3.怪我した狸と、結婚できない私
あやかし探しを始めて、五日目になった。
結局三日目も四日目も、手掛かりらしいものを何も得られず今に至る。せめて足跡ぐらい見つけられるといいのだけれど、それもない。私が悪いのではないと頭ではわかっているけれど、大事なお客さんを連日山登りさせておいて何の収穫もないというのはやっぱり心苦しい。
「おはよう…ございます」
「ひよりちゃん、おはよう」
「おはようございます!今日も頑張りましょう!」
朱鷺野先生と柴原さんの二人は相変わらず元気そうな顔で、玄関で私を待っていた。毎日山に登っているのに二人は少しも疲れた様子が見えない。いつも笑顔で楽しそうで、それが唯一の救いだった。
「ひよりちゃん、今日、具合悪い?」
山の中を歩き始めてしばらくして、朱鷺野先生が言った。
「えっ?いえ、いつも通りですけど…どうしてです?」
「ちょっと元気がなさそうに見えたから。毎日山登りじゃ疲れるだろうし、調子が良くないなら今日は中止にしてもいいけど」
「そ、そんなことないです!元気ですよ、全然!」
「そう?ならいいけど」
どうやら、お狐さまが見つからないことで少し気落ちしているのを勘違いされてしまったようだ。大事なお客さんに心配をかけてはいけない。意識して表情を作っておかないと。
「今日はさらに険しい道を行きますから、先生たちこそ、しんどくなったら言ってくださいね!」
わざとらしく大きな声を出して、私は張り切って歩き出した。
ひとまずいつもの祠に寄って、小休憩とお供え物をして、私たちはまた新たな道を進んでいく。こちらも山菜がよく採れる道で、足腰に自信のある村人はしばしばこの道から山奥に入っていく。道があまり整備されていないから、女性はめったに使わないけれど…。
「…おや?」
しばらく歩いていると、朱鷺野先生が突然立ち止まった。
「どうしました?」
「…血痕。まだ新しい」
「…!」
見ると、朱鷺野先生の左足元の草にわずかに赤い点が付いている。
「こっちに続いているね。ちょっと行ってみようか」
朱鷺野先生は道を外れて、雑草の中に足を踏み入れて行く。
「吾妻さん、足元お気をつけて」
朱鷺野先生がスタスタと草の中に入っていくので、私も慌てて追いかける。柴原さんが少し手を貸してくれた。
「変な痕だな。なんとなく、噛まれた傷による血という感じじゃない。もっと小さいけれど深い傷…あ」
しばらく歩いて、朱鷺野先生が足を止めた。
その視線の先には…一匹の狸がいた。右前足の付け根あたりに白い矢のようなものが刺さっていて、ひょこひょこと今にも倒れそうに歩いている。体は小さく、まだ子どものように見える。
「僕たちは狐を探していたんだけどね」
朱鷺野先生は苦笑しながらも、すぐに荷物を置いて中からいくつかのものを取り出した。
柴原さんも荷物を置いて、中から棒と、輪っかになっている網を取り出した。それは柄と網が組み立て式になっている簡易的な虫取り網のようなものだった。もちろん、それは普通の虫取り網よりは一回りほど大きい、小動物を掴まえられるような大きさのものだけれど。
そして、組み立てた網でひょこひょこ歩いている狸をちょいと簡単に捕まえてしまう。
「ひよりちゃん、この子助けてもいいかな?農作物を荒らすとかで害獣扱いされてるなら駆除するけど…普通は狸って臆病だから、ほとんど人間に害を与えることはないと思うんだよね」
朱鷺野先生が荷物から取り出したのは手袋とガーゼだった。言いながら手袋をはめて、網の中の狸に近づく。臆病な生き物である上、怪我しているのもあって狸は網の中でぴくりとも動かなくなった。
どうしよう、と一瞬思ったけれど、この辺では狸の被害はあまり聞かないし、こんな目にあったのだから今後人間に近寄ることもないだろう。
「た…助けてあげてください」
私はそう返事をした。
「よし」
朱鷺野先生は嬉しそうに笑った。
「噛まれると変な病気をもらっちゃう可能性があるから、ひよりちゃんは離れていて」
そう言って、柴原さんと二人がかりで狸を抑えつけた。柴原さんも手袋をして、噛まれないように狸の口元をしっかり押さえる。朱鷺野先生は片手で狸の前足を抑えながら、もう一方の手で矢をぐっと引き抜いた。
ギュッ、と狸が短い悲鳴を上げる。
朱鷺野先生はすぐさまガーゼで患部を押さえ、強めに圧迫して止血する。それからしばらくして、血がある程度固まったのを確認してから包帯で患部をぐるぐると巻いてやった。
狸は暴れていたけれど、朱鷺野先生も柴原さんも実に手慣れた様子で処置を終えた。
「狸くん、もう大丈夫だよ」
包帯を巻き終わり、朱鷺野先生はそっと狸に話しかけた。
(………!)
