9.頽廃リサイタル-1
夢を見ずに目が覚める。いつかテレビで夢と言うのは必ず見ているもので、覚えていないだけだと言っていた。思い出せない深い記憶の底に夢は沈んでいるだけで、もしかしたらちょっとした刺激で浮き上がってくるものなのかもしれない。サルベージする価値がその夢にあるのかは疑問だけど。とにかく起き上がるのが億劫であることに変わりはない。クリスマスイブの朝は、布団の温もりを己に縫い付けていたいほどに寒かった。
「ヒバコー」
上空から掠れた声で名字を呼ばれる。
「おはよう、今朝は早起きだね」
努めて眠気を感じさせないように声をかける。
「あたし、布団に住む」
「じゃあ、僕もそうさせてもらおうかな」
「おいおい、それじゃあ誰が今朝のサニーサイドアップを作るって言うんだ」
アメリカのホームドラマのような言い回しだが、確かに今日の朝ごはんは僕の担当だ。
「でも布団に住んでたんじゃ、サニーサイドアップもフレンチトーストも食べられないんじゃない?」
取り敢えず布団を被ったまま上体を起こした。
「フレンチトーストかー、うーん」
くぐもった声でビスカは呻く。起きるか起きまいか、考えているのだろうか。
「できたら起こして」
掠れた返事が聞こえる、どうやらフレンチトーストではなびかなかったみたいだ。
「小学生じゃないんだから、自分で起きなよ」
返事はない。静寂が凍てついた。
「分かったよ、その代わりご飯ができたら布団には転出届を出すんだよ?」
「この時間まだ役所空いてねぇよ」
もそもそと寝返りを打つ音がロフトから聴こえた。こんな調子で今日のライブは大丈夫なのだろうか。
キッチンは息が白くなるほど寒く、外出用のコートを羽織る。ミネラルウォーターが切れていたので、ケトルに水道水をドボドボと入れた。明かり窓からオレンジ色の灯りがうっすら射し込み、ケトルのシルエットがコンロに落ちる。コンロのつまみを回すとチチチチとリズミカルに刻んだ後、青い火がケトルを温め始めた。フライパンをケトルの隣に置いて、牛乳と卵を冷蔵庫から取り出して、食パンの袋を開けて。クリスマスイブは夜のことだから、普段とほとんど変わらない今朝にいかなる問題もない。
テーブルの上に二人分の朝食を置いた。大きめの皿を二枚、それぞれに目玉焼きとフレンチトーストと千切りキャベツが乗っている。シャッターを開けて朝日の通り道を作った。
「朝だよ、早く食べないと冷めちゃうよ」
「う、ん。起こしてくれ」
「今日は随分と我儘だね」
窓を背に、はしごに足をかける。僕が顔を出すと、ビスカは布団から脱皮して、僕の顔を両手でわしづかみにして来た。頬に冷えた九つの指が触れる。
「あったけー」
「冷たっ」
ビスカの左手の甲を同じ左手で撫でる。細かった目が開いた。
「ご飯だよ」
呼びかけると横向きの顔が微笑んだ。
「ありがとう」
漏れ出た黄身からフレンチトーストを避難させつつ、テレビを見る。しばらく芸能ニュースが続いていたが、占いコーナーが始まった。生まれた月ごとに今日の運勢が発表されていく。十一位から七位までの間に一月生まれも四月生まれもなかった。
「幸先いいぜ。上位は決まりだ」
「まだ最下位かもしれないし、分からないよ、おっと、一月生まれは二位か」
「ラッキーカラーは白、気になる人と思いかけない進展が、だとさ。四月生まれ、まだ出てきてねぇじゃねぇか」
テレビでは四月生まれと十二月生まれ、どちらが一位なのか焦らしている。果たして、今日の運勢第一位は――。
「四月生まれのあなた。あたしだ」
何とも言えない顔でビスカが僕を見る。
「何々、ラッキーカラーは赤。もやもやや悩みが解決されるかも、だって」
逆に最下位は十二月生まれだ。思った通りには物事は進まないが、それがかえって幸運になるかも、だそうだ。
