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4.裏切り者と、耳としっぽ

「あの、ひより、これ…っ!朱鷺野さんに渡してほしいんだけどっ」

 朝、玄関を箒で掃除していると、近所の茶屋で働いている綾さんが手紙を渡してきた。

「綾さん、珍しいですね、こんな朝早くに。これは何です?」

「野暮なこと聞かないでよ。恋文に決まっているでしょう」

「こ、恋文っ!?」

「こないだ朱鷺野さんと柴原さんを茶屋に連れて来たでしょう。あの時に私は一目惚れしたの。最近何度かお見合いしたんだけどパッとしないのばっかりでうんざりしてたところに、あの男前が現れたんだもの。これはもう運命でしょう?ねぇ、お願いだから渡してよ。朱鷺野さん、独身だって聞いたわよ?」

(…!そんなことまでもう知られてるんだ。さすが田舎は情報が伝わるのが早い…)

 私は綾さんの勢いに押されて、ひとまず手紙を受け取った。

 綾さんはこの村の中でも上位の美人で、次から次へと結婚の申し込みが来ていると聞く。そんな綾さんが、まさか朱鷺野先生に一目惚れだなんて…!

「…わかりました。渡しておきます…」


 今日はあやかし探しを始めてから、十三日目の朝。

 朱鷺野先生たちは村の飲食店に何度か顔を出していて、もうすっかり村中の注目の的になっていた。都会から男前がやってきた、おまけに帝都大のエリートだというので、朱鷺野先生も柴原さんも村中の女性から声をかけられ、ひっぱりだこなのだ。

(私のお客さんなのに)と、私は内心面白くないけれど、そんな思いは顔に出してはいけない。

(…渡さなきゃね…)

 この手紙を受け取って、朱鷺野先生はどう思うだろう。もし…『ああ、あの茶屋の綺麗な娘さん!あの子なら大歓迎だよ!』なんて言ったら…。

  私は首を振った。別に、朱鷺野先生がどう思おうと私には関係ないんだから…!


 掃除が終わり、お狐さま探しに向かうためいつものように玄関広間に集合する。

 その時に私は、「茶屋で働いている綾さんという女性から、恋文だそうです」と手紙を差し出した。

「うわぁ、先生は相変わらず女性に人気で羨ましいなぁ」

 柴原さんが茶化したように言ったけれど、朱鷺野先生はとくに嬉しくもなさそうな表情で、「そうかぁ」と言って受け取った。

「あの…嬉しくないんですか?綾さんってあの、だんごをおまけしてくれた綺麗な女の人ですよ。村の男性の憧れの的なんです。そんな綾さんが、先生に一目惚れをしたっておっしゃったんですよ」

「んー、別に…。よく知らない人からこういうのもらって、普通の人は嬉しいものなの?」

 むしろそう聞き返されてしまった。つまり朱鷺野先生は、相手があの綾さんでも嬉しくないんだ。

(なんで私、こんなにほっとしてるんだろう…)

「僕ってさ、見た目が人より少し変わってるだろう?全体的に色素が薄くて、髪の毛の色とか変だし。それで小さい頃によくからかわれたから、自分の見た目をどうこう言われるのがあまり好きじゃないんだよね。それが例え『見た目が良い』という意味でもね。…と言いつつ、良い意味でなら人のことは褒めるけどね。柴原くんは同性の僕から見ても端正で格好良いし、ひよりちゃんは可愛いし。…でも自分のこととなるとちょっと違うかなって」

(…あ…)

 そういう意味では、私も朱鷺野先生の見た目が変わっているし綺麗だから、とくに初日はどきどきしてしまったのだけれど…。少し、反省だ。

「吾妻さん、先生は大学でもこんな感じで。女生徒からもらった恋文の数はゆうに三桁を越えると思いますが、良い返事をしているのを見たことがないんです。もったいないですよね」

 柴原さんが補足する。

「まぁ、今の僕の心の恋人はお狐さまだから、ね。今度茶屋に行ったら丁重にお断りしておかないと。ちなみに柴原くん、さすがに恋文の数三桁は盛りすぎじゃない?多分八十とか九十とか、そのぐらいじゃないかな?」

 言いながら朱鷺野先生は手紙に軽く目を通して、すぐに荷物に仕舞ってしまった。

「…それ、ほぼ三桁と同じだと思いますが…」

「さ、行こうかひよりちゃん」

 朱鷺野先生に笑顔を向けられて、私は少し嬉しくなる。恋文をもらっても嬉しくなさそうな朱鷺野先生が、山に向かう時はこんなに素敵な笑顔を私に向けてくれる。それだけでなんだか…少し幸せな気持ちになるのだった。


