4.朝焼けのマッシュアップ-1
ヒバコを高田馬場駅前で送り、先ほど路上ライブをしていた女の元へと向かう。あたしの耳が正しいなら、聴き覚えのある歌声。
横断歩道の脇でアコースティックギターを掻き鳴らし、まるみのある声で歌う白いキャップ。駅は誘蛾灯、人々は彼女のことを気にも留めずに去っていく。先ほどみかけたその情景を思い出して街を探し回るが、その姿はどこにもない。先ほどその女がいた場所で今はホームレスが座り込んでいる。
しばらく辺りを捜索したけど路上ライブをしていた女は見つからなかった。魅力的なギター演奏だった。決して技術的にレベルが高いわけではないが、感情が乗っている。音楽は、何を表現したいかが全てだ。その後ろについてくるのが技術。
結局あたしは手ぶらで帰るわけにもいかないので、道で売っていた洋菓子を買って帰った。随分と上品なものを買い忘れたんだね、とヒバコに苦笑いされた。
これは、夢の話だ。最近よく夢を見る。今朝みたのは、以前の職場の夢だ。
あたしはとある工場で旋盤工として働いていた。ヒバコには技術職だと言っているが、なんてことはない、汎用旋盤で注文された通りに材料を削ったり切ったりして加工するだけの仕事だ。あたしにしては割と続いたと思う。実家に帰りたくないという気持ちがあったからこそだが、向いてないなりに生活を工面して音楽をやっていくためだと割り切っていた。ただ、あたしは機械や部品とは向き合えても、人間と向き合うのは苦手だった。こればかりは常だ。
あたしは夢の中で、普段と同じように仕事をしている。発注通りの製品をミリ以下の単位で加工していく。そんな中、発注書に大きな誤りを見つける。それを上司に差し出し、わざわざ周りに聞こえるように、大きな声で注意した。この上司、確かワタナベというやつはタチが悪く、下っ端へのアタリは強い癖に元請けの人間が来るとへーこらしていた。それに対する鬱憤が溜まっていたのだ。しかも確かこの前日に、あたしが初めて率先してリーダーをやっていたバンドが実質解散したんだった。ついていけない、という書置きだけがリハーサルスタジオにあって集合時間を過ぎてもあたし以外誰も来なかった。イライラしていた。工場にしてもバンドにしても、技術も情熱も足りない周囲に、それを求めてしまう自分に。
暗転してあたしが一番嫌なシーンだ。暴走する機械、突如激しい音と共に分離した旋盤が、あたしの左手の人差し指を薙ぐ。よく器用にここだけ切ったものだ。自分で感心してしまう。血がドバドバと溢れ出す。視界が真っ赤に眩み、溺れる寸前で、ヒバコの呼ぶ声がする。
「ここ最近、よくうなされてるけど、大丈夫?」
「過去の幽霊があたしを苛むんだ、クリスマスに来てくれればいいのに」
トーストにバターを塗りながらヒバコの問いに答える。小さなテーブルに向かい合わせ、朝食を一緒に摂るのは久しぶりだ。
「クリスマス・キャロルにはまだ早いよ。せっかちな幽霊だね」
まだ季節は秋。節操がないのは日本人の特権だ。
光が差し込む時間は確実に短くなっている。パーカーの袖は捲らなくなったし、ヒバコはいつの間にかダウンを羽織るようになった。陽が射している間は夏でも、夜になると途端に冬だ。秋というやつは仕事を放棄したらしい。
「ところで、今日ヘルプでアルバイトに入らなくちゃいけなくなったんだ、夕飯の当番、代わってもらってもいいかな」
「構いやしないけど」
目を細めてヒバコを見つめる。
「帰ったら、曲の続きを作ろう、だからそんなに睨まないでよ」
ここ最近は言葉にしなくても意図が伝わるようになったから便利だ。
「目は口ほどにものを言うんだな」
「それはこっちのセリフだよ」
