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8.狐の恩返し

「お狐さまはね、ちゃーんとわかってるんだ。この村に住む人間の顔と名前、そしてその人となり、何を好んで何を望んでいる人間なのか。お狐さまには全部わかっちまうんだよ。そして、村人の願いを叶えてくれるんだ。雨が降りますように、おいしい農作物が採れますように、子供が無事に生まれてきますように、親の病気が治りますように…。ささいな願いも、人生がかかっているような願いもね。そうして、長い間村人を見守り、幸せにし続けて来たんだ。お狐さまが人間を襲う?そんなこと、ありはしないよ」

 もうすぐ八十三歳になろうとしている、村のおばあちゃんの言葉だ。

 朱鷺野先生を元に戻す方法を探している時に話を聞きに行って、こう言われたのだ。

 当時は(でも実際に噛みつかれて、大変なことになっているのに…)と、おばあちゃんの言葉を信用できなかった。でも今は、もしかしたら本当にそうなのかもしれない、と思う。

 朱鷺野先生に耳としっぽを生えさせたのは、朱鷺野先生が自分を殺そうとした罰ではなくて…私や朱鷺野先生の願望を、叶えるためだったのではないか。

 だって、ああなってしまったからこそ朱鷺野先生はあやかし狩りをやめる決心がついたし、私は朱鷺野先生に気持ちを伝えて、彼と結ばれることができた。もしお狐さまが何もしていなかったら…私も朱鷺野先生も今頃は別々に…好きになった人と永遠に結ばれないまま、寂しい人生を送っていたのかもしれないのだから。


***


「う、ううむ…。にわかには信じがたい話ですが…お二人が自分をだまそうとしているとも思えませんし、事実なのでしょうね…」

 柴原さんは困ったような表情で頭をポリポリと掻いた。

 朱鷺野先生と柴原さんが医者のところから戻ってきて、朱鷺野先生がお風呂に入って、久しぶりに三人で食事を食べ、ようやく一息ついたところで柴原さんにこれまでに起きたことを説明した。

 朱鷺野先生に耳としっぽが生えたこと、日に日に朱鷺野先生の体が狐に近づいていったこと、土砂崩れに巻き込まれたお狐さまを朱鷺野先生が助けたこと、その際に崖から落ちた朱鷺野先生をお狐さまが救ったこと、最後には耳としっぽが消えていたこと──。

「しかし自分は先生のために、自分一人でもお狐さまをやっつけようと毒餌をお供えし続けました。村人の案内無しに山を登らないという約束を破って、観光に行くなどと吾妻さんに嘘をついて…。そうまでしてやったことが、結局先生を苦しめることになっていたなんて…。先生、自分は情けないです…。どうお詫びをしたら良いか…」

 柴原さんは心底申し訳なさそうに頭を下げる。

「いやいや、僕のほうこそちゃんと事情を説明しなかったのが悪いんだ。君は真面目で正義感が強いから、僕の役に立とうとしてくれたんだよね。『狩りは中止』というのも、僕自身の口から言ったわけではなかったし。君のしたことを責める気はまったくないよ」

「ですが…」

「もういいんだ。本当に、すべて終わったことだから。もう耳もしっぽもないし、匂いや音に悩まされることもない」

 朱鷺野先生は柴原さんの頭をポンポンと撫でた。柴原さんは泣きそうな顔をしていた。

「…僕の身に起きたことは、大学では一切誰にも話さないでくれ。あやかしを狩る立場として、呪いにかかるなんてあってはならないことだからね。とにかく僕は狩りに失敗したということにして報告書を書く。君も口裏を合わせてくれ」

「…わかり、ました…」

「それから、君の働き口をつぶしてしまうようで申し訳ないけど…僕はもう、あやかし狩りをやめようと思う」

「…!先生、それって…」

「ああ。教授になれないばかりでなく、下手をしたら大学を追い出されてしまうかもしれないね。重大な命令に背くわけだから」

「そんなことしたら先生が…!」

「…でも、僕にはもうできない。あやかしに罪はないし、あやかしを狩ることで悲しむ人がたくさんいると、今回身を以て知ってしまったからね。僕は変わらないといけない…今のままではいられない」

 そう言って朱鷺野先生はちらりと私を見た。私は何も言えなかった。あやかし狩りをやめるという朱鷺野先生の決断は嬉しい。けれど、それによって彼が今後どういう立場に置かれるのか…それは、私では想像もつかない。

「じ、自分はこれからも先生の授業を受けたいし、先生に恩返しをしていきたいのです。国命を退けることで先生のお立場が危うくなるのは…ううん…」

 柴原さんは辛そうに顔をゆがめた。柴原さんもこれ以上何と言っていいのかわからないのだ。

「僕も生物学の研究は続けたいから、何とか大学に残れるよう全力を尽くすけどね。罪のない誰かを傷つけて得た地位なんて、意味がないと思うし…なるようにしかならないさ」

「…………」

「…とにかく、もう僕の心は決まったから。報告書をまとめて、少しこの周辺の観光でもして…共に帝都に帰ろう」

「先生………」

 柴原さんは拳を握りしめたまま、黙って頷いた。頷くしかない様子だった。

「ひよりちゃん、悪いんだけど明日も少し仕事をお休みして、僕たちの観光案内をしてくれないかな?ぜひ、君に案内してほしいんだ。そうだな…まだ行ったことのないうどん屋を何件かはしごしたいな」

 朱鷺野先生はこっちを向いて、にっこりと笑って言った。

「もちろんです!」

 私は即答した。


***


「それでは短い間でしたが…本当にお世話になりました」

「お世話になりました!」

 それぞれ大きな荷物を持って、朱鷺野先生と柴原さんは大きく頭を下げた。


 朱鷺野先生と柴原さんが初めてこの宿に来てから、二十六日目の朝だった。二人は今日、この宿を出て帝都に戻ることになっている。

 八月ももう下旬。まだまだ残暑が厳しいけれど、蝉の声が少し減って、代わりに秋の虫の鳴く声がちらほら聞こえるようになってきていた。朱鷺野先生がいる間はとにかくバタバタすることが多くて気づかなかったけれど、秋の気配は確実に近づいてきていた。


「研究はうまくいかんかったと聞いたけども、うちはそんなに繁盛してる宿じゃないけん、またいつでも泊まりに来て下せえ。朱鷺野さんのような素敵なお客さんはいつでも大歓迎です」