***


「豚は意外とコミュニケーションが活発な動物なんだ。あ、コミュニケーションという言葉はわかるかい?英語で相互の交流と言ったような意味なんだけど…。母親と数匹の子供で小さな群れを作って、夜は一緒に眠ったり、互いに毛づくろいをしたりととても仲が良い。それに彼らは声を使って意思疎通を図るんだよ。声を十種類以上、使い分けていると言われている」

「へぇ、豚が声を使い分けるんですか?初めて知りました」

「猿にも匹敵するぐらい、頭も良いと言いますよね」

 山道を歩いている途中で、朱鷺野先生はいつものように動物豆知識を披露してくれた。「何の役にも立たない知識だけどね」と朱鷺野先生は謙遜するけれど、聞いているだけで面白いのだからそれで十分だった。たまに柴原さんでも知らないことがあるらしく、その時は突然懐から紙とペンを取り出して朱鷺野先生から得た知識を書き留めたりしている。

 はじめの数日はお狐さまが見つからないことに焦りを覚えるばかりだったけれど、二人と打ち解けていくうち、焦ったり不安になったりする気持ちは薄れていった。まだお狐さまの足跡すら見つけられていないし、開き直るわけにはいかないけれど、少なくとも二人は私が悩むことを望んでいないのだからのんびり構えていればいいのだ。

「さて、今日はどの道を行こうか?」

 分かれ道まで登ったところで、朱鷺野先生がやや大きめの紙を広げた。これまで私たちが歩いた道を簡単な地図のように記録したものだ。もうほとんどの道は歩いてしまっている。同じ道を回るか、あるいは道のないところを突っ切っていくか。

 私たちは地図を見ながら今日の作戦を練った。



 そして、まずはいつも通り祠まで歩いて小休憩。

「今日は、お供え物が無くなっているね」

 山に入った日は欠かさずお供え物をする。お供え物は無くなっていたり、そのまま残っていたり、日によってまちまちだ。今日はおかか入りのおにぎりをお供えする。それから恒例の足跡確認。

「…ん?」

 私は座って休憩していたけれど、祠の裏で朱鷺野先生が怪訝そうな声を上げたのでそちらに行ってみた。

「何か見つけましたか?」

「昨日お供えしたおにぎりの食べかすのようなものが落ちている。あっちに続いているみたいだ」

 見ると確かに、緑や茶の落ち葉の上に、白い米粒がぽつぽつっと落ちている。

「もしかしたらお供え物をこのあたりで食べたのかも。もう少しこの辺を調べてみよう」

 私たちは米粒を追って道を外れた草の中を歩くことにした。

「油揚げでもおにぎりでもダメなら、そろそろお供え物を肉類に変えてはどうかと思ってたんだけど…おにぎりが当たりだったのかな?」

「お狐さまの好みが何かを知りたいですよね。…あ、先生!これ…!」

 しばらく歩いていると、鼬の死骸らしきものが転がっているのを柴原さんが見つけた。

「鼬だね。死んでる?いや、これは…」

 朱鷺野先生は、手袋をはめて鼬に軽く触れた。よく見ると、お腹のあたりが小さく膨らんだりへこんだりしている。どうやらまだ生きているようだ。

「…怪我をしているようには見えませんが、病気か何かでしょうか…?」

 私ものぞき込もうとしたが、柴原さんに制止される。

「変な感染症だと困るので、吾妻さんは離れていてください」

「わ、わかりました…」

 ちらっと見た時、鼬の口元に米粒が付いているような気がした。もしやおにぎりを食べたのはこの鼬ではないかと思ったけれど、朱鷺野先生たちは何も言わないので私はひとまず黙って下がった。

 朱鷺野先生と柴原さんは鼬を観察しながら何かを小声で話し合っている。二人はいつになく緊張した表情だ。この鼬がどうしたというのだろう?何か危険な病気にかかっているのだろうか?

 ……その時だった。


 がさがさがさ、と、私の背後で、何かが草をかき分けてやってくる音が聞こえた。足音は聞こえず、ただ草を揺らす音だけが響く。何かとても大きな体をしたもの、けれど、足音は立てずに軽やかに歩く生き物が、近づいてくる──。

 肌が粟立つような感覚がする。

 まさか。


 蝉の声がすっと遠のいて、周辺が急に静かになった。そして、肌にまとわりついていた湿気た夏の熱気もさぁっと引いて、季節という概念がなくなってしまったかのように、熱さも寒さも何も感じなくなる。その場の空気が一瞬にして変わった。

