4.朝焼けのマッシュアップ-3
朝焼けのマッシュアップはここで終了です。
「ギターはチョーキングで音程を揺らすことができるんでしょ。鍵盤楽器とはずいぶん勝手が違う」
ヒバコはそう言うとコーヒーを啜って、飲み込んだ。
「そうだな、加えてペダルを踏むだけで音色があっさり変わる。揺らし具合、踏み具合はギタリストによって異なるから、それこそ十人十色で同じ譜面でも演奏の質が異なる」
「だったら、僕たちがやるべきはその雰囲気を出すというところまでじゃなくて、基本的な音程やアレンジを定めることなんじゃないかな。その先のことはギタリストに任せてさ」
「そう、なんだろうな」
そもそもコンピューターでギターの音を完全に再現しようという時点で無理がある。誰かに演奏してもらった方が手っ取り早いのは当然だ。人差し指がある頃はあたしがギターを担当することが多かったから、どうしても自分が納得のいくところまで作り込みたくなってしまうのだろう。
「きっと、その方が変化を楽しめていいんじゃないかな」
まさかこいつに諭されるとは思わなかった。いつの間にかあたしは、自分の思う最高の演奏を他のメンバーに押し付けていたのかもしれない。
「もうちょっと細かいところを設定したら、とっとと次に進んだ方がいいな」
それから、三回くらい口論した。ここまで来たら今日中に終わらせたいという意地が悪い方向で重なり、シャッターを下ろし忘れた窓から朝日が射し込み始めた。朝を告げる鳥が煩わしく起きろと三回鳴いた後、二人で同時に溜息をついた。
「もう無理だよ。この状態で何を聴いてもいいように聴こえちゃうし、逆にどんな手を加えても劣化しているようにしか聴こえないもの」
「あっはっはっは、確かに。これで試作品が完成したってところか」
深夜も度が過ぎると何でも笑えてくる。結局この日できた曲は、後でゴテゴテのストリングス、つまるところのバイオリンやらビオラやらの装飾的なアレンジを外す以外はそのまま据え置きになった。ベースはシンセサイザーのブチブチとした、およそ本来のベースから鳴る音ではないが、あたしはこのままの方が面白いと思ったので、変更しないことにした。
「寝よう」
ヒバコが絶望的な声音で言う。
「朝は起きる時間」
くだらない指摘。
「体は眠る時間だって言ってる。健康的な問題は客観よりも主観の方が時に重要なんだよ」
人々が活動を始める時間、あたしたちは自らのスイッチを切ろうとしている。朝焼けの中で逆行する二人。今日は土曜日だ。
ヒバコは歯磨きもせずにベッドに飛び込んだ。あたしは煙草を一服しにキッチンに出たが、煙草に火をつける直前に、「換気扇回してよ」とヒバコに指摘された。目敏い。
ヒバコもあたしも遅刻した。労働はクリエイティビティの犠牲になったのだ。
新宿にあるボーカルスクールは、プロを目指す人よりかは趣味で歌のレッスンを受けに来ている人が多い。あたしとしてはどちらかと言えば息抜きとしてこの仕事をしているつもりなので、かえって好都合だ。
今日はレッスンを受けること自体初めてのお客さんだった。講師の方が遅刻するとは情けない限りであり、それがこんな不真面目な風体の輩だと余計に心証が悪い。ロビーのソファで待っていた担当の生徒らしき女の子に声をかける。制服姿だった。
「遅れてしまいまして、申し訳ありません。お客様のお時間の都合がつけば、その分延長させていただきます、それではご案内させていただきます」
女は立ち上がり、あたしを見るなりおどおどとしだした。
「は、はい、よろしくお願いします」
見るからに緊張、というより怯えている。
それからレッスンルーム、要は防音室に入り、簡単に案内をしてから好きな曲を一曲歌ってもらう。
「どんな歌声か、とかどんな発声か、とかそういうのを見るためなので、自由に歌ってください」
そう言って譜面台の上にタブレットを乗っけて女の方に向ける。このタブレットから好きな曲を選んで、歌ってもらうシステムだ。マイクを手渡し、女の子のプロフィールを簡単に眺めた。高校生、好きな歌手は今流行りの女性シンガーだ。
