3.悶々スキャット-1
あれは何だったんだろう、と考える。
いい加減地球温暖化の影響を認めて九月までを夏とし、十月から秋にするべきだと思う。十月でさえ暑いと感じる今日この頃、秋と言う季節はもしかしたら絶滅したのかもしれない。木々は残暑に鬱屈としつつも秋になったのだと嫌々認め、その葉を赤や黄に染めている。それを大学の六号館と五号館を結ぶ渡り廊下から、僕は間近に見つめている。
「ヒバコ君!」
背後から呼ぶ声。まろやかな女性の声だ。
「おはよう、カトレアさん」
「おはようございます。これからプログラミング基礎Aの講義ですよね? ご一緒してもいいですか?」
「僕は全然構わないよ、君が良ければ」
ビスカが彼女のことをカトレアと名付けてから、僕もカトレアさんと呼ぶようになった。最初はカトレアさんと呼んでも慣れない様子だったが、ここ最近ではむしろそう呼ばれることが嬉しいらしい。彼女曰く、あだ名をつけられるのが初めてだからとても喜ばしいです、とのことだ。渡り廊下の扉を開けると風が吹き込んで、揺れる彼女の赤みがかった髪色は秋に一番馴染む。
あれは何だったんだろう、と考える。今朝のビスカのことだ。悪夢にうなされるビスカを見るのは初めてのことだったし、ビスカからどこかへ出かけることを提案されるのも初めてだった。寝言で彼女はアブミと呟いていた。アブミ、鐙。確か乗馬の際に足をかける金具のことだっただろうか。夢の中で落馬でもしたのだろうか。
「……君、ヒバコ君。手が止まってますよ?」
ちょっとした思考に耽っていただけなのに、随分と時間が経っていたらしい。夥しいモニターが群れを成す教室、僕の画面と隣に座るカトレアの画面とを見比べると僕のスクリプトの行数は彼女のそれの半分もない。
「ごめん、ちょっと見せてもらえるかな」
「構いませんけど、大丈夫ですか?」
「何が?」
「これ、来週までの課題らしいですよ。毎週課題が出るらしいです。加えて、あと五分で講義は終わりです。おまけにもう教授は帰っちゃいました。聞いてなかったんですか?」
考え過ぎた自分を恨む。確かに周りを窺うと既に鞄にレジュメを突っ込んで席を立つ者や、この場で課題を終わらせようと躍起にカタカタとキーボードを叩いている者がいた。
「なんで文系なのにプログラミングをしなきゃいけないんだ」
不平を呟く。この講義はほとんど必修みたいなもので、卒業したいなら越えるしかない立ちはだかる壁だ。
「文理融合がこの学部の売りですから。ヒバコ君もそのつもりで受験したんじゃないんですか?」
受験当時のことなんてほとんど覚えてない。カトレアさんが伸びをして息を大きく吐くと同時に講義の終わりを告げるチャイムが教室に響く。
「今度、一緒に課題をやりましょうよ。六号館の計算機室なら環境が整ってますし。次の土曜日とかどうですか?」
「次の土曜日なら空いて……たんだけど埋まっちゃった。ごめんよ」
ビスカとの約束を思い出して断る。
「そうですか。じゃあまた講義が被った日にでもやりましょうか?」
「ありがとう、今度からきちんと授業を聞くよ」
「いえいえ、こちらこそ」
カトレアさんは微笑んだ。僕は彼女に何か施した記憶がない。逆に彼女からこうして施しを受けることは多々あった。だから、カトレアさんの、こちらこそ、にお世辞以外の成分が含まれているとは到底思えなかった。
教室から出ると、廊下の窓から陽だまりがこぼれていた。リノリウムに反射する光はまるでため池のようだ。秋学期、これからまた繰り返しの日々が始まると、一々こうした景色に感動することもなくなるのだろう。ビスカ、別に大学も小学校や中学校と繰り返しという側面では変わらないよ。ビスカは土曜日に一体どこへ出かけるつもりなのだろうか。僕は今日一日、いつもと雰囲気の異なるビスカの姿に苛まれていた。
「土曜日、ビスカさんとデートですか?」
廊下の十字路の別れ際、カトレアさんが僕に問いかける。中々に鋭い。
「デート、ってわけではないんだけど、一緒に出かけるという意味ではそうだね」
「やっぱりデートですね。今から悩んでも仕方ないですよ。ところで、ビスカさんって素敵な声ですよね」
不安が顔に出ていたのだろうか、慰められてしまった。
「ありがと、あれでヘビースモーカーなんだよ」
「勿体ないですね、それとも煙草を吸っているからあのような声なのでしょうか?」
「どうだろう、僕には健康に悪いイメージしかないけど」
ヘビースモーカーのフォークデュオが居た気がする。確かその人は大酒飲みでもあるらしいけど、テレビで聴いた歌声は大変美しいものだった。
「歌とか歌わないんですかね? それか声優さんとか。声のお仕事が向いてそうな気がします」
「それなら、実際ビスカはちょっと前までバンドのボーカルだったし、今も仕事で自分の声を使っているよ」
「ちょっと前、ということは今はしてないんですか?」
「うん、色々こじれちゃったみたい。ビスカはこだわりが強いし気性も荒いから、バンドのメンバーとしょっちゅう喧嘩しちゃうらしいんだよね」
ビスカの歌は台所でしか聴いたことがない。彼女がバンドでどのような歌を歌っていようと僕には関係のないことだ。
「それこそ勿体ないなぁ、だったら私が――」
カトレアさんの言葉はチャイムで遮られる。
「――ああ、すみません。次の講義があるので失礼しますね。今度は私もお出かけに誘ってください!」
足早に駆けていくお嬢様の後ろ姿、シャンプーの香りがした。