 お父さんはそう言って朱鷺野先生に何度も頭を下げている。

「ありがとうございます。僕もカラッとした気候で空気が綺麗で、うどんのおいしい讃岐がとても気に入りました。ぜひまた来たいと思います」

 朱鷺野先生はお父さんと握手をした後、今度は私の方にやって来た。

「ひよりちゃん、元気でね。九月に入ったら朝夜は冷えるだろうから、風邪をひかないように。あと、昨日も話したけど、巻物は古文に詳しい同僚に見せて解読してもらうから、しばらく借りるからね」

 巻物は、朱鷺野先生でも十分に読めなかったので専門家の力を借りることになった。

「はい、また何かわかったら教えてください。あと、風邪には十分気を付けます」

「うん。それじゃあ…」

「はい…。先生もどうか、お元気で…」


 あれから、私と朱鷺野先生は口づけの一つも交わしていない。

 村の観光などで何度か一緒に出掛けたりはしたけれど、もうどこに行くにも柴原さんも一緒で、二人きりになることなんてなかったのだ。それに、看病という口実が無ければ私は彼の部屋に行くこともない。…あの土砂崩れが起きる前の朝、朱鷺野先生は『今晩僕の部屋においで』と言ってくれていたけれど…結局、私は彼の部屋には行かなかった。

 だって、彼はきっともうこの村には戻って来ないだろうから。

 彼はこれから、今の仕事を続けられるかどうかという新たな困難が待ち受けている。恋愛にかまけている余裕なんてないだろう。それに、私もこの宿を守るという大事な仕事がある…。だから、私と朱鷺野先生がこれから恋人としてやっていくという選択肢は無い。巻物のことで何度か手紙のやりとりぐらいはあるかもしれないけれど、おそらく今日が朱鷺野先生に会える最後の日なのだ。


 たった一晩、結ばれただけ。それだけの関係だ。

 だから、これで、いいんだ…。


 朱鷺野先生と柴原さんは重い荷物を抱えて、ゆっくりと宿を離れていく。二人は何度も何度も振り返って、見送りに出た宿の従業員たちに手を振ってくれた。

 私は二人の姿が見えなくなっても、しばらくはその場を動けなかった。朱鷺野先生の後ろ姿を瞼の裏にやきつけて、この残像だけを宝物にして、これからの人生を一人で生きていくんだ。

 瞳に涙がにじんだけれど、零れ落ちる前にすぐさまぬぐった。



 こうして、その年の私の夏は、朱鷺野先生が去ったのと同時に終わったのだった。



***


 同じ年の十二月下旬。年の瀬が迫り、一年の売り上げの清算や宿中の大掃除で、何かとバタバタしているある日のことだった。

 この讃岐地方に雪が降ることなんて滅多にないのだけれど、その日は珍しく雪がちらついていた。


「ひより、朱鷺野さんから手紙が来とるぞ」

 廊下を掃除している途中でお父さんにそんな風に話しかけられて、私は思わず箒を取り落としそうになった。

「朱鷺野先生から!?」

「俺らには世話になった礼と、今も元気にやっとるって。あとお前宛にも封筒が来てた。中身は見てないぞ。ほら」

「あ、ありがとう…」

 私は顔がほころびそうになるのを何とかこらえて、手紙を受け取った。封筒には『吾妻ひよりさんへ』と綺麗な字で書いてある。

(これが先生の字…)

 朱鷺野先生が私の名前を書いてくれた──それだけで嬉しくて、自分がまだ彼のことを全然忘れられていないことに気づく。彼が宿を去ってから何の連絡も取っていないというのに…。


 私は待ちきれず、すぐさま手近な空き部屋に入って手紙を読むことにした。


『拝啓


ずいぶんと寒い季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

…なんて、堅苦しい手紙では寂しいかな?ここから先は話口調で書かせていただきます。


あれからしばらく、便りの一つも書かなくてごめんね。

僕は大学に戻って、お狐さまの狩りに失敗したことと、今後あやかし狩りを一切行わないことを僕の上司…そこには大学総長も含まれる…に伝えた。

あやかしというのは人間が容易に手を出してはいけない存在であること、地域の人々に愛されていること、そして事実、科学では説明できない不思議な力を有していることなどを率直に訴えたんだ。

もちろん僕は教授陣からものすごい反発を食らった。

“あやかしそのものを無かったことにする”のが僕の仕事だったのに、その存在を認めてしまったわけだからね。

そして、僕は一時的に助教授の職を解かれることになってしまった。

けれど、柴原くんをはじめとした僕の生徒たちが、事情を聞きつけて僕の味方になってくれた。不当解雇だと声を上げてくれたんだ。

あやかし狩りはそもそも表沙汰にできない仕事だった。それを生徒たちが騒ぎ出したことで大学側も焦ったんだろうね。そのうち新聞部が記事にしたいとまで言ってきたのだけど、大学新聞の記事になればあやかし狩りのことが大学外にまで漏れてしまう。

意外と、帝都大学新聞は関東圏の他大学の教授や学生、卒業生なんかにも読まれているからね。下手をすれば大手新聞社の記者の耳にも入るかもしれない。

それはまずいと判断した大学側は、記事にしない・取材を受けないことを条件に僕を再び大学に置いてくれることになったんだ。

役職は助教授のままで、将来教授になれるかどうかは相変わらず不透明だけれど、ひとまず僕は無職になるのを免れ、あやかし狩りの任もなくなり、もともとやりたかった絶滅危惧種の研究を再開することができた。

そんなバタバタが落ち着いたのがつい最近のことだったから、こうして手紙を書くのも遅くなってしまったというわけだ。

とにかく、苦労はしたけれど今の僕は自分の希望が叶って非常に幸福だ。お狐さまに噛まれた傷も、今ではほとんど見えなくなっている。

君にもお狐さまにも迷惑をかけてしまったけれど、今は本当に感謝している。

本当にありがとう。僕は君とお狐さまのおかげで、自分の本当にやりたいこと、やるべきことを見つけることができたんだ。

僕はまた、帝都大で研究を頑張るね。

ちなみに柴原くんも元気でやってるよ。まだ家計は苦しいみたいだけど、彼は優秀だから単位は問題ない。留年をするようなことはないだろう。彼が無事に卒業できるよう、君も陰ながら応援してくれると嬉しい。



さて、またいつか、君やお狐さまに会いに行きたいと思っています。

何月何日にとは今の時点では言えないけれど、近いうち、必ず行きます。

巻物の解読が大方終わったので、内容を伝えて返却します。それに何より、君の元気な顔がまた見たいと思っています。

そちらはきっと関東の冬よりは暖かいのだろうけれど、身体を冷やさないように、風邪をひかないように気を付けてね。

それでは、また。


敬具』



「…先生…」

 朱鷺野先生の文字を見るだけで、頭の中に色んな表情をした朱鷺野先生が浮かんできて、胸が温かくなった。楽しげに笑っている朱鷺野先生、ご飯をおいしそうに食べている朱鷺野先生、山登りで少し疲れた朱鷺野先生、耳としっぽの生えた朱鷺野先生、そして、別れ際の爽やかな笑顔の朱鷺野先生…。

 …色々あったけれど、彼は無事帝都大にいられることになったんだ。夢をあきらめなくて済んだんだ。

 本当に良かった…!

