表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

2.あやかし探しと、水遊び

 翌日。

 朝食を終えて玄関広間に出ると、朱鷺野先生と柴原さんは長椅子に座ってお茶を飲んでいた。

「おはようございます」

「ひよりちゃん、おはよう」

「おはようございます!今日は晴れてよかったですね」

 今日の二人は、シャツとズボンの洋服姿に薄手のマントを羽織っていた。そして、やや大きめの鞄を持っている。とくに柴原さんのはパンパンに膨らんでいて見るからに重そうだ。水や弁当、手ぬぐいや予備の足袋といった基本的なものだけでなく、研究に必要な道具も色々と入っているのだろう。

 一方の私は二人に比べるとかなり軽装だ。足袋と草履の予備は山を歩く以上必須だけれど、ほかは水と弁当、怪我をしたときに塗る軟膏ぐらいのものだ。だから荷物はとても軽いもので、持っていることすらあまり意識していなかったのだけれど。

「吾妻さん、荷物持ちます」

と、柴原さんが手を出してきたので、私は一瞬「私…荷物持ってたっけ?」と思ってしまったぐらいだ。

「あ、これですか?いやいや、これすごく軽いんです!それより柴原さんはそんなに大きな荷物を持っているのに、これ以上持たせるわけにはいきません」

 私が遠慮すると、朱鷺野先生が口をはさんできた。

「柴原くんは陸上の経験者でね。足腰がとっても強いんだ。たぶん、このぐらい荷物を持たせてやっと歩く速度が僕たちと同じぐらいになるんだと思うよ。遠慮なく持たせておやり。女性はそれでいいんだよ」

「先生のおっしゃる通りです。自分は腕力や体力に自信がありますので、どうぞ持たせてください」

「そ、そんなに言うなら…お願いします…」

 なんだか気がひけるが、二人とも全く折れそうになかったのでしぶしぶ荷物を差し出した。都会の女性は、こんな荷物も持てないぐらいおしとやかなのだろうか?山菜や茸を採った帰りなんかは、背中の籠いっぱいに詰め込んで一人で持って帰ってくるのだけど…それは言わないようにして、二人の紳士の優しさに甘えることにする。


 そんなやりとりをしながら、私たちはゆっくりと山に入っていった。


 山に入ると、蝉の声が森の木々に反射して響き渡り、村で聞くより一層騒がしい。私たちは蝉の声で耳の中をいっぱいにしながら、緩やかな傾斜の山道を黙って歩いた。

 祠までの道のりは、雑草も抜いてあるし、傾斜のきついところには丸太階段が敷いてあるしで、整備されていて歩きやすい。たまにちらっと後ろを振り向くが、二人は問題なくついて来ている。ただ、たまに朱鷺野先生は立ち止まって、「ほう」とか「ふーん」とか言いながら植物を観察したりもしている。

「先生は、あやかし以外の生き物にも詳しいんですか?」

 私は何気なく聞いただけだったのに、朱鷺野先生は「む?」と口を閉じて、一瞬考え込むような表情になった。

「…んー、元々僕は、あやかしの研究者ではなかった。だからむしろあやかし以外のほうが詳しいよ。そもそも、あやかしって言い伝えだけで実在していないものも多いから、どちらかというと民俗学で研究されてることが多いよね」

「そうなんですか?」

「僕はね、普段は絶滅の恐れのある動物を研究している。中でも鳥類や哺乳類のね。例えばそう…僕の苗字は、鳥の『朱鷺』だろう?君は、朱鷺が絶滅の危機に瀕していることを知っているかい?」

「え?ええっと…新聞で、見たことがあるようなないような…。もう日本にはいなくなったんでしたっけ?」

「まあだいたいそんな感じだね。朱鷺は江戸時代のころまでは珍しい鳥でもなんでもなく、各地に生息していたんだ。けれど明治に入ってから、乱獲されたり、自然環境が悪くなったりしたことであっという間に個体数が減って…。もう本州ではほとんど見ることがない。佐渡とか、一部の離島でしか見られなくなっている。僕の研究では、朱鷺のように絶滅しそうになっている生き物を特定したり、個体数が減った原因を探ったり、繁殖させるにはどうしたらいいか考えたりしているのさ」

(そうなんだ。生き物の救世主みたいなことをやってるってこと?)

