5.雨降る夜、愛しい人の部屋で
朝、玄関を箒で掃いていると、柴原さんが二階から降りて来た。
「あ、柴原さん。おはようございます」
「吾妻さん、おはようございます。今日の先生の調子はいかがでしょうか」
「食事はきちんと召し上がっています。けれど外には、まだ…」
「そうですか…」
「柴原さんは、今日はどこかへ行かれるんですか?」
「午前中は勉強をして、昼は隣村のうどん屋…『中野製麺所』へ行ってみようかと」
「そうですか、中野さんのところ!あそこはかき揚げがとっても美味しいので、ぜひうどんと一緒に注文してみてください」
「かき揚げですか?結構好きなので、楽しみです。絶対注文します」
柴原さんはそう笑って、朝食を食べに食堂へ入って行った。
朱鷺野先生に狐の耳としっぽが生えてから五日目の朝だった。
『先生はあれから具合を悪くして心も落ち込んでしまって』云々と理由をつけて、柴原さんには帝都に先に帰ってもらうよう説得した。しかし「自分一人で帰るわけにはいかない。必ず先生をお連れして戻る」と柴原さんも譲らず、しばらくそのまま滞在することになってしまった。今のところは柴原さんも勉強や観光で時間をつぶしていて、なんとかバレずに過ごせているけれど…いつまで続くかわからない。朱鷺野先生が怪我をしたという噂は村中にも広まっていて、綾さんを始めとした村の女性たちも、たまに心配して宿を訪ねてくる。朱鷺野先生がお狐さまに危害を加えようとしたことが村の人間に知られたら、ただではすまないはずだ。私は朱鷺野先生を守るため、先生以外の人と会う時はいつも気を張っていた。
「先生、お食事は終わりましたか?掃除に来ました」
玄関の掃除を終えた私は朱鷺野先生の部屋を訪れた。
「どうぞ」と小さく聞こえたので、私は中に入る。
朱鷺野先生は書き机で何か本を読んでいるようだった。
相変わらず朱鷺野先生の頭には二つの可愛らしい狐耳が、お尻のあたりからは三本のしっぽが生えている。ちなみに、浴衣に三本のしっぽが収まりきらないので、浴衣のお尻の部分をはさみで切って、今はその穴からしっぽだけが外に出ている状態になっている。
「朝食、置いておいてくれてありがとう。おいしかった」
朱鷺野先生はしっぽをぱたぱた振りながらそう言った。
「やっぱり耳としっぽ、無くなりませんね…。なんだかしっぽを振っているその姿、もうすっかり馴染んでいるような…」
「なんとなく動かし方までわかるようになってきた気がするよ」
朱鷺野先生がそう言うと、しっぽがさっきよりも激しくぶんぶんと動いた。朱鷺野先生もすっかりこの状態に慣れてきて、こうしてふざける余裕も出てきたようだ。
私もちょっとふざけて、猫が猫じゃらしにじゃれつくように、あっちへこっちへ動く朱鷺野先生のしっぽに何度か掴みかかったりしてみた。朱鷺野先生以外の人と会う時にいつも気を張っている反動か、彼といる時はかえって落ち着いて、気が緩んでしまうのだ。
「おっと、そう簡単には捕まらないよ」
朱鷺野先生も楽しげに私のいたずらにのっかってきて、さらに勢いよくしっぽを振った。しばらく遊ぶだけ遊んで、やっと私は自分の仕事を再開する。朱鷺野先生が食べた後の食器をいったん部屋の入口に置いて、代わりに入口に置いておいた掃除道具一式を部屋の真ん中に運んできた。
「ちょっと埃が飛びますよ」
朱鷺野先生にそう注意を促してから。私ははたきを持って、飾り棚や箪笥の上など埃の溜まりやすいところをパタパタとはたく。朱鷺野先生は本を持って部屋の隅に移動する。そして、私が部屋の半分ぐらいをはたき終えたところで、今度は朱鷺野先生が箒を持って畳の上の埃を掃除し始めた。掃除は私の仕事だからいいんです、と何度も言ったのに、朱鷺野先生は手伝うと言って聞かなかった。ずっと部屋にいて退屈なのと、私にお世話をしてもらってばかりいるのが申し訳ないからだと言う。
私はここ数日、かなりの時間を朱鷺野先生のお世話に割いている。食事を毎日三食部屋に運び、着替えや体を拭く手ぬぐいを用意し、包帯を替える。厠が部屋の外の共同のものしかないので、朱鷺野先生が厠に行きたいとなれば厠に誰も入っていないことを確認し、帽子とマントで全身を隠してから行かせる。お風呂も、早朝の一般客が入れない時間に入らせる。その間私は外で見張りをしている。誰にも姿を見られないようにするのはなかなか大変だった。
けれど…私は彼の世話を煩わしいとは思っていない。
お狐さまに銃を向けたことを許したわけではない。だけど、朱鷺野先生の話を聞いたり、じゃれたりして、彼と一緒に過ごす時間が楽しいのもまた事実なのだった。
部屋の掃除を終えると、私はまた次の仕事に移る。
「では先生、私は浴場の掃除に行ってきます。昼食ができたら持ってきますね」
「ありがと。行ってらっしゃい」
しっぽを振る朱鷺野先生に見送られ、私は部屋を出た。
その日の夜。朱鷺野先生が夕食を食べ終わった頃、私はまた彼の部屋を訪れた。
「包帯、替えますね」
「ありがとう」
夕食後は傷口の消毒と包帯の交換、着替えや手ぬぐいの交換をしている。朱鷺野先生は上半身だけ脱ぎ、私は彼の背中側に座って慣れた手つきで包帯をほどいた。傷口はだいぶ乾いてきていて、私は少し安心して消毒薬を取り出す。すると…
「う…っ」
朱鷺野先生が顔をしかめた。
「あ…ごめんなさい。外からの風が、そちらに向いていましたか?」
私は慌てて消毒薬の蓋を閉じる。
「いや…大丈夫だ。まだ我慢できる…。けど、あと数日したらどうなるかわからないな」
「また少し…嗅覚が鋭くなったんですね」
「ああ…。特に夜はね…」
朱鷺野先生は消毒薬の、薬品の匂いに反応したのだ。
朱鷺野先生に耳としっぽが生えた初日は「耳としっぽだけで他には何ともない」と笑っていられたけれど、翌日から朱鷺野先生は少し嗅覚もおかしくなり始め、私が食事を運ぶために階段を上っていると、部屋の中にいても献立の内容がわかるぐらいに鼻が利くようになってきたのだ。それに、最初はほとんど聞こえていなかった狐の耳からも音が少しずつ聞こえるようになってきていると言う。あと、歯が少し尖ってきたような気がするとも。
つまり朱鷺野先生は、ここ数日で少し…狐に近づいてしまったようなのだ。それに、朝は比較的落ち着いているのだけれど、夜になると狐の特性が色濃く出てきて、朝昼より一層聴覚や嗅覚が敏感になるのだそう。狐が夜行性だからだろうか?
