7.朱鷺野先生とお狐さま
朱鷺野先生は滑車やそれをつなぐ金具を縄に複数装着し、丈夫な木にしっかりと結び付けた。そして何度か体重をかけて、縄や木が自身の体重に耐えられることを確認した。さらにもう一本、お狐さまに括りつける用の縄も同様に準備した。
そして厚手の手袋をはめ、自身の腰に巻き付けた縄をしっかりと握りながら、崖のようになっている斜面の前に立った。
「じゃ…行ってくる」
「………き、気を付けてくださいね…」
朱鷺野先生は縄をしっかりと握りながら、ゆっくりと降り始めた。
見ている私は、気が気でない。いつ縄が切れたりほどけたりするか、再度土砂崩れが起きるか、強風が吹くかもわからない。一度でも朱鷺野先生が宙に放り出されれば、そのまま転がり落ちて死んでしまう高さなのだ。
(先生…どうかお狐さまと共に、無事で戻ってきて…!)
私は祈りながら、無限に感じられるほどの時間をただひたすら耐える。
朱鷺野先生は滴る汗をぬぐうこともできない状況で、苦しそうな表情でゆっくりと降りていく。縄や滑車や、縄を結び付けている木がたまにミシッと音を立てて、そのたびに私は飛び上がって驚いたけれど、切れたり外れたりするような様子はなかった。
そして…
(やった…!)
朱鷺野先生が、お狐さまのいる岩場に着地した。
上から見た感じでも、岩場はしっかり安定していて、朱鷺野先生が立っても崩れそうな様子はない。私はひとまずほっと胸をなでおろした。
朱鷺野先生はお狐さまの横で跪いて様子を観察する。私のいる場所からはお狐さまがどういう状態にあるのかよくわからないけれど、朱鷺野先生が懐から解毒剤を取り出してお狐さまに与えているらしいことはなんとなくわかった。そして、彼は縄をお狐さまの体にしっかりと結んで、私のほうを見上げた。
両腕を大きく上げて、頭上で丸を作った。引き上げるようにとの合図だ。私は一旦下がって、朱鷺野先生が結んだ縄をぐっとひいた。ある程度の重さはあるけれど、朱鷺野先生の言う通り、女の力で引っ張れないような重さじゃない。滑車がやや軋んだ音を立てたけれど、これも壊れることはなさそうだ。私は体重をかけて腰を上げ下げしながら、お狐さまを全力で引き上げる。
「ふぅ、ふう…っ」
引き上げてる間、お狐さまがどうなっているか確認できない。一度でも手を離してしまえばお狐さまが落ちてしまう。私は息を切らせながら、休まず縄を引き続けた。そして、土砂崩れの場所から黄色い毛皮がのぞき、私はとうとうお狐さまを引き上げることに成功した。
「お狐さま!」
縄にしばられ、ぐったりとしたお狐さまを、私は安全な場所で下ろした。縛られていた場所の皮膚が赤く鬱血している様子だったけれど、他はかすり傷程度で目立った外傷もない。けれどまだ目は閉じたままで体も動かなかった。やっぱり毒のせいで麻痺しているんだ。解毒剤を摂取したとはいえ、効果が出るにはもう少し時間がかかるんだろう。
(あの凛として神々しいお狐さまが…こんなにボロボロの姿になって…)
思わず涙がにじんだけれど、今は泣いている余裕もない。ひとまずお狐さまの無事は確認できたので、私はまた土砂崩れのほうに近づいた。次は朱鷺野先生が無事に上がって来れるかどうかだ。朱鷺野先生は縄をしっかり掴んで、腕と足を使ってゆっくりと登ってきている。しかし…
「…ぐっ」
朱鷺野先生は斜面に足をつけて踏ん張っていたけれど、そこがボロッと崩れてしまった。
「先生!」
一瞬、時が止まったように感じた。朱鷺野先生の体が斜面から離れて、宙でゆらゆらと揺れた。彼は慌てて体制を立て直し、半ば転げるようにして元の岩場に下りた。
「せ、先生!大丈夫ですか!」
朱鷺野先生は岩場でしばらくの間うずくまっていた。
(もしかして…今ので怪我を!?)
