭いだの、熊のような醜男に違いないだの、散々な悪口を並べ立てたという。
辺境伯領への道中、付き添いの子爵がこれらのことを聞いてもいないのにべらべらと語り出したのは、私ぐらいしか愚痴をこぼせる相手がいないからだろう。正直こちらも今すぐ馬車から逃げ出したいほど参っているので勘弁してほしい。
そうこうしているうちに馬車は白い大地へと到達し、私はドレスの上に着込んだ毛皮のローブをぐいぐいと体に巻きつけた。
この地域で頻繁に出没する魔獣の凶暴さはきっと、私が日々相手にしているような小型のものとは比べ物にならないのだろう。辺境伯は彼らを抑え込むことに加え、北のコルダ王国との国境を守る役目も担っている。とても重大な務めを背負った人なのだと思うと、余計に気分が重くなった。
私はこれから三か月も、その人を騙さなくてはいけないのだから。
辺境伯領の居城が見えてくると、ウォード子爵は後続の馬車に移った。居城に着いたら花婿のエスコートを受けて、そのまま式場に直行するとのこと。
辺境伯との初対峙がすぐそこに迫っていると実感した私は、緊張でからからに渇いた喉を唾で潤す。ついでに唇も舐めそうになって、化粧が崩れては大変だと慌てて思い止まった。ソワソワと身動ぎを繰り返していると、次第に馬車の速度が落ちていく。それと反比例して、私の心臓は大きく脈打つばかりだった。
「……深呼吸、深呼吸よ。ケイトリンお嬢様みたいに、何かフフッとお上品に笑っとけばいいのよ。それであの、何だろ、体調が悪いとか言ってあんまり顔合わせないようにして……はっ」
馬車が完全に止まるのに併せて、独り言も遮断する。
花嫁を乗せる馬車は、必ずカーテンが閉め切られている。真っ白なドレスに身を包んだ花嫁を、花婿以外の男に見せないようにするためなのだとか。いやもう子爵に見られたのでは、などと揚げ足を取るようなことを考えていたら、前触れなく扉が開いた。
「ぶぁっ」
奇声を噛み殺した私は、ベールの向こうにうっすらと佇む輪郭よりも、そのあまりの寒さに驚いた。
一年の始まりである白狼の月を越え、細雪の月にきたる厳寒を耐え抜けば、大抵の地域は雪が降り止む。しかし辺境伯領は不思議なことに、蒼樹の月に差し掛かってもなかなか緑が戻らないと聞いた。
積雪の照り返しと、自分の吐く白い息で視界が塞がる。
「よく来てくれた、子爵令嬢」
低い声。
冷たさの奥に辛うじて蝋燭の火が灯っているような、それぐらい抑揚のない声だった。
多分、歓迎されていない。
恐る恐るベール越しに目を凝らしてみると、革の手袋に包まれた大きな手が差し出されていた。
「あ、りがとう、ございます」
お礼は言って良かったんだっけ、と婚礼の作法を思い出しながら指先を重ねる。
そのとき、ぞくりと背筋に痺れが走った。
「ひっ……?」
だがそれは一瞬の出来事で、何事かと確認してみても特に異常は見られない。緊張しすぎて体が変な反応でも起こしたのだろうか。
とにかく怪しい言動はこの辺りに止めておかないと、辺境伯に要らぬ不信感を与えてしまう。私はいつの間にかしっかりと握られていた手を頼りに、馬車をそうっと降りた。
辺境伯の居城は、雪景色に溶け込むような象牙色の壁と、濃い青色の屋根が特徴的だった。魔獣の襲撃に備えるためか、空を貫く複数の尖塔には射眼が穿たれている。
ぼんやりと城の外観を眺めていると、視界は屋内へと切り替わり、体全体が温かい空気に包まれた。
これは──炎の魔石を利用した、北部特有の建築物だろう。
