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6.雨上がりの鼬の死骸

 朱鷺野先生はふう、と小さく息を吐いた。

「五感が研ぎ澄まされているというのも…悪いことばかりではないんだな…。君の声や息遣いが良く聞こえて、君の体の甘い匂いや柔らかい肌の感触をしっかり感じられて、暗くても君が快楽に悶える表情が良く見えた…」

「は、恥ずかしいので…そういうことは言わないでください…」

「そう恥ずかしがらないでよ。多少強引ではあったけど、好きになった女性と結ばれたんだ、もう少し余韻に浸らせておくれ…」

 そう言いながら、後ろから私を抱きしめている朱鷺野先生は、私の髪を優しく梳いた。

 今の私は、きっと髪の毛はぐちゃぐちゃだし、たっぷりと汗をかいたから匂いも気になる。けれど朱鷺野先生の指がすべっていく感触はとても気持ちよくて、そういうことも何もかもがだんだんどうでもよくなってきた。


 私は今、朱鷺野先生と一緒の布団で寝ている。掛布団の下は私も彼も一糸まとわぬ姿だ。昨晩は幾度となく体を重ね、二度三度と気をやった。そしてとうとう二人で力尽きて、裸のまま布団にもぐって動けなくなってしまったのだ。

 私は行為が終わった後しばらくうとうとしていたけれど、夜行性になってしまった朱鷺野先生は全く眠くなくて、眠る私の顔を眺めたり頭を撫でたりして過ごしていたらしい。ふと目が覚めた時にそんな風に言われて、顔から火が出るかと思った。

「無理をさせてしまってごめんね…。狐の発情期は冬のはずなんだけどな…どうにも欲望が止められなくて、まさしく獣のようになってしまったよ…。本当に君には悪いことをした、ごめん」

「謝らないで下さい…。先生は何度も私に逃げる機会を与えてくれたのに…逃げなかったのは私ですから」

「逃げないでくれたのは本当にすごく嬉しかったけどね。…僕のこと、嫌いになってない?」

「な、なるわけないです!」

 私は慌てて起き上がって朱鷺野先生のほうを振り向いたが、

「あ」

自分が裸であることに気づいてすぐに布団にもぐった。

「あはは、そんなに照れなくても。さっき散々見たよ」

「……っ!もう!忘れてください!それより、私の着物はどこに行ったんですか!?」

 そもそもいつ服を脱いだかすら覚えていない。

「あそこに転がってるよ。けど、もう少しこのままでいてよ」

 朱鷺野先生が背中からぎゅっと私を抱きしめる。

「ち、ちょっと…!もう…」

 口では抵抗しつつも、朱鷺野先生の肌のぬくもりを感じて、幸せな気持ちで胸が満たされる。今だけは、私は朱鷺野先生のもので、朱鷺野先生は私のものだ。朱鷺野先生には狐の耳としっぽが生えていて危険な状況だとか、生えていなかったとしてもいつかは帝都に戻らなければならない人だとか、そんなことは思い出さずに。

 このまま…このまま時が止まってしまえばいいのに。

 そう思いながら目を閉じる。

 朱鷺野先生の体温と、外でしとしとと雨の降る音だけを感じながら、私は再びまどろみ始めた。


***


 朱鷺野先生の腕の中で眠りについた私は、外が明るくなっているのを感じて慌てて目を覚ました。

「せ、先生…。そろそろ起きたいんですが…」

 朱鷺野先生はまだ背中から私を抱きかかえていて、起き上がることができない。

 私は朱鷺野先生の腕の中でなんとかぐるっと向きを変え、彼と向き合った。彼は狐耳をぴくぴくさせながら気持ちよさそうに寝ていた。夜行性になってしまった彼も、朝方になってさすがに眠ったみたいだ。

「先生…」

 もう一度話しかけるが返事はない。

(うう…なんて可愛らしい寝顔…。でも私は仕事もあるし、人に見られない早朝のうちにここを出ないと…)

 起こさずに腕の中から出られないものかともぞもぞしていると、「うーん」と唸りながら朱鷺野先生が重たそうに瞼をあげた。

「おや、おはよう。もう起きるのかい」

「え、ええ…。先生の部屋から出ていくところを誰かに見られたらまずいと思うので…」

「そうだね。このまま君をずっと部屋に閉じ込めておきたいところだけど、そういうわけにはいかないもんね。じゃあ、どうぞ支度をおし」

 そう言って朱鷺野先生はやっと腕を上げて私を解放してくれた。

「雨はすっかり止んだみたいだね」

 外は明るく、鳥や蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。昨日の大雨が嘘のような、いつも通りの晴れた夏の日だった。