その横顔はとても優しく…慈しみに溢れていた。私は彼のその表情に目を奪われてしまう。
(…あれ、何だろう。今、胸がギュッとした…?)
朱鷺野先生は柴原さんに狸を開放するよう目で合図した。柴原さんは私たちから少し離れたところまで狸を運び、ぱっと放した。狸はまだひょこひょこしながらも慌てて逃げ出し、すぐに草むらに消えて見えなくなった。
「あの狸、まだ子供だったね。可哀想に…」
最初に見たときはまだ血が固まっていなかったから、矢が刺さってからあまり時間は経ってなさそうだった。
「…害獣を捕らえるための罠にでもひっかかったのでしょうか。それとも、いたずらだったら気分が良くないですね。村の男の子がふざけて、ボウガンを動物に向けて打つこともあるみたいなので…」
「うん…」
朱鷺野先生も柴原さんも、狸が去った方向を悲しそうな目で見つめていた。
「それにしても、先生はずいぶん手慣れているんですね。まるで獣医さんみたいでしたよ」
「簡単な怪我の処置ぐらいしかできないよ?」
「それでああやって動物の命を救えるなら十分ですよ!」
私がやや興奮気味に言うと、朱鷺野先生はさらに悲しそうな顔をした。
「僕たちは研究目的のために生き物を罠にかけて捕まえることがある。それで、罠からはずす時に怪我をさせてしまうこともあるから処置の仕方を覚えただけ。僕には矢を仕掛けた人を攻める資格なんてないんだよね…。似たようなことをして、傷つけることがあるから」
「あ…。そ、それでも先生は、無益な殺生はしないでしょう?研究のためにやむなく動物を傷つけることがあっても、それはもっと多くの動物を救うためで…。そういうのは、お天道様がちゃんと見ています!胸を張ってください。少なくとも今の先生の行動はとっても素敵でした」
「……そう。ひよりちゃんはお世辞を言うような子じゃないよね、そう言ってもらえて嬉しいな」
辛そうだった朱鷺野先生の表情がふわっと和らいで、やっと笑顔が戻った。
「あの狸、早く傷が治るといいね」
「はい」
私たちは草をかき分け、もと来た道へと戻って行った。
朱鷺野先生が狸を見つめていた優しい目…。あの瞳が私の脳裏に焼き付いて、宝石のようにきらきらと光っている。なんだか妙な感情…言葉にするのは難しいけれど、あの光景を宝物の一つとして胸の中に大切に仕舞いたいような──そんな奇妙な感情が湧いてきた。
(私…何を考えてるんだろ?)
なんだか、自分で自分の感情がわからない。私は頭を振った。
「今日も何も収穫がありませんでしたね…」
その日の夜、私は食堂で朱鷺野先生たちと晩御飯を共にすることになった。
いつもお客さんが食事を終えた後に残り物やまかないを食べているから、お客さん用のできたての料理を食べるのは久しぶりだ。今日の献立は肉じゃがとひじきの煮物に、山菜の味噌汁。ほんのりと湯気の立ち上っているできたての肉じゃがは、とてもおいしそうだ。
「と言ってまだ五日目じゃないか。気を落とすことはないよ」
「先生のおっしゃる通りです。自分たちは何度かあやかし探しをしたことがありまして、一か月近く粘っても見つけられず、あきらめたこともあります。慣れていますから、吾妻さんが気を落とさぬよう…」
「そうします…。そういえば先生たちは、過去にあやかしを見つけたことがあるんですよね?どんなあやかしを見たんですか?私、お狐さま以外のあやかしを見たことがなくて」
「そうだな、例えば…秋田に小玉鼠というあやかしがいてね。これは恐ろしい化け物だった。ハツカネズミのような見た目だが、人間を見ると体を膨らませて爆発して死ぬんだ」
「ば、爆発…!?」
「生態を研究しようにも、姿を見た瞬間に爆発してしまうから、生きた姿を研究することはできなかった。飛び散った血や内臓は採取したけどね…あ、ごめん。食事中にする話じゃなかったか」
「あはは…大丈夫です」
「結局小玉鼠の生態は今もわからずじまいです。採取した内臓や皮膚片などから、爆発する原理を必死で研究したんですけどね。一応今も別の教授が研究は続けていますが…。とにかく、産業革命を経て科学技術が飛躍的に進化しているこの時代においても、まだまだ人間の知識では解明できない特殊な力を備えているんですから、あやかしは面白いですよ。本当に」
柴原さんがしみじみ言う。
「うん、飽きないね。僕は絶滅危惧種の研究をあくまで貫きたいけど、自分がもう一人いればあやかし研究をやらせたいなぁ。分身を作れる妖術とか、そんな能力を持ったあやかしはいないかな?いたらとっ捕まえて、僕の分身を作らせるんだけど」
「全国をくまなく探せば、一匹くらいいる…と思っておきましょう、先生」
「ははは、じゃあ僕と一緒に日本中を探すか、柴原くん」
「見つかるまでに寿命が来てしまいそうですけどね」
二人は楽し気に冗談を言い合っている。私はそんなやりとりを微笑ましく眺めていた。
二人は肉じゃがをぺろりとたいらげ、おかわりまでした。朱鷺野先生もまるで育ち盛りの男の子のようによく食べた。見ていて気持ちが良い…なんて思っていると、
「それにしても、ひよりちゃんは肉じゃがを本当に美味しそうに食べるね」
と朱鷺野先生に言われて驚いてしまう。
「えっ!?そ、そうですか!?」
(私は二人に対してそう思っていたところだったんだけど…私もそんな風に見えてたの?)
