1.善悪のララバイ-1
夕焼けのオレンジが背中にじっとりと染み込む。晩夏にせかるる蝉たちの歌は、一つまた一つと消えていき、やがて雨が降る度に夏は死んでいく。そんな存外味気ない腐臭にまみれた路傍を恨めしく思いながら、僕はいつもと同じ帰り道を歩くのだ。
赤錆びた階段をカンカンと鳴らして、アパートの二階、自分の部屋に向かう。西日が廊下にできた水たまりを照らし、乱反射した輝きがちらつく。水をわざと蹴り飛ばしながら、扉の群れから一匹だけ選び抜き、鍵を差し込んだ。僕が手をひねり鍵を開ける前に、扉はガチャリと鳴いて勢い良く開いた。すんでのところで身をよじり扉との衝突を避ける。玄関には見飽きた白髪の女性が咥え煙草で扉を押さえていた。
「おかえり、今日も生きて帰ってきたんだな」
「そりゃ、ここは僕の部屋だからね、ビスカこそ、存命だったんだ」
「今死ぬところだったのに、ヒバコがそんなこと言うから、またやる気がなくなっちゃったよ」
まるで宿題をやれと母親にせっつかれて言い訳をする子供のような口ぶりで、ビスカは僕を迎え入れた。
僕とビスカに共通点はほとんどない。僕は善良な小市民として、ここよりうんと遠い南国で生まれ、金曜日と日曜日の晩は必ず外食に連れて行ってもらえるようなちょっぴり裕福な家庭で育ち、健全に小学校から高校までを過ごし、一年浪人して大学に合格して今は二年生だ。東京の大学に通い、アルバイトをしながら生活している。対してビスカは僕より幾らか年上で、高校を中退後東京に飛び出して、働く合間にバンド活動に明け暮れて現在に至る、とのことだ。見た目もなよっとした大学生然としている、髪を一度も染めたことのない僕に対して、ビスカは黒地にぎらついたショッキングピンクの花柄があしらわれたパーカーや、やけに穴の開いたジーパンを好んで着る真っ白な髪のパンクな女性。どう考えても交わることのない僕らには共通点が一つだけあった。
それは単純に言えば希死念慮だ。
僕らは自分たちの手で実行することはない程度の、怠惰な死にたいという感情を持ち合わせていた。
「お互いに死にたいんだったら、同時にピストルでバンで済むってのに」
ビスカが換気扇の下で煙草に火をつけて言った。左手の中指と薬指の間で紫煙がくゆる。だぼついたパーカーを肘までまくるくらいなら、半袖のシャツでも着ればいいのに。僕は換気扇の紐を引いて回した後、答える。
「どうやって拳銃を用意するって言うのさ」
「そりゃ、暴力団のアジトとかから拝借するんだよ」
「拝借する前に殺されちゃうんじゃない?」
「そりゃいい、その方が手間が省けていい」
ゴールデンバットの箱を握りつぶして煙草を深く吸い込む彼女と、逆光の夕間暮れが僕の心臓をちくちくと刺す。煙草のにおいは、あまり好きではない。つけっぱなしのテレビからはアジアのどこかで起きた工場の爆発事故が放送されていた。
「洗濯物取り込んでおくから、それまでには煙草済ませといてよ」
「幾らあたしでもそこまで貧乏性じゃねーよ」
ベランダに出ようとする僕の背後で、八畳を挟んでビスカは声を張る。
「生姜焼きとパスタでいいか?」
「なにその組み合わせ。お米もうないんだっけ?」
僕も彼女に声が聞こえるように大きめの声で訊く。
「ないわけじゃねぇけど、今から炊くのは面倒くさい」
「無洗米なんだから、君がすることは米を入れた釜に水を張って炊飯器のボタンを押すだけじゃないか」
「水に漬け込む時間が面倒なんだよ。ヒバコも待つのは嫌だろ」
僕は籠いっぱいになった洗濯物を部屋に取り上げ窓のシャッターを下ろした後、一息ついてから返事をした。その脇でニュースは切り替わり、テレビはスマートフォンの発火事故について取り上げている。
「僕は風呂掃除、ビスカは料理の下ごしらえ、それでも時間が余るんなら服を畳んで仕舞っていればいい。他にも時間つぶしにやることなら沢山あるよ」
ビスカはへいへいと気の抜けた返事をすると、釜に米をぞんざいに量って入れ始めた。最初のうちはそういった彼女の態度や所作を恐る恐る注意していたけど、最近はそんなこともなくなった。いつからか家事の当番を決めて、二人の生活での役割分担を行うようになっていった。ビスカと暮らすようになったのはいつからだっただろうか。最初に出会ったのは僕が大学に入学してすぐ始めた、アルバイト中でのことだった。
本屋でアルバイトをしたかったのに、本屋に付設されたカフェで勤務することになったのは去年の五月のことだった。求人誌と仕事内容が異なることなんて所詮どこでも良くある話だと誰かが言っていたので、そんなものなのだろうと思い渋々仕事を始めた。
仕事内容はホールで、オーダーをとり、レジを打ち、客に飲食物を提供する。今までアルバイトというものは単発の交通量調査しか行ったことがなかったので、接客は初めてだった。僕にとって接客というのは表向きは向いていたようだった。作り笑い、敬語、礼儀作法、謝り方、おっかなびっくり生きてきた僕には勉強せずとも元より備わっていた。
その日は確か午前中に雨が降って、水たまりが至る所にできていたと思う。大学から直接バイト先へ向かう時に必ず近道に通る公園があるが、そこも例外なく地面に虫食いのように水の穴ができていた。踏みつけるたびに水滴が足先から走る、帰る場所を失ったそれらは地面に染み込んでいく。そんな一部始終なんて見ることもなく人々は足早に目的地へと向かっていて、当然のごとく僕もその一人だったけれど、不意に足を止めてしまった。