「…駄目だな、こんな調子では…」
できるだけ消毒薬の匂いが朱鷺野先生の方にいかないよう気を付けながら包帯を替えていると、朱鷺野先生は落ち込んだ声でつぶやいた。この人は本当にこのまま狐化が進んで、最後は狐になるか死ぬかしてしまうのかな…。そう思うと、私は何とも言えない気持ちになってしまう。彼に裏切られて傷ついたけど、それでも…。
「先生は…」
私は今まで気になっていたことをつい、口に出していた。
「お狐さまを殺そうとしたこと、後悔していますか…?」
「ん…」
朱鷺野先生は少し身じろぎをした。今は背中から包帯を巻いているので、朱鷺野先生の表情は見えない。
「そう…だね。後悔してないと言えば嘘になるね。けどもう、こうなった以上は取り返しがつかないからなぁ」
朱鷺野先生はそう言って天を仰いだ。可愛らしい耳も、頭の動きに合わせてぴょこっと動く。
「…先生、私、どうしても知りたいです。お国のためと言って、政治家だか大学のお偉いさんだかが、お狐さまを狙ったのはなぜなんですか?」
包帯を巻き終わった私は、そのまま朱鷺野先生の真正面に移動して、彼の目を見つめた。
「……。それは………」
突然顔を覗き込まれて朱鷺野先生は少したじろいだ様子だ。けど、私は決して視線をそらさなかった。
「教えてください」
「…別に、そんな大した理由じゃないよ…」
「でも知りたいです。私だって日本国民ですから、お国のためと言われたら少し迷いますよ。もしお狐さまに何か問題があって、日本のためにどうしても殺さなければならないと言われたら…事情によっては、考えたかもしれませんし。こんなこと口に出すだけでも罰当たりですけど…」
私がためらいながらも“考えたかもしれない”と言ったことに、朱鷺野先生は驚いている様子だった。そりゃ、私だってこんなこと言いたくないけれど…でも、先生がこんなことをしているのには、やっぱり何か重大な理由があるんじゃないかと思ったから。
「…情けないだけの話だから、あまり言いたくないんだけどな。じゃあ君も何か、言いたくない話を一つ話してよ。そしたら僕も話すよ」
「ええっ?言いたくない話…!?私は先生にお話しできるようなことは何も…」
突然そんなことをふられて私が戸惑っていると、
「僕に教えてくれてないことが一つあるじゃない。ひよりちゃんの縁談が破談になった理由。これを教えてよ」
「はい??」
さらに訳の分からないことを言われて私は一層混乱した。
「先生、あの、私はかなり真面目に質問しているのですが…」
「何?別にからかってるつもりはないよ。前、『破談になった』と言った時言いにくそうだったから、ちょっと引っかかってたんだよね」
「いや、これこそ大した理由でもないですし、知ってどうするんです?」
「冥途の土産にでもするさ。僕は、大した理由があることもないことも何でも知っておかないと気が済まない性質なんでね」
朱鷺野先生は気楽そうな調子でくしゃっと笑う。
(…この状況で『冥途の土産』とか、洒落になってないような…)
こんな時にもこうしてふざけるなんて、朱鷺野先生らしいというか何というか。
(もう今更先生にどう思われたってかまわない、か。私の話を聞いて先生が満足するならそれでもいいか…)
なんだか拍子抜けしたような気分で、
「…わかりました。いいですよ、もう。私が先に話せばいいんですね?」
半ば投げやりな気持ちで、承諾してしまった。
朱鷺野先生は嬉しそうにうんうん頷いた。
「相手はお父さんの古い知り合いのお子さんで、私より二つ年上でした。離れた村に住んでいるので、お互いのことは写真でしか見たことがなかったんですけど…小さい頃から親同士が色々話していたからどんな人かはなんとなく知っていました。そして、私が十七歳になった時に見合いをしてはどうかって話になりました」
朱鷺野先生は軽くしっぽを振りながら私の話を聞いている。
朱鷺野先生の真正面に移動してきたのは私だけど、こんな余計な話をすることになるなら移動しなきゃ良かった。ただでさえ綺麗な朱鷺野先生の顔が、今は耳としっぽが生えているせいで可愛らしさもあって、じっと見つめられると動悸がして落ち着かない。
「…見合いと言いつつ、お互いの親はかなり盛り上がっていたし、話を聞いた感じでも悪い人ではなさそうだったし…ほぼ決定していたようなものだったんです。顔を合わせるのは形だけ、みたいな…。だから、だからでしょうね。向こうはもう私のことを嫁として見ていたんだと思うんです…」
言いながら、朱鷺野先生の顔をちらっと見る。朱鷺野先生は相変わらず私を見つめている。
長い睫毛の奥に見える硝子玉のように澄んだ瞳が、少し赤みがかって見えた。朱鷺野先生の瞳はこんな色だっただろうか…?
「それでお見合いの日、二人っきりになった時に…いきなり肩を抱かれて、無理やり口づけをされたんです」
「……」
「私はまだ、結婚するという自覚も、この人が自分の夫になるという自覚もなかったので…急なことでびっくりしてしまいました。それで、その…反射的に、彼を思い切り突き飛ばしてしまって」
「…それはまた、なかなか勇ましいね」
「思った以上に力が入ってしまったみたいで、彼は突き飛ばされた拍子に箪笥の角に後頭部を思いきりぶつけてしまって…。大事には至らなかったのですけど、相当痛かったみたいでしばらく丸くなって動けなくなってました。それで私が慌てて仲人さんを呼んで、それなりの騒ぎに…」
今となってはちょっとした笑い話のような気もするけれど、とにかく当時は大変だったのだ。
「当然、向こうの家は大事な息子に恥をかかされた、怪我をさせられた、とんでもない野蛮な娘だと怒りました。でも私の家は、まだ嫁にもなっていない娘に手を出そうとするとは何事だと、応戦しました。お父さんとお母さんが私の味方になってくれたのは救いでした。でもそれで、もちろん縁談はなかったことになって、それどころか向こうの家とはもう絶縁状態になってしまいました。お父さんの古い知り合いだったのに悪いことをしたなって」
「それは…君が責任を感じる必要はないと思うけど…」
「お父さんもお母さんもそう言ってくれるんですけどね。それで、あれ以来私には何の縁談も来やしません。田舎ですから、私がそういう乱暴者だって噂がすぐに広まったんでしょうし、あるいは父たちが気を遣って、見合いの話を全て断ってるのかもしれないですけど…」
「なるほどね」
「だから私は多分もう一生独り身なのではないかと思ってるんです」
「君には何の問題もないというのに、あきらめるのはまだ早くないかい?」
「初対面の男性を突き飛ばして怪我をさせたわけですから、問題しかないと思いますが…」
「嫌なことを嫌とはっきり意思表示できるのはすごいことだよ、意思の弱い人間には決してできないことだ。…すごく、うらやましいよ」
「そうですかね?我ながら女らしくないなって思います…」
もちろん相手のやり方に問題があったと思うけれど、私は私で良くないところがあると思う。相手を無駄に怒らせて傷つけてしまったわけだし、もっと上手い返しができたはずなのに。
そんな風に考えていると、ふいに朱鷺野先生が私の頬に手を伸ばしてきた。長くてすべすべした指先で、そっと撫でられる。
「先生…?」
「あ、嫌だったら突き飛ばしていいよ。いやなに、ひよりちゃんは本当に、僕には眩しいなあって思って」
「つ、突き飛ばすのはもうしません…!それより、眩しいってどこがです…?」