「一口食べるごとに嬉しそうに目を細めてるのが、なんだか可愛らしくて」
「…!」
きっと私は耳まで真っ赤になったはずだ。
もしや自分はこれまで美味しい食事を食べるとき毎回そんな表情になっていたのかと思うと恥ずかしいし、朱鷺野先生に可愛いと言われたことも恥ずかしい。
「ははは、そんなに赤くならないで。褒めてるんだよ」
朱鷺野先生はこっちの気も知らずに無邪気に笑った。
先生だってまるで少年のようにもりもりと食べてたじゃないですか、と反論したかったけれど、すっかり焦ってしまってうまく言葉にできなかった。彼の突然のからかいには、とても勝てない。
そうして食事が終わり、私は朱鷺野先生たちと別れてお風呂に入った。
朱鷺野先生にからかわれたことは一旦頭の隅によけておいて、お狐さまのことを考える。食事中も気にするなと言われたけれど、いつまでもお狐さまに会えないというのはやっぱり焦る。もうすぐ朱鷺野先生が来て一週間が経とうとしている…つまり先生が滞在できる期間の四分の一が終わろうとしているのだ。かといって連日山登りでは疲れるし、どこかで休息日も設けないといけない。雨が降れば休めるけれど、まだしばらくは日照りが続きそうだし…。明日何の手掛かりも見つけられなければ、明後日は一日お休みして周辺の観光でもしてもらったほうがいいだろうか。そうだ、せっかくだから美味しいうどん屋に連れて行くのはどうだろう?店はいくつかあるけど、あの二人に合いそうなのは…。
……。
色々考えながら湯舟に浸かっていたら、すっかりのぼせてしまった。
お風呂を出た私は身体を冷ますため、少し夜風を浴びることにした。ついでにお狐さまへのお祈りもしようと思い立ち、中庭のお狐さまの石像の前まで歩いてきた。
夜、月明かりを浴びて柔らかく輝くお狐さまの像は一層神々しかった。なんだか今にも動き出しそうだ。
「お狐さまは、どこにいらっしゃるんですか…?どうか一度だけでも、朱鷺野先生にお姿を見せてあげてくださいね。先生はとってもとっても素敵な方ですから、きっと悪いようにはしませんよ」
私はお狐さまに向かってぽつりと呟く。
そのまま立っていると、夏の夜風がふわりと体を撫でて、とても涼しい。火照った身体がほどよく冷えていくのがわかる。今夜はあまり蝉の声もうるさくないし、静かで気持ちのいい夜だ。
…と。
背後で何か気配を感じて、私は何気なく振り向いた。するとそこには、私と同じく風呂上がりらしい姿…民宿の浴衣姿の朱鷺野先生が立っていた。
「…!先生…!」
「やあ」
(…さっきの、『先生はとっても素敵な方』って言ったの、聞かれてないよね!?)