「お狐さま…?」


 私は後ろを振り向いて、思わずそう口にしていた。

「……!?」

 鼬を観察していた二人が、私の声に反応して急いでこちらを見る。


「!!!」


 草がゆらゆらと揺れて、その間から、太陽の光を受けて金色に輝く大きな物体が──

他でもない、お狐さまが姿を現した。

「お狐さま!!」

 落ち葉を踏んでいるはずなのに何の足音も立てず、すっ、すっと軽やかに、お狐さまがこちらに向かって歩いてくる。いつもは遠くでこちらを見つめるだけなのに、歩いて近寄ってくるのは珍しいことだ。

「先生!あそこにいるのがお狐さまですよ!とうとう姿を見せてくれました!」

 私は興奮して、大きな声で叫んでしまう。

「ああ。これが…。なんて美しい毛並みだ…」

 朱鷺野先生は恍惚とした表情になってお狐さまを見つめる。

 近くで見るお狐さまは、想像していたものより一回りぐらい大きかった。とくにしっぽは成人男性一人分の身長ぐらい長い。私はこの山で何度もお狐さまを見ているけれど、こんなに近くで見たのは初めてだったから、思わず圧倒されてしまった。お狐さまのいる空間は見えない透明の壁で囲まれているかのように、蝉の声も夏の熱気も遠ざけて、凛と澄んでいる。まるで神様と人間との格の違いを見せつけるかのように、汗だくの私たちとは対照的に、お狐さまは実に涼しげな様子だった。

 眩しくて美しくて神々しくて…一目見ただけで、涙が出そうになるぐらいの存在感だ。美しいのは金色の毛並みだけではない。お狐さまの赤い瞳も宝石のようにきらめいて、吸い込まれてしまいそうだ。

 私は朱鷺野先生たちのことをすっかり忘れて、お狐さまに見入ってしまった。

(ああ…!お狐さまはやっぱり美しい…!会えてよかった…!)

 しかし、一瞬我を忘れて隙を作ってしまったことが、私の致命的な失敗だった。私は何のために朱鷺野先生たちに付いているのか?単に山を案内するだけではない。朱鷺野先生たちが変な行動を取らないか監視をするためでもあったのに…。

 このほんの一分ほど後、私は自分のうかつさを心底後悔することになる。


「吾妻さん、大変申し訳ありません」

「えっ?」

 気づかぬうちに、柴原さんが私の真後ろに来ていた。そして、彼は私の手首を後ろ手に押さえつけ、ひやりと冷たいものを押し当てた。

(何…?)

 一瞬のことで頭の理解が追い付かなかったが、

「あなたに危害を加えるつもりは一切ございません。乱暴をしようとか、そういうことではありませんので、どうかおとなしくしておいてください」

 柴原さんは低い声で静かにそう言って、背後から私に抱きついてきた──いや、正確に言えば、両腕で私を動けないように抑えつけたのだ。そしてその時初めて、自分の手首に手錠がはめられていることに気づいた。

「嫌っ!何!?と、朱鷺野先生…」

 柴原さんが私に何かしようとしている──と、混乱しながらもとっさに救いを求めて朱鷺野先生を見た。しかし、私は朱鷺野先生の姿にさらなる絶望を与えられることになった。

彼は鞄から棒状のものを取り出し、構えていた。


 …お狐さまに向かって、猟銃を向けている。


 その事実を脳が理解した瞬間、私は叫んでいた。

「先生、だめぇぇっ!!!!」

 私は全力で暴れたが、がっちりとした柴原さんの体格には及ぶはずもなかった。柴原さんが両腕で痛いぐらい私を締め付け、私は一歩を踏み出すことすら叶わない。


パン、パン、パン


と、三発の銃声が森の中にこだました。

 薬莢がポン、ポン、と緊迫した場にふさわしくない、かわいらしい音で落ち葉の上に転がっていく。

「…ちっ」

 朱鷺野先生が小さく舌打ちする。

 お狐さまはふわりと身をかわし、木の裏へ。

 弾がはずれたことに一瞬安堵するが、しかし朱鷺野先生は再び銃を向けようと、お狐さまの後を追う。ガサガサガサっと草をかき分ける音が周囲に響き、朱鷺野先生の姿が遠くなる。