「そうですね。昨日は本当にすごい雨でしたね…」

 そこまで言って、雨のことを思い出すと連鎖的に朱鷺野先生との行為まで思い出してしまって、私は赤面した。朱鷺野先生と抱き合っている間中、ずっと部屋の中を雨の音が満たしていて、曖昧な記憶の中で一番はっきり思い出せるのがこの音だと言っても過言ではないのだ。これからしばらくは、雨音を聞くたびに昨夜のことを思い出してしまいそうだ。

 私は赤くなった顔を見られないようにそそくさと身支度をする。


 …と、部屋を出る前に、私は大事なことを思い出した。

「そうだ、先生。実は昨日、村の倉庫に入れてもらって、お狐さまのことが書かれた古い巻物を入手したんです。江戸時代に書かれたものらしいんですけど、古い字だから村長も私も何が書かれているか読めなくて、先生に読んでもらおうと思って借りて来たんです。後で持ってくるので、見てもらっていいですか?」

「へえ!記録されてるものがあったんだね。新しい情報が得られるかもしれないから、早速見てみたいな。楽しみにしているよ」

「朝食の時に持ってきますね。では、また後ほど…」

 私はそう言って部屋を出ようとした。

 すると、「ひよりちゃん」と、朱鷺野先生に声をかけられる。

 そして振り向く前に背後から朱鷺野先生に抱きしめられた。

「せ、先生…!?」

「ここ、蚊に食われてる…」

 彼はそう言って首筋を指でなぞった。

「ひゃっ!?」

 ぞくっとすると同時に、確かに朱鷺野先生に撫でられたところが少し盛り上がっていて痒いような…。

「言っておくけど、僕がつけた痕じゃないからね。それにしても部屋に蚊がいるなんて全然気が付かなかったな。僕もどこか噛まれているかもしれないね」

「お、教えてくれてありがとうございます…。後で薬を塗っておきます…」

 しかし、それでも朱鷺野先生は私を抱きしめたまま離してくれない。

「あ、あの、先生…?いつまでそうしているのですか…?」

「はぁ。ほんの少しの時間でも君と離れるのは寂しいものだね。君がまた部屋に来てくれる朝食の時間が待ち遠しいよ」

「あ、あの…」

 私がどぎまぎしていると、朱鷺野先生はゆっくりと体を離した。

「あんまり引き留めるとまずいね。ひとまずはこれで我慢する。早く仕事を片付けて、よければ今晩も僕の部屋へおいで。その…昨日のようなことはもう無いようにするから…健全に、ただ二人で一緒にいたいというか…」

 朱鷺野先生は少し照れ臭そうにそう言った。

「…はい、必ずまた来ます」

 私も名残惜しい気持ちを振り切って、朱鷺野先生の部屋を後にした。



***


(今日は天気がいいから、午前の仕事が落ち着いたらまた山にお狐さまを探しに行こう)

 部屋で身支度を済ませた私は、いつも通り仕事を開始した。

 昨晩はあまり寝ていないし、余韻に浸っていたい気持ちもあるけれど、昨日の大雨で宿の庭や玄関は泥まみれだ。むしろいつも以上に仕事をしなければ終わらなそうだけれど、それでもできる限り早く終わらせて、朱鷺野先生の姿を元に戻すための行動をしないといけない。ゆっくり休んでいる余裕なんてない。私は汗をぬぐいながら、清掃を開始した。


 そして玄関の掃除が落ち着いたところで、朝食の時間になった。私は食堂に行き、朱鷺野先生の分の朝食をお盆に乗せ、ついでに巻物も運んだ。

「なるほど、これは文字を解読するのに手間がかかりそうだね」と、朱鷺野先生は巻物を開いて言った。明るい場所で見ると、巻物が痛んでボロボロになっているのがはっきりわかる。単に古い文字が難しいだけじゃなく、欠けていたり滲んでいたりで物理的にも読みづらいのだ。