私は内心焦ったけれど、朱鷺野先生は素知らぬ風で私の隣にやってきた。
「お風呂上がり?少し髪が濡れてるね。風邪ひくよ?」
「だ、大丈夫です。むしろちょっとのぼせ気味なんで、夜風がちょうどいいんです」
「そう?ならいいけど」
そう言って、朱鷺野先生も私と同じようにお狐さまを見上げた。
初日に見た、西日に照らされた先生も美しかったけど、月明かりに照らされる先生もまた綺麗だった。彼もお風呂上がりで髪が少し濡れていて、頬や首筋に濡れた髪が何本か張り付いている。それに彼は浴衣をゆるく来ていて、洋服姿の時は見えなかった鎖骨や胸板が横から少し見えて…。
(…って、私は何を考えてるの…!)
大事な客人をそんな目で見てしまった自分がひどくはしたない女であるような気がして、私は慌てて目をそらす。
「お狐さまはどこにいるのかな。今頃、彼もこうして月を見ているだろうか」
お狐さまを見上げながら、朱鷺野先生が呟く。
「…見ていると、いいですね。それで、明日はちょっと祠まで散歩に行こうかな〜なんて、考えてくれてたらなぁ」
「ふふ…そうだね」
(……?)
口では軽く笑っていたけれど、横目で朱鷺野先生をちらっと見ると、今日狸を見送った時のような悲しそうな表情をしていた。どうしてそんな表情でお狐さまを眺めているんだろう──。
『お上に頼まれたからさ』
先日の、彼のやや投げやりな言葉を思い出した。
もしかしたら、本当は今にも絶滅しそうな生き物を帝都に残してきていて、そっちをなんとかしたいのに命令で嫌々ここに来ているとか?本当は、こんな田舎になんて来たくなかったのかもしれない。
「先生?どうかしたんですか。なんか、悲しそうなお顔…」
「えっ?あ、そんな顔してた?」
私がそう言うと、朱鷺野先生はすぐいつもの表情に戻った。けれどさっきの表情が妙に心に引っかかる。
「帝都のおうちが恋しくなりましたか?こんな田舎じゃ遊びに行くような場所もないですし、夜は退屈でしょう」
「はは、まぁ、それはあるかもしれないね。僕は洋酒が好きなんだけど、この辺じゃ洋酒を飲めるバーはなさそうだしねぇ」
ふと、そういえば朱鷺野先生は結婚しているのだろうか…と思った。実は結婚していて、奥さんを帝都に残してきているから寂しくてあんな表情をしていたとか…。朱鷺野先生が来た日に、お母さんがふざけて『独身かどうか聞いときや』なんて言ってたけれど、独身だとしても、それなりの身分の人だろうから婚約者がいてもおかしくない。
「もしかして、帝都に奥さんを一人置いて来ていて、寂しいとか…ですか?」
「ええ?奥さん?」
朱鷺野先生は変な声を上げた。私はそんなに変なことを言っただろうか?
「いやいや、僕はまだ助教授になったばかりの半人前だし。嫁を持つには早いよ」
「でも、先生は華族や士族などではないのですか?であれば、婚約されている方がいても…」
「君はどうなの?」
「えっ?」
「料理ができないって話をしたときに、嫁に行けないみたいなことを言っていたよね。ひよりちゃんは多分柴原くんと同い歳ぐらいだろう?なら縁談の一つや二つ、あるでしょ。料理ができなくたって、ひよりちゃんぐらい仕事を一生懸命やる子だったら、嫁に欲しいと言う男がいくらでもいるだろうし」
「い、いませんよ、そんなの…。私に結婚を申し込む物好きなんていません…」
急に話を振られて頭が混乱した。上手な返しが思い浮かばない。
「嘘だ。もう一つ付け加えると、ひよりちゃんは健気でひかえめなところが可愛いと思うよ。一度会えば大抵の男は…」
また、可愛いだなんて言う。朱鷺野先生は可愛いという言葉を気軽に使いすぎる…!