「待って!待ってください!先生!」

 慌てて叫んだ私の声は空間を震わすほどの音量で、ひきつれて、とても醜い声だった。

「先生っ!朱鷺野先生!」

「おとなしくしてください!これもお国のためなんです!」

 柴原さんはずっと全力で私を抑えつけていて、力が緩む気配はない。私は叫び続けることしかできなかった。

 朱鷺野先生は一定の距離を保って自分を見つめるお狐さまに対峙して、再度銃を構え直した。

 その時だった。


 静かに朱鷺野先生を見つめていたお狐さまが突然、大きく跳躍したのだ。

 一直線に、彼に向かって。


「うわっ!!」

 パン!ともう一発銃声がしたが、これもはずしたらしい。お狐さまは軌道を変えることなく、朱鷺野先生に覆いかぶさるようにして飛び掛かった。

「ぐあっ!」

 何が起こったのかよくわからなかったけれど、朱鷺野先生の大きな悲鳴が聞こえたかと思ったら、またひらりとお狐さまは跳躍して、森の奥へものすごい速さで消えていった。

「お狐さま!」

「ああっ、先生!」

 膝から崩れ落ちた朱鷺野先生を見て、柴原さんはたまらず私を放りだして彼の元へ駆け寄った。自由になった私は、お狐さまが消えた方向へと走る。

「お狐さま!どこへ…!」

 しかし、手錠はかかったままで上手く走れず、近くの木にぶつかってしまった。

「痛っ…」

 顔をあげると、もうお狐さまの気配はどこにもなかった。

「お狐さまぁっ…!」

 私はただ、お狐さまの消えた方向に向かって叫ぶことしかできなかった。


「……っ」

 お狐さまを追うことができないと悟った私は、次に、地面に倒れこんでいる朱鷺野先生に視線を移した。

「先生っ!大丈夫ですか!」

 柴原さんが必死で朱鷺野先生の首元に手ぬぐいを当てているが、その手ぬぐいが真っ赤に染まっている。どうやらかなり出血しているようだ。さっきは一瞬のことでお狐さまが何をしたのかわからなかったけれど、どうやら朱鷺野先生の右肩から首元のあたりに噛みついたみたいだった。

 私はふらふらと歩いて、二人の元へ向かう。

「………」

 二人に対して、どういう感情を持てばいいかわからなかった。怪我をしている朱鷺野先生を見ても可哀想とも思えないし、かといってざまぁみろとも思えない。何の感情も浮かばなかった。きっとその時の私は、まだこの短い時間に起きたことを頭の中で処理しきれていなかったのだと思う。

「吾妻さん、申し訳ありません。医者の場所を教えてもらえませんか。野犬に襲われたということにでもして、医者に診せてください。どうかお願いします、後生ですから!」

 そう言って、柴原さんは私の手錠を外してすぐさま土下座した。

「傷自体は致命傷ではないと思いますが、もし変な感染症にでもかかったら大変ですから、お願いします!この通りです!」

「……っ」

 私の目の前でお狐さまを殺そうとしておいて、いけしゃあしゃあと──。

 私は土に額を付けた柴原さんを見下ろして、とうとう怒りが湧いてきた。しかし一方で、白いシャツを血に染めて、苦しそうに喘ぐ朱鷺野先生を見捨てることもできない、と思ってしまう。

「…っ。わかりました、ついてきてください…。先生の荷物は、私が持ちますから…」

 私はなんとか怒りを押し込めて、二人とともに下山することにした。朱鷺野先生の荷物をまとめる時に、彼が取り落とした猟銃が視界に入った。

 これだけは持ち帰れない。

 私は怒りに任せて猟銃を蹴り飛ばした。お行儀の悪い女で結構。この怒りと悔しさを、どこにぶつけたらいいかわからなかったのだから。


***


 朱鷺野先生が噛まれたのは、右の首の付け根から肩にかけてのところだ。見事な歯形がついていて、とくに牙が刺さった傷口は大きな穴になっていたのでその場で縫うことになった。傷口は丁寧に消毒されたけれど、感染症にかかったかどうかはこの場ではわからない。出血が落ち着いたのを確認してひとまずは帰宅することになった。



「ううっ…」

 やっと部屋に着いて、朱鷺野先生は布団に崩れ落ちた。

「痛い…」

 朱鷺野先生の顔色は真っ青だった。あれだけ出血したのだし、貧血になっているんだろう。

「お母さんに頼んで、ほうれん草とか貧血に効きそうな料理を作ってもらいます。食べられそうですか?」

「固いものを噛むのは辛いかも…。顎や腕を動かすと痛くて…。おかゆと汁物とかにしてもらってもいいかな」

「わかりました」

「先生、自分は何しましょう?ひとまず浴衣に着替えさせましょうか?」

「頼むよ。ついでに上半身を軽く拭いてもらえるかな。しばらく風呂に入れないだろうから」

「はい、わかりました」

 柴原さんが朱鷺野先生を着替えさせようとするので、私は部屋を出た。

 そしてその足で食堂へ行き、朱鷺野先生が野犬に噛まれて大けがをし、しばらく部屋で療養することになったと父母に告げる。お父さんもお母さんも大慌てで、お父さんはすぐに宿の備品の包帯などを朱鷺野先生の部屋に持っていき、お母さんはおかゆの準備に取り掛かった。夕食ができるまでは時間があったので、私は汗と泥で汚れた体を洗うためお風呂に入ることにする。