 私はまだ仕事があるので、巻物のことは彼に任せて、次は中庭へと移動した。玄関と同じように落ち葉を集めたり、泥を隅に寄せたり、お狐さまの石像を磨いたりした。そしてちょうど、石像を磨き終えた時。

 ズズズ…と、低く鈍い音が山の方から響いてきた。心なしか地面も少し揺れたような気がした。

「やだ…何?」

「今、地響きのような変な音がしたねぇ。地震かしら?」

 廊下にいたお母さんも、音を聞いて中庭に出て来た。

「地震だなんて。お狐さまが守ってくれてるのに、そんなことあるはず…」

「そうは言っても…昨日大雨だったから、山の斜面が崩れたのかもしれんね。あんた、今日は山に近づかないほうがいいんじゃない」

「…ん、わかった…」

 口ではそう言ったけれど、今日もお狐さまを探しに祠に行くつもりだ。


 中庭の掃除も終え、頃合いを見て朱鷺野先生の朝食のお盆を回収しに行く。

「先生、朝食は済みましたか?食器を下げに来ました」

 部屋の外から声をかけたけれど、しばらく待っても返事がない。

「朱鷺野先生、もしもーし」

(…あれ?)

 朱鷺野先生はあの姿だから当然外には出られない。

(部屋の中にいるはずだけれど…うたた寝でもしているのかな?ちょっと覗いてみよう)

 私は少しだけ部屋の戸を開けて中を見た。すると…


「先生!?」

 朱鷺野先生が畳の上でうずくまっていた。その近くでごはんの茶碗がひっくり返って、白米が床にこぼれていた。

(先生に何かあった!?)

 私は慌てて部屋に入って朱鷺野先生を抱き起こす。

「先生!どうしたんですか!?大丈夫ですか!?」

「う……」

 朱鷺野先生は苦しそうに眉間にしわを寄せながらも、ゆっくりと顔を上げた。

(よかった、意識はある…!)

 見たところ傷に何か異常があるわけでもないし、熱があったり嘔吐したりしているわけでもなさそうだ。

「先生、どこかお体の調子が悪いのでしょうか…!?」

「ひより、ちゃん…」

 朱鷺野先生は苦しそうに喘ぎながら口を開く。

「お狐さまに、何かあったみたいだ…」

「え!?」

 朱鷺野先生の言っている意味がわからなくて、私は言葉に詰まる。

「頭の中に、お狐さまの意識が流れ込んでくる…。助けてほしいと、言っているようだ…」

「ど、どういうことですか?お狐さまのことがどうして先生に…?」

 混乱する私をよそに朱鷺野先生はよろよろと起き上がって、いつも山登りに持っていく鞄を掴んだ。そして中から洋服とマントを取り出して着替えようとする。

「先生!動いて大丈夫なんですか!?寝ていたほうが…!よくわかりませんが、お狐さまに何かあったなら私が様子を見に行きますから!」

「今の僕なら…多分山に行けば、お狐さまがどこにいるかわかる…。だから僕が行く…」

「先生!ダメですってば!」

 私は身支度を整える朱鷺野先生を必死で抑えようとしたけれど、彼は動きを止めない。彼は私の前で浴衣を脱ぎ捨てて、シャツを羽織った。いきなり朱鷺野先生の体を目の前にしてひるんだけれど、今は恥ずかしがっている場合じゃない。

「先生…!」

「あーくそ、しっぽが邪魔でズボンが上手く履けない…」

 ぶつぶつ言いながらも、朱鷺野先生はなんとかズボンを履いた。しっぽはズボンの腰のところから窮屈そうに飛び出している。最後に朱鷺野先生はマントでしっぽを覆い、帽子をかぶって、耳としっぽがはみ出ていないかを姿見で確認してから荷物を持った。

 準備はてきぱきしていたけれど、荷物を持って歩き出した朱鷺野先生はフラフラしていて足元がおぼつかない。私は慌てて彼の荷物を奪って、体を支えた。

(中庭で聞こえた地響きのような音といい…何か悪いことが起こっている?一体何が起きたって言うの?)