 こんな田舎に住んでいるとあまり実感はないけれど、産業革命以後、都市近郊では開発のために森林が切り開かれたり、工場の近くでは川や土が化学物質で汚染されたりしていると聞いたことがある。それによって、魚や鳥などの生き物が大量に死んでしまっているとか。

(先生はそうやって、日本の生き物を守ろうとしているんだ。もしかして、あやかしの研究もその延長なのかな)

「僕がまだ十歳にも満たなかったころ、僕はまだ朱鷺を見たことがなかった。父に聞いてはじめて、この鳥が絶滅しそうだって知ったんだ。幼い僕は、せっかく苗字に入っているのに、朱鷺を一度も見ないままに絶滅されたら嫌だと思ったんだよね。この苗字が続く限り、自分の子供にも孫にも朱鷺を見せてやりたい。絶滅しそうなら、守ればいい。僕が守りたい。…それが生物学を、絶滅危惧種の研究を始めたきっかけだったんだけど」

 私と柴原さんは黙って聞いていたけれど、朱鷺野先生は少ししゃべり過ぎたと思ったみたいだ。急に照れくさそうな顔になって、「…っと、話がそれちゃったね。なんだっけ、あやかし以外の生き物に詳しいのかって聞かれたんだよね。そのつながりで、例えば朱鷺がドジョウを食べると知ればドジョウのことも調べたりするから…鳥や哺乳類が食べる魚や虫や植物にも、多少は詳しいかな?」と言って笑った。

(やっぱり朱鷺野先生って、すごい先生なんだろうな。日本の最高峰の大学で、この若さで助教授を務めて、日本各地の生き物を助けようとして頑張ってるんだから…。やっぱり私みたいな田舎の村娘が、先生にお狐さまのことを教えるなんて恐れ多いな…)

「…では、絶滅危惧種の研究をなさっている先生が、今回あやかしの研究をすることになったのはなぜなんですか?」

 私は話の流れでそんな質問をしたが、今度はさらりとした回答だった。

「…お上に頼まれたからさ。それだけ」

「えっ……」

 そう言ったきり、朱鷺野先生は黙ってしまった。柴原さんも何も言わない。もっと詳しく聞いてみたかったけれど、やがて祠に繋がる丸太階段が見えてきた。この階段は人一人がやっと通れるぐらいの幅しかなく、しかも一段一段の段差が大きい。しっかり前を向いて登らなければ危ないので、私も口を閉じ、無言で階段を登り始めた。

 そして。


「着きました。これが、お狐さまを祀っている祠です」

 長い階段を登りきると、少し開けた場所に出た。

 登山道の脇から砂利を敷き詰めた細い道が伸びており、その先に石造りの小さな祠がある。祠の右手前には、お狐さまの石像が立っている。うちの民宿の中庭に立っているのと同様に、すっと背筋を伸ばして三本のしっぽをピンと立てた、りりしい顔をした像だ。

 祠には観音開きの戸がついており、開けると中には丸くなって眠っているお狐さまの小さい像が入っている。今日はその小さい像のそばに、比較的新しいお猪口が一つ置いてあった。村人はお供え物をこの祠に置いていく。昨日か一昨日ぐらいに誰かが日本酒をお供えしたようだ。

 戸の中を確認した後、私は祠の後ろや周囲を観察した。

 残念ながらお狐さまはいないみたいだった。

「お狐さまはいないですね。…少し、ここで休憩しましょうか」

 祠に繋がる砂利道の脇には、座って休憩できるように切り株の椅子がちょうど三つ置いてある。日も当たらないし、風通しが良い、休憩にはうってつけの場所だ。慣れた道とは言っても、急な階段と暑さですでに息が乱れている。朱鷺野先生と柴原さんもかなり汗をかいている様子で、二人とも私に続いて椅子に腰かけた。