 そして、夕日が眩しい時間に私は夕食を運んで朱鷺野先生の部屋を訪ねた。


 朱鷺野先生は浴衣姿で布団にぐったりと横になっていて、柴原さんが彼をうちわで扇いでいた。

「先生、食べられますか?」

「ああ…」

 私は食事を乗せたお盆を布団の脇のちゃぶ台に置いて、その横に正座して座った。朱鷺野先生はゆっくりと体を起こし、まずは冷えた麦茶に手を伸ばした。

 私は朱鷺野先生の様子を観察した。

 彼の首もとから脇の下あたりまで包帯がぐるぐる巻かれていて、見ているだけでも痛々しい。右手は腕を上げるだけでも痛いようで、慣れない様子で左手を使って麦茶を飲んでいる。辛いだろうとは思う。けれど、お狐さまにしようとしたことの罰と考えればまだ軽いほうなのではないだろうか。村の守り神と呼ばれる存在に銃を向けたのだから、変な呪いを食らって命を落としたっておかしくない状況だったはずだ。

「……」

 部屋にはしばらく気まずい沈黙が落ちていたが、その沈黙を破ったのは朱鷺野先生だった。

「あーあ。狂犬病になって死んだらどうしよう」

「……」

「……」

 冗談なのか本気なのかよくわからないことを言われて、…いや、朱鷺野先生なりの冗談なのだろうけれど、私も柴原さんも何の言葉も返せない。先生はしばしば変な冗談を言う癖があるけれど、何もこんな時に言わなくても。しかし彼は私たちの気を知ってか知らずか、

「ちょっと二人とも、何か言ってよ」

 なんて言ってむくれている。

 柴原さんが見かねて口を開いた。

「感染症のことは一旦忘れましょう、先生。右手が使えないから食事を取るのも大変でしょう。自分が食べさせてあげます」

「それなら、こんなガタイの良い男より女の子に食べさせてもらいたいなぁ」

と、朱鷺野先生はちらっと私を見ながら言ったが、私はとてもそんな気分にはなれなかった。

「…先生の自業自得ですから、自分で食べるか柴原さんに食べさせてもらうかしてください」

「ははは、そうだよね。仕方ない、柴原くんで我慢しよう」

 朱鷺野先生はすぐに諦めて、柴原さんに一口一口、お粥を口に運んでもらってちびちびと食べ始めた。

「…どうして、ですか」

 私はそんな様子を見ながら、頭の中をぐるぐるしていたことをとうとう口に出していた。

「どうしてですか、先生…」

 正座をしていた私は、無意識のうちに太ももの上でぎゅっと手を握りしめていた。その拳の上に、ぱたっと一滴、涙が落ちた。

「どうして…」

 村人にとって何より大切な存在であるお狐さまが危険にさらされたこと。

 お狐さまに銃を向けるような人を、他でもない私自身が山に招き入れてしまったこと。

 そして…信じていた朱鷺野先生に裏切られたこと。

 色々なことが、すべて私の心を傷つけた。

 私は正直、こうして朱鷺野先生の前に座っているだけで精いっぱいだった。すべてが夢であってほしい。これは悪い夢で、目が覚めたらまた三人で雑談しながら山に登って、一緒におにぎりをほお張って…。そんな日常が戻ってきたらいいのにと、まだ心のどこかで願っている自分がいた。そのぐらい私は…朱鷺野先生と柴原さんが大好きだった。二人が来てからの毎日はとても楽しかった。退屈だったこれまでの日常が嘘のように、明日はどこの道を行こう、お弁当は何にしようって、考えるだけでも楽しかった。それなのに──。

「ひよりちゃん」

 朱鷺野先生は、ものすごく悲しそうな表情になった。

「言い訳はしないよ。ごめんね。僕は最初から、お狐さまを殺すつもりでここに来た」

「……っ」

 朱鷺野先生の口から、こんな言葉を聞きたくなかった。

 

 お狐さまを、殺す………?


