6.ファイア・イン・グロウル-2
「なぁ、なんか焦げ臭くないか?」
ビスカが鼻をすんすんとさせながら答える。促されて僕も鼻を利かせる。
「うん、なにか、煙のにおい」
確かに鼻腔を刺激するにおいがする。外で火事でも起きたのだろうか。
「ちょっと! テーブル、テーブルです!」
カトレアさんが叫ぶ。こたつの上から黒い煙が出ていた。
「うわ! 水、水!」
僕も動揺して叫ぶ。しかし慌てても遅きに失していた。こたつの上に置かれていた資料たちは、既に激しく酸化、つまり炎を上げて燃え出していた。
「くそ! 何だってんだよ!」
ビスカが素早く水をこたつテーブルにまき散らし、間一髪で他の家具への延焼を逃れた。どうやらカトレアさんの水筒の水をかけたようだ。まだ少し煙が伸びている。
「びっくりしたー、何が原因だったんだろう?」
天井を見上げて、火災報知器を眺める。点検してもらった方がいいかもしれない。カトレアさんがキッチンの方へと向かった。
「一応、もっと水をかけた方がいいかもしれません」
カトレアさんは洗面器に並々水を注いで、キッチンから戻ってきた。
「部屋が水浸し」
「背に腹は代えられないよ、念のためだし、仕方がない」
こたつテーブルは雨の日に捨てられた子犬のようにずぶ濡れになった。
「危うくボヤ騒ぎだったね」
「煙草はこの部屋では吸ってないのになぁ」
「もう大丈夫でしょうし、片付けましょうか?」
僕らは各々にタオルやごみ袋を持って、始末を始めた。びしょびしょの紙をゴミ袋に突っ込んでいく。こたつテーブルは幸いなことに焦げ跡が少しついただけで、取り敢えずまだ使えそうだ。
「これが原因か」
ビスカが中指と親指でつまみ上げる。それは、黄土色にひしゃげたスマートフォンだった。
「スマホ、ですか」
カトレアさんはビスカの持ち上げた端末だったものを凝視する。熱で本体は大きく歪み、ところどころが黒く焦げていた。
「そう言えば、結構前だけど、バッテリーの劣化でスマートフォンが発火する事故をニュースで見た気がする」
僕はテレビのニュースを思い出した。長く同じバッテリーを使い過ぎると発熱して火が出ることがあるらしい。
「そういえば調子が悪い、みたいなこと言っていましたよね?」
カトレアさんがビスカに尋ねる。
「どう調子が悪いの?」
僕はそんな話聞いたことがなかったのでビスカに重ねて質問する。
「勝手に変な通知音が鳴ったりしてたんだよ。再起動してからは一度も起こってなかったんだけど。しっかし、ショック」
「まぁ、買い替え時だったということですかね。とにかくこのくらいのボヤで済んで、幸運だったということでしょう」
「うん、危なかったね」
ビスカはスマートフォンが壊れたことがよほどショックだったようで、この後も元気がなかった。バックアップは? と尋ねると無言で首を振っていたので、しばらくは不便な生活を強いられることだろう。
「とにかく、私はこの楽譜で練習してきますね。それとビスカさん、そんなに落ち込まないでください」
「うん、カトレアさんが居てくれてよかったよ、よろしくね」
「あたしはちっともよくないけどな」
カトレアさんを見送った後、ビスカは最近控え気味だった煙草を三本立て続けに吸った。僕は明日にでもスマートフォンのバッテリー交換に行こうと思った。換気扇がゴウゴウ鳴って、煙草の煙が吸い込まれていくのを、コーヒー豆を挽きながら見上げる。キッチンは寒い、冬はすぐそこまで来ていた。
「リハーサルスタジオに来るのは、とっても久しぶりです。高校以来ですかね」
先日アブミのドラムを収録したのと同じスタジオに、今日は僕とビスカとカトレアさんの三人で来ている。アブミの収録をした時とは異なり、少し狭いブースだ。カトレアさんはブースに入るなり、懐かしさに浸っているようだった。