 それに、柴原さんも朱鷺野先生のためにちゃんと戦ったんだ。あの二人は本当に強い絆で結ばれている。先生と生徒の、理想的な関係だ。二人が元気そうな様子が伝わってきてとにかくほっとした。


 それにしても…。


 嬉しいことだらけではあるのだけれど。

(先生、またこっちへ来るつもりなの…?)

 そこだけが少し、複雑な気持ちだった。

 手紙の文字を見ただけで心が躍るほど、私は今も朱鷺野先生のことが好きだ。だからこそ、もう一度会ってしまったらまた彼への気持ちに火が点いてしまいそうで。いっそ『結婚しました』っていう報告だったらよかったのに。そのほうがあきらめがつくのに…。


(でもまぁ、元気な先生の姿が見れるだけで十分か…)


 私は手紙を一度胸の中でぎゅっと抱きしめてから、懐にしまって仕事を再開することにした。

 部屋を出て、再度箒で廊下を掃き始めると、またお父さんが歩いてきた。

「なあ、そういえばさ、お前…」

 少し目をそらして、言いにくそうに口をもごもごさせている。

「何?」

「お前って、結婚する気、あるのか?」

「えっ!?何を突然!?」

 もう二度とお父さんの口から私の結婚の話が出て来るとは思ってなかったので、とにかく驚いた。

「いや、もしまた見合いの話が来たら、受けるのかなと思ってな…」

(私にお見合いの話が来てるのかしら?まさか…)

「あ、あんまり考えたことがなかったけど…どうして?何かそういう話でもあるの?」

「具体的な話はまだないが、その…。さっきの朱鷺野さんからの手紙を見てな、そういえばお前は朱鷺野さんのことを気に入っていた様子だったから、他の男だと嫌なのかどうか気になって。お前さえよければ、また見合いを再開してもいいかなと…」

「な…」

 朱鷺野さんのことを気に入っていた、って…。

 お父さんに私の気持ちがバレてしまっていたのか。そういうのには割と疎いほうだと思っていたのだけれど…。

「そ、そりゃ朱鷺野先生は優しいし、見た目も良いし、頭も良いし、とっても素敵な方だったよ。でも私みたいな庶民の娘が帝都大に勤めているような人と恋仲になるなんてありえないことだし…。と、とにかく、それとは関係なくお見合いはお断りするわ。私はもうお嫁になんて行きたくないの。今の仕事が楽しいから…。だからもしそういう話が来たら断って。お父さんお母さんには悪いけど、もう結婚はいいの」

「そうか…。いや、無理にとは言わん。お前の気持ちが一番大事だ。跡継ぎなら兄ちゃんに任せればいいしな。お前はよく働いてくれとるし、お前がいいならそれでいいんだ。いや突然、こんな話をして悪かった」

 そう言うとお父さんは気まずそうに去って行った。

(何なの、一体…)

 以前お見合いを台無しにしてからというもの、一度もこんな話をしたことがなかったのに。でも私の気持ちはちゃんと伝えたし、お父さんも納得してくれたみたいだからそれはそれでよかった。もうきっと、朱鷺野先生以上に好きになれる男性なんて現れないだろうから。自分の気持ちに嘘をついて結婚なんかしたら、相手の男性にも申し訳ない。

 私は朱鷺野先生に褒められた掃除の腕を一層磨いて、この民宿を死ぬまでピカピカに掃除し続けるんだ。そう、それがいい。それが私の生き方なんだ。


 最後にお狐さまの石像を掃除しようと、私は小さな雪がふわふわ舞う中庭に出た。

「寒っ…」

 朱鷺野先生に手紙で『身体を冷やさないように』と言われたばかりなのに、外に出た瞬間全身がきゅっと冷えた。風はないけれど、空気そのものが凍ってしまったかのようにひんやりとして、肌が痛いぐらいだ。

(本当に…こんなに冷えるなんて珍しい)

 雪は一粒一粒が小さくて、土はうっすらと白んでいる。湿った地面をゆっくり歩いて、私はお狐さまの石像を見上げた。石像は地面よりは厚めに雪を被っていて、お狐さまも寒そうだ。

(あとで笠をかけてあげようかな)

 私はお狐さまの上に乗った雪を手ぬぐいで払いながらそう思った。石像の上や足元についていた泥汚れも綺麗にして、私はお狐さまに手を合わせる。

(明日も、平和な一日になりますように)

 それから…。

(先生がまた、会いに来てくれますように)

 朱鷺野先生は『必ず行く』と書いてくれていたけれど、日付が決まっていない以上、いつになるかわからない。帝都からここまでは気軽に来られる距離でもないし、機を逸してしまって結局会えないまま…なんてこともありえる。

 だから私はそうお祈りした。

 お狐さまには、村の人間の願い事が全部わかってしまう。だからきっと、私の願いもバレてしまっているだろう。お狐さまにだけは、嘘はつかないでおこう。


(朱鷺野先生が会いに来て、そして…****てくれますように)


 一生口に出すつもりもない願いを、たった一度だけ、私は心の中で唱えた。



***


 夏が来た。

 朱鷺野先生と出会ってからとうとう一年が過ぎた。


 あれから私は何度か山に登り、いつもと変わらず何度かお狐さまと遭遇した。村の中で一番お狐さまとの遭遇率が高いのも、一番お狐さまを信仰しているのも、相変わらず私だった。掃除の腕には一層磨きをかけて、料理の腕はまぁそんなに進歩はしてなくて…お見合いの話ももちろん来ない。

 自分でもあきれるぐらい、変化の乏しい一年だった。刺激しかない毎日だった、朱鷺野先生と過ごした夏が懐かしい。もうあんな夏は二度と来ないんだろうなと思いながら、私は今日もいつもやっている通り玄関広間の机を雑巾で拭いていた。

 すると、宿の門の方でお父さんの声が聞こえて来た。

「おお、朱鷺野さん!よくぞおいでなすった!」

(……え?)