「あの時、柴原さんが言っていました。お国のため、と。お狐さまが、何か悪いことをしたんですか…?お狐さまは村を守ってくれていて、何も…人に危害を加えるようなことなんて、何もしていません……!」

 私はとうとう涙を抑えきれなくなって、しゃくりあげた。

「どうして…っ。お狐さまは、何も、悪く…ひくっ、ないのに…っ!」

「わかっている。それはわかっているんだ」

「だから、それならどうして…っ」

「……………」

 朱鷺野先生は答えてくれない。

「…とにかく、僕は狩りに失敗した。もう君は僕たちを山に入れてはくれないだろうし、僕はこんな手負いだし、柴原くんはまだ猟銃がうまく扱えないし…。つまりもう、お狐さまに手は出さないし、出せない。僕の傷が落ち着いたら僕たちはすぐに帝都に帰るよ。それで…今回のことはすべて忘れておくれ」

「そんなこと…できるわけが…」

「…僕たちはお上の命令でお狐さまを狩りに来たんだ。もし君がここで起きたことをお父さんや村の人に話して、僕が拘束されるようなことがあれば……君も、君の家族もただでは済まないよ」

「…!?」

「何ならうちの大学総長に一筆書いてもらおうか。彼は貴族院の議員もやっている。政治家が関わっていることだと言えば、事の重さがわかるだろう?」

 朱鷺野先生は表情を消して、わざと冷たい声でそう言った。

「……もう、いいです…。お狐さまは無事だったわけですから、もう…もう二度とあなたたちがここに来なければいいです。二度と讃岐の地に足を踏み入れないでください」

 まだ涙は収まらなかった。

 私の知らないことをたくさん知っていて、気さくで親しみやすくて、矢を打たれた動物を助けるような優しい人。一緒に山を登っている間はあんなに身近に感じていたのに、今はもう何を考えているのかもわからない、ものすごく遠い存在になってしまった。

「…食事が終わったら、お盆は部屋の前に出しておいてください。あとで回収しますから。あと、もし体調が急変した場合も遠慮なくお知らせください。それでは」

 私は早口にそう言って立ち上がる。

「ひよりちゃん──」

 朱鷺野先生が何か言いかけたけれど、私は振り向くこともなく、急いで部屋を出た。


 その日の晩は、布団に入っても長い間目が冴えて眠れなかった。

 私にもお狐さまの罰が当たるのではないかという恐怖。

 朱鷺野先生を憎みたい気持ちと、憎めない気持ち。

 色んな気持ちが頭の中をぐるぐるぐるぐるして、泣きそうになったり、イライラしてきたり、とにかく私は不安定になった。

 綾さんから朱鷺野先生への恋文を渡された時、すごく胸がざわざわしたのを覚えている。あれは、朱鷺野先生のことを意識していたから、綾さんに嫉妬したんだ。それなのに、結局私は朱鷺野先生という人を何も知らないに等しかった。

 何のためにこの村に来て、何を思ってお狐さまに銃を向けたのか。生き物を救いたいと言っていたのも嘘なのか。私は彼のことを何も知らない……。

 朱鷺野先生を好ましいと思っていた気持ちは、行き場をなくしてしまった。

 明日から私は、どういう風に彼と接していけばいいのだろうか──。


 もやもやしたまま、朝を迎えた。ちょっとウトウトしたぐらいでほとんど眠れていない。

「はぁ…」

 二人の顔は正直しばらく見たくないけれど、客人は客人だし、怪我人でもある。放っておくわけにもいかない。

(まだ食堂で食べるのは難しいわよね…)

 私は朱鷺野先生の部屋に朝食を運ぼうと思い、身支度をして食堂へ向かった。


「先生、起きていますか?朝食をお持ちしました」

 部屋の戸の前で、声をかける。

 しかし返事がない。

「先生、おやすみ中ですか?」

 戸を薄く開いてみた。どうやら朱鷺野先生は布団にくるまっているようだ。

(寝ているのね。出直そう)