朱鷺野先生の言った意味がよくわからなくて聞き返すと、朱鷺野先生は少し寂しげな目をして言った。
「僕こそ、嫌なことを嫌と言えなかった、情けない男だからさ」
「え?」
「なぜお狐さまが狙われたのか知りたいと言ったね。それはお狐さまが“あやかし”だから。それ以上でも以下でもない。前にも言ったよね、お狐さまには何の罪もないんだ」
「それは、その…どういう意味ですか?」
「いま日本国が、海外の技術や文化を積極的に取り入れて近代化を推し進めていることは当然知っているね?日露戦争に勝利し列強の仲間入りを果たした日本は、ますます国力強化に力を注いでいる」
「それはもちろん…知っています。食事や衣服や生活習慣なんかも、西洋式のものがたくさん入ってきていますよね」
「そう。科学技術や医療技術の発展した列強においては、様々な非科学的事象が否定されてきている。例えば、死の病と言われていたペスト。かつてはペストが流行するたび、神が人類に罰を下したなんて言われていたが…あれは単なる感染症で、とある菌が原因であることがわかって、治療薬の開発が進められている。天罰でもなんでもなかったのさ。ほかには、かつてのヨーロッパでは錬金術と言われる学問が盛んだった。金属ではない物質から金を作り出そうとしたり、あるいは不老不死の効能があるとされる賢者の石や、人造人間の作製も試みられていた。けれど、老いない肉体や人間の魂のようなもの…そんなものは決して作ることができないというのが、今では当然の認識だ。それも数々の研究からわかったことだ。そうやって列強は非合理的・非科学的な事象を否定し排除しながら、日々技術を進化させている」
朱鷺野先生は一度深く呼吸をして、言葉を続けた。
「つまり、近代化を一層推し進め、欧米列強国に追いつくためには…科学で説明できない事象はあってはならない」
「それってつまり…あやかしが…いてはいけないということですか?」
「そう。あやかしが存在していては、いつまでも日本は近代国家を名乗れない。天候を操るもの、妖術を駆使して人間に悪さをするもの、不老不死のもの…あやかしには、特殊な能力を備えているものが多いよね。しかしそんな能力を持った存在は、近代国家に存在してはいけない。今、ヨーロッパに魔女やヴァンパイアが存在するかい?そんなものは、おとぎ話の中だけの存在だ。日本のあやかしだって、そうでなければいけないはずだ」
「でも、現実として存在するのに、それを否定することなんてできないじゃないですか」
「だから、狩るのさ。あやかしを一匹残らず駆除して、日本は非科学的な事象の存在しない、近代国家となる。あやかしは全国各地に存在しているが、迷信のようなものを除けば実在している数はそう多くないはずだ。多くても数百?もしかしたら百体もいないかもしれないね。ならば、根絶やしにするのはそう難しいことではない。絶滅危惧種の個体数とさして変わらない…」
「……!」
「これから先、間違いなく世界大戦が起こる。日露戦争に勝利したからと言って安心などしていられない。力をつけるドイツ、ドイツへの備えを模索するフランスやイギリス、日本に負けて国民の不満が溜まっていて、対外戦争に活路を見出したいロシア…他の国ももろもろ、動きがあるよね。そんな中に日本も堂々と肩を並べたいと思っている」
政治や国際情勢のことは私には正直、よくわからない。新聞は読んでいるけれど、内容が難しくてあまり理解できないのだ。
「国にとっては、あやかしなんて邪魔な存在でしかない。例えば国はもっと山を切り崩し、多くの工場や鉄道を建設し、兵器の製造や物流の強化に充てたい。なのに地元の住民が『この山を切り崩すなんて、うちの神様の罰が当たるぞ!』なんて反対するのさ。そんなの今のこのご時世で、お話にならないんだよ。都会の一部の人間だけではなく全日本国民に、日本が列強に肩を並べる近代国家であると認識させなければならない」
「あ…」
きっと私も、この村の人間も、軍事施設や工場を建設したいから山を切り開きたいと言われたら、「お狐さまの罰が当たる」と言って反対しただろう。そして私たちはお狐さまが科学では説明できない不思議な力を持っていると信じている。けれどそれが、お上の人間にとっては煩わしいのだ。
「それでね、議員だの軍関係だの色んな立場の人間が、一般国民には知らせずにあやかしを根絶やしにしようと動いているのさ。そして帝都大にもその話が来て…若くて健康で、それなりに生き物に対する知識がある僕に声がかけられたのさ。僕は当時まだ大学を出たばかりで、在学時代からお世話になっていた教授の助手をしていた。そんな時、教授連から『あやかし狩りに協力すれば数年後には必ず教授のポストを用意する』と言われた」
「…そんな。先生は、教授になりたくてその話を受けたのですか…?」
「少し言い訳をさせてもらうと、それはあやかし狩りに協力しなければ一生教授にはなれない…という脅しでもあったのさ。教授のポストは限られているし、天下の帝都大で教授になりたいという人間は掃いて捨てるほどいる。日本で最も充実した研究環境、研究資金が与えられるんだから当然だ。僕がこの申し出を断ったら、誰か別の人間があやかし狩りをして教授になるだけ。そして、僕は教授になる夢を絶たれるだけ」
「……」
「僕はね、一応爵位がある。けれど、僕が大学に入ったばかりのころに父が倒れて、うちの家はとっくに困窮していた。そんな中でも母は僕を応援してくれて、無理をして僕に仕送りをして、帝都大を卒業させてくれた。だからここまで来て、生き物を救うという夢をあきらめるわけにはいかなかったんだよ。それに…助手ではほとんど収入がないから、金に困っていたのもあったけど。生き物を救いたいと生物学を志した僕が、罪のないあやかしを殺して教授になろうとする…なんだか矛盾してるって自分でも思うけど…どうしようもなかった」
朱鷺野先生の声は震えていた。
「僕は…これまでにも数体、あやかしを殺した。猟銃で打ったり、罠にかけたりしてね。中には人間に悪さをするようなのもいたけど、ここのお狐さまのように、山や海で静かに暮らしているだけの何の罪もないあやかしもいたんだ。…でも、殺してしまった。いつか罰が当たるだろうとは思っていた…。そしてとうとう、その時が来てしまったんだね」
「朱鷺野先生…」
「僕はあまり軍国主義には賛成していないし、性急な近代化も歓迎はしていない。それぞれの国にはそれぞれの国の良さがある。帝都はかなり近代化が進んだけれど、ちょっと地方に行けばのどかな農村が広がっているじゃないか。洋服も革靴も履いていない、着物に草鞋の農夫が畑を耕したり、幼子をおぶった女性が染め物をこしらえていたりしてさ。そして田んぼには、虫を食べに来た朱鷺がいる。そんなのどかで平和な日本がずっと続いてもいいんじゃないかなって、僕はずっとそう思っているよ。だけどそんな僕の考えは…お国の偉い人の間では少数派なんだ、残念ながら。そうして、僕は嫌なことを嫌とも言えず、あやかしを狩って、日本特有の存在をなかったことにしていくんだ。こんな自分が情けないし、むなしい…」
私は朱鷺野先生に何て言葉をかけていいかわからなかった。
本当は朱鷺野先生だって、好きであやかし狩りをしていたわけではないのだ。自分の夢のため、自分を応援してくれる家族のため、そして国のため…そう自分に言い聞かせて、無理をしてきたんだ。朱鷺野先生のやったことを許すことはできなくても、これ以上責めることはできない。朱鷺野先生はもう十分苦しんでいるし、反省もしている…。