 さっきまで朱鷺野先生のことを思い出していたせいだろうか、空耳が…。

「荷物は俺が持つから、早く玄関へ。ひよりは今玄関を掃除してるんだ」

 空耳…。

 足音が玄関のほうに近づいてくる。

 まさか…本当に…?

 ガラガラ、と玄関の戸が開いた。

 

「………」

「……ひよりちゃん」

 茫然として入口をみやると、そこには去年と変わらない姿の朱鷺野先生が立っていた。

「せ、ん……」

「一年ぶりだね。元気にしてた?」

「なんで…?本物…?」

「ははは、いい感じに驚いてるね。君を驚かせたかったから、僕が泊まりに来ることは黙ってるように君のお父さんにお願いしてたんだ。宿泊予約は一か月以上前にしてたよ」

「……っ」

 本物、だ。

 驚かせたかったって、そんな。

 こんな急に来るなんてずるい。

 もし事前に言ってくれていたら、髪だって整えたし服だって新調したのに。こんな、普段着で掃除してる姿で出迎えることになるなんて…!

「君のお父さん、去年と同じ部屋を取ってくれてるみたいなんだ。君の仕事が落ち着いたら、一緒に紅茶でもどうだい?」

 朱鷺野先生はそう言って柔らかく笑った。

 戸の外から差し込む夏の強い日差しが彼の亜麻色の髪をきらきらと輝かせて、相変わらず彼は美しかった。


 その後は、とてもじゃないけど仕事に集中なんてできなかった。私は中途半端なまま仕事を終えるとすぐに、鏡の前に立った。

 顎の下で切りそろえられた髪を必死に梳かして、半日働いて汗で汚れた服を着替えて、不自然と思われない程度におしろいを塗った。

(ああもう…!急に来られても、お洒落も何もできない…!)

 時間もないし、服も化粧道具も何もかもそろってないのが恨めしい。都会の美しい女性はきっと、普段何もない日でも気を抜かずにお洒落しているんだろうに…それに比べて自分の女性としての意識の低さと言ったら。自分を呪いながらもなんとか身支度を整え、私は足早に朱鷺野先生の部屋を訪ねた。

「先生…」

 部屋の戸に向かって尋ねると、中から

「もう仕事は終わったの?はいっておいで」

と返事があった。私はゆっくり戸を開いた。

「お仕事お疲れ様。さ、休憩しよう。食堂からお湯をもらってきてるから、お茶にしよう」

「は、はい…」

 今の時間はそんなに西日が強くないけれど、それを除けば、まるで一年前と同じような光景だった。

 朱鷺野先生は座椅子に綺麗な姿勢で座り、長い指で薬缶の取っ手をしなやかに握って、丁寧な動作で湯を注ぐ。金色の模様が描かれた白いティーカップの中に、湯気を立ててお茶が広がる。朱鷺野先生はそれをゆっくりと差し出した。

「どうぞ、お姫様」

「!そ、それ…覚えてたんですね」

「このティーカップを見て、君は『お姫様の持ち物』と言ったんだっけかな?」

「……恥ずかしいから忘れてくださいっ!ティーカップなんてもの見たことなかったんです!」

「…忘れられないよ。去年の夏、君と過ごした日のことは…何一つ忘れてない」

「……!」

私はかっと顔が赤くなるのを感じた。

「…そう、君の顔だって一日たりとも思い浮かべなかった日はないよ。…だから気づいたんだけど、今、少しお化粧してる?いつもより肌が白くて綺麗だね」

「……!!あ、そ、それはその…」

「…でも気を遣わなくていいのに。山登りしている時は化粧もなしで、動きやすい服で実に健康的な感じだったじゃないか。普段通りでも君は十分魅力的なんだよ?」

 そんなことを言われると、もっと朱鷺野先生のことを好きになってしまう。もうこれ以上好きになったってむくわれないのに…。

「ひ、久しぶりに会ったので失礼のないようにと思っただけです!それより、先生がこの一年どういうふうに過ごされたか、教えてくださいよ。大変だったでしょう?」

 私は慌てて話題を変えた。

「ああ、そりゃもうね。無職になって実家に帰ることも覚悟していたからねぇ。だけど、意外となんとかなるもんだ。いや…これもお狐さまのおかげなのかな?」

 朱鷺野先生は目を細めて、この一年の間に自分の身に起きたことを話して聞かせてくれた。手紙にあった通り、あやかし狩りをやめると宣言して大学を追い出されそうになったこと、それを柴原さんをはじめとした生徒たちが抗議してくれたこと、結果、今はまた生物学科の助教授として絶滅危惧種の研究を続けていること。今もまだ一部の教授とはわだかまりがあるらしいけれど、朱鷺野先生の味方をしてくれる教授も増えてきているそうだ。

 そして、柴原さんも元気にやっていると。去年の冬休みには柴原さんともう一人研究室の生徒を連れて、佐渡に朱鷺を見に行ったそうだ。

「先生のやりたい仕事ができて、本当によかったですね。なんだか自分のことのように嬉しいです…。これから、きっと先生に救われる生き物がたくさん出て来るでしょうね」

「ありがとう。君が僕のためにあんなに頑張ってくれたから、僕もこうして踏ん張ることができたんだ。君がいなかったら…僕は今頃狐になって山に姿を消していただろうね」

「もう…縁起でもないことを言わないでください…!こうして助かったんですから…」

 朱鷺野先生はふと、ちゃぶ台の上の小箱を開けた。

「ああ、この和三盆も懐かしいな。帝都ではほとんど見かけなかった…。お茶菓子にちょうどいいから、いただくよ」

 そう言って朱鷺野先生は和三盆をひとつつまんで口に投げ込み、おいしそうに目を細めた。

「うん、この上品な味がたまらないね。…ところでひよりちゃんはこの一年、どう過ごしてきたの?何か変わったことはあった?」

「えっ、私ですか?私は、その…恥ずかしながら何にも変わってないです…。いつも同じ時間に起きて、同じような仕事をして同じような時間に寝るだけの生活ですよ…。料理の腕も上達したんだかしてないんだか…」