 皆それぞれ荷物から水筒を取り出し、ややぬるくなった水を飲み、一息ついた。

「お狐さまは、その石像と同じぐらいの大きさなのでしょうか」

 柴原さんが石像を見ながら言った。

「そう…ですね。たぶんあのぐらいです。普通の狐よりは一回りぐらい大きいです。それから、尻尾がすごく長いです。大人の男性の半分以上はあると思います」

「それだけ大きいとなると、やはりちょっと大きめの普通の狐というわけではなさそうだね。しかも、少なくとも百年以上はこの山に住んでいるんだろう?」

「はい、そうです」

「見かけるのは一体だけだよね?複数の個体が存在する可能性は?」

「それは…ないと思います。いつも見かけるのは同じお狐さまです。お狐さまには左目の上に小さい傷があるので、別の個体だったら見分けられると思います」

「なるほどね…」

 しばらく休憩して、汗が引いてきた。祠の周辺は蝉が少ないようで、さわさわと森の木々の揺れる音が聞こえてくる。肌を撫でていくそよ風が涼しくて気持ちがいい。

「少し、この周辺を調べていいかな」

 朱鷺野先生は立ち上がると、祠の周辺でしゃがみこんだ。柴原さんも後を追ってしゃがみこむ。

「何をしているんですか?」

「君は休憩してていいよ。足跡がないか探すんだ」

「どれがお狐さまのかわかるんですか?」

「普通の狐の足跡はだいたいわかる。それが一回り大きければお狐さまのだと思えばいいだろう?他に、この周辺にはどんな生き物がいる?」

「狸とか、鼬とか…野犬もたまに見ますかねぇ…」

「わかった」

 そう言って、二人は洋服が汚れるのも厭わずに、地面に膝をついて落ち葉をかき分けていく。私はそんな二人の手助けもできず、ただ見ているしかできなかった。

(帝都大学の教授や学生さんなんて、部屋にこもって本ばっかり読んでるような印象を持ってたけど、こんな泥臭いこともやるのね…。大変そう…)

 しばらく経って、「だめだ。めぼしいものはなさそうだね。あまりここで時間を食うと昼食が遅くなってしまうだろうから、そろそろ行こうか」と朱鷺野先生に言われたので、私は水筒をしまって立ち上がった。