「先生…。元に戻る方法を、一緒に探しましょう。先生は十分反省していると思います。だから、私は先生を助けたいです」
「ひよりちゃん…」
「先生は確かに罪のないあやかしを殺したかもしれませんが、先生が教授になればきっと多くの生き物を救うことができます。だから先生は、一刻も早く普通の人間に戻って立派な教授になって、研究を進めるべきです」
「……」
朱鷺野先生は目を伏せた。…少し泣いているみたいだった。一筋の細い、宝石のような滴が彼の頬を伝ってぽとりと落ちた。
「ひよりちゃん。もし僕がこのまま狐になってしまったら、静かに山に放しておくれ」
「狐になんて、なりません。その前に元に戻します」
「………」
「先日は、『二度と讃岐の地に足を踏み入れないでください』なんて失礼なことを言ってしまって、すみませんでした。先生が苦しんでいることを知らずに、感情的になってしまって」
「そんなこと僕は気にしてないよ。謝らないで…」
「…村にいるご年配の方に、お狐さまに纏わる言い伝えを聞いてまわろうと思います。お狐さまに関する記録が残っていないかどうかも。先生を直す方法が見つかるかもしれませんから」
「…こんな僕のために、そこまでしてくれるのかい」
「私は、先生に死んでほしいなんて思っていませんから」
「……」
先生はやや驚いた表情で私を見つめた。そして、
「ありがとう」
と言って、柔らかく笑った。
少し泣いた後の朱鷺野先生の顔は、こっちが泣きそうなくらい美しかった。
先生を救いたい…。
今私は、心の底からそう思っている。
***
次の日の朝、私は村の最高齢のおばあちゃんに話を聞きに行った。狐の耳やしっぽが生えるとか、お狐さまが人に呪いを与えるというような話は『聞いたことがない』と言われたけれど、お狐さまのことを記録した古い巻物が村のどこかにあるらしい。それは江戸時代の初期か中期のころにお狐さまを見に来た学者が記したものだそうだ。おばあちゃんがまだ小さい頃、村の子供の集まりでお狐さまの昔話を聞いたとき、現物をちらっと見たことがあるのだという。
(お狐さまに関する記録があるなんて初耳だわ。きっともう、村のほとんどの人はその存在すら知らないのだろうけど…。村には大きな倉庫がある。大昔の地図や、議会の記録や、村人の家系図とか、いろいろな資料が保管されているはず。例の巻物があるとしたら、そこしか考えられない。村長に頼んで倉庫に入れてもらおう)
そう思って帰りに村長の家に寄ったけれど、今日は不在だった。あまりしつこく食い下がって怪しまれても困るし、また明日にでも改めて訪問することにしよう。
(あとやれることと言ったら…)
(あら、今日は先客がいるのね)
私は一人で祠に来ていた。
最後の手段は、お狐さまに直接会ってお願いすることだ。人間の言葉が通じるかどうかわからないけれど、お狐さまは村人の願いを理解してくれると言われているのだから、私の言わんとすることも理解してくれるはずだ。朱鷺野先生が心の底から反省していること、もう二度とお狐さまに危害を加えないことをしっかり説明すれば、呪いを解いてくれるかもしれない…!
そのためお供え物を持って祠に来てみると、すでに先客のお供え物が祠の中に置かれていた。小さなお饅頭のようだ。私は用意した油揚げを、お饅頭の横にそっと置いた。
「お狐さま…。どうか、話を聞いてください…。もう一度会いたいです…」
お狐さまの石像を見上げて、そんなふうに呟く。
今頃お狐さまはどこで何をしているんだろう。
私は祠の周辺や、こないだお狐さまと遭遇した場所を一通り調べてまわった。けれど、お狐さまの姿を見ることはできなかった。
がっくりと肩を落として宿に帰ってくると、柴原さんが村から戻ってくるところに出くわした。
「あっ…」
「あ、吾妻さん!今日の先生の具合はいかがでしょうか?吾妻さんは先生に会ってるんですよね?自分は昨日も先生に声をかけたんですけど、今は会えないと言われるばかりで…。もしかして本当に、何か悪い感染症にでもかかったのでは…?あまりにひどいようなら、帝都の大きい病院に移ってもらったほうがいいかと思うんですが…」
「あ、あの、ええっと…」
朱鷺野先生を心配する柴原さんの様子も日に日に深刻になっている。いつまでごまかしきれるかわからない。
「せ、先生は心の問題のほうが大きいようで…。その、お狐さまを仕留められなかったばかりか自分が手負いになってしまったこととか…。それでその、柴原さんの顔を見ると余計に落ち込んでしまうみたいなんです…」
我ながら苦しい言い訳だけれど、かといって柴原さんも私を問い詰めてもしょうがないことはわかっている。
「…まぁ、本当に変な病にかかっているというのでなければいいですよ。先生が元気を取り戻すまでもう少し待ってみます。けれど、何かあったら必ず自分に知らせてくださいね。自分は本当に先生にお世話になっているので、先生のお力になれないのが心苦しいのです」
「私からも先生に話してみますので。柴原さんが心配してるって…」
「それと、吾妻さん」
「はい?」
柴原さんは周囲に人がいないことを確認して、少し声を潜めて言った。
「吾妻さんを利用して、お狐さまを殺そうとしたことは申し訳ありませんでした。しかし先生は、もっと多くの生き物を救うため、そして大黒柱を失って大変な思いをしている自身の母親を養うため、教授の職を得る必要がありました。あやかしを狙ったのは、教授の職を人質に取られていたからです」
「……」
柴原さんも朱鷺野先生の境遇を知っているのか。彼もまた、昨日の朱鷺野先生のように悲しそうな表情をしていた。
「それに、自分も…。自分も苦学生なのです。兄弟が多くて仕送りをもらえなくて…アルバイトに明け暮れていました。そんな自分を心配してくれて、食事をごちそうしてくれたり、つい授業がおろそかになってしまっていた自分に補習をしてくれたり…先生はそういう人でした。あやかし狩りに自分が付き添っているのも、少しでもアルバイトを減らせるようにと、報酬ははずむからと言って先生が声をかけてくれたのです。もちろん、生き物の勉強にもなりますし」
(先生…)
柴原さんを可愛がっている朱鷺野先生の姿が目に浮かぶ。柴原さんはすごく真面目で誠実そうな人だし、こんな善良な学生さんが困っていたら、朱鷺野先生が助けないわけがない。
「だからどうか、先生を責めないでください。大事に看病してください。自分はまだ、先生に恩返しができていないのです。先生を必ず連れて帰らなければならないのです…」
「……。も、もちろん、先生が早く元気になるよう、全力を尽くします…」
私はそう返事をするのが精いっぱいだった。
柴原さんのためにも、必ず朱鷺野先生を元の姿に戻さなければ。
…と、思うのだけれど。
「先生、大丈夫ですか…?」
その晩、夕食の食器の片付けと包帯交換をしに朱鷺野先生の部屋に行くと、先生はいつにもまして具合が悪そうだった。
「大丈夫だよ…。ただ、感覚が過敏になっていてね…。音も、匂いも、以前よりずっと強く感じるようになって、なんだか体が疲れてしまって…」
朱鷺野先生の耳もしっぽも力なく垂れさがっている。もう可愛いなどと言っている余裕もなくなってきた。
(このままでは、先生は本当に…)
「はぁ、はぁ…」
朱鷺野先生は荒い息を吐きながら、私のほうをちらりと見た。
(……!)
