終章:帝都へ
讃岐の地がゆっくりと遠ざかっていく。
三月も半ばを過ぎたけれど、海の上の風はまだ冷たい。船から身を乗り出すようにして景色を見ていると、風にさらされた手足がみるみるうちに冷えていく。着ているワンピースのスカートも風でひらひらとして、脚が冷える。何だろうこの…下半身の保温性が全くない衣服は…。
『いつぞやに服を泥だらけにさせてしまったお詫び』として、尊さんは帝都で仕立てた、淡い桃色の美しいワンピースを贈ってくれた。『着物と迷ったけれど、洋服姿を見てみたかったから』なんて理由で。洋服なんて着たことがなくて、今でもこれが自分に似合っているのかどうかよくわからない。でも、シャツを着た尊さんと並ぶと意外と違和感がなくて、『都会のハイカラな恋人同士みたいだ』と尊さんばかりでなくお父さんやお母さんにも褒められたことは嬉しかった。まだ脚がスース―する感覚には慣れないけれど、この服を当たり前のように着こなして、帝都や横浜のお洒落な街を尊さんと腕を組んで歩けるようになりたいな。
「名残惜しいのはわかるけど…そろそろ室内に入らないかい?風が寒いだろう。帝都への道のりは長いのに、ここで風邪を引いたら大変だよ」
海を見ている私の後ろから尊さんが声をかけてきた。そして私の隣に来て、私の手を優しく握ってくれる。尊さんの手は大きくて温かい。
「はい…そうします」
私は片方の手でスカートを押さえ、もう片方の手で尊さんにエスコートされながら、船内の入口に移動する。
私はこれから、まだ一度も訪れたことのない帝都へ向かおうとしている。今はその道中、船で瀬戸内海に出たところだ。
「簡単に来れる距離ではないけれど、実家が恋しくなったらいつでも帰るといいよ。なに、僕も一人暮らしが長いからね。一週間ぐらい君がいなくても、掃除も料理も自分でなんとかするからさ」
「はい…」
「それに、寂しい思いをしないように…毎日君を抱きしめるよ」
「もう…!そんな恥ずかしいことをこんなところで言わないでください…!ほかの乗客もいるんですから…」
「ごめんごめん」
「ずいぶん楽しそうですけど…本当に悪いと思ってますか?」
私は少し拗ねたふりをしてみる。すると尊さんはあやすように私の頭を優しく撫でた。
「拗ねた君も可愛いから、ついからかいたくなっちゃうんだよ。でも一応、悪いとは思ってるよ?」
「…悪いとは思ってるんだ…。って、悪いと思ってやってるなら、余計悪質じゃないですか!?」
「あはは!バレたか~」
「…もう!」
これから帝都で、尊さんとの夫婦生活が始まる。
夏に尊さんの求婚を承諾し、お父さんとお母さんにも報告した。もちろん二人は手放しで喜んでくれた。そして年明けに、尊さんと尊さんのお母さんに讃岐に来てもらい、結納も済ませた。あとは私が帝都に行くだけだ。
新居は二人で選ぼうということになって、私の荷物は一旦貸倉庫に入れて、しばらくは尊さんが一人暮らしをしている部屋にお邪魔することになっている。帝都の物件はこんな田舎とは比較にならないぐらい値段が高いらしくって、今の尊さんの部屋もかなり狭いと念を押されている。狭い部屋で身を寄せ合って暮らすのもそれはそれで悪くないような気がするから、私は全然気にしてないのだけれど。助教授になってからはだいぶお金も貯まってきたから、広くて綺麗な家を探してできるだけ早く引っ越すぞと尊さんは張り切っている。
これからの生活は、まだまだ私にはわからないことだらけで不安も大きい。
どんな街で、どんな家で、どんな風に暮らすのか。
でも…いつでも尊さんは笑顔で私に手を差し伸べてくれる。だから私は尊さんを信じて、新しい生活に飛び込んでいこうと思う。毎日毎日同じ時間に起きて、民宿を隅々まで綺麗にする生活も私には十分だったのだけれど、尊さんのように、日々勉強して研究して、新しいことを発見していく毎日も素敵だ。だから私も尊さんを支えながら、何か新しいことをしたい、見つけていきたいと思う。
(それにしても、一生結婚することはないと思っていた私が最愛の人と結婚することになるなんて…今でも、ちょっと信じられない)
私は室内に入る前に、もう一度讃岐の地を振り返った。
海の向こう側で、靄でかすんでもう讃岐の山はよく見えない。
ついさっきまで、村人総出でお見送りされてずいぶん賑やかだったというのに、今は静かな波の音しか聞こえない。
(それもこれも、お狐さまのおかげです。お狐さま…本当に、ありがとう。またいつか、会いに来ますね)
私はお狐さまに心の中でそう語りかけた。
科学では説明できない、不思議な存在であるあやかし。
日本はこれからどんどん近代化が進んでいくだろうけれど…日本からあやかしが消えていなくなることはないだろう。お狐さまのような素敵なあやかしが、きっと他にもいるだろうから。あやかしを助けたり、助けられたりしながら、日本人はこれからもあやかしと共存していくはずだ。
帝都にはまだ、尊さんのように政治家や軍部からの命令であやかし狩りをしている人が何人かいるらしい。尊さんは自分の研究の傍ら、今なお続くあやかし狩りをやめさせるための活動をしていきたいとも言っていた。そのうち、自分のようにあやかしの呪いを受けて命を落とす人がでてしまうかもしれないから、そうならないうちに止めたい、と。
私も、帝都に行けばしばらくは仕事もないし友人もいないしで暇を持て余してしまうだろうから、帝都で始める“新しいこと”の一つは、あやかし狩りをやめさせるための活動にしようと思う。お狐さまがキヨへの恩返しとして私の願いを叶えてくれたように、私もお狐さまを、あやかしを守る活動をすることでお狐さまに恩返しをしていきたい。
尊さんと私、二人で力を合わせればなんだってできるはず。
それに、遠く離れてもきっとお狐さまは私のことを見守ってくれていると思うから。
讃岐の地はもう見えなくなったけれど、あと数時間もすれば本州が見えてくるだろう。これから、私と尊さんの新しい生活が始まるんだ──。
終