魔石は大陸各地の鉱山で採掘される、あらゆる属性の魔力を秘めた不思議な石のことで、加工すれば魔法に詳しくない人間でも扱える代物だ。こうして建物の壁や床に組み込むことで、暖炉要らずな室内も作り上げることができると、子爵家の講師が早口に語っていた。
こんなにも広い城を温めるには、一体どれだけの魔石が必要なのだろう。そしてその費用は……いや考えない方がいい。きっと金額を聞いたら卒倒してしまう。
「失礼」
「へ?」
一人でかぶりを振っていたら、いきなり肩を掴まれた。そのまま毛皮のローブをするりと脱がされ、真っ白なウェディングドレスが露になる。
辺境伯は脱がせたローブを侍女に渡すと、再び私の手を取って歩き出した。
もしかして顔が汗ばんでいることに気付かれたのだろうかと、私は恥ずかしい気分で居城の奥へと向かった。
辿り着いたのはこぢんまりとした聖堂だった。色鮮やかなステンドグラスのバラ窓の下、人の良さそうな顔をした司祭が私たちを待っている。
その手前にはウォード子爵と、辺境伯に仕えている執事や騎士が数名ほど参列する。元々、今回の挙式は辺境伯の多忙さを考慮し、身内だけで手短に済ませるという話だったので、私は特に寂しい気分になることもなく聖堂を進んだ。
ただ私はともかく、辺境伯の家族とおぼしき人が見当たらないことについては不思議だった。
「──それではアーノルド・キアン。汝はケイトリン・ソニアを生涯の伴侶とし、いついかなるときも支え合うことを誓いますか」
「誓おう」
私の三ヶ月限定の夫は、アーノルド様というらしい。
驚いたことに今初めて名前を知った。子爵もお嬢様も「辺境伯」としか呼んでいなかったしな、と考えている間にも、司祭の祝詞は続く。
「ケイトリン・ソニア。汝はアーノルド・キアンを生涯の伴侶とし、いついかなるときも支え合うことを誓いますか」
私はケイトリン・ソニアでもなければ貴族でもなんでもない偽物だ。神聖なる誓いを汚すようで心苦しかったが、ええいと腹を決めて頷いた。
「誓います」
緊張がありありと表れた私の声に、丸っこい司祭はにこりと頬を上げる。何とも癒されるおじさまだ、なんて気を弛めていたら。
「では、証をその唇に」
そこでようやく思い出す、一般的な結婚式の締め方。
誓いの言葉を紡いだ両者の唇を合わせることで、夫婦の契りは初めて効力を発揮すると言われている。
まぁつまり私とアーノルド様がキスをしたら鐘がリンゴン鳴るわけだ。
──待って、ちょっと心の準備を。
私の願いも虚しく、薄いベールは呆気なく外された。火照る頬を何とか隠そうと俯きながら、瞳をそろりと持ち上げる。
そこで私は更に赤面してしまった。
とんでもない色男、いや美男子、いやいや美丈夫がそこにいたのだ。
この辺境伯領を体現したかのような真っ白な髪に、鋼を思わせる鋭い瞳。引き結んだ薄い唇は誠実そうで、鍛え抜かれた体躯は逞しい。
──ケイトリンお嬢様、貴族の間ではこれを「熊のような醜男」と呼ぶのですか!?
私この人とキスするんですか、唇をくっ付けるんですかと意味のない言い換えをしている間、アーノルド様もじっとこちらの顔を見つめていた。
やがて彼は形のよい眉を片方だけ上げて、ゆっくりと背を丸める。微かに良い匂いがした。
「……緊張しすぎだ、花嫁殿」
ふに、と唇が重なった。
頬に添えられた武骨な指先が、私の顔を少しだけ引き寄せてから離す。目を閉じることもできなかった私が呆けていると、アーノルド様はほんの少し口角を上げた。
「待っていた。……ようこそ、ヘーゼルダインへ」