「お供え物だけ、していこう」

 朱鷺野先生が柴原さんに目で合図をすると、柴原さんは荷物の中から何やら新聞紙を取り出した。新聞紙を開くと、中には油揚げが二枚。

「朝、君のお母さんに言ったら、お狐さまへのお供え物はこれが一番だと言って用意してくれたんだ」

 朱鷺野先生が祠の中に油揚げを置くのを見守ってから、私たちは展望所に向かって再び山道を歩きだした。


「やった!頂上ですね!」

 木々の中を抜けて、太陽がさんさんと照り付ける開けた場所に出ると、柴原さんが興奮して声を上げた。

「ここが展望所です。そんなに高い山ではないので、絶景というわけではないですけど…。讃岐平野、きれいでしょう」

「本当に平坦な土地だねぇ。カラっとした気候も気持ちが良いし、讃岐はいいところだね」

朱鷺野先生は、景色を見ながらしみじみとそう言った。

「夏は暑くて大変ですけどね…。そこの木陰に椅子があるので、お弁当にしませんか」

 早朝に出発してから今はもうずいぶん太陽が高い位置に来ている。日差しはいっそう強く、日陰がないところだと少しの間立っているだけでも肌が焼けて痛いぐらいだ。

 私たち三人はまた並んで椅子に腰かけて、今度は弁当の包みを開く。

 中身は三人とも同じで、やや大きめのおにぎりが二つに漬物と卵焼き。ちなみに、おにぎりの具は鮭と鳥そぼろだ。

「このおにぎり、君が握ってくれたんでしょう?」

 自分のおにぎりをかじった瞬間にそう言われて、思わず口に入ったお米を噛まずに飲み込みそうになった。

「ごほっ、な、んでそれを…?」

「そりゃ、受け取った時に君のお母さんが言ってたから」

「………。お母さん…」

 はーっとため息を吐く。

「なんでそんなに嫌そうなの?素直にお礼を言いたかっただけなんだけど」

「いや、その…まだ修行中の身なので…」

「…?おにぎり作りの?」

「…………まぁ、はい」

 私がもごもごしている間に、男二人はすごい速さでおにぎりを平らげていく。柴原さんはもう一つ目を食べ終えてしまった。おにぎりは少し大きめで、具も多めに入れてあるのに、大人の男の人はこうも食べるのが早いのか。

「吾妻さん、おにぎりすごくおいしいです」

 口の中に米がたくさん入っている状態で、柴原さんがにっこり笑う。

「うん、鮭もそぼろも、わざと濃いめの味付けにしているね?夏場の山登りでは、汗で塩分を失う危険があるからね。気を効かせてくれてありがとう」

 二人に褒められてなんだか気恥ずかしい。まだまだ、お母さんの作るふわふわのおにぎりには程遠いのに…。

「……私、料理苦手なんです。料理全般…。お母さんが料理上手なのに、私は不器用で全然ダメで。食堂の仕事を継ぐかはわからないけど、とりあえずできるだけ練習はするようにって言われていて…。おにぎりだって、ふわふわの食感にするためには相当握り方を訓練する必要があるんです。でも私は覚えが悪くて…」

「あはは。それで自分が作ったのがバレたから、そんなに嫌そうだったのか!誰にだって得意不得意はある。そんな小さなことで悩まなくてもいいじゃないか。修行中とは言っても、すでに十分おいしいおにぎりを握れているんだし!」

「ち、小さなことじゃありません…!食堂を継ぐかもしれない人間が苦手というのでは…。それに、料理のできない女って、そんなだから嫁に行けないって村の人間からも散々からかわれているのに…」

 私がそう言うと、朱鷺野先生は少し真面目な顔になって言った。

「料理ができなくても君は、掃除ができるだろう。だからそれで充分だと思うけど?」

「…え?」

 掃除?

 なぜ急に掃除という単語が出て来たかわからなくて私は一瞬言葉に詰まる。

「ごちそうさまでした」

 しかし、聞き返す前に朱鷺野先生がそう言って、弁当を片付け始めてしまった。

 柴原さんも「ごちそうさまでした」と言って手を合わせた。私はまだやっと一個目のおにぎりを食べ終わったところだと言うのに…。

「君が食べ終わるのを待ってあげたいところだけど、ごめんね。時間も限られているから、僕たちはまたこの周辺を見てまわっていいかな。君はゆっくり休憩してくれ。女の子にはここに来るまでの階段もきつかったろうしね」

「あ、わかりました。私のことはお気になさらず…」

 朱鷺野先生と柴原さんはまた、展望所をうろうろしながら足跡探しを開始した。


 そして、それらしい収穫はなく、今日はそのまま下山することにした。

 昼を過ぎて日差しは一層強くなり、私たちは汗だくになりながら山道を歩く。

 と、ふいに朱鷺野先生が立ち止まって耳を澄ませた。

「先生、どうしました?」

「…水の流れる音が聞こえる。どこかに川がある?」

「ああ、この辺にはちょっとした沢がありますよ」

「…ちょっと寄り道していいかな?」

「え?いいですけど…」

 私が返事をすると、朱鷺野先生はすぐに音のする方へと歩き出した。

(一体何をするんだろう?水辺の生き物を見たいのかな?)