「そう」

 何が面白いのかわからないけれど、朱鷺野先生は嬉しそうに笑っている。

「いや、平和でいいじゃないか。いつ職を失うかヒヤヒヤしていた時期は、本当に生きた心地がしなかったからねぇ。羨ましいよ」

「いや、全然…先生に羨ましがられるようなことは何も…」

「そうだ、あれからお狐さまには会っているかい?お狐さまも元気かな」

「あ!そうですね、それは、…はい。今もたまに山で見かけます。元気そうですよ」

「明日、山登りに付き合ってくれないかな?今度は毒の入っていないちゃんとしたお供え物を持って行って、挨拶したいんだよね」

「わかりました。それなら私、お弁当を用意しますね。おにぎりはふわふわに握れるように特訓してましたから、去年よりはおいしくなってると思います。ぜひ食べてください!」

「一年ぶりのひよりちゃんの手料理か!じゃ、楽しみにしてるね」


 そうして談笑して、夕食の時間が近づいてきた。

「あ、私、食堂の支度をやらなきゃ…。そろそろ行きますね。もう少ししたら先生も食堂にいらしてください。今日はきっと先生のためにお母さんがごちそうを用意していると思います」

 言いながら、私は立ちあがって部屋の入口に向かう。

「ああ、わかった。…あ、そうだ、巻物はまた明日時間のある時に解説するよ。もう中身はすべて解読できたから」

「わかりました。ありがとうございま…」

 入口まで私に付いてきた朱鷺野先生は、ふと私に顔を寄せてきた。

(……!?)

 口づけされるのかと思って一瞬身構えた。けれど、朱鷺野先生は間近でにっこりと微笑んで、「じゃ、また」と言って、私を送り出した。

 …期待した私が馬鹿みたいだ。

 私はうつむいて、足早に朱鷺野先生の部屋を去った。

 彼はそもそも、私のことを今どう思っているんだろう?一年経って、もう好きという気持ちはなくなってしまったんだろうか。気になるけれど、確かめる勇気もない。

 その後は食堂で二言三言言葉を交わしたぐらいで、とくに踏み込んだ話をすることもなく一日が終わった。


 翌朝、私たちは去年と同様、早朝に玄関で待ち合わせをした。私はお弁当を準備して。朱鷺野先生は、去年よりはずいぶんと軽い荷物で。そして去年何度もそうしたように、並んで山へと入って行った。

 今日は少し曇っている。湿度は高いけれど、日差しがない分涼しい。さほど汗をかかずに祠まで登ってくることができた。

「ああ…。ずいぶん懐かしく感じるな。この祠の周辺は山道より少し空気がひんやりしてて、澄んでいる気がする」

 朱鷺野先生は腕を広げて、周辺の空気を大きく吸い込んでそう言った。

「お供え、しようか。本当にもう毒は入ってないからね」

「ふふ、わかってますよ」

 朱鷺野先生は鞄から油揚げを取り出して、祠の中に置いた。そして手を合わせて目を閉じた。何やらお願いをしているようだ。

「何をお願いしてるんですか?」

「知りたい?」

「?」

 隣に立つ朱鷺野先生が、顔をこちらに向けてやたら嬉しそうな笑みを浮かべているなと思ったら、ふいに手に温かいものが触れた。彼が自分の手を握っているのだと気付くのに数秒かかった。

「せ、先生…!?」

「これからは先生ではなくて、名前で呼んでほしいな。“尊”と」

「??」

 彼は一体何をしようとしているのか。

 手を握られた恥ずかしさで何とも返事をできずにいると、朱鷺野先生はこちらを向いてさらに私の両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。そしてまっすぐな瞳で私を見つめて、

「僕と結婚してほしい」

と、言った。

「……え?」

「僕はこれを言うためにここまで来たんだよ。君を僕の妻にしたいんだ」

「……え?え?」

 唐突過ぎてまったく…状況が理解できなかった。

(こ、こんな冗談って無い…よね?これは本気?いや、夢?先生に会いたすぎるあまり私は夢を見てるの…??)

「…ものすごーくキョトンとしてるね。言っておくけどこれは夢でも幻でもないよ?」

「…え、っと…」

「お狐さまの前で求婚すれば、またお狐さまが奇跡でも起こしてくれるかと思ったからここを選んだんだけど、ちょっと色気がなさ過ぎたかな?」

「あの…これは…本当に…」

「…ちょっと座って、落ち着いて話そうか」

 私は朱鷺野先生に促されるままに、祠のそばにある切り株の椅子に腰を下ろした。


「一年前、この宿を出る時に何も言ってなくて悪かったね。君は僕に捨てられたと思っただろう」

「………」

「けれど僕はその時無職になるかもしれない状況で…いや実際一か月くらい停職になっていて、柴原くんが動いてくれなかったら本当に無職になっていたしね。だから、そんな状況で嫁に来てくれなんてとても言えなかったんだよ。みすみす愛する人を不幸になんてしたくないから。だから、教授を続けられるのか、無理だったら別の仕事か、いずれにしても自分の仕事がはっきり定まってからでないと求婚はできないと思って、黙っていたんだ。期待させるようなことも言わないようにしていた。…すまなかった」

「………という、ことは…先生は一年前から、私と結婚したいと、思っていたんですか…?」

「当たり前だろう。ああいう状況だったとは言え、責任を取るつもりがないと嫁入り前の大事な娘さんに手なんか出さないよ。僕は君と結ばれた夜、『君と結婚したい、しなければ』と思っていたよ」

「……」

「それで、帝都大学で仕事を続けられることになったから、僕は君のお父さんに手紙を書いた。また宿にお邪魔したい。そして、娘さんと結婚させてほしい、と。君宛にも手紙を送ったけど、あの時実は君のお父さんに結婚のことを持ちかけていたのさ」

「そ、そうだったのですか!?」

「でももちろん、君の過去の縁談のことを考えても、君が望まない結婚は絶対にしたくなかった。だから君のお父さんにさりげなく結婚の意思を聞いてもらったつもりなんだけど…」

(あ、あの時…お父さんが突然結婚の話をしてきたのはそれだったのか…)

「恋敵がいないというのは安心材料ではあったけど…君には結婚したいという気持ちが無いようだったから、僕に求婚されて果たして喜んでくれるのかどうか、悩んだよ。それで結局、直接僕の気持ちを伝えて、そして直接君の気持ちを聞かせてもらうしかないと思ってここまで来たんだ。返事を、聞かせてほしい」