その時。
朱鷺野先生の瞳の奥で真っ赤な炎が揺らめいたように見えて、私は背筋がぞくっとした。それは、私を欲しているような…まるで私の体を焼き尽くそうとしているかのような、そんな意思が感じられる炎だった。
私は少し怯えた顔をしてしまったかもしれない。朱鷺野先生は私を見て少し悲しそうに顔をゆがめ、
「…今日はもういい。自分の部屋に戻ってくれるかな。あとのことは自分でやるから」
と、突き放すように言った。
「で、でも…」
「いいから」
朱鷺野先生の言葉にそれ以上反論もできず、私はおとなしく部屋を出ていくしかなかった。
「はぁ…」
私は自室に戻る途中、中庭のお狐さまの石像に寄った。
「お狐さま、本当にお願いします…。朱鷺野先生を元に戻してください。先生を…殺さないでください」
あんな苦しそうな朱鷺野先生を見たくない。
楽しそうに笑って動物の知識を語ったり、おにぎりをほお張っている朱鷺野先生の姿をまた見たい。柴原さんとふざけ合っている朱鷺野先生や、怪我をした動物を優しく看病してあげる朱鷺野先生や、私をからかったり褒めてくれたりする朱鷺野先生が見たい。色んな表情の彼が頭いっぱいに浮かんでくる。
「…私は、先生が」
気が付けば、言葉が口からこぼれ出ていた。
「先生のことが、好き…」
見合いを台無しにしてしまった時から、もう一生独り身かも…なんて思っていたし、ましてや帝都から研究に来ているだけの、身分の違う男性に恋をするなんてありえないし、お狐さまを殺そうとしたことも、許せないはずなのに。
なのに…
苦しそうな朱鷺野先生の姿を見ると、私まで苦しくて、悲しくて、泣きたくなってしまう。
朱鷺野先生がもしこのまま死んでしまったら、人間の記憶をなくして狐になってしまったら…そう考えただけでも血の気が引いてしまう。そんなの、絶対に嫌だ。
朱鷺野先生に裏切られた時、とても傷ついた。それは彼を好きになりかけていたからだ。でもその後朱鷺野先生のお世話をしながら、彼がどうしてあやかし狩りをすることになったか知って、彼が苦しんでいることも知って…、結局はもっともっと、朱鷺野先生のことを好きになってしまった。
もうこれ以上自分の心をごまかすことはできない。
「お狐さま…。私は先生が好きです。どうか、先生を元に戻してください。お願いします…」
石像に向かって呟く。その声は少しかすれた。
明日もまた、祠にお狐さまを探しに行こう。それから、村長に頼んで倉庫の中を見せてもらって…。できることはなんでもしよう。なんとしても、朱鷺野先生を助けたい。
***
朱鷺野先生に耳としっぽが生えてから七日目。
今日は朝から、大雨だった。
強い風が障子をガタガタゆらし、壁に打ち付けられる雨音が部屋中に響いている。
「こんな雨じゃ祠には行けないわね…」
一刻を争っているこんな時に限って…。ついていない。いや、これもお狐さまの罰なのかもしれない。
(でも、ちょっと怪しまれるかもしれないけれど、村長のところには行ってみよう。今日は外の掃除もできないし、時間はたっぷりある)
いつもは玄関を掃除している朝の時間、私は食堂でお母さんの調理を少し手伝った。それが落ち着いてから、傘を差しても何の意味もなさないぐらいの雨の中、びしょぬれになりながら村長の家を訪ねた。
そして、朱鷺野先生が研究に必要としていると説明して、巻物を探すため倉庫に入れてもらえることになった。お狐さまのことを書いたと思われる江戸時代ぐらいの古い巻物は見たことがあり、一緒に探してくれるという。
「しかしあんた、こんな雨の日に来んでもよかったろう。そんなに急いでるんかい?」
「え、ええ。先生は今具合を悪くされていて、室内で研究したいとおっしゃるものですから。滞在日数も限られていますし…」
「けどな、倉庫内の巻物…儂も何度か倉庫の掃除の時に開いて見たことがあるが、江戸時代に書かれたものは文字も今とだいぶ違うし、字も滲んだり消えたりしていて、すぐには読めんと思うぞ。だからもう使われなくなって、こうして倉庫に眠ってるんだ」
言いながら村長は倉庫の奥にしばらく引っ込んで、埃まみれになりながら、「多分この中のどれかやけど…」と汚れた箱をいくつか棚から取り出してきた。箱の中には巻物が数十本ほど入っている。
「見てもいいですか?」
「おう。“狐”って字が書いてあれば、たぶんそれだ。儂もちゃんと読んだことはないが、狐って文字の書かれている巻物は一本しかなかったと思う」
私と村長は手分けして次々と巻物を開いて、お狐さまについて書かれたものを探していった。一、二時間ぐらい経過しただろうか。
「おお、見つけたぞ。これだ、多分これ」
そう言って村長が私に一本の巻物を手渡してきた。
文字を見てみると、確かに所々で“狐”とか“三本の尾”といったことが書かれているようだ。けれど、…確かに字は昔の古い字で、しかも難しい漢字ばかり。私ではほとんど読めなかった。江戸時代は今よりもっと字を読める人が少なかっただろうから、村のおじいちゃんおばあちゃん達もほぼ読めなかったんだろうな。だからこの巻物はほとんど使われることなく、倉庫で埃をかぶっていたんだ。
(これは、先生に解読してもらうしかなさそう)
「ありがとうございます。ひとまずこれをしばらくお借りします」
私は巻物が雨に濡れないようしっかり布にくるんで、大事に抱えて持ち帰った。
夕方になる前に宿に戻ったけれど、雨の強さは相変わらずだった。
朱鷺野先生に巻物を見てもらおうかと思ったけれど、彼はこれから夜にかけて体調が悪くなるから、あまり無理はさせないほうがいい。巻物は明日の朝に渡すことにして、今日はゆっくりお話でもしよう。朱鷺野先生と一緒に会話できる時間は限られているから、もし具合が良いなら少しでも彼と過ごしていたかった。
夕食まではまだ時間があるので、私は食堂に行って夕食の調理を手伝った。そして、お盆に朱鷺野先生の夕食に加え自分の夕食も乗せて彼の部屋を訪れた。
「先生、夕食をお持ちしました」
「どうぞ、入って」
中に入ってお盆を置くと、朱鷺野先生がお盆を見て「おや」という表情をする。
「あの…今日は仕事が早く終わったので…。私も食事をご一緒してもいいですか?」
