11.レクイエム&エピローグ
金平霊園は一人で回るのにはあまりに広く、迷ってしまいそうだった。どこからどこまでが墓地なのか分からない、幽霊は間違えて他の墓に帰ってしまわないのだろうか。季節外れに暑く、汗を右手のハンカチで拭う。アスファルトの道が延々と続き、桜の花びらがその上を彩っていた。木々が通り沿いに立ち並び、葉を思い思いに生い茂らせている。墓石がなければ大きな公園みたいだ。途中、霊園の中でジョギングをしている一団とすれ違った。地元の高校生だろうか。場に不相応に生き生きとしている。あたしは左手のクリスマス・キャロルを握り直した。ちなみに右手には先ほど近くの店で借りた手桶とヒシャクがある。
ヒバコの墓は一層奥まった、線路の近くにぽつねんとあった。もちろん、辺りには他の墓石も並んでいるのだが、ヒバコのだけやけに小さくて、通路から見てもすぐどこにあいつの墓があるか分かる。墓地で卑屈にしょげているヒバコの幽霊を想像すると笑えてくる。一帯には誰の姿もない、あたし一人だ。通路脇、大きな松の木の隣に水汲み場があった。ハンドルを回して蛇口から水を出し、慌てて手桶をその下に置く。ドクドクドクと水が溜まる音が次第に高くなっていった。きゅっと水を止めて、ひしゃくを振ると膝に水がかかった。冷たくて存外気持ちが良い。
ヒバコの墓の前まで、芝生の上をもそもそと歩く。一歩踏み出すごとに一定のリズムで手桶の水がちゃぽちゃぽと鳴った。
目の前に立つとよりその墓石の小ささや真新しさが分かった。作法がよく分からないので、取り敢えず墓石にひしゃくで水をぶっかけてみる。背が低いからかけやすい。墓石の色が一段濃くなって、春を反射した。風がゴウと吹いて、花を散らす。
「お前と出会ってから、三年だとさ。死にたがりのキャロルからは二年、早いもんだな」
あたしが金平から出て行ったのは、一年前、ヒバコが死んでからのことだ。交通事故だった。本当のことなんて分かりっこないが、ドライバーは過失を認めているから、死因は事故死だ。
「結局、お前は自分が死ぬその日を予測できないまま、自殺もできなかったってわけだよな。ざまぁねぇや」
あたしは墓石の前にクリスマス・キャロルの文庫本を置いた。先ほど墓石にかけた水が本に染み込む。表紙やところどころに滲んだ血は、なおも赤黒いままだ。
「ディケンズの各メンバーの話は、それぞれにしてもらうとして、あたしから報告したいことは、そうだな、最近ちゃんと曲を作るようになったんだ。パソコンで曲を作るのは難しいし、譜面もちゃんと書けねぇから、結局細かい作業はカトレアとかに任せてるんだけどさ。それと、キーボードの練習も細々としてるんだ。大事なキーボーディストが脱退しちゃったもんだから。ベースは新加入したの知ってると思うけど、キーボードだけはどうにも別のやつに任せる気になんないんだよな、なんでだろうな?」
遠い場所で踏切がカンカンと嘯いていた、進むのが怖かったあの日を思い出す。近くで黄色い電車が、低い音で風を切った。
「指一本足りなくても、どうにかなるもんだな、あれ。そりゃ本格的なクラシックとかは全然弾けないよ、でもリトルピシュナくらいなら簡単に弾けるようになったぜ」
もうそこにはない、左手の人差し指と向こう側にいるヒバコを眺める。
「何が言いたいんだろうな、えっと、とにかく、お前抜きでも全然ディケンズはやっていけてるってことだ。インディーズだけど、レーベルに所属することも決まったし。お前が居なくなってから、しばらく結構大変だったんだ。まだ来てないから言えるけど、カトレアなんか一週間くらい部屋に閉じこもってたし、アブミはミッカビ連れて代わりのキーボーディストを探してどこか消えちゃうし。あたしはあたしで、引っ越したり、お前の親御さんに色々説明したり――そりゃおかしな話だもんな、一人暮らししてるはずの大学生の息子の家に、元ヤンみてぇな姉ちゃんが住みついてるんだから。ちゃんと説明しとけよな、遺書だけ立派に書きやがって」