その歌は明らかに震えていた。音程も飛び飛びで、リズムも遅れがちだ。一番が終わったところで伴奏がフェードアウトした。
「おっけー、ありがとう。今日は学校帰り?」
「へ、あっはい。そうです」
あたしの突発的な質問に狼狽気味に女の子は答えた。
「部活はお休みだったのかな?」
「あったんですけど、途中で抜けてきました」
「何部?」
「吹奏楽です、ユーフォニアムをやってます、でも止めようかと思ってて」
「どうして? 楽器が重いから?」
「やだなぁ、違いますよ。本当は軽音部に入りたかったんですけど、親に反対されて。でも音楽をやってみたかったから吹奏楽部に入ったんですけど」
「思っていたのと違った?」
「はい、ブラスバンドって人数が大勢いて、もちろんそれで重厚な音を出す楽しさってなんとなくわかるんですけど、先生は厳しいし、私がどれだけうまく演奏しても他の楽器に埋もれるのに、私がミスをすると全体は乱れてしまうんです。なんだか退屈だし、理不尽だと思って」
分母が大きくなればなるほど、個々の演奏の影響力は小さくなりがちだ。もちろん、一つの楽曲を大人数で演奏する団結力が発揮された時の気持ち良さはかけがえのないものなのだろうが、この女の子が音楽に求めるのはそこではないみたいだ。
「それで軽音部に入ったんだ」
「違います。軽音部に入ってる友達とそのことを話したの、軽音部に転部したいってカラオケで。そしたら、そんなに歌がへたくそなのにバンドなんかできるかよって! ひどくないですか!」
「あっはっは、まだボーカルをやりたいとも言ってないのに」
「ほんとですよ、だから見返してやろうと思って、こっそり練習に来たんです!」
「なるほど、面白いなぁ。よし、じゃあもう一回さっきの曲、歌ってみて」
「へ? はい、お願いします」
どうにかリラックスできたみたいで、女の子はさっきとは打って変わって真っすぐな歌を歌った。音程にしっかりと沿っていたからこそ、棒歌唱になっているのが勿体ないが、音を外さないのは土台になる音感があるということだ。
それからあたしは腹式呼吸の仕方や、抑揚のつけ方、裏声、つまりファルセットのスムーズな出し方なんかを実際に歌いながら教えて、ボイストレーニングをしてその女の子の授業を終えた。
「反復練習を継続することが大事」
「吹奏楽部の顧問の先生みたい」
「所詮何事も継続が大事ってことだね」
「結構真面目なんですね。意外。失礼ですけど最初見た時、ヤンキーかと思ってました」
「人は見た目で判断するもんじゃないよ」
来週もよろしくお願いします、と告げて女の子のレッスンは終わった。その後、のど自慢大会が近いおばあさんと、忘年会で上司を一泡吹かせたいサラリーマンのレッスンを行って、今日の仕事が終わった。
あたしは今度から遅刻しないように気を付けます、と業務的に校長に伝えてスクールを出た。高田馬場駅まで、山手線と西武新宿線、どちらが早いだろうか。
西武新宿駅はすぐそこが歌舞伎町ということもあって、賑やかさに種類があるとすれば下品な方に属すると思う。とは言っても最近は駅周辺が清潔になって、治安は良くなったようだ。家電量販店の巨大なモニターを尻目にあたしは改札に飛び込んだ。各駅停車の発車寸前だった。
高田馬場の例の横断歩道脇に、先週の土曜に見かけた女の姿はなかった。代わりにハーモニカを吹いている年寄りがいた。七十代前半のおじいさん。
「ここでいつも弾き語りしてる、白いキャップの女の子は?」
おじいさんは震える手でさっき場所を譲ってもらったところだと、駅の方を指差して答えた。どうやら路上ライブを終えて、帰ってしまったということらしい。
「すれ違わなかったということは、わざわざ反対から回ったのか」
あたしは走って高田馬場駅に引き返した。目と鼻の先なのにやけに時間がかかった。
黒いギターケース、白い帽子、買い物の時と同じジーパン。改札でICカードをかざそうとする女の左腕をあたしは掴んだ、咄嗟に出るのは、いつでも左手。
「遅れちゃったから、もう一曲弾いてくれないかな」
「わ、ビスカさん」
女の帽子がぱさりと地面に落ちて、赤い髪が顕わになった。