 私と柴原さんは慌てて彼の後を追う。草をかき分けてしばらく進んで、沢に出た。とても細くて水もちょろちょろとしか流れていない、小さい沢だ。

 しかし見るなり朱鷺野先生は、

「よし!柴原くん、行くか!」

 そう言っていきなり履物を脱ぎ、裸足になった。

「はい!」

 柴原さんも荷物を投げ出して、すぐに裸足になり、ズボンの裾をまくり始めた。

(えっ?何を…)

 私が戸惑ってみていると、裸足になった二人は楽しそうにはしゃぎながら、パチャパチャと水音を立てて沢の中へと入って行った。

「うわー!気持ちいい!最高だね!」

「ですね!ただ…ここちょっと石がゴツゴツしてて痛いっす…!」

 水は二人の足首が浸かるぐらいの浅いもので、軽い水遊びするのにちょうどいい深さのようだ。二人は子供のように満面の笑顔で、足を濡らして楽しんでいた。

(………)

 私は茫然と二人を見るしかない。

「手もつけると最高に気持ちがいいですよ、先生!」

そう言いながら柴原さんが前屈して、両手両足を水につける。

「どれどれ…?」

 朱鷺野先生も同じようにぐっと体を折り曲げるが、先生は体が硬いらしい。

「あ、ちょっと無理…。指先しか水に入らない…」

「あはは!先生、基礎体力だけじゃなくて、柔軟性も鍛えたほうがいいのではないですか?」

「…。ほっといてくれ」

 そんな風に言い合っている。

(なんか…意外…!)

 二人は帝都大学という、選ばれた人間しか通えない大学の人間だと言うのに、まるで田舎の少年のような笑みを浮かべて、こんな小さな沢で大はしゃぎしている…!

「ひよりちゃん」

「はい…きゃ!?」

 呼ばれて朱鷺野先生のほうに顔を向けると、自分の顔に軽く水がかけられた。

「水、冷たくてすごく気持ちがいいよ。君は裾が濡れるから水には入れないだろうけど、手だけでもつけてみたら?汗が引くよ」

 朱鷺野先生が笑顔で私を手招きしている。

「は、…はい…」

 断るわけにもいかず、私もおずおずと水に触れた。

 水はすごく冷たくて、火照った指先の熱が一瞬で溶けて流れていく感じがした。

(あ…本当に気持ちいい!それに、この感触、なんだか久しぶりかも…)

 山に流れる水にこうして遊びで触れるのは何年ぶりだろう?水を汲んだり、洗濯したりするのには井戸水を使うし、川遊びもしなくなったし。

 水を手でぱちゃぱちゃしながらふと顔を上げると、朱鷺野先生たちは今度は水を蹴りあげて、どちらが高くしぶきを上げられるか競って遊んでいた。

(…って本当に子供みたい…!でもなんだか…はしゃいでいる先生たちを見てるだけで楽しくなってきちゃう)

 はしゃぐ二人は可愛らしくて微笑ましい。私は知らず知らずのうちに顔がにやけていたようだ。

「ひよりちゃん、水はそんなに気持ちいい?ずいぶん嬉しそうだね」

 朱鷺野先生にそんな風に言われて、少し恥ずかしかった。


 私たちはひとしきり沢で遊んでから、宿に戻って来た。

「今日はすみません、お狐さまをお見せすることができなくて」

「なぜ君が謝る?そもそも初日でお目見えできるとは思っていないよ。明日もよろしくね。明日も祠までは行きたいんだけど、そこから違う道を行ってもらってもいいかな?展望所までに、いくつか道が枝分かれしていたよね?」

「あ、はい。では明日は別の道を行くことにします。今日通った道が一番歩きやすくて楽な道なので、明日以降は今日よりも疲れてしまうと思いますが、大丈夫ですか?」

「君みたいな女の子が平気で登って下りて来れる山だよ、大の男がこれぐらい登れないでどうする。体の疲労はゆっくり風呂に浸かれば回復するから、大丈夫」

「自分も大丈夫です。今日は長めに風呂に浸かって体を休ませます」

「わかりました。では明日も、朝に玄関集合で。お弁当も用意しておきますね」


 そうして、その日は私も疲れたので早めに夕食やお風呂を済ませ、床に就いた。

 山を登って下りて来るだけなら平気だけれど、今日は朝から慣れないお弁当作りをしたし、何より大事な客人の案内をしたのだ。全身が変に疲れていて、重たい。

 けれど、朱鷺野先生も柴原さんも優しいし、今日は一緒にいて楽しかった。朱鷺野先生は絶滅の危機にある動物を助けるというすばらしいお仕事をしている人だし、料理ができないと言った私を褒めてくれたし、沢でいきなり水遊びを始めるようなお茶目なところもある。最初、お狐さまに失礼な発言をされた時はどうなることかと思ったけど、今日の一日でずいぶんと印象が変わった。もっと朱鷺野先生がやっている仕事のことを知りたいし、私のことも知ってほしい…。