「先生!返事をしてください!」
私は下を覗き込んで、何度か呼びかけた。すると、しばらくして朱鷺野先生が立ちあがってゆっくりこっちを見上げる。
「先生、もう一度上ることはできそうですか?その姿ですけど、もう誰かほかの人を呼んできて引き上げてもらったほうが…」
「…大丈夫。もう少し、頑張るよ…」
朱鷺野先生は弱々しく言って、また縄に手をかける。
「でも…!や、やっぱり危ないですよ!私、柴原さんを呼んできますから!柴原さんなら事情を説明すれば…」
「待って!」
朱鷺野先生はゆっくりと縄を上りながら、
「柴原くんにも…言わないでくれ…。頼む…」
そう弱々しく言うのだった。
「なぜです!?今はそんなことを言っている場合では…!」
「……ひよりちゃん、あのね。僕は…こんな姿になってしまった。非科学的な存在を排除するはずの僕が…僕自身が、非科学的存在そのものになってしまった」
朱鷺野先生は上りながら、苦しそうに声を絞り出している。
私は縄を掴み、朱鷺野先生を引き上げるお手伝いをしようとした。けれど重くて、お狐さまの時のようにうまくいかない。
「…つまり今の僕自身が、存在してはいけないもの、そのものなんだ。今の僕が柴原くんに見つかれば…僕はもう帝都大に居場所がなくなる。死んだも同然になる」
「そんなこと、ないです!柴原さんは先生に感謝していて…!先生がこの姿になっても、先生を見捨てるような人ではないはずです!柴原さんのことは先生が一番分かっているはずでしょう!?」
「だから僕は…お狐さまを救えただけで、満足だ…。もちろん、ここで死にたいとまでは思ってはいないけど…このまま落ちて死んでも、罰が当たったと思うだけで、後悔したりは…しない」
「先生っ!縁起でもないことを言わないでください!」
「僕はこうすることでしか…自分の罪を贖えない…」
朱鷺野先生は言いながらゆっくりと上って来ているけれど…この速度では、上に辿り着くまでに力尽きてしまいそうだ。私はやっぱり柴原さんを呼びに行こうと思って振り返った。その時だった。
ズズズッ…
と、骨に響くような重たい音が周囲に響き渡った。
「え…?」
もう一度振り向くと、土砂崩れの斜面が、土煙を上げて再度崩れ始めていた。
「……!!」
朱鷺野先生の周囲の崖も崩れ、さきほどお狐さまのいた足場が飲み込まれる。朱鷺野先生は着地する場所を失ってしまった!
「くそっ…!ここまでか」
自分の力だけで縄にしがみついているのも、もう限界のようだった。
「せ、先生っ!しっかり!」
私はどうしていいかわからず、がむしゃらに縄をひっぱった。けれど、全力でひっぱっても少ししか持ち上げられない。私では何の役にも立たない…!それどころか、これ以上斜面のほうに近寄ったら私まで落ちてしまうかもしれない。
気づけば私はぼろぼろと泣いていた。泣きながら後ずさり、足を踏ん張れる場所で何とか縄を引こうとする。
このままでは朱鷺野先生が土砂崩れに巻き込まれてしまう!先生が、先生が───
あっ
突然縄が軽くなって、私は勢い余ってしりもちをついてしまった。
「いっ…!」
まさか。
私は慌てて起き上がり、もう一度縄を引く。
軽い。
まさか、まさか。
私は斜面を覗き込んだ。
縄の先には、もう朱鷺野先生はいなかった。縄が途中でちぎれて、その先が無くなっていた。
先生、落ち…
私は身を乗り出した。
しかし下は、今まさに土砂が崩れているところで、土煙が舞い上がってほとんど何も見えない。
「先生っ!朱鷺野先生―――――っ!!!!」
私は泣きながら朱鷺野先生の名前を呼んだ。
朱鷺野先生が死ぬなんて、嘘だ。
私にも柴原さんにも、山の生き物にも何にでも優しくて、物知りで…私じゃ手の届かない、魅力的な朱鷺野先生。そんな彼が私を好きだと言ってくれた。私たちはせっかく気持ちが通じ合ったのに。こんな…こんな形でおしまいなの?