朱鷺野先生は少し驚いた様子だったけれど、すぐににっこり笑って頷いてくれた。
今は体調も良さそうで、私はほっとして朱鷺野先生と同じちゃぶ台に向かった。
「今日の煮物は私が作ったんです。野菜の大きさがちょっとバラバラかもしれませんけど…味はお母さんのお墨付きをもらったので、大丈夫だと思います」
「本当?楽しみだな」
朱鷺野先生は心底嬉しそうにそう言って、すぐに煮物に手をつけた。
「ん、本当だ、おいしい!味がよく染みてる」
朱鷺野先生の笑顔を見て、私は胸がぽっと熱くなる。
「そ、それは良かったです」
「野菜の形が少々不ぞろいなのも、愛嬌があっていいと思うよ。僕はそんなの全然気にしない。おいしければいいのさ」
朱鷺野先生はそう言って、気持ち良いくらいの速度で煮物を次々と口に運んでいく。
その様子をじっと見つめていると、朱鷺野先生と目が合って「なあに?」と言われてしまった。私は恥ずかしくなって慌てて話題を探した。
「あ、あの!今日は、体調は大丈夫なんですか?昨日はとても苦しそうだったから…」
「ん、ああ…。そうだね、昨日はひどかった。だけど今日もこれからそうなるかもしれない。夕食を食べ終わって戌の刻ぐらいになってくると、聴覚や嗅覚が敏感になって、ぐっと狐に近づく気がするんだ。狐って夜はずいぶん元気になるんだねぇ?目が冴えちゃって睡眠も満足に取れないし。だから夕食が終わったら早めに僕の部屋を出たほうがいいよ。申し訳ないけど、昨日みたいにきつくあたってしまうかもしれないから。悪気はないんだけど、本当に神経が過敏になってピリピリしてしまうんだ…」
「わかりました…」
やっぱり、今体調が良いからといって安心はできないようだ。
「お狐さま、いくらなんでもここまでしなくても良いのにな…。お狐さまは人間に罰を与えるような神様ではないと思ってたのに…」
「まぁ、これだけ長い間人間と共生してきたのだから、本来は穏やかな性質なのだろうけど。僕がそれだけ怒らせるようなことをしちゃったってことだよねぇ」
「…実は、お父さんやお母さんにも誰にも話したことがないんですけど…、先生には特別に教えますね。私、お狐さまに命を救ってもらったことがあるんです」
「え…?」
私が突然こんなことを言いだしたから、朱鷺野先生は驚いた様子だ。
お父さんにもお母さんにも、どうせ信じてもらえないだろうと思って言わなかったこと。けれど、朱鷺野先生ならきっと信じてくれると思って、私はどうしても話したくなってしまった。
「話、聞いてくれますか?」
「もちろん。話してごらん」
「では…。私がまだ十一歳の時です。お母さんと山に茸を採りに行ってたんですけど、前日にちょうど今日のような大雨が降っていて…いつもはちょろちょろ流れているだけの小さな川がちょっとした洪水のようになっていたんです。珍しくて面白かったので、お母さんが目を離した隙に川を見に行ったんです。そしたら、足元が濡れていたので滑ってしまって、川に落ちて流されたんです…」
「そんな!君はまたずいぶんとやんちゃな…」
「本当ですよね。小さい頃から私ってば…。それで、水を飲んでしまって私は意識を失ったんですけど…気が付いたら川のそばで全身びしょ濡れで倒れてたんです。何が起きたのかすぐに理解できなくて慌てて顔を上げると、川の向こう岸にお狐さまが立っていて、私をじっと見ていたんです」
あの時のお狐さまの私を見る優しい瞳は、今でも脳裏に焼き付いている。
「そして私が起き上がると、お狐さまはすぐに踵を返して森の中に消えてしまいました。私は直感的に、お狐さまが助けてくれたんだって感じました。だって、あれだけ勢いのある川に落ちて流されたのに、安全な場所で目が覚めるなんてありえないことでしょう?だから私、あれ以来毎日お狐さまの石像に村の平和をお祈りするようになったんですよ。村の人間を助けてくれる良い神様なんだって、身を以て体験したんですから」
朱鷺野先生は目を細めた。
「だからひよりちゃんは…村の中で一番お狐さまを大切に思っていて、そしてそれをお狐さまもわかっているから、誰よりもお狐さまと遭遇する確率が高いんだね。ようやくわかったよ。それで君が僕たちを案内してくれることになったのか」
「ええ。お父さんもお母さんも私が毎日お狐さまの石像にお祈りしていることを知っていますし、お狐さまに詳しくて山を案内できる若い人間と言ったら、私が一番の適任だということで選ばれたんです。単にお狐さまに詳しいだけなら、この村で長生きしているおじいちゃんおばあちゃんもいますけど、毎日山に登るのは無理でしょうからね」
「…僕は、君の命の恩人を殺そうとしてしまったんだね。本当に僕はひどいことをした…。お狐さまがいたからこそ、僕は元気に育ったひよりちゃんと出会うことができたのにね」
朱鷺野先生はお狐さまの姿を思い出したかのように、自身のふさふさのしっぽを優しく撫でた。光が当たると金に光る、それはそれは美しい毛並み。見る者を魅了してやまない、お狐さまを象徴する三本のしっぽ…。
朱鷺野先生が撫でるのを見ていると、なんだか私もしっぽに触りたくなってきた。滑らかですべすべとして、とても触り心地が良さそうだ。
「先生、お食事は…そろそろ片付けてもいいですか?」
話をしているうちに、二人とも食事をほとんど食べ終えていた。朱鷺野先生のお皿を見ると味噌汁と白米が少しだけ残っているように見えたから、一応聞いてみる。
「ああ、もうお腹がいっぱいだから下げていいよ。食欲もあまりなくてね。でも、君の作ってくれた煮物は完食したから、これで許しておくれ」
「…!あ、ありがとうございます…」
食欲がないにも関わらず、私の煮物をあんなに美味しそうにかきこんで完食してくれるなんて、嬉しくてつい口元が緩んでしまった。
お盆は一旦部屋の隅において、今度は朱鷺野先生の包帯を交換する。
「……また、消毒薬の匂いがきつかったら言ってくださいね」
「ああ。ありがとう」
包帯の交換はもう慣れたのでてきぱきと済ませる。傷は、縫ったところはかなりふさがっているし、包帯もそろそろ取れるだろう。
(あ、でも、そろそろ抜糸か…)
一週間から十日ぐらい経ったらもう一度傷を見せに来いとお医者さんは言っていた。