アブミと久々に出会ってから、ヒバコはバンド用の曲を作りはじめていた。といっても今まで彼が作ってきた曲とバンド用の曲とでは勝手が違うから苦労しているらしい。最初は口出ししないようにしていたけど、結局ヒバコの方からアドバイスを求めて来た。全体の構成やコード進行なんかは固まっているようなので、今日は細かいアレンジを作り込む予定だった。
「ビスカは、どうするの? まだギタリストもベーシストも見つかってないけど。そもそもアブミにはどう折り合いつけるか相談したの?」
「ギタリストは、あてがあると言えばある。ベースは、うーん……、カトレアは楽器できないのか」
「どうしてここで彼女の名前が出るのか分からないけど、少なくとも僕はカトレアさんに楽器の経験があるって話は聞いたことないよ」
「そうか、じゃああれは別人」
ヒバコの証言だけでは判断できない、とにかくカトレア本人に訊いてみないと分からない。
「それじゃ、買い物も頼んだよ」
「げ、もうストックないんだっけ」
冷蔵庫の中身を思い返す。そう言えば先週の土曜日以来、まともに買い物に行っていない。そもそもあたしが買い出しに行くことはほとんどないから当たり前と言えば当たり前だが。
「ヒバコが帰りに買って来ればいいだろ」
「それでも構わないけど、君は今晩賞味期限の切れた卵一つとにんにく一片でどんなディナーを提供してくれるんだい?」
「面倒くさい」
「本当は今日僕が帰りに買い物に出ようと思ってたんだけどね、そこは申し訳ない」
平日は仕事の少ないあたしが、あまりごねても仕方がない。
ヒバコをいつも通り見送って、洗濯やらなにやらを済ませた後、これまたいつも通りクリスマス・キャロルの文庫本を開く。刺激の少ない一日。ただ、バンドをもう一度結成できるとしたらそれは嬉しいがまたハードな毎日が始まりそうなので、今のうちに何もない時間を謳歌しておく必要がある。
ヒバコはここのところ、あたしに対して出ていけと言わなくなった。居候してからそこまで当たりが強かったわけじゃないが、それでも当初は仕事はどうするのか、だとかアルバイトが続くといいね、だとか職安かあるいは親みたいなことを言ってくることがあった。正直、今の仕事でも切り詰めれば独り暮らしできるのかもしれない。それはヒバコも分かっているはずだ。ただ、それでけちけちと暮らしていても安定した生活は見込めないし、じり貧になる。ヒバコはヒバコで生活費が折半になったことでだいぶ楽になったという趣旨のことを言っていたし、あたしを今すぐ追い出すよりは、部屋に居てもらった方が楽だという判断を下しているのかもしれない。存外強かな奴だ。
クリスマス・キャロルの主人公、ケチのスクルージは同僚の亡霊マーレイの導きによって三人のクリスマスの幽霊と、クリスマス前夜に面会することになる。マーレイはスクルージに対して、クリスマスにけちけちしてたら憂き目に遭うと警告するためにクリスマスの幽霊を寄越したようだ。なんだか回りくどい。第一の幽霊はスクルージに過去を見せた。スクルージの過去だ。スクルージはかつてクリスマスを楽しんでいたが、徐々に金に染まっていったようだ。そして第二の幽霊は現在の幽霊だ。現在といっても少し先、明日のクリスマスの様子をスクルージに見せる。雇用しているクラチットという書記の貧相だが明るいクリスマスの様子や、甥のフレッドのクリスマスの様子だ。どちらもその場にはいないはずのスクルージに対して皮肉交じりに乾杯していた。そして第三の幽霊は未来の幽霊。スクルージの未来を見せる――。
クリスマス・キャロルを読み終わったのは、夕方のことだった。ベース以外でこれだけの時間集中力を保てたのは初めてのことだ。趣味、読書。悪くない。