私は朱鷺野先生がどんな姿でも──、たとえ帝都大助教授の肩書を失って、人の世で生きていけなくなったとしても、それでも、私は朱鷺野先生と一緒に生きていきたかったのに…!
大粒の涙が頬を伝い、ぱたぱたと地面を濡らす。
「う…うう…っ」
頭の中が真っ白で何も考えられなくて、しばしの間舞い上がる土煙を茫然と眺めていた。
…とその時、どこかから視線を感じて私はふと顔を上げた。
この空間に、自分以外の誰かがいるはずはない。
近くにお狐さまが横たわっているだけで、他には人間はおろか動物の一匹もいない。
土砂崩れが治まり、山がしんと静まり返った。
(今の…視線は…?)
「きゃっ!?」
すると、ゴォォォっと、突然大きな音が響いてきた。そして斜面の下から激しい風が吹き上げて来る。
「え…な、何!?竜巻!?」
風はすさまじい勢いで土煙を巻き上げながら、凄まじい勢いで空へと抜けていく。
私は立っていられず思わず地べたに倒れこんだ。目にたくさん砂が入り、また体に小石が何度も当たり、痛みでさらに涙がこぼれた。その強風は数十秒、いやもしかしたら一、二分ぐらいは続いたかもしれない。朱鷺野先生だけでなく、もしかしたら私もこの突風や土砂崩れに巻き込まれて死ぬのかもしれない。…けど、朱鷺野先生と一緒に逝けるなら、それも悪くないのでは──。
もはやそんな風に思っていたところで、徐々に風が弱くなってきた。小石が体に当たる痛みもなくなった。
(………)
周囲が再びしんと静かになった。
(私…生きてる?)
私はゆっくりと顔を上げた。まだ土煙が舞っていて、視界は茶色く濁っている。しかしその中で、私の目をとらえたものがあった。私がこれを見逃すはずがない──。
土煙の中、微かに見えた亜麻色──
「先生!!!!!」
冷静に考えたら、さっき土砂の中に落ちていったはずの朱鷺野先生がそこに横たわっているなんてありえないことだった。けれど私は視界の隅でとらえた、地面に横たわっている人間──この人を朱鷺野先生だと直感し、すぐさま駆け寄った。私はその人の横に座り、頭を自分の膝の上に乗せる。そして、土で汚れた顔を手でぬぐった。
やっぱり、この人は朱鷺野先生だ!
目を閉じて死んだように動かないが、微かに呼吸をしている。土埃が付着して白く汚れた長い睫毛も、ときおりぴくっと揺れていた。
「先生…!!」
無事だった…!!