 私はようやく朱鷺野先生の告白を頭で理解して、自分の心臓の音が早くなっていくのを感じていた。

 朱鷺野先生が私と結婚したいと言っていて、私の返事を待っている──。

「もちろん、結婚はすぐにとは言わない。君にも色々都合があるだろうし、いくらでも待つよ。でも、いずれは帝都で僕と一緒に暮らしてほしいから、今の仕事をやめて故郷を出てもらうことになる。それが嫌と言うなら、僕は引き下がるしかないけれど──」

「…………」

「ちなみに君のお父さんはね、お父さん自身は喜んでくれていた。一度は嫁に出そうとした娘だし、帝都大学に勤めている立派な方から求婚されるなんてこの上なく光栄だと。でも、最後は君の気持ち次第だと言っていたな。親同士で勝手に結婚を決めるなんてよくある話なのに、君のお父さんは君の気持ちをちゃんと尊重しようとしている。いい親御さんだね」

「私、は…」

「うん。もう少し考えてからでもいいよ、無理はしな──」

「私は先生が好きです…!」

 頭の中で、どう言葉を返そうかぐるぐる考えていた。けれど、口から出たのは感情的で単純な言葉だった。

「先生が忘れられなかったです…!この一年、本当に本当に…寂しかったです……!お父さんに結婚したくないと言ったのは…先生以外の人とは結婚したくないという意味です…。私は、先生のことをずっと好きでした。先生以外の人と結婚するなんて考えられません。だから、だから…」

「…!ご、ごめん…」

 気づけば瞳から涙があふれていた。朱鷺野先生のことで、胸がいっぱいだ。

「私は先生と…ずっとずっと、一緒にいたいです…!もう離れ離れになんて…なりたくない…」

「……っ」

 朱鷺野先生が苦しそうな息を吐いたかと思うと、私は彼にぎゅっと抱きしめられていた。

「先生……」

「…ごめん、ごめんね。寂しい思いをさせてごめん。でも俺はこの一年間、片時も君を忘れたことはなかった。仕事のことを少しでも早く片付けて一日でも早く君に求婚したかったよ。僕なりに、君を妻として迎え入れるためにこの一年色々頑張ったつもり。寂しい思いをさせた分、これからは一生君を甘やかすから…どうか僕の妻になってください」

「……先生、お願い、します…」

「もう先生って呼んだらダメ」

「あ…えっと…」

 朱鷺野先生が私を抱きしめる腕に力を込めた。

「た、尊さん…」

 名前を呼んだその瞬間、私は朱鷺野先生…尊さんに唇を奪われていた。

 尊さんの唇の感触や、体温…。一年ぶりに感じるそれは、ひどく懐かしい感じがした。去年のあの一晩の記憶が蘇ってきて胸が高鳴る。私の身体は、あの晩のことをしっかりと覚えていた。

(尊さん……!)

 私は尊さんの背中に腕をまわした。それに応じるように、尊さんはさらに強く唇を押し当てた。


 私たちはしばらくそうしていたけれど…ふと目を開けた時、尊さんの背中越しに一瞬、金色の生き物が見えた気がした。

(お狐さま…!?)

 でも、瞬きをしたら見えなくなってしまった。

 見間違いかもしれない。でも…。


『お狐さまはね、ちゃーんとわかってるんだ。この村に住む人間の顔と名前、そしてその人となり、何を好んで何を望んでいる人間なのか。お狐さまには全部わかっちまうんだよ』

 村のおばあちゃんの言葉をふと思い出した。

 私の願い。

 心の底から愛しいと思える人に出会いたい。そしてその人と結婚したい。

 お見合いがダメになったその日から、心の奥底にしまい込んで見ないふりをしていた願い。

 それから…

『朱鷺野先生が会いに来て、そして…私を攫ってくれますように』

 たった一度だけ、口にも出さず、お狐さまの石像に向かって心の中で唱えた願い。


 お狐さまに、すべて見透かされていたのかもしれない。もしかしたら尊さんがお狐さまに噛まれて耳としっぽが生えたことすら、最終的に私の願いをかなえるためだったのでは…?



「…ん」

「ひより、ちゃん…。…っ」

 尊さんの舌が私の舌を絡めて、何度も私の口を出入りする。

 衣類に香り付けでもしているのだろうか?どこからともなく甘い香りがして、そのまま意識が溶けてしまいそうなくらいくらくらした。

「ひよりちゃん、今晩は僕の部屋に泊まって?去年と違って、僕はちゃんと正気の状態で一晩中君を抱きしめていたいんだ…」

 口づけの合間にそんな風に言われて、顔が火照る。

「…っ」

「本当は昨日も…君を部屋に呼びたい気持ちを抑えるのにどれだけ苦労したか…。でもちゃんと求婚してからと思って必死の思いで耐えたんだ。一年と数日、ずっとずっと我慢し続けた僕に…ご褒美ちょうだい?」

 甘い声でそうささやかれた私は、もう頭がどうにかなりそうだった。

「お、お…」

「お?」

「お狐さまが、見てますっ!こんなところでそういうこと言うのは、ダメ、です…!」

 慌てて尊さんを押しのけたら、私の必死な様子がおかしかったのか、尊さんはぷっと吹き出した。

「つい今しがた濃厚な口づけをしておいてそんなこと言う?ふふ、まあいいか。そうやって照れてる君の顔も可愛いし。お楽しみは夜までとっておくことにするね」



私たちはその後、ゆっくりと下山した。

行きと違って、帰りは互いの指を絡めるようにして手を繋いで歩いた。


***

 夜、食事もお風呂も終えて、私は尊さんの部屋を訪ねた。

 ほとんど寝間着のような姿で、一晩泊まるつもりで…心臓が飛び出しそうなぐらいドキドキしながら声をかけた。

 尊さんに出迎えられた私は、しかし抱きしめようとしてきた尊さんをかわして言った。

「ま、まず!巻物の中身について教えてもらっていいですか!?」

 そうでも言わないと、本当にドキドキしすぎて頭が変になってしまいそうだったから。尊さんもお風呂上がりで、ゆったりと浴衣を着た姿が妙に色っぽいし…。

「む。そうきたか。君もなかなか焦らすのが上手だね」

 なんて言いながらも、尊さんはすぐに巻物を取り出して、「おいで」と言って座椅子を差し出してくれた。

 尊さんはちゃぶ台の上に巻物と、もう一枚文字のたくさん書かれた紙の束を広げた。

「この紙が、巻物を解読して今の言葉に直したもの。古文や日本史を専門としている文学部の同僚に書いてもらったんだ。君にも読みやすいようにできるだけ難しい漢字は使わないようお願いしたけれど、それでも難しい表現は多いと思うから、わからないことがあれば都度質問して。いいね」