「路上ライブ、吉祥寺駅近くのシャッターの下りた銀行前でやってたので、懐古も一入ですね」
「へぇ、高田馬場以外でもやってたんだね。カトレアさんはバンド活動の経験あるんだっけ?」
「ええ、ありますよ。私がこんなんだから、すぐに解散しちゃったんですけど」
カトレアさんの協調性の高さは、かえってグループでの活動に差し支えてしまう場合があるらしい。にわかに信じ難いし、カトレアさん以外の原因がそこにはあったんじゃないかと思ってしまう。
「あたしと一緒だな」
「一緒にしちゃ駄目でしょ」
「いえ、一緒ですよ」
カトレアさんはギターのセッティングをしながら微笑んだ。メンバーの性格に起因する解散という意味では同じ、なのだろうか。その性質は随分と異なる気がするけど。
ブースには僕のノートパソコンだけじゃなくて、カトレアさんのノートパソコンもあった。念のため、だそうだ。確かに僕のパソコンが発火してしまったら、別に収録用のパソコンが必要になる。
「こんな感じの音でどうでしょう?」
彼女の髪の毛よりも赤いギターはテレキャスターという種類らしい。カトレアさんがピックをストロークすると、アンプから体の底がビビっと震えるような、大きなC♯マイナーセブンスが放出された。
「もうちょっと歪ませられる?」
「僕はこれでもいいけど、リバーブやディレイは後でかけるから切ってもいいかな」
ビスカはギタリストとして、僕は作曲者としてそれぞれに要望を重ねて、音作りに微調整を加えていく。隣のブースからバスドラムの音が響いていた。
何度か練習を重ねて、譜面の変更を加える。よく考えたら聴き手二人に対して演奏者一人と言う配分はやりづらくないだろうか。カトレアさんにはそんな様子は一切ない。ビスカの評する通り、彼女は意外と肝が据わっているのかもしれない。それかよっぽどギターが好きなのだろう、羨ましい限りだ。
「それじゃあ、録ってみますか? 時間も勿体ないですし」
ギターを構え直して、カトレアさんは立ち上がる。長い髪がゆったりと揺れた。
「よっしゃ、行くか。テイクワン」
「こっちは準備オッケーだよ」
ノートパソコンの画面上の録音ボタンをクリックする。メトロノームの音は、ヘッドホンをしているカトレアさんだけのものだった。
それからどのくらい収録していただろうか。ビスカは経験のある楽器の収録ということもあって、大分熱くなっていたし、カトレアさんもカトレアさんで、要求に応えようと必死でレコーディングしていた。
「リズムが違う! もっとドラムをよく聴いて!」
「こんな感じでどうですか!」
「いや、まだイマイチだ。もうちょっと雰囲気出して!」
「では、これでどうでしょうか!?」
カトレアさんは大分汗をかいていた。髪を振ると水滴がぴぴっと飛ぶ。なおも低い姿勢でギターを弾こうとしていた。
「ストップ、ストップ! ちょっと休憩しよう。ビスカもカトレアさんも熱くなりすぎだよ」
ピリピリとした空間に耐え切れなかった。僕らは一度ブースを出て、水分補給の休憩を入れることにした。
「こんなに楽しいの、久しぶりです! こうやって模索しながら誰かと演奏するの、初めてですし」
自動販売機で買ったレモンティを一口飲んで、カトレアさんは言った。楽しい、という言葉が出てきたのは意外だった。
「結構大変そうだったけど。お疲れ様」
自動販売機からガコっとアイスコーヒーの缶が出てくる。僕はお釣りを取り出した。
「大変なこと、疲れることと楽しいことは相反しませんよ」
「ヒバコは省エネ主義だから、そういう楽しさが分かんねえんだよ」
僕がコーヒーを取り出す前に、ビスカの買ったコーラが排出口に落ちて来た。
「悪かったね。僕は燃費が悪いんだ」
コーラをビスカに手渡すと、彼女は豪快に半分ほど一気にコーラを飲んだ。