私は朱鷺野先生の頭を抱きしめて丸くなった。
…柴原さんの力を借りて医者に連れて行こう。命に別状はなさそうだけど、どこかしら怪我はしているはずだ。耳もしっぽも生えたままだけれど、こうなっては仕方がない。
朱鷺野先生を再び地面に横たえて、柴原さんを呼びにすぐさま村に戻ろうと私は立ちあがった。その時だった。
「……!」
私の目の前に、大きな生き物が立っていた。
「お狐…さま…!?」
さっきまでぐったりと横になっていたはずのお狐さまが、何事もなかったかのように四本の足と三本のしっぽをすっと伸ばして、私の前にいた。そして澄んだ瞳でじっと私を見つめている。
この光景、なんだか既視感がある……。
(…!そうだ、私が川に落ちて、お狐さまに助けてもらった時と同じ…)
まさか。
「お狐さま…。まさか、お狐さまが、先生を助けてくださったのですか…?」
朱鷺野先生は明らかに、土砂崩れの中に落ちて行ったのだ。そんな朱鷺野先生が生きてここに戻って来れたのは…川に落ちた私を救ってくれたように、お狐さまが不思議な力を使ってくれたからではないだろうか。
「あ、あの!先生は、お狐さまにひどいことをしようとしました。でも彼は心の底から反省して…こうして、自分の命を危険にさらしてまで、お狐さまを助けようとしたんです!どうか彼を許してください!最後に、あの、彼の耳としっぽも、消してくれませんか…?彼は、彼は二度とあやかしに手を出したりはしません。だから先生をもう一度、人間の世界に…私のところに返してほしいんです…!」
私はお狐さまに向かって懇願した。
「私は、先生のことが大好きなんです…!先生しかいないんです…!だから、どうか……!」
お狐さまはしばらくの間微動だにせず、静かに私を見つめていた。しかし、突然ひらりとこちらに背を向けて、森の中に消えて行った。
「あっ!」
一瞬の出来事だった。
「お狐さま!待って…」
何としても朱鷺野先生を元の姿に戻してもらわなければならないのだ。私はここで引き下がるわけには行かない。私は慌ててお狐さまの後を追おうとした。けれど…
「う…ん」
自分の背後から聞こえたうめき声に、私は踏み出そうとしていた足を止めた。
「先生!?」
振り返ると、横になっている朱鷺野先生がもぞもぞと体を動かしていた。そして…
「あれっ!?耳が…ない!」
朱鷺野先生の頭に生えていた狐の耳が、きれいになくなっていた。
「まさか…」
朱鷺野先生に駆け寄り、少し腰をずらしてみる。ズボンから窮屈そうにはみ出ていた三本のしっぽもなくなっていた。
「お狐さまが…先生を助けて…。耳としっぽも、取ってくれたんだ…!」
私は、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「先生…っ!」
私は朱鷺野先生に縋って、しばらく涙があふれるのを止められなかった。
するとしばらくして、
「ひより、ちゃん…?」
朱鷺野先生が目を覚まして、私の頭を優しく撫でた。
「先生!気が付きましたか!?ああ先生、どうしてあんな無茶を…」
私は朱鷺野先生の顔を見た。土埃で汚れて、それでもなお綺麗で美しい顔。彼は何が起きたのかあまり理解できていない様子で、きょとんとした表情でこちらを見ている。
「先生、先生…!頭、触ってみてください。もう耳もしっぽも、ないですよ…!先生は元に戻ったんです」
「…えっ!?本当に!?」
そう言うと朱鷺野先生は慌てて自分の頭やお尻を探った。そして、
「ない……」
と、茫然とした様子で呟いた。
「い、一体何が起きたんだ?そもそも僕たちは何でこんなに泥まみれになっているんだい?」
朱鷺野先生は少し記憶が混乱している様子だった。
「細かい説明はあとです!それより、お怪我はありませんか?歩けますか?ここは危険です。私たちが今いる場所もいつ崩れるかわからないので、すぐに下りましょう…!」
「ち、ちょっと待って…」
朱鷺野先生は手をついてゆっくりと立ち上がった。
「ん…。足を、くじいてるかな?ちょっと右足首が痛い…。でもまぁ、歩けないわけじゃないか。なんとか山を下りることはできるかな…」
「先生、私の肩に掴まってください。荷物は私が持ちますから」
「いや、でも、君に荷物を持たせるわけには…。不要なものはここに置いて帰ろう。刃物とか、毒薬とか、網とか…色々余計なものが入っているんだ。後日山菜採りのついでにでも回収して、使えそうなものは君が使ってくれ。僕はもう…あやかしを狩ることはない。だから、この荷物のほとんどはいらないよ」
朱鷺野先生はそう言って、鞄の中からいくつかの袋や道具をそっと木の根元に置いた。
「このぐらいの軽さなら、君に持ってもらってもいいかな?」
「はい」
私は朱鷺野先生から鞄を受け取った。そして、彼を支えながら下山した。
(お狐さまが…先生を助けてくれたんだ…)
隣に朱鷺野先生の体温を感じる。それだけで、また泣いてしまいそうなぐらい嬉しかった。
(お狐さま…本当にごめんなさい…。そして、ありがとうございます…!)