私は朱鷺野先生のからかいに戸惑って、咄嗟に「は、破談に、なりました」とやや大きい声で彼の話を遮っていた。
「話が進んでいた縁談が一つあったんですけど、私のせいで。それ以来もう縁談の話は無いんです」
「…おや」
朱鷺野先生は肩をすくめた。
「ごめんね、聞かないほうがよかったかな。でも、君はもう少し自分に自信を持ったほうがいいよって言いたかっただけなんだ。料理ができないこと気にしてるみたいだったけど、そんなの些細なことだよ。君の作ったお弁当はちゃんとおいしいし、ごはんを食べている姿は可愛いし…案外、そんなちょっとしたことで男は女に惚れるものさ。だからどうか機嫌を損ねないでおくれ」
「そ、それは…その…わかりました」
わざわざ言わなくてもいいことを言ってしまった…。
(破談になった、なんて…。完全に訳ありの女だよね…先生にどう思われただろう…)
私は自分の失言で頭がいっぱいになって、朱鷺野先生の言葉があまり頭に入ってこない。
「…もし相手が僕だったら、君との婚約を破談にするなんて考えられないけどなぁ」
「はい…ん?先生、今何て…」
「初日にお弁当を食べていた時にさ、僕が君に対して『料理が苦手でも掃除ができるだろう』って言ったの覚えてる?」
「あ、それは、はい。覚えていますけれど…。そう、あの時、何でいきなり掃除がでてきたのかと思ったんです。確かに私はこの宿で掃除を担当していますけど、詳しい話はほとんどしてなかったと思うので…」
「実はね、この宿に着いた時、僕は結構古い宿だなと思ったんだよ。だから失礼なのは百も承知で言うと、宿の中も古くて汚いのかなと思っていた。でも室内に入って驚いた。建物の外観のわりには、床はきれいに磨かれているし、埃も溜まっていないし、柱にできた傷なんかもちゃんと補修されている。蜘蛛の巣もないし、布団もふかふかで清潔だったし、風呂場もカビなんてほとんど生えてなかった。って、こう言うと潔癖症だと誤解されそうだけどね、普段はそこまで気にしないんだけど、一度部屋がきれいだと思ったら他の場所も気になって色々見てしまったんだよ」
朱鷺野先生は話しながら、初日のことを思い出しているようだった。お狐さまを見上げ、数日前のことなのにどこか懐かしむような表情をしている。
「そして見た場所はすべて期待通り、美しく清掃されていた。だから僕はね、食事をしている時に君のお母さんが挨拶しに来てくれたから、清掃が行き届いていてとても居心地がいいと言ったんだ。そしたらこの宿の掃除を統括しているのは君だというじゃないか。まだ若いのに偉いなぁ、優秀な娘さんだなぁって思ってね」
あまりにも素直に褒められて、私はどういう反応をしていいか困った。
「で、でも…私一人で全部屋を掃除してるわけではないですよ?清掃をしている従業員はもう一人いますし、お父さんやお母さんも手が空いたら手伝ってくれますし…私一人の手柄というわけでは…」
「この像を毎日磨いているのも君だろう?」
「…あ、それは、そうですが」
「この像のきれいさを見ただけでも、君が心を込めて清掃してるのが十分わかるよ。だから君はもっと胸を張っていい。君は真面目で、丁寧で、頑張り屋だ」
「……」
「ほんと君に縁談がないなんてもったいない話だなぁ。僕が君に見合いを申し込んでみようかな」
「……えっ!??へ、変な冗談を言うのはやめてください!」
「別に冗談ではないんだけどなぁ」
「絶対からかってますよね!?」
朱鷺野先生はくすくすと笑った。
こんな田舎の、学もない平凡な娘が帝都大学助教授の嫁になるなんて、冗談にしても突拍子がなさ過ぎる。まったく本当に、朱鷺野先生は発言が軽率なところが玉に瑕だ。
「わ、私そろそろ寝ますね。明日のためにしっかり体を回復させないと…」
いたたまれなくなってきたので慌ててその場を去ろうとすると、朱鷺野先生に腕をつかまれて引き留められた。
「ひよりちゃん」
「あ、あの…?」
朱鷺野先生の手は、思った以上に大きかった。私の腕は、日々掃除や山菜採りで鍛えられているせいかお世辞にも細いとは言えないのだけれど、それでも彼の長い指は私の腕を一周していて、彼が大人の男であることを妙に意識させられてしまう。
動悸が激しくなっているのを悟られないように顔を伏せていると、朱鷺野先生は少し腕の力を緩めてから、口を開いた。
「明日は一日、休もうか。女の子を連日山に連れまわしちゃってごめんね。明日は一日部屋で資料整理や書き物をするよ」
「……え…」
私の心の中が読まれているようでどきっとしてしまう。
「お昼はおいしいうどんが食べたいな。この辺で、おいしいうどん屋に連れて行ってくれると嬉しい」
ちょうど先ほどお風呂に入っている時に、いつ休息しようか、休息するなら村の観光にでも連れて行ってはどうかと悩んでいたのだ。この人には何もかも見透かされているような気がする。お狐さまの手掛かりが得られなくて落ち込んでいることも、何もかも。
「…わかりました」
「うん。じゃあ、また明日。明日は昼前に集合にしよう。柴原くんには僕が声をかけておくから。君は今晩、ゆっくり休んで」
「はい。おやすみなさい…」
私は朱鷺野先生を残して、自室に向かって歩き始めた。
背中に朱鷺野先生の視線を感じたけれど、顔が赤くなっている気がして恥ずかしくて、振り向くことができなかった。