(こんな姿じゃ、お医者さんにも行けない…)
朱鷺野先生もわかっているのだろうけれど。医者にも行けないこの状況を思うとつい気分が沈んでしまう。
包帯を巻き終えると、「ありがとう。それじゃ、申し訳ないけど今日はもうこのあたりで…」と、朱鷺野先生が私に部屋を出るよう促した。けれど私は、少しでも長く朱鷺野先生と一緒にいたかった。
「先生、もう少しだけ、ここにいたいです」
「…え?」
私は、鏡台に置いてあった朱鷺野先生の櫛を拝借する。
「これで、先生のしっぽを梳かしてもいいですか?」
朱鷺野先生は目を丸くした。
夜になっても雨が弱まる気配はなく、部屋にはひたすら風と雨の音が響いている。
「さっき先生がしっぽを撫でるのを見て、私も毛並みを堪能してみたいなと思ったんですよ」
私は朱鷺野先生の後ろに座って、三本のしっぽを櫛で丁寧に梳いていた。
「本当にふさふさしていて気持ちが良いですね。ずっと触っていたいです」
「こっちはなんだか…くすぐったいよ」
朱鷺野先生は少し居心地が悪そうに、耳や背中をもぞもぞさせている。
「もっと早くから触っておけばよかったです!どんな毛皮より上質です。お狐さまが神々しく見えるのは、この艶やかな毛並みによるものも大きいんでしょうね」
櫛を入れるたび、もともと綺麗な毛並みがさらに美しくなって、薄暗い部屋のわずかな明かりを反射してきらきらと光る。
「綺麗だなぁ…」
私はうっとりしながら、そのしっぽを梳かしては撫でた。
「そんなに良いもんでもないよ。朝起きたら布団が毛だらけなんだから」
「ふふふ、そうですよね。先生の敷布団を交換した後、毛を取り除くのに苦労するんですよ」
「それにしっぽが邪魔で寝返りだって打てない。ずっと横向きで動けないから、全然疲れが取れないんだ。本物の狐のように丸くなって寝たほうがいいかな?」
「ふふ、可愛らしいと思うので一回やって見てください」
そんな風に言いながら、しばらくの時間を過ごした。
「ひよりちゃん、しっぽならまた明日触らせてあげるから。ほら、夜が深くなると僕はそろそろ具合が…」
背中越しに朱鷺野先生はそう言った。
「…そばにいさせてください」
「ひよりちゃん?」
「夜に具合が悪くなるなら、それこそ看病する人間が必要じゃないですか?私、朝まで先生のおそばでお世話したいです」
「………」
朱鷺野先生は私に背を向けて座っているから表情はわからない。けれど、少ししっぽに力が入った。緊張しているようだ。
「…あのね、ひよりちゃん。一応言うけど君は年頃の女の子なんだよ。男の部屋に朝までいたいだなんて、たとえ相手が病人であっても口にしてはいけないよ。僕が頼んだこととは言え、そもそもこうして男の部屋で世話をしているというのもあまり良いことではないだろうし…」
「そりゃ私だって、誰にでもこんなこと言ったり世話したりはしませんよ。相手が先生だから夜通し看病しても良いと言ったんです」
「僕が安全な男だという保証がどこにある?」
「………」
…朱鷺野先生が好きだから、先生がもし危険な男だったとしても、それでもいい──とは口に出して言えないけれど…。そもそも安全だとか安全じゃないとか、そんなこと今はどうでもいいのに。
「…だって、いつまでこうして先生と一緒にいられるか、わからないじゃないですか…」
私はしっぽを撫で続けている。ずっとずっと、こうして朱鷺野先生に触れていたいのだ。
「明日先生の具合がもっと悪くなっちゃったらって思うと、いてもたってもいられないんです。一分でも一秒でも、先生とお話ししていたいんです。だからここから出たくありません」
朱鷺野先生はこちらを振り向くことなく、ただじっと前を向いている。
「…ひよりちゃん。それは、どういう意味で言ってるの…?」
「………」
私が黙ると、一気に部屋の中が雨の音で包まれる。
朱鷺野先生は。
私のことなんてなんとも思っていないんだろうな。
田舎者で、学もなくて、お見合いの相手を突き飛ばすような乱暴者で、掃除ぐらいしか取り柄のない庶民の女なんて。
朱鷺野先生にはきっと良い家柄の、美貌と知性を兼ね備えた素敵な令嬢との見合い話がいくらでも来ているんだろうし。そう思って一瞬言葉に詰まったけれど…。
今言わなければいつ言うの?
それこそ、一生後悔するんじゃないの?
そんな気持ちも沸いてきた。そして、私はとうとう自分の気持ちを口に出してしまった。
「私、先生のことが…好きなんです」
朱鷺野先生が私に背を向けていてくれてよかった。今、きっと不安やら羞恥やら色んな感情がごちゃまぜになって、ひどい顔をしているだろうから。
「……」
朱鷺野先生は黙っていた。ぴしゃりと断られるのかな、と思って、私はただ朱鷺野先生のしっぽを撫でて次の言葉を待っていた。すると、朱鷺野先生は静かにこちらを振り向いた。そして、
「僕は君の命の恩人を手にかけようとした最低な男だよ。僕のこと、許せないんじゃないの?」
何を考えているのか読み取れない冷めた表情でそう言う。
「許…せないです。許せないですけど、好きです…。先生が優しい人だってこと、私は良く知っています…。許せない気持ちと、好きという気持ちは…私の中では共存してるんです」
朱鷺野先生の瞳に、また赤い色が差した。燃えるように赤が揺らめいて、私を絡め取ろうとする。
「…何度も言うけれど、僕はこの時間具合が良くないんだ。ひよりちゃんにそんな風に言ってもらえたのは嬉しいけれど、今はとても君の言葉に対しての返答が考えられない。だから今日はもう帰って」
「先生…!」
朱鷺野先生は立ち上がって、私の腕を引っ張って私を起こそうとした。
「どこが悪いんですか?傷が痛いんですか?嗅覚が敏感になりすぎてるなら、消臭に効く炭でも何でも持ってきますし、看病させてください」
私はなおも抵抗する。
先生はどうして、私をこんなに突き放そうとするの…?
やっぱり私なんかに好きだって言われるのは迷惑だっただろうか…。そう思うと、急に視界がぐにゃりと歪んだ。目に涙がにじんできたのだ。
「ひよりちゃ…」
(しまった、先生に見られ──)
そう思った瞬間だった。
朱鷺野先生に引っ張られて立ち上がった私は、今度は壁に押し付けられていた。
(え?)