***
宿に戻ってきた私たちは、まず柴原さんのところへ行った。朱鷺野先生を病院に連れて行ってもらうためだ。
「あ、吾妻さん!?それに先生っ!?二人してどうしたんですか!?その格好は!?」
柴原さんは部屋の中で本を読んでくつろいでいた。そして、部屋に入るなり崩れ落ちた私たちを見てそれはもう驚いていた。
私たちは爪先から頭のてっぺんまで土や泥で真っ黒に汚れていたし、全身のいたるところに生傷ができていた。おまけに朱鷺野先生は足を痛めていてまっすぐに歩くことすらできないのだ。
「柴原さん…!先生を、医者の所に連れて行ってください…!私だけではもう、先生を運ぶ力が無くて…!」
「わ、わかりましたけど、何があったのか教えてください!??」
柴原さんにそう言われたけれど、私はもう説明する気力もなくて、部屋が汚れるのもかまわずにその場に横になった。
「……少し休ませてください…」
「あ、吾妻さん!!」
「…ひよりちゃんは疲れてるから休ませてあげて。僕はまだ歩けるから、行こう」
朱鷺野先生は柴原さんを促して、そして二人して部屋を出て行った。仮に動けたとしても、こんなに全身が汚れた状態で村を歩けばちょっとした騒ぎにでもなりそうだったから、柴原さんに交代してもらうのが正解なのだ。
(少し休んだら…お風呂に入ろう…)
朱鷺野先生を無事に連れ帰って来た安心感もあってか、猛烈な眠気が襲ってきた。柴原さんの部屋を勝手に使わせてもらうのは申し訳ないけれど、私はそのままそこで少しまどろんだ。
「…あー…!気持ちいい…!」
その後の私は一人で大浴場を占拠して、湯船の中で存分に体を伸ばしていた。
朱鷺野先生と山に出かけたのが朝食の頃で、山から戻ってきてしばらく休んでいたらもう十六時を過ぎていた。本来この浴場は十六時から開けるのだけれど、今日は特別に十七時から開場にして、私は貸し切り状態でお風呂に入らせてもらうことにした。
朱鷺野先生が土砂崩れの中に転落していた時の強風で、小さな擦り傷や痣が全身にできている。我ながら、女性の肌とは思えない無残な姿だ。
(痕に残らないといいけど…。まぁ残ったら残ったでいいか…別に嫁に行く予定もないしね…)
お湯が少し傷に沁みるけれど、それよりも汚れが綺麗に落ちた快感のほうが大きい。
(早く先生も、ゆっくりお風呂に入れるといいな)
狐の耳としっぽが生えてからというもの、お風呂は早朝の人のいない時間にこそこそ入るしかなかったから、きっと朱鷺野先生も早く堂々と湯船に浸かりたいだろう。
(そういえば、お狐さまに噛まれた傷も今頃抜糸されてるんだろうな。先生の綺麗な体に変な痕が残らないといいけど…)
一息ついても、頭に浮かぶのは彼のことばかりだ。
山を下りてくるときに色々と会話をしたけれど、朱鷺野先生の意識ははっきりしていたし、足首の怪我以外は痛むところもなさそうだった。彼はもう大丈夫だ。きっとすぐにいつもの生活に戻ることができる。帝都に戻って研究を続けることができるはず…。
(でもそれって…。先生とはお別れになっちゃうってことなんだよね…。先生は私のことを好きと言ってくれたけど…もとより、私と先生では釣り合わないし、私だって今のこの仕事を捨てることもできないし。別々の道を歩むのが、自然だよね…)
つい今朝まで、朱鷺野先生を元の姿に戻したいと必死だったのに、いざ戻ってみると、“別れ”が現実になってきて少しせつなさも感じる。朱鷺野先生が死にかけていた時は先生と共に生きたい、と思ったけれど、冷静に考えれば…私たちが結ばれて生きる道なんてなかった。
(いいんだ、これで…。いいんだ…)
私は目を閉じ、自分にそう言い聞かせた。
(私と朱鷺野先生の夏は、これで終わったんだ)