「…どうしても山に行くんですか?本当に先生が行かないとだめなんですか?」

「…ひよりちゃん、申し訳ないけど、僕を山まで連れて行ってほしい…」

 朱鷺野先生の目は真剣だった。

「………」

こんな状態の朱鷺野先生を山に連れて行くのはためらわれる。それに、誰かにこの姿を見られたらと思うと…。

 けれど、朱鷺野先生がここまで言うのだからきっとお狐さまによほどのことがあったんだ。それに、お狐さまを殺そうとした朱鷺野先生が、今はこんなに必死にお狐さまを助けようとしている。それは私にとって嬉しい変化でもあった。しばらく朱鷺野先生を引き留めるか引き留めないかの天秤が心の中をゆらゆらしていたけれど、とうとう私は決心した。

「…わかりました。人に見られないように慎重に行きましょう。まずは玄関まで、人がいないか確認してきます」

 私は朱鷺野先生を待つように促して、先に部屋を出る。

 この民宿にはいくつか入口がある。裏門の方を通ればほとんど人通りがないから、そこまで人に会わずに行けるかが勝負だ。

 私は部屋の前の廊下に顔を出した。廊下は静まり返っている。朱鷺野先生が倒れているのを見つけた時に思わず大きい声を出してしまったけれど、運良く誰にも聞かれなかったようだ。隣の柴原さんの部屋も静まりかえっている。柴原さんは早起きだから、とっくに朝食を済ませて散歩にでも出ているのだろう。

「先生、大丈夫そうです。まずは階段を降りましょう」

 朱鷺野先生は鞄を持ってゆっくりと階段を降りる。そして私は、今度は食堂の勝手口の方を見て回る。朝食の時間が終わり、食堂ではお母さんが一人で机を拭いているところだった。幸い、勝手口のほうに人はいない。

「勝手口から出ましょう」

 私はお母さんの動きに注意しながら、なんとか気づかれずに朱鷺野先生を外に出すことに成功した。

「ここをまっすぐ抜けると裏門があります。出てしばらく歩けば、いつもの道ではないですが山に入れますから」

「…ありがとう」

 私たちは庭を音を立てずに横切って、裏門を出た。


***


「…ふう。山で人に会うことはめったにないでしょうから、ひとまず安心ですね。先生、大丈夫ですか?」

 朱鷺野先生の顔色は相変わらず良くないけれど、足取りは幾分かましになっている。しばらく歩いて、これまで朱鷺野先生と柴原さんとで何度も通った祠への山道に入った。

「ところで先生、お狐さまに一体何が起こってるんですか?助けてほしいって、声でも聞こえるんですか?」

 山道を歩きながら私は尋ねた。

「…音声として言葉が聞こえるんじゃないけれど、そんな感覚がするんだ。耳としっぽが生えてからこんなこと一度もなかったんだけど、さっきお狐さまが苦しんでいる感覚が襲ってきて、僕まで体がだるくなって、しばらく動けなくなった。お狐さまの身に何が起きているのかまではわからないけれど…僕には少々、心当たりがある」

「心当たり?あ、先生、そこ泥で滑りやすくなっているんで、足元に気を付けてくださいね」

 まだ雨が止んで数時間しか経っていない。山の中はどこもかしこも濡れていて、葉から雫の落ちる音が時折響く。葉は雨の雫できらきらと光って美しく、一方地面は水たまりと泥でぐしゃぐしゃになっていた。私たちの足元も、まだ一時間も歩いていないというのに泥まみれになっている。

 私が注意深く歩いていると、朱鷺野先生が続きを話し始めた。

「…お狐さまは、神経性の毒を摂取した可能性がある」

「…え?毒!?」

 予想外の言葉に思わず聞き返す。

「お狐さまはどうやら、体がしびれて動けなくなっているような雰囲気だった。さらに、その状態で何かしら生命の危険にさらされているみたいだ。僕も朝食を食べている最中にしびれが来て、それで茶碗を取り落としてしまったんだよ」

「体がしびれてって…麻痺してるんですか?何でそんな毒が?蛇にでもかまれたのでしょうか?」

「いや…。この症状はね、多分…僕たちが盛った毒だ」

「え?」

「僕たちは毎日油揚げやおにぎりを祠にお供えしていただろう。実はあれに毒を塗っていたのさ。もしお狐さまが食べれば、丸一日体が麻痺して動けなくなる。強く作用した場合は呼吸停止にもなりえる。まあ、お狐さまは体が大きいから死ぬまではいかないんじゃないかと思っていたけれど」