吐息がかかるぐらいの距離に、朱鷺野先生の綺麗な顔がある。そして、彼の赤い瞳が、せつなそうに私を見つめていた。
「僕は…僕はね、君にこんな──性急にこんなことを、したかったわけじゃないんだ。だけど──」
身体も腕も壁に押し付けられて、私は身動きが取れない。朱鷺野先生の唇が私の唇に近づいてきて、そして
「君の“雌”の匂いに…頭がおかしくなりそうなんだ。嫌だったら、お見合いの時のように全力で僕を突き飛ばして」
そう言って朱鷺野先生は、唇が重なる直前で動きを止めた。
「………っ」
朱鷺野先生の顔が近すぎて心臓が跳ねた。彼はじっと私を見つめていて、私は視線のやり場が無くてどうしようもなくて…目を、閉じた。
その瞬間──朱鷺野先生は私に唇を重ねていた。
柔らかいものが触れた、と思ったら、次の瞬間にぎゅっと痛いぐらいに押し付けられた。そして少し離れたと思うと、角度を変えてまた押し付けられる。彼の唇がそうして何度も、私の唇とくっついては離れた。
「せ、ん…」
先生、と言おうとしたけれどそんな暇さえ与えられず、また口をふさがれる。
「ふ…っ」
いつ呼吸していいかすらわからない。
朱鷺野先生の体温や吐息を間近で感じて頭の中が真っ白になる。押し当てられる唇の感触だけが鮮明で、それ以外の何もかも…夏の暑さも、雨風の音も、すべてはぼやけて何も感じられなくなった。
「せん、せい…」
「ひよりちゃん…ひよりちゃん…っ」
朱鷺野先生は熱っぽく、何度か私の名を呼んだ。
しばらくそうして、ついに朱鷺野先生の舌が私の唇をこじあけた。ぬるっとした生暖かい舌が私の口内に侵入し、私の舌を探って絡め取る。
「…ん、ぁ…」
舌を舌でこすられて、何かが背筋から這い上がってくるような、ゾクゾクとした感覚に私は体を震わせた。
「ひよりちゃん…んっ…」
朱鷺野先生は両手で私の顔をつかんで、もっと舌が深く入るようにと角度を変える。私はもうされるがままだった。自分の手をどこにやっていいかわからず、私の顔をつかんでいる朱鷺野先生の浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。
「ねぇ…早く、僕のこと突き飛ばしてよ…」
口づけの合間に、朱鷺野先生が熱い息を吐きながら言った。
「夫でも恋人でもない男にこんなことされるの…嫌でしょ?僕を思い切り突き飛ばして、僕を止めてよ…。僕は…、自分ではもう、止められないんだよ…君が…欲しくて…」
そう言ってまた口づける。何度も何度も舌が出入りするから、どちらのものともわからない唾液が一筋、私の頬を伝って落ちた。
「そんなこと、できません…」
「どうして…?君は、嫌なことを嫌と言える人、でしょう…」
「好きな人にそんなことできません…。嫌だなんて、思ってません…!」
「……っ」
口づけの合間に見た朱鷺野先生の瞳は、また激しく赤く光る。
この赤い瞳…これは、お狐さまの瞳の色と同じだ。その瞳を見るたびに私は体の力が抜けて、朱鷺野先生から目が離せなくなって、ただ先生のことしか考えられなくなる。狐にまつわるおとぎ話の中には、狐が人間に化けて異性を魅了するものが多い。お狐さまもそういう魅了の能力を持っていて、それが嗅覚や聴覚と同じように、少しずつ朱鷺野先生に表れてきているのかもしれない。でなければ私だってこんな、心の準備もなしに男性にこんなことをされて少しも嫌だと感じないのは…おかしいんじゃないのかな。それとも、単に朱鷺野先生が相手だから平気なのかな…。
「…ひよりちゃん、僕は…」
朱鷺野先生の唇が私の首筋に落ちてきて、私はびくんと体を震わせた。
「……ぁっ」
「君が好きだ…」
首筋に口づけをされると、唇にされるのとは違うくすぐったさを感じる。そして、これが快楽というものなのだろうか…体の芯が疼くような、今まで感じたことのない感覚が私の全身を覆う。
「ん……っ」
「…この宿の掃除が丁寧なのを見て、君は一生懸命仕事をする真面目で頑張り屋な子なんだなと思った。お風呂上りに廊下を通ると、中庭で君がお狐さまにお祈りしている姿を見かけて、信心深い子なんだなと思った。料理が苦手だと言いながら、僕たちのために早起きしてお弁当を作ってくれて、料理の練習もしていて、努力家なんだなと思った。僕の何の役にも立たない動物の話を目をきらきらさせながら聞いてくれて、好奇心旺盛できっと勉強も好きな子なんだろうなと思った。そして…お狐さまを殺そうとしたにも関わらず、こんな僕を毎日丁寧に看病してくれる、優しい子だと…思った」
朱鷺野先生は私の首筋に何度も口づけながら、合間に私への想いを口にする。
「君を知るごとに、君のことをどんどん好きになっていった。君をだましていたくせに、君に惹かれるのを止めることができなかった」
そんな風に言ったかと思えば今度は首筋を吸われ、舐めあげられて、私はどんどん息が荒くなっていく。
朱鷺野先生が私を…こんなにも好きだと言ってくれている。
そう思うと本当にわずかな刺激でも体がびくびく震えるほどに感じてしまう。そして、首筋にふっと息を吹きかけられた時に、「ひぁっ」とひときわ大きい声が漏れてしまった。
「…夜になると、僕は本当にだめなんだ…。僕は、ただの獣になってしまう…。部屋に残った君の匂いや、包帯を替えてくれる時の君の柔らかい手の感触や、君の優しくて可愛らしい声を思い出すと…理性が飛んでしまうんだ。動物の本能に勝てない、情けない僕でごめん…」
「せん、せい…はぁっ、は…っ」
「夜になると具合が悪くなるのは事実だけど、君にきつく当たったのは本当は…君と一緒にいると君を押し倒してしまいそうになるからだ。こうして君に口づけをして、体にまで触れてしまいたいと思うからなんだよ…」
朱鷺野先生に触れられたところが熱い。指先も熱い。頭も熱い。何もかもが熱い。
「…本当に、少しでも嫌だと思ったら今すぐに僕を突き飛ばして。でないと本当にもう…僕は我慢ができない…」
「………っ、ぁ…」
首筋を甘噛みされて、ちくりとした痛みが走る。朱鷺野先生の歯はあきらかに普通の人間の歯よりとがっていた。
「先生、私…嫌じゃないんです。ほんとに、全然嫌じゃないんです…」
「……!」
「先生にもっと……触れてほしい…」
体中が熱くて、頭もとうにのぼせてしまった。
自分がどれだけはしたないことを口にしたのかすら、十分理解できていなかった。
「ひより、ちゃん……」
もう一度朱鷺野先生が私に深く口づけをした。
そして。
「僕はもう…手加減しないからね」
耳元でささやかれたその瞬間、私は布団に押し倒されていた。
***
朱鷺野先生の体は、熱かった。
熱い胸板に抱きすくめられ、熱い手が私の服の中に入ってきた。私の胸を探って、優しく揉んで、それから先端を刺激する。今まで出したことのない、高くて艶のある声が漏れた。
「少し…声、おさえて。外が大雨だから大丈夫だとは思うけど、一応ね…。隣の柴原くんに聞こえたら困るだろう?」
そう言って朱鷺野先生は私の唇に人差し指を当てる。
「…ああでも、そんな風に唇を噛んだらダメだよ…。声を我慢するの、難しいか。じゃあ…僕の指を噛んでおいて。噛みちぎりさえしなければ、ちょっとぐらい歯を立ててもいいよ…」
朱鷺野先生は私の口の中にそのまま人差し指を入れて、歯と歯の間に滑り込ませる。
「ふ…ぅ、ううっ…」
朱鷺野先生のもう片方の手は休むことなく私の体を弄っている。私は出したくなくてもこぼれ出てしまう嬌声を、朱鷺野先生の指を噛むことで殺そうと必死になった。
けれど、声を出すまいともがく私をよそに、朱鷺野先生は少しも容赦してくれない。彼の熱い手は胸だけでなく、腕も、わき腹も、おへそも、足の付け根も、おしりも、太腿も、ふくらはぎも、爪先も…私の体を余すところなく撫で回し、私を泣かせ続けた。
熱に浮かされ、朱鷺野先生と一つになってからのことはもうほとんど思い出せない。覚えているのは、朱鷺野先生の背中越しに三本の美しいしっぽが動いている光景や、自分の喘ぎ声の合間に聞こえた雨の音。それから…途中途中で、快楽に耐えながらも私を気遣う優しい朱鷺野先生の声。
すべてが夢の中の出来事のようだった。