 静かに戸を閉めようとすると、

「ちゃぶ台の上に置いておいてくれ」

布団の中から弱々しく朱鷺野先生が返事をした。

「あ、はい。わかりました。失礼します」

 私はそーっと室内に入る。朱鷺野先生は頭まですっぽりと布団の中に入っていて、顔は見えない。

「ここに置いておきますね。…あっ」

 朝食をちゃぶ台に置いて布団を見ると、敷布団に大きな血の染みが見えた。

「先生っ!傷口が開いたのですか?ちょっと見せてください」

 私は慌てて朱鷺野先生の掛布団をはがそうとするが、先生はぎゅっと布団を握りしめて離そうとしない。

「あ、いや、大丈夫だから!包帯は柴原くんに替えてもらうから!」

「私にだって応急処置ぐらいできます!ちゃんと消毒しないと…!」

 私は力いっぱい布団をひっぱるが、朱鷺野先生も折れない。布団を握りしめたまま顔すら出してくれない。

「なんでそんなに嫌がるんですか?もしかして包帯を替えられるのが恥ずかしいのですか?別に男性の上半身ぐらい見ても何ともないですよ!」

「恥ずかしがってるんじゃないって。柴原くんは処置がうまいから彼にやってもらいたいだけ…!」

 と。押し問答していると、少しだけ布団がずれて、朱鷺野先生の足が見えた。

「…ん?」

 浴衣を着ているせいだろう、朱鷺野先生の白いふくらはぎが見える。しかし、それだけではなく…


「え!?」

 朱鷺野先生のふくらはぎと共に、そこに黄色い毛のしっぽのようなものが二本見えた。

「お、お狐さま!?」

「いや、違う、違うから、見ないでくれ!」

 朱鷺野先生は慌てて布団をかぶり直し、丸くなった。

 しかしあのしっぽはどう見ても狐のもので、しかもそれが二本…布団をめくったら三本あるのかもしれない、となると、どう考えてもお狐さましか考えられない。

(まさかお狐さまが部屋に忍び込んで、先生を襲っている!?)

 私は全身の力を使って布団を引きはがした。そして、

「先生っ!大丈夫です───」

 朱鷺野先生を助けようとしっぽに掴みかかった私は、しかし状況が理解できずに硬直してしまった。

 布団をめくったら、確かにしっぽは三本あった。そして三本のしっぽは朱鷺野先生の浴衣の中から出てきている。しかし浴衣の中にお狐さまが入り込んでいる様子はなく、しっぽは彼のお尻のあたりから生えているように見えた。

 そして、私を振り向いた朱鷺野先生と目が合うと、今度は…。

「先生……」

「ああ…!見るなって言ったのに…!」

 朱鷺野先生の亜麻色の髪の間から、ぴょこぴょことした三角形のものが二つ生えている。

 つまりは、狐の耳のようなものが。

「先生が………………………狐になった……?」


 私はしばらく、絶句してその場に立ち尽くした。



***


 目の前で正座をしている朱鷺野先生はずいぶんしょんぼりしていた。心なしか、その頭に生えている二つの耳までしょげている感じで、先端が折れている。改めて朱鷺野先生を眺めてみても、まだこれが現実に起きていることと思えない。

「夜中に、頭とお尻…というか、尾てい骨あたりだろうか?が熱く痛くなってきたんだ。そしてみるみるうちに、耳としっぽが生えてきた。全身が狐になってしまうのかと思ったけれど、どうやらこの二つだけらしい。もう他の場所に何かが生えてくるような気配はない」

「…その耳は、音が聞こえるんでしょうか?それに、しっぽも時々動いてますけど…」

「耳は、ほとんど自分の耳で聞いてるけれど、この頭の耳のほうもかすかに音が聞こえる気がするんだ。しっぽは…わからない。勝手に動く。操作の仕方がわからない」

「はぁ…そうですか…」

 浴衣の裾から覗く朱鷺野先生のしっぽが、ぱたぱたと犬や猫のそれのように時々動く。さすがにお狐さまのしっぽのような長さではないけれど、朱鷺野先生が立つと先端が地面に触れるぐらいには長い。それが三本も生えているのだから、なかなかの存在感だ。浴衣の腰のあたりが膨らんでとても窮屈そうだ。

「これは間違いなく、お狐さまの呪い…だよねぇ。これ…どうやったら治るの?」

「…すみません、こんなの聞いたことがないです」

「古くからの言い伝えに何かない?お狐さまに噛まれたら狐になっちゃうとか何とか」

「そもそも、私たちは噛まれるようなことをしませんからね」

「………だよね!はぁ…」

 朱鷺野先生はまたしょげた。

「しばらくしたら治る類のものなんだろうか。それとも一生このままなんだろうか…。いやいやもしかしたら毎日少しずつ毛が生えてきて、そのうち脳みそも浸食されて、最後は人間だった記憶もなくして普通の狐になってしまうとか…」

「……」

 もうどんな言葉をかけていいかもわからない。本当にそうなるなら、ある意味狂犬病よりも恐ろしい病だ。凡人とは一線を画す知性を持っている朱鷺野先生が、最後は知性を失って、ただの獣になってしまうとしたら…これ以上ない罰だろう。

「ひとまず、この姿を村の人間に見せるわけにはいきません…よね。傷の具合が良くないとか理由をつけて、しばらくは部屋に籠もっていましょう。ほら、もしかしたら数日で治るかもしれませんし…!」