「な…!お供え物に、毒を入れていたんですか!?」

 私は唖然とした。まさか銃で撃つだけではなく、こんな罠まで用意していたというのか。

「そんな顔で見ないでおくれ。お狐さまを確実に殺すために、こちらは色々な準備をしてきたんだよ。君をだましたことは本当に反省しているから」

「……っ」

 私はなんとか怒りを飲み込む。仕方がない。本気で殺しに来ていたんだから、取れる手段は取るだろう。気づかなかった私も悪いのだ。

「…でも、先生がお狐さまに噛まれてから、お供え物はしていませんよね?それが今になってお供え物を食べるということがありえるんでしょうか?」

「うーん、可能性としては低いと思うんだけど、もしかしたら巣に持ち帰って保管していたのかもしれない。狐は賢いから、餌を持ち帰るのは珍しいことじゃない。巣が涼しい場所にあれば、すぐ腐るわけでもないだろうしね。…ただ、これまで何度もお供え物をしてきたけれど、お狐さまがそれを食べていた気配はなかったから違和感はある…いずれにしても、僕が感じた”体が動かなくて苦しい”っていう感覚は、僕たちの毒だと思うんだけどな…」

 お狐さまがいるのは祠を過ぎてもっと山を登ったところだと言うので、私たちは祠でいったん休憩をした。私は念のため祠の中を覗いてみた。すると…

「…お供え物が…」

 祠の中には、まだ新しい乾燥肉が置かれてあった。

「…これは君が置いたものではないよね?」

「今朝、村の誰かが置いたんだと思います。一昨日は、私が置いた油揚げと、村の誰かが置いたお饅頭があったはずですが…雨で濡れたでしょうから、この肉を置いた誰かが片付けたんだと思います」

「……」

 朱鷺野先生はそこまで聞いて、「柴原くんか…」と呟いた。

「え!?」

「多分この肉は柴原くんが置いたものじゃないかな。今朝、僕たちが来る前に」

「ま、まさか…!柴原さんには、狩りは中止だって伝えましたよ…!?」

 朱鷺野先生は「ふう」と小さくため息を吐く。

「柴原くんは、僕のこの使命がどれだけ重いものか良く知っている。彼だって相当な覚悟で僕についてきてくれているんだ。僕がだめになったからといって、すごすごと引き下がる男じゃない…。僕が復活するまでの間に、彼は自分のできることをやろうとしたんじゃないかな。何度も登ったから、祠までの道のりは当然覚えているだろう。だから君には内緒で、一人で山に──」

「……っ」

「君の言う通り、この肉は濡れていないから今朝置かれたものに違いない。しかし、僕たちが毎日山登りをしていた時、僕たちより早い時間に山に登ってお供え物をしていた村の人はいなかった。いつも僕たちが一番乗りだった。ましてや雨上がりのこんな足元の悪い時に、わざわざ早起きしてお供え物をする村人がいるとは思えない。柴原くんは今朝、部屋にいない様子だったし…」

 …油断していた。柴原さんはてっきり、室内で勉強したり周辺の観光をしたりして時間をつぶしているものと思っていた。柴原さんはあれだけ真面目な人なんだ。彼は朱鷺野先生の状況を知らず、まだお狐さまを殺す機会をうかがっている……?

「では、今朝柴原さんが置いたこのお供え物を、お狐さまが食べたということでしょうか…?でもこのお肉は、手付かずのように見えますけど…」

「さっきも言ったけれど、これまでもお狐さまはお供え物に手を出さなかった。だから、例え柴原くんが僕たちの知らない間に何度かお供え物をしていたとしても、それを食べた可能性は低いんじゃないかと思う。けれど柴原くんも馬鹿じゃない。お供え物を食べないのであれば、何か別のものを使って、何としても毒を飲ませようと工夫したはずだ。このお供え物はおまけみたいなものさ」

「原因はお供え物ではない?では、それは…?」

「まだ心当たりはあるけれど…後で話すよ。あまりゆっくりしている時間はない。そろそろ行こう」

 朱鷺野先生はそう言って立ち上がった。私は慌てて朱鷺野先生の体を支える。

「この後はどの道を行くんですか?お狐さまは一体どこに…」

「……展望所への道を行って、途中で道を右に外れる。あとはもう道も何もないところを、草をかき分けながら進むことになると思う。僕を支えながらで、女の子にはちょっとつらい道かもしれないけど、どうか協力しておくれ」