「幸先、良かったな?」
「僕は不安でいっぱいだよ」
結局フレンチトーストに醤油の垂れた黄身が染み込んでしまった。皿に少しずつ残った朝食を全てかき込んで、コーヒーで流し込んだ。
クリスマスイブの吉祥寺駅には、バス停の向こうのロータリーに巨大なクリスマスツリーが鎮座していた。人通りは多く、手を繋いだ男女も豊富に見かける。ライブは見るのもするのも初めてだ。ライブそのものの開始時刻は十八時半だが、集合は十二時。準備と言うのはそれなりに時間がかかるものらしい。
「アブミもカトレアもついてるらしいぞ」
ビスカがスマートフォンの画面を僕に見せつける。グループトークだから、別に見せられなくても同じ内容のメッセージは手元で確認できた。とはいえこういうことを一々口にするとデコピンが飛来するので黙っておく。
「みたいだね、行こうか」
クリスマスツリーを左脇に、青信号を突き進んだ。
ライブハウスは通りの端にある、スーパーの向かいの地下にあった。僕が想像しているよりもうんと清潔感があり、オシャレだった。ビスカやアブミを見ていると、もっとゴテゴテしていたり、落書きが一杯あったりするのかと思ったが、極端な偏見だったようだ。白を基調にした受付でビスカがスタッフに話をする向こうには、たくさんのボトルがあって、ライブハウスというよりは洒落たバーという印象だ。
「クラブハウスでもあるからな。むしろそっちがメインって話だった気もする」
楽屋で待っていたアブミにどのライブハウスもこんな感じなのか質問したら、このライブハウスの経緯を教えてくれた。アブミは赤い眼鏡を人差し指で押し上げる。彼らしからぬアイテムだが、これはライブ衣装に必ず赤色のアイテムを取り入れること、という僕らの事前の打ち合わせによるものだろう。黒を基調にしたカジュアルなスーツを彼が着ているのも、フォーマルな衣装にするという申し合わせによるものだ。
楽屋には既に十数名、出演者であろう人々がリハーサルの順番を待っているようだった。こちらもまたいかつい人ばかりなのかと言ったらそうでもなく、むしろパンツスーツに赤ネクタイ姿だけど、ビスカの風体が一番ロッカーなような気さえする。カトレアさんは普段着だが、出番まで時間があるので後で着替えるとのことだった。今の服装のままでも十分なくらいには上品な格好ではあるが。
「順番が頭の方だから、リハーサルまでまだ結構ありますよ? ちょっと煙っぽいし、コンビニにでも行きますか?」
カトレアさんは鼻をつまむ仕草をしながら提案した。そう言えば結構煙草のにおいがきつい。喫煙者と同棲しているせいで、言われるまで気付かなかった。
「いいよ、行こう。二人はどうする?」
ビスカは一本吸いたいからいい、と断り、アブミは他のバンドの様子を見たいからと首を振った。
「何か必要なものはありますか?」
コンビニでのおつかいを頼まれようと、カトレアさんが注文をとると、ビスカが壁に寄りかかって答えた。
「優しいお母さん」
「お金では買えませんね」
「左手の人差し指」
「何とも言えない不謹慎ジョークは止めろバカ」
「音を外さないキーボーディスト」
「これからはもっと練習するから。コンビニで買えるもので頼むよ」
結局コーラと缶コーヒーとおにぎりを二つ、おつかいに行くことにした。
「忘れてた、これ、貼っとけよ」
突然、後ろ手を掴まれ転びそうになる。ビスカに手渡されたのは白黒のステッカーだ。BACKSTAGEとでかでかとゴシック体で書かれていた。
「それ、バックステージパスです。それ見せないとライブハウスの出入りできなくなるので気を付けてくださいね」
危うく出演者なのに出入り禁止になるところだった。