………。


そんな風に思いながら私はゆっくりと目を閉じ、襲い来る睡魔に体を委ねた。


***


 あれ?


 気が付けば、世界が水に包まれていた。


「!?」


 頭上には見慣れた天井がなく、ただ太陽の光が水に揺れてきらきらしていた。

 今度は足元を見た。布団も畳もなく、どこまでも落ちていきそうな真っ黒い水底が口を開けている。

 そして私の体は、その水の中をぷかぷかと漂っている。


ここは、どこ?

怖い…

死んでしまう……!


 思わず泣きそうになった時、金色の何かが私の背をふわっと押してきて、私はあれよあれよという間に水面まで上がっていき、水の中から出ることができた。


「ぷは!はぁ、はぁっ!ゲホ、ぐっ…」

 陸地に上がって、私はむせながら空気を吸い込む。何が起きたのかさっぱりわからないけれど、どうやら助かったらしい。

 と。

 顔を上げると、正面の少し距離を置いたところに、お狐さまがいた。

 ここは森の中のようで、お狐さまは大きな木の根元のあたりに立って、私を静かに見つめている。

「お狐さま!お狐さまが私を助けてくれたの?」

 私は直感的に、背中を押してくれたのがお狐さまだと悟った。

 お礼を言わなければ──、と慌てて立ち上がろうとするが、めまいがして上手く立てない。私がもたもたしていると、お狐さまの後ろから人が近寄ってくるのが見えた。

(誰…?)

 暗くてよく見えないが、すらっとした長身の男性のようだ。

(…あれは)

 木々の間から差し込む太陽の光に、一瞬だけ男の髪が照らされた。男の髪の色は、金に近い明るさだった。いや、あの色は見たことがある。亜麻色だ。亜麻色の髪の男と言えば、私はあの人しか知らない。

 後ろから男が近づいてくるのに、お狐さまは気づいていないようだった。

(お狐さま…)


 嫌な予感がした。


 後ろからお狐さまに近づく男は、間違いなくお狐さまに何か悪いことをしようとしている。


(お狐さま!逃げて!!)


 私は声に出そうとしたが、声はかすれて、何の音も出なかった。


 お狐さまのいる木の後ろにまで来た男の手が、お狐さまに向かってゆっくりと伸び──。



「…やめて!!」


 …と、叫んだ瞬間、目の前から森が消えた。

「…あれ?」


 私は、見慣れた自室の布団の中にいた。障子から差し込む朝日の光が部屋をぼんやりと照らしている。

「ゆ…夢…?」

 体を起こして周囲を見渡してみる。私はいつもの部屋にいて、いつもの寝間着を着ていつもの布団の中にいた。

「夢…か…」

 額にぐっしょりと嫌な汗をかいていた。

(水に全身が浸かってしまった私…。それは過去に起きたことだけど、後半の、朱鷺野先生は…?まるで…先生がお狐さまに悪さをしようとしているような夢を…。何でそんな夢…)