「わかりました。大丈夫です」

「こんな泥だらけの山に連れてきて、服を汚してしまってごめんね。落ち着いたら君に美しい着物を送ってあげるよ。普段の素朴な姿も愛らしいけれど、着飾ったらもっと君は美しくなれると思うよ」

「こ、こんな時に何をおっしゃるんですか…!」

 照れてしまって、思わずちょっと怒ったような返事をしてしまった。でも、朱鷺野先生が未来のことを話してくれたのは内心嬉しかった。明日がどうなるかさえわからないこの状況だけれど、朱鷺野先生が私に着物を買ってくれる日がいつか訪れたらいい──。


 そして、私は朱鷺野先生の案内に従って、道のない木々の中を歩いて行った。

 と、朱鷺野先生がぴたりと動きを止めた。

「ひよりちゃん、これを見て」

「?」

 朱鷺野先生の指さした方を見やると、

「!こ、これは…?」

 草の間から、小さい動物の死骸が見えた。それは明らかに別の動物に食べられた後で、腹の肉が大きくえぐれて、真っ赤な肉と白い骨がむき出しになっていた。それに前足は変な方向に折れ曲がっている。

「これは鼬だ。傷口はまだジュクジュクしている。今朝食べられたんだ、多分…お狐さまにね」

「ど、どうしてわかるんです…?」

「噛み痕の大きさ。後は…ただの勘だけど。多分柴原くんなら鼬をとらえて殺して、そしてその体の内部にたっぷりと神経毒を仕込むはずだ。僕たちがお狐さまに遭遇した時、あの時も近くで鼬が倒れていたのを覚えているね?」

「…そ、そういえば?でも、それがこれとどう関係するのですか?」

「多分あの時の鼬は、僕たちの用意したお供え物を食べて麻痺して倒れていたんだ。鼬の口元に米粒がついていたからね。そして、そこにお狐さまが現れた。あれは弱った鼬を狙って出て来たんじゃないかと思うんだよ」

「…!」

「つまり、お狐さまは鼬を食べる可能性がある。それを見ていた柴原くんは、お供え物だけではなく、毒入りの鼬の死骸も用意したのさ。小動物を捕らえる罠などの道具は持ってきているからね。今朝、柴原くんは自分が仕掛けた罠に鼬がかかっているのを見つけた。その鼬を殺して腹を割き、中に毒を注ぎ込んで、この辺に置いたんだ。そしてお狐さまがそれを見つけて食べ、体が麻痺した」

「…そんな…」

「この近くにいるはずだ。体の自由が効かなくて弱っている。そんな気配がする」

 朱鷺野先生はお狐さまの気配を感じて気力を取り戻した様子で、急にきびきびと動き出した。やや傾斜のある場所を、近くの木を掴みながら登っていく。私も慌てて後を追った…けれど。

「待て!」

 傾斜を登り切った朱鷺野先生が強い口調で怒鳴った。私はびくっとして足を止める。

「……なんてことだ…」

 そして朱鷺野先生は、そこから下を見下ろして、絶望的な口調で呟いた。

「先生、下に何かあったのですか?」

 私が恐る恐る聞いてみると、

「…昨日からの雨で、…土砂崩れが起きたらしい。そして下に…お狐さまが落ちている」

「…え!?」

「足元に気を付けて、少し上がっておいで」

 朱鷺野先生に言われて、私は近くの木に掴まりながらそうっと朱鷺野先生の隣まで登っていく。

 すると…

「……!」

 私は息を飲んだ。

 先日まで森であったはずの地面がごっそりとえぐれて無くなり、崖のようになっていた。その崖には、大きな木々がまるでおもちゃのように、斜面にあっちこっちの向きで転がっている。土砂とともに崩れ落ちて行ったのだ。大人の背丈ぐらいありそうな大きな岩も途中途中で転がっている。あと数歩足を踏み出せば、私もあの木や岩のように無残に転がり落ちて死ぬのだろう。

 今も、土がむき出しになった斜面に、どこかからあふれて来た水が幾筋か、ちょろちょろと流れている。今のこの状態から、さらに追加で崩れてもおかしくない状況だ。

「あ…!」

 そしてその崖下を見渡していると、斜面に大きな岩がせり出しているところがあり、その上に…丸くなっているお狐さまの姿が見えた。

 斜面を転がり落ちたせいか、いつも金色に輝いているはずのお狐さまが今は泥にまみれ、体の大きさと三本のしっぽを見なければお狐さまと見分けがつかないぐらいに汚れていた。

「お狐さま…!!」

 私はますます血の気が引いた。

(土砂崩れに巻き込まれたなんて…!)