「はい」

「まず、この巻物は江戸時代中期のころに書かれたものだ。当時、お遍路ついでに四国を旅していた学者がお狐さまの噂を聞きつけ、研究をしに立ち寄って記録したと冒頭に書かれている」

「やっぱり江戸時代…。そんな昔からお狐さまはいたんですね」

「ああ。その当時からお狐さまは村人から神様として崇められていた。村人の願いを叶えてくれるとして、日々村人はあの祠に行ってお供え物をし、様々なことをお願いしていたそうだ。雨が降らなければ雨ごいをし、農作物の収穫の前には豊作を祈り、病にかかった子や親があれば、どうか命を助けてほしいと願った。今の君たちとさほど変わりない感じだね。学者は、このお狐さまがなぜこの山に住み着き、村人たちに加護を与えているのかを村人に尋ねた。すると、意外なことがわかった。もともとお狐さまは、山に住んでいた普通の雌狐だったそうだ」

「えっ?普通の狐だったんですか?」

「ああ。その昔、“キヨ”という名の女性が村に暮らしていた。キヨは山の麓に住む農家の娘で、当時十五、六ぐらいの年齢だった。キヨは山によく山菜を採りに行っていた。ある日、キヨがいつもの通り山に入ると、山道でうずくまって泣いている美しい女性を見つけた。見たことのない女性だったので不信に思いつつも、どうしたのかと声をかけると、女性は泣きながら『私の子供を助けてほしい』と言ったのだという。

その女性は髪が腰のあたりまで長く、長い前髪の間から右目だけが見えた。その瞳は真っ赤に光っていた。肌も日本人とは思えない白さで、髪も黒ではなく明るい茶色のような薄い色。明らかに普通の人間ではなかった。キヨは『これは化け物に違いない』と思ったけれど、その女性は『子供を助けてほしい』と何度もキヨに頭を下げるばかりで、キヨに襲い掛かったりする様子はない。それどころか女性の右腕は血で真っ赤に染まっていて、だらりと垂れ下がっていた。それなのに、自分の怪我のことには一切触れず、ひたすら『子供を助けて、私と共に来てくれ』と繰り返したのだそうだ。キヨは、化け物かもしれないけど、こんなに必死な女性を放っておけないと思い、女性についていくことにした。

女性が『ここに子供がいる』と小さな洞穴を指さしたので覗いて見ると、三匹の子狐が洞穴の中で身を寄せ合って、小さく鳴いていたんだ。そこでキヨは悟った。母狐が野犬か何かに襲われて前足を怪我して、餌が採れなくなったんだ。でも我が子を救うために必死で、力を振り絞って人間に化けて、助けを求めたのだと。

キヨは女性にここで待つように言って、すぐさま自宅の父と母を呼んできた。そして、子狐に水や餌を与えてやった。女性の傷も手当てをした。女性は、『私のことはいい』と言ったのだけれど、キヨは聞かずに女性の傷を丁寧に消毒し、包帯を巻いてやった。女性は、『ここにいると子供が獣に襲われるかもしれないから、連れて行ってほしい』と言うのでキヨは快諾した。そして『あなたもうちに泊まりに来てください』と誘ったが、女性は固辞した。女性はただ『子供だけでいい、私は大丈夫』と繰り返すだけだった。仕方なく、キヨは『子供たちはうちの一家が責任を持って助ける。だけどあなたも死んじゃダメだ。明日、あなたの食べ物と包帯の替えを持ってくるから、今晩はここでゆっくり休んでください』と言って子狐だけを連れて家に帰った。しかし翌日、同じ場所に来てみると、洞穴の前で一匹の雌狐が死んでいた。右足は血だらけで、見れば腹や、左目の上にも大きな傷があって血でドロドロになっていた。狐のそばには昨日キヨが巻いてやった包帯が落ちている。やはり、昨日の女性は母狐が化けたものだったんだ。腹や左目の傷は、服や前髪に隠れて見えなかったんだね。右腕の傷だけかと思ったら実際は満身創痍で…子供のために最後の力を振り絞っていたんだ…」

「…そんな…」

 自分が命の危機にありながら、最後の最後まで我が子を助けるために必死になっていた母狐。母親とは、そういうものなのだろうか。その母狐のことを思うと、泣きそうになってくる。

「キヨは母狐の亡骸を家の近くに埋めてやった。そしてそれから毎日、自宅で父や母、さらには近所の人の力も借りて子狐を世話した。やがて子狐たちは大きくなってたので山に返した。その後子狐がどうなったかはわからないらしい。そして子狐が巣立ってしばらく経ったころ、キヨがいつものように山を登っていると、ひときわ大きな狐に出くわした。その瞳は燃えるように赤く、毛並みは金色に光り輝いて美しく、ふさふさしたしっぽが三本生えていた。しっぽが三本あるので『また化け物!?』と思ったけれど、よく見ると左目の上に小さい傷があった。それを見てキヨはあの時の母狐を思い出したのだ。あの母狐の左目の上にはこんな傷があった気がする…と」