遺書はヒバコの習慣みたいなものだったから、別に存在していてもなんら不思議ではなかった。親の方も自分の子どもの特質については理解していたみたいで、遺書を読んでも落ち着き払っていたのが印象的だった。
「話が行ったり来たりしちまってるけど、要は、あたしが人差し指抜きでどうにかやっているように、ディケンズもお前が欠けてもやっていけてるってことだ。人間不思議なもんで、失った当初はめちゃくちゃ痛いし、気分はへこむのに、徐々に痛みは引いて行って、順応していくんだよな。きっと、そうしないと生きていけないから」
ざわざわと樹が揺れる。近くでアスファルトを踏み鳴らす複数の音が聴こえた。あたしはわざと振り返らずに、煙草に火をつけた。ゴールデンバットは最後の一本だ。一口だけ吸って、墓前に供えた。
「ビスカさん! 早かったですね」
赤みがかった髪が揺れながら近づいていることなら、見ずとも分かる。
「あのな、先々行くなって!」
続いて、高い声。駆けていくカトレアに言ったのか、さっさと来てしまったあたしに言っているのかは分からない。
「うん、君もね」
ミッカビは背の高い元公務員のベーシストだ。眼鏡を押し上げながら、空いているもう一方の手で走りだそうとするアブミを制止している様子が思い浮かぶ。
「ビスカ、お前全然喪に服すつもりねぇのな、なんだよその恰好」
「一応黒いし、このパーカー」
派手だったり悪ぶっていたり、そんな風に見える服ばかり持っていたから、ヒバコの部屋に上がり込む際にヒバコに配慮して地味目の服を、と買って結局捨てられなかったパーカーだ。
いつの間にか、ヒバコの墓石の前に四人が集合していた。同じバンドのメンバーとは思えないほど、まばらで、歪で、凸凹な四人だ。
「それより、アブミは七五三にでも来たのか、それとも卒園式か」
「うるせえな! そんなに背低くねぇだろ!」
アブミの背は結局伸びなかった。
「一理ある」
「微塵もねぇよ!」
ミッカビをアブミが引っ叩く。粗暴さは増長したような気がする。
「まあまあ、別にハレの日ではないですから、お墓参りなら普段着でも全然問題ないですよ」
カトレアの仲裁にきょとんとした顔をして、アブミは空を見上げた。
「? 晴れてんじゃん?」
「そういう意味ではなくってですね」
困ったようにカトレアが笑うので、あたしが補足することにした。
「別に今日は特別な日じゃないだろ、ヒバコの命日でもないし、彼岸でもお盆でもない。だから、普段着でも一向に構わないんだよ」
解説してやったのに、アブミは未だに得心のいかない顔だ。
「何だよ、何か間違ってたか?」
「いえ、間違ってはいないのですが、ビスカさんがこういうことに詳しいのが意外といいますか」
「お前にものを教えられるのはなんだかムカつく」
「一理ある」
「お前らな、一応あたしはリーダーだぞ、ディケンズの」
大人になるにつれ、何かと常識を知っていなければ誹られるのは、不便な社会だと思う。あたしは別段何かを人より知っていることが偉いとは思わないけど、社会人はそうではないこともある。大人になり切る前に、社会に出る前に死んだヒバコは、ある意味では美味しいとこどり、勝ち逃げかもしれない。まあいいさ、あたしはこの先にまだ美味しい何かが残されているかもしれないという、僅かな可能性にかけてこいつらと生きてみるよ。
「ほら、手を合わせましょう? 騒がしい方がヒバコ君はありがたいかもしれませんが、よそ様はそうじゃないかもしれませんし」
ここで手を合わせたところで、ヒバコに何かが届くわけじゃない。死の先に生が届くことはない。そんなこと、あたしたちは重々承知していて、その上で手を合わせるのだ。時々、思い出してやらないと、思い出までも死の先に落っことしてしまうから。
ヒバコの残骸を背後に歩き出す。死にたがりのキャロルの一節をハミングする。不格好な音楽隊は、まばらに列を成す。
春風が追い越して、煙草のにおいがあたしを後ろから抱きしめた。
終わりです。最後までお読みいただきありがとうございました。




