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「──け、結婚⁉」
鏡に映るは真っ白な花嫁衣裳。少しでも指を掠めたら破れてしまいそうな、上質なシルクとレースに身動き一つ満足に取れない。がちがちに体を固めながら、それでも抗議はせねばと、私は口だけを忙しなく動かした。
「待ってください、私が結婚するんですか⁉ 初耳! 誰と⁉」
「ヘーゼルダイン辺境伯だ」
「わあ~私でも知ってる貴族じゃないですか~! 無理です!」
「黙って働け、何でもすると言っただろうが」
「言いましたけどぉ‼」
お金欲しさによく分からない依頼に飛びついたのが運の尽き。私が鏡越しに雇い主を恨みがましく睨み付けても、皺だらけの細面はこちらを見ようともしなかった。
数か月前、この「身代わり」の依頼を持ち掛けてきたのが、そこで不機嫌そうな顔で立っているウォード子爵だった。そう、なんと子爵家が自ら私をご指名してきたのである。行きつけの酒場に立ち寄ったある日、店主から「お前さん宛てだよ」と手紙を渡されたのだ。
そこに記されていたのは──。
『娘の護衛を任せたい。女の身でありながら腕が立つと聞いた。白狼の月が終わるまでに店主へ返事を渡すように』
急ぎの依頼だろうか、何だか怪しいなと首を捻りながらも報酬を確認した私は、一年ぶっ続けで大型の魔獣討伐をしてようやく得られるであろう半端ない金額にあっさり目が眩み、その場で「やりまーす!」と返事をしてしまった。我ながら浅慮にも程がある。
しかし近年は大きな戦がなく、傭兵の仕事はほぼ無いと言っても良い。貴族の私兵として雇われる者もいるにはいるが、それは狭き門というやつで、よほど実力がないと取り立ててもらえない。しかも私に関して言えばまず女という時点で論外であった。
なら酒場で給仕をやるなり針子をするなり、適当な男と結婚するなり、一般的な女の生き方を選べばよいものをと人は思うかもしれない。しかし残念ながら私はそういった特性や特技に恵まれておらず、唯一マシだったのが剣を扱うことだった。それと──あまり役に立たない魔法も少しだけ。
そういうわけで、本来なら専門家に回される危険な魔獣討伐を引き受けては日銭を稼ぐ生活を送っていた頃合い、ご令嬢の護衛依頼をくれたウォード子爵はまさに僥倖そのものだった。のだが。
「いいか、くれぐれも偽物だとバレるんじゃないぞ。お前には今日から三か月間、我が娘ケイトリンとして辺境伯領に滞在してもらう」
「け、ケイトリンお嬢様はこのことをご存じで?」
「当然だ。何のためにお前を娘のそばで働かせたと思っている」
「……。えっ。まさかケイトリンお嬢様の仕草を覚えさせるため⁉」
子爵が「そうだ」と頷く。びっくりして絶句している間に、私の頭にはベールが被せられた。
いや、薄々おかしいとは思っていた。子爵家のご令嬢──ケイトリンお嬢様の護衛として雇われたはずなのに、どうして屋敷の警備状況ではなく淑女の作法や言葉遣いを一から仕込む必要があったのか、と。そのときはケイトリンお嬢様の話し相手になれるようにとの説明がなされたが、今思えば何と雑な誤魔化し方だろう。
詐欺だ。これは明らかな結婚詐欺に他ならない。二重の意味で。
私は護衛の任務を受けたはずが花嫁の身代わりにされ、ヘーゼルダイン辺境伯は子爵令嬢ではなく平民の女傭兵と結婚式を挙げる。一体何のためにこんなことを。
「うう、さすがに犯罪は嫌なんですけど……」
「人聞きの悪いことを言うな。三か月の辛抱だぞ? 報酬が欲しくはないのか?」
「欲しい……前払いで半分ぐらいください……」
「図々しいな……」
欲望に忠実な弱音を吐きながら、花嫁姿に仕立てられた私はずるずると屋敷の外へと連れ出された。
こんな格好にさせられた以上、今すぐ逃げ出すのは無理だ。ひとまず子爵に従う振りをして馬車に乗って、辺境伯領に到着するかどうかの頃合いに脱走しよう。お金は欲しいが詐欺は駄目だ。私はあくまで清く正しい傭兵でありたい。
などとベールの下で考えていたら、屋敷の玄関口に見慣れた姿を見付けた。
「あらジャクリーン、とても綺麗ね」
私と同じ濡羽色の髪を持つ可憐な乙女──ケイトリンお嬢様は、自身が着るはずだったウェディングドレスを見てうっとりと笑う。
「ケイトリンお嬢様……あの、本当に意味が分からないんですが……」
「ふふ、騙して悪かったわね。あなた、平民のくせに面白いからちょっと罪悪感が湧いてきちゃった」
褒められてないなコレ。私が黙ったまま抗議の視線を送れば、お嬢様は愛用の扇を閉じて愛らしく小首を傾げた。
「私、辺境伯じゃなくて王子殿下と結婚するの」
「はっ?」
「辺境伯はね、お父さまが勝手に婚約を進めちゃったの。酷いと思わない? 私には王子殿下がいるのに……」
私は口をあんぐりと開けたまま固まった。よく王子の話は聞かされていたが、まさかそんな仲だったなんて。これが身分違いの恋というやつか──。
しかし私が子爵のほうを振り返ると、彼は苦虫をまとめて五匹ぐらい嚙みつぶしたような顔をしていた。少なくとも自分の娘に向ける顔面じゃない。
「ジャクリーン、聞いてる?」
「え、は、はい」
「フォルナート王国の法律上、離婚できるのは結婚後三か月が経ってから。あなたも知ってるでしょ? そういうわけで私の代わりに三か月、辺境伯と暮らしてきて」
「ええ……?」
「できるわね? ……ああ、そうそう。これは私が預かっておくから」
「ああっ⁉」
思わず声が裏返った。
ケイトリンお嬢様がおもむろに侍女から受け取ったのは、私がいつも携帯している古びた短剣だった。
「亡くなったご両親の形見だっけ? もしも逃げたら、折って捨てちゃうから」
無邪気な少女のように笑って、お嬢様は短剣の鞘を撫で下ろす。つと差し向けられた黒曜の瞳が、有無を言わさぬ光で私を射抜いた。
先手を打たれてしまったからには、もう逃げることは叶わない。私は形見の短剣とケイトリンお嬢様を交互に見詰め、渋々と頷くことしかできなかった。
「──娘はああ言ったが」
死んだような顔で馬車に揺られていると、向かいに座ったウォード子爵が口を開く。
「なるべくヘーゼルダイン辺境伯とは良好な関係を築いておけ」
「何でですか……離婚するのに……」
「王子殿下との婚約は現実的じゃない。おいそれと辺境伯との繋がりを断つわけにはいかん!」
子爵のこめかみに青筋が浮いていた。どうやらケイトリンお嬢様の「王子と結婚する」発言は事実ではなくて、彼女の野望もとい妄言のようだ。子爵という低めの身分でありながら、王家からの信頼厚い辺境伯との婚姻に漕ぎつけたのに、肝心の娘が全力で拒否してくるから相当参っているのだろう。
きっとこの身代わり作戦もケイトリンお嬢様の提案なのだろうなと遠い目をしていると、子爵が血走った目でこちらに身を乗り出した。
「良いか、バレたらお前は首を刎ねられるだろう。自分のためにもしっかりケイトリンを装うことだ」
こうして私は、ヘーゼルダイン辺境伯領で三か月間限定の結婚生活を送ることとなった。