 しっぽがわずかに動いていて、死んでいるわけではないようだ。

 だけど、今にも崩れそうな斜面を降りてあの岩場まで助けに行くのは無理だ…!

 お狐さまは体を地面につけて、ぐったりとしている。普段のお狐さまだったら、身のこなしも素早いし跳躍力もある。土砂崩れに巻き込まれてもそれなりに身をかわして、あんなどこにも逃げ場のない岩場に無様に転がるなんてことはないはずだ。けれどこれは多分、あの鼬を食べて体が思うように動かなくなっていたところで土砂崩れに巻き込まれてしまったからこうなったんだ。

(…というか、そもそもこれまでお狐さまが村を守ってくれていたから、土砂崩れなんて百年以上起きたことが無かったはず。お狐さまが毒を飲んでしまったから、村を守る力が無くなって土砂崩れが起きたんじゃ…!?)

「せ、先生…!私、どうすれば…!」

 追加で土砂崩れが起きてもおかしくないし、お狐さまが乗っている岩もいつ転がり落ちてもおかしくない。このまま放っておけば間違いなくお狐さまは死んでしまう。…何か網のようなものを上から垂らして、お狐さまを引き上げることはできないだろうか?いや、それではお狐さまが自ら網に掴まらないといけない。体の自由も効かないし警戒心の強いお狐さまがそんなことをしてくれるわけもない。では、人間があそこまで下りてお狐さまを抱えて戻ってくる?お狐さまは体が動かない状態だから抱えることはできるかもしれない。けれどこんな危険な場所に下りるとなると、それこそ人命を危険にさらすことに──。

 私が考えを巡らせている中、朱鷺野先生は小さい袋を懐に入れ、そして荷物から長い縄を取り出して自分の腰に巻き付け始めた。

「…!?先生、何をしているんです!?」

「見てわからない?お狐さまを助けに行くのさ。この袋には解毒剤が入っている。これを飲ませればお狐さまはだいぶ楽になるだろう」

「解毒剤を飲ませれば、って…!まさかあの岩場まで下りるつもりですか!?」

「もちろん、そうだよ。こういう崖から縄を伝って降りる…懸垂下降という登山技術があってね。登山家ほど熟練しているわけじゃないけど、何度か経験はある。縄も登山に使う相当頑丈なものだし、引き上げにはこの滑車を使うから、そう難しくはないはずだ」

 朱鷺野先生はそう言って荷物から木でできた円盤のようなものや、金具をいくつか取り出した。これが滑車というものらしいが、私には使い方が全くわからない。朱鷺野先生は登山に関しても専門的な知識があるようだし、あやかし狩りのためにあらゆることを想定して道具を準備していたようだ。

「自分用とは別にお狐さま用の縄をもう一本垂らして、僕はその縄にお狐さまをくくりつける。君はそれを引っ張り上げてくれないかな?滑車を使えば女性の力でも大丈夫だと思う」

「せ、先生はどうするんですか?戻って来れるんですか?」

「もちろん自分の力で戻るさ。大丈夫、自分で自分を引き上げる方法も心得ている」

「で、でも危険すぎませんか!?どうして先生がそこまで…!」

「お狐さまが死んじゃったら、僕の体はもう元に戻らないかもしれないでしょ?それに、今でもお狐さまの苦しみが感覚として伝わってきてるのに、お狐さまが死んだら僕にもどんな影響があるかわからないよ。僕も一緒に死んじゃうかも」

「……っ」

 朱鷺野先生は穏やかな口調でそう言い、私の頬を撫でた。

「ひよりちゃん。もし他の誰かを呼んできたとしても、やることは同じだ。お狐さまの場所まで下りて、引き上げないといけない。だったら今すぐに動ける僕がやったほうがいい。…僕を信じて。僕がやるしかない」

「先生…」


 朱鷺野先生は、ずるい。

 そんな風に言われてまっすぐ見つめられて…私は逆らえるはずがなかった。


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