『──絶滅しそうなら、守ればいい。僕が守りたい』

 そう思って絶滅危惧種の研究を始めた朱鷺野先生が、お狐さまに悪いことなんてするはずないのに。多少失礼な発言はあったけれど、ちゃんと謝ってくれたし…。

 私は頭を振った。

 昨日は慣れないことをしたから思った以上に疲れが溜まったんだろう。身体に鬱陶しく絡みついている汗を落とすため、私は朝風呂に入ることにした。



 あやかし探し二日目が始まった。

「おはようございます、吾妻さん」

「おはよう〜」

「おはようございます、お二人とも。よく眠れましたか?疲れは取れましたか?」

「大丈夫、僕たちは研究であちこち飛び回っているから体力には自信がある。半日山登りしたくらいでへこたれはしないよ」

「わかりました。では行きましょうか。今日は、昨日よりは少し険しい道を歩きますから、そのつもりで」


 私たちは昨日と同じように私を先頭に出発した。


「狐はイヌ科の動物で、嗅覚が優れているのはもちろんだけど、聴覚も素晴らしい。雪の下に隠れた獲物の位置も音だけで正確に特定することができるんだそうだ。それから、イヌ科だけど犬との決定的な違いは群れないことだね。単独、あるいは家族単位の行動が主だ。それから狐は一夫一妻制で…」

 歩きながら、私と柴原さんは朱鷺野先生による狐の生態に関する講義を聞いていた。帝都大学助教授の講義が無料で聞ける日が来るとは…。朱鷺野先生は本当に知識が豊富で、こうして狐に関して知らないことをたくさん教えてくれる。しかし一方の私はと言うと…。

「お狐さまのしっぽは、どうして三本なんだい?あやかしとしては九尾の狐が有名だけど、三尾というのは珍しいよね」

「えっと…それは、わからないです…」

「狐は人間に化けるという逸話が多いけれど、お狐さまは人間に化ける力を持っているかい?」

「んー…そんな話は聞いたことがないです。山で見かけるだけで、直接私たちに何かをしてくるわけではないですし…」

「お狐さまの生態に関して村で何か記録を残したりしている?僕が閲覧することは可能だろうか?」

「んと…記録…とかは…私は聞いたことがないです…。お狐さまを見かけてもすぐにいなくなってしまうので…記録するようなことは何もないんじゃないでしょうか…。私の亡くなったおばあちゃんは、『大昔に、村の少女がお狐さまを救い、それ以来お狐さまが村を守るようになった』とだけ言っていましたけど、詳しいことも聞いたことないです…」

「……」


 朱鷺野先生に色々聞かれても、私の知っていることはほとんどなかった。

「古い記録があるかどうかは、村長とか、もっとご年配の方に聞いてみるのがいいかと思います…。私が知らないだけで、もしかしたらあるのかも。時間に余裕があるときに、村長とかに聞いてみます」

「そうしてくれると嬉しい。頼んだよ」

 …なんだか全く力になれている気がしなくて、気分が落ち込むばかりだ。


 しばらくして、いつもの祠に到着した。

「油揚げ、無くなっていますね」

 柴原さんが祠の中を確認してそう言った。

「ふむ…」

 柴原さんのその言葉を受けて、朱鷺野先生は慎重に周辺の足跡を探した。しかし、それらしきものは見当たらないようだ。

「お狐さまが来たのなら、大きな足跡が付くはずだけど…」

「ないようですね、先生。油揚げは野良犬や狸にでも食べられたのかもしれませんね」

「ここは鼠や鼬なんかも出ますから、お狐さま以外の動物が食べた可能性は高いと思います」

「そうか。まあいい。今日もお供え物をしておくよ。明日は油揚げ以外のものを用意してみようかな」

 そう言って、朱鷺野先生は一通り周辺の確認を終えてから、また祠に油揚げを置いた。

「さて。行こうか。今日はどんな道を通っていくのかな?」

「今日は、山奥にある洞穴に繋がる道を行きます。今まで洞穴の中でお狐さまを見かけたことはないですが、根城にしてもおかしくはない大きさなので、一応見てみようと思います。この道は秋によく茸が採れるので、その時期は人通りもあるのですが…夏はあまり人が来ないので、草が伸びて歩きにくくなっていると思います。足元に気をつけてくださいね」

「わかった。では行こう」

 私たち三人は再び山道を歩きだした。


 しかしその日も、何の収穫も得られなかった。

 一日や二日でお狐さまに会えるとは思わないけれど、それでも自分が朱鷺野先生の役に立てていないことが、なんだか心苦しかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