「その母狐が…今のお狐さまだと言うのですか…?」

「ああ、そうだ。その母狐は、きっとキヨに恩返しがしたかったんだろうね。その気持ちが、母狐をあやかしに生まれ変わらせたんだ。もともと人間に化けることができたぐらい、妖力の強い狐だったからできたことだろう。三本のしっぽは、三匹の子狐を助けてもらったことを象徴しているのかもしれないね。キヨは、『子狐たちは元気に巣立ちましたよ』とその狐に向かって話しかけた。狐はひらりといなくなってしまったのだけれど、その後もキヨが山に登ると、たびたび見かけるようになった。もうすっかり山に住み着いたようだ。そして、それ以降キヨの身に不思議なことが起こるようになったんだ。ある夏、日照りが続いて村中の農作物が枯れてしまったことがあった。枯れた作物を前にキヨが『雨が降ってほしい、どうにかもう一度作物が元気にならないか』と涙を流したところ、翌日に大雨が降って、一晩で村のため池は一杯になった。さらに、キヨの家の作物だけは、なぜか青々とした葉が戻り、すべて収穫できる状態にまで回復していたのだ。普通なら、一度枯れた作物が復活するなんてありえないのにね。その後もキヨだけ、キヨが願ったことだけが叶う不思議な現象が続き、キヨは山でお狐さまを見かけた時に、『まさかお前のおかげなのか』と聞いてみた。当然お狐さまは答えなかったが、キヨはその時『あの時の子狐は、私だけじゃなくて村のみんなで見守って育てた。もしお前が色々私に恩返しをしてくれているのだとしたら、私だけじゃなくて村のみんなの願いを叶えてほしい。みんなが幸せで、作物がよく実って、病や怪我でむやみに人が死んだり傷ついたりしない、そんな村にしてほしい』と言った。それ以来、村は気候が安定して作物がよく実り、病や怪我で無くなる人も少なくなった。キヨは、これはやっぱりお狐さまのおかげだと思い、村長に掛け合って、村の守り神としてお狐さまを崇めることにした。山の祠と石像もその時に作られたものだそうだ」

「…お狐さま…。そう、だったのですね…。子狐を救ってもらった恩を、キヨの言葉を今でも忘れずに…ずっとずっと、私たちの村を守ってくれたのですね…」

 ああ…。やっぱり、お狐さまは私たちの大事な大事な神様だ。お狐さま無くして、私たち村人は生きていけない。

「それともう一つ、驚きの事実があるよ」

「?」

「キヨはその後、村で民宿を経営している家に嫁いだのだそうだ。そして、いつでもお狐さまにお祈りができるよう、民宿の中庭にもお狐さまの石像を建てさせたのだという。キヨはこの巻物が書かれた時点でとうに死んでしまっていたけれど、その子孫をはじめ村中の人間が、なおもお狐さまを守り神として信仰している──と、巻物に書かれていた」

 民宿を経営している家、民宿の中庭に、お狐さまの石像……?

「それって…まさか」

「キヨの苗字がわからないから確証はないけれど、この村で先祖代々民宿を経営していて中庭に石像があるのは、君の家だけじゃないかな?」

「………!」

 言われてみれば、そもそも何でうちの中庭にお狐さまの石像があったのか。村全体で祀っているなら、村役場の隣にでも建てたらよかったのに…生まれた時からそこにあったから、疑問に思ったことがなかった。

「……でも、そもそもお狐さまが元は普通の狐だったとか、うちのご先祖さまがお狐さまを助けたとか、そんな話は全く聞いたことがないんですけど…」

「…まあ、こう言っては悪いけれど、江戸時代の頃はこの村で字を書いて記録に残せる人がほとんどいなかったから、正しく伝わらないままここまで来ちゃったんじゃないかな?この巻物も、中身を誰にも理解されないまま倉庫に放置されていたんでしょう?それに、キヨは控えめな性格みたいだから『私が助けた』ということを大々的に言わなかったのかもしれない。自分だけじゃなくて、村のみんなの願いを叶えてって言ったぐらいだから」

「そうですね。それに、うちのおじいちゃんおばあちゃんは私が産まれる前や産まれてすぐに亡くなっていますし…お母さんも隣村から嫁いできたので、ちゃんと伝わってなくても仕方がないのかもしれないです」

「まあとにかく、君がお狐さまを誰より信仰していて、そしてお狐さまがとくに君の前に姿を現すのは、君がキヨの子孫だからなのかもしれないね。もしかしたら、君はキヨにそっくりなのかも。困っている人を放っておけないところとか」

「……!」

「結局、これを読んでも耳としっぽが生える事例なんて書いてなかったけど…お狐さまのことが知れてよかったよ。…本当に素敵な神様だね」

「そう…ですね」

「巻物と、この解説の紙、君に返すね。自分こそがキヨの子孫だ!って大々的に言うもよし、そっと倉庫に戻すもよし。どうするかは君に任せるよ」

「…別に確証があるわけではないですし、誰にも言いませんよ。そっと倉庫に戻しておきます。この解説があれば誰でも読めますから、次にお狐さまに興味を持った人が、事実を知ってくれればそれでいいと思います」

「…やっぱり君も、相当控えめな性格だよね。やっぱりキヨの子孫だよ。間違いない」

「…もう。だからわからないじゃないですか」

 巻物と紙を手提げ袋に大事に仕舞うと、尊さんはすっと私のそばに寄ってきて、私の手を握った。

「た、尊さん…!?」

「巻物の話は、もういい…?そろそろ夫婦水入らずの時間といきたいところなんだけど」

「夫婦!?」

 慣れない響きに、思わず過剰に反応してしまう。

「ま、まだ…求婚をお受けしたことはお父さんにもお母さんにも話してないのに…」

「…明日ちゃんと、報告しようか。僕が君に求婚しに来たことはお父さんもお母さんも知ってるから。きっと結果が気になってそわそわしてるんじゃないかな?」

「う…。そういえば夕食の時、なんかお母さんがこっちをジロジロ見てるなと思ったんですよね…」

 尊さんはふふっと笑って、そして握っていた私の手を自分の唇にそっと押し当てた。

「…本当に、一年間寂しい思いをさせてごめんね。でもこれからは、毎日毎日君を甘やかして、たくさん幸せにしてあげる。ご両親や、お狐さまのいるこの地を離れるのは辛いと思うけれど、どうか僕についてきてください。お願いします」

「は、はい…」

「…ありがとう」

 尊さんはそう言ってまた私の手に口づけた。口づける時に顔を伏せると、尊さんの長い睫毛がよく見える。改めて、見惚れてしまう。この人が私の夫になるなんて…今でも夢を見ているのかと疑ってしまうぐらいだ。

「…あ、今、まだ信じられないって思ってるんでしょ。混乱したような顔してる」

「…!なんでわかるんですか!?だって、本当にもう、尊さんとは会うことすらないかもって思って──」

 すると今度は、唇を尊さんの唇でふさがれた。

 そして、ゆっくりと畳の上に押し倒される。

「これが現実だってこと、ちゃんと理解してもらわないといけないね」

 尊さんは私の頬をゆっくり撫でた。

「一晩かけて…教え込んであげる。僕たちはもう、夫婦だ」

「…尊、さん…」

 尊さんは、普段は温和な雰囲気の人だけれど、こういう時…少し強引なところがある気がする…。

「…覚悟してね?」

尊さんは妖艶に笑った。

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