「うむ…」

「そうだ、柴原さんには見てもらったほうがいいですよね?呼んできましょうか」

「いや…それなんだけど。柴原くんにも黙っていてくれないか」

「なぜです?先生のお顔を見なければ、それこそ心配してしまいますよ。耳としっぽがあっても元気なお顔を見せてあげたほうが」

「申し訳ないが、このことは君と僕だけの秘密にしてくれ。柴原くんは、先に帰らせる」

「でも…」

「研究は中止。僕は体調が良くなく、誰とも会いたくないし会えない状態。だから柴原くんは先に帰って、『お狐さまの研究は失敗に終わった』と速やかに大学に報告するように。僕は体調が回復次第帝都に戻る…と伝えてくれ」

「わ…わかりました」

 朱鷺野先生の気迫に押されて、頷くしかなかった。

「…しかしそうなると、僕の世話は君にやってもらうことになるな…。申し訳ないけど、頼まれてくれるかい?」

「あ…」

 私はもちろん朱鷺野先生を許したわけではないけれど、相手は困っている怪我人だ。それはそれ、これはこれで、お世話はきちんとしなければ。

「それは…、大丈夫です。ちゃんとやります」

「本当かい!?ありがとう」

「…早速、なんですけど…」

「なんだい?」

「包帯、替えてもいいですか?さっきから血がにじんでいるのが気になって…」

 そもそも私が無理やり布団をはぎ取ったのは、布団に血がたくさんついていたからだ。

「ん?ああ。そういえば昨日寝てるときにちょっと傷口が開いちゃったみたいでね。もう血は止まってるけど、汚らしいし替えてもらおうか」


 私は朱鷺野先生の荷物の中から新しい包帯を取り出した。朱鷺野先生は着ていた浴衣を上半身だけはだけさせて、血のにじむ患部をあらわにした。汚れた包帯を取り除き、消毒をする。縫ったばかりの傷はまだじくじくとしていて、見ているだけで痛い。

「すいません、ちょっと我慢してくださいね」

「いっ…」

 消毒液で濡らしたガーゼを傷口に当てると、朱鷺野先生はびくっと全身を震わせた。すると、彼の耳としっぽもピンとまっすぐに天に伸びた。

「…ふふっ」

 その姿があまりにも可愛らしかったので、失礼なのは百も承知で笑ってしまった。

「…何を笑っているんだ」

「すいません。先生のその姿があまりにも可愛くて…。狐というより、猫のように見えます」

「…こっちは全然笑えないんだけど?」

 朱鷺野先生がむくれると、今度は耳もしっぽも力なく垂れ下がる。

「ふふふふ、やっぱり可愛い…」

「……自分の意志で動かしてるわけじゃないんだけどなぁ。ったく!」

 消毒した箇所が乾いたので、私はそこに新しい包帯を巻いていく。巻き方は一応お医者さんから教わったから大丈夫…だと思う。

「……」

 私が手をぐるっと動かすたびに、朱鷺野先生の体に包帯の白い線が乗っていく。

 朱鷺野先生の体は色が白く、肌色だけ見ると病弱そうにも見えるけれど、胸板にはそれなりに筋肉がついていた。研究のために重い荷物を持って全国を飛び回っているから引き締まっているのだろう。その男らしい身体に、思わず見とれてしまいそうになる。

「…できました」

 やや拙い出来ではあるけれど、なんとか巻けた。巻き方に問題がないことを確認して、私はすぐに朱鷺野先生から体を離そうとした。

 しかし、朱鷺野先生は急に私の腕をつかんできた。

「もう少し近くにいてよ…。少しだけ…」

「先生…?」

 朱鷺野先生は私に向き直って、じっと私を見つめてきた。長い睫毛の奥で、その妖艶な瞳は今にも泣き出しそうなぐらい潤んでいた。

 きっと彼の心には、不安や恐怖や後悔が渦巻いているんだろう。治るのかもわからない、死ぬかもしれない今の状態。死ななかったとしても、一生この姿のままだったとしたら、彼はきっともう外に出て暮らすことはできない。そんなことを考えて人恋しくなっているんだ。

「世話を頼んでおいてなんだけど…。君は僕のこと憎んでないの…?どうしてこんなに優しく、包帯を替えてくれるんだい…?」

「……それはそれ、これはこれです。先生がどれだけ悪人だったとしても…目の前で怪我をしている人を放っておくことなんてできないじゃないですか」

「君は…。優しすぎるよ………」

 私を見つめる朱鷺野先生の瞳に、熱が宿ったような気がした。そしてその一瞬、私は彼にふんわりと抱きしめられた。

 びっくりした。

 けれど、抵抗することができなかった。


 憎みたいけれど、憎めない。

 拒みたいけれど、拒めない。


 朱鷺野先生は私の中で、あまりにも大きい存在になっている──。


 朱鷺野先生に抱きしめられたのはほんの数秒だったと思う。彼はすぐに体を離した。彼も私も、それ以上は言葉を発しなかった。


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