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1.夏、帝都大学助教授の来訪

 盛夏の、カラリと晴れた日の昼下がり。

 蝉の鳴き声を聞きながら、私はしっぽが三本生えている狐の石像を雑巾で拭いていた。石像は木陰にあるのだけれど、木陰にいても全然涼しさを感じられない。風が吹いていないせいだ。額や後頭部から汗のしたたる感触がして、何とも気持ちが悪かった。

(部屋の掃除に時間がかかることはわかってたんだから、ここの掃除を先に…朝の涼しいうちにやっておけばよかったわね)

 私は汗をぬぐいながら少しだけ後悔した。


 石像についていた泥やほこりが綺麗になくなって、私はほっとして石像を見上げる。

「今日も村の一日が平和でありますように」

 私は石像に向かって小さくお祈りをした。

 石像の狐はすっと背筋を伸ばして座り、正面を見据えている。三本のしっぽは天に向かって真っすぐ伸ばされていて、狐の体の倍ほども長いそれは狐の神々しさを一層引き立てている。いつ見ても、りりしく格好良い神様だ。

 この石像は百年以上昔に作られたものらしいけれど、丁寧に清掃や補修がなされていて、今でもピカピカしている。そのぐらい先祖代々大切に扱われてきたのだ。私もその精神を受け継いで、ここの清掃にはほかのどの場所よりも力を入れている。


「さて…」

 一通りの掃除を終え、室内に戻ろうと踵を返した時だった。

「おお、いらっしゃい!あなたが朱鷺野ときのさんかい?」

 玄関のほうから、お父さんの大きな声が聞こえてきた。今日来る予定の二人の客が到着したようだ。

 しかし、客人を迎えるにあたってこんな汗と土埃にまみれた姿ではさすがに見苦しい。私は石像のある中庭から一旦室内に引っ込んで、洗面所に向かった。顔を軽く洗い、鏡を見て乱れた髪を直した。顎の下あたりで切りそろえられた髪。髪が長いのは仕事の邪魔だからと、数年前に短く切って以来ずっとこの長さだ。同い年ぐらいの女性…とくに都会の女性は長い艶やかな髪を流行に合わせて様々に結っているはずだから、帝都からやってくる客人から見るとずいぶん田舎臭いのではないだろうか。…まぁ、今更気にしても仕方がないのだけれど…。

 鏡の前でくるりと回転して、後ろから見てもおかしくないことを確認してから、私は小走りで玄関に向かった。

 

 玄関広間に出ると、ちょうど先ほどの客人たちが宿帳に記入しているところだった。

 お父さんが私の姿を見つけて、「おお、ひより。ちょうど今お茶をお出ししたところだから、落ち着いたら部屋に案内してやってくれ。荷物は俺が運んどくから」と言って大きなトランクを二つ重そうに抱えて、よたよたしながら奥の廊下に消えていった。お父さんは年の割にはたっぷりとした筋肉を蓄えていて、いつもは客の荷物を両手に抱えて軽々と運んでいくのだけれど。今回、さすがに男二人の長期滞在分となると普通の重さでは済まないようだ。

 私はお父さんが見えなくなってから、今度は広間の長椅子に座る二人の客を見た。

 一人はうつむいて宿帳に記入をしている。黒髪の短髪で、がっしりとした体つき。年齢は私と同じぐらい、二十歳前後と思われた。おそらく学生さんなんだろう。

 そしてもう一人は、すでに宿帳の記入を終えたのか、椅子に深く腰掛けてゆっくりと麦茶を飲んでいた。その男の纏う空気が少し普通の人と違う感じがして、思わず目を凝らして見てみると、ふっと顔を上げたその男と目が合った。

(……!)

 私はその瞬間、男に目を奪われて頭の中が真っ白になっていた。

 その男は、異国の血が混じっていてもおかしくないぐらい髪や瞳の色素が薄く、肌も白かった。少し長めの、亜麻色の髪の毛は後ろでゆるく束ねられている。これまた長めの前髪から覗く瞳は、少し釣り目で鋭く、長い睫毛も相まって妖艶な雰囲気を纏っていた。

 私はその瞳に絡めとられてしまったように、目を離せなかった。

「おや」

と、私とほんの数秒見つめ合った後、男は柔和な笑みを浮かべた。

 “助教授”という肩書きから想像していた人物像より、ずっと若い。二十代半ばから後半ぐらいか。事前の連絡では、『この春に助教授になったばかりの若輩者なので、お気遣い無きよう』とあったけれど、謙遜ではなく本当に若い人だったみたいだ。

「君がこの宿の娘さん?僕が朱鷺野ときのたけるです。これから数週間、お世話になります」

「あ、…私は、ひより、吾妻あがつまひよりと申します…。暑い中、よくお越しくださいました…」

 なんとかそう答えたが、声が少し上擦ってしまった。

「短い間だけど、どうぞよろしく…」

 朱鷺野さんがすっと立ちあがり、握手を求めて手を差し出してきた。

 彼は背が高く姿勢もよく、立ち上がってから手を差し出す所作すべてが美しかった。そして差し出された手も、白くてすらりと長い指は人形の手のような綺麗さだった。日々の仕事で日焼けし、荒れた自分の手を握らせるのをためらってしまうほどに。


(こ、こんなに若くてかっこいい人だなんて聞いてない…!)


 私は顔が火照っているのを感じながら、なんとか朱鷺野さんと握手を交わした。


***


 話は三か月前にさかのぼる。


 私はここ、香川県の田舎にある小さな民宿の娘で、普段はいち従業員として清掃や食堂での給仕などを担当している。お父さんがこの民宿の責任者で経営全般を、お母さんが料理長として食堂の運営を担っている。

 あと、私と同じように清掃や給仕を担当する男性一人、食堂の従業員の女性一人、敷地内の菜園や庭の手入れをする男性一人が働いている。繁忙期には、近所に住む親戚や、岡山の旅館で経営を学んでいる兄も手伝いに来てくれたりする。兄は今二十四歳で、あと数年勉強したらこの民宿を継ぐことになるだろう。つまりここは、特別立派な名声や設備があるわけでもない、先祖代々細々とやっている家族経営の宿だ。ここから歩けるぐらいの距離に小さな農業学校があって、その学生の下宿も兼ねているため毎年四〜五人程度の学生が下宿生として暮らしてもいる。


 ある日の朝礼でのことだった。

 従業員が食堂に集まって、いつものように今日の宿泊予定者や業務内容について確認し合う。もともとそんなに儲かってもいない民宿なので、『宿泊客無し、仕事は下宿の学生のための食事作りと清掃だけ、以上!』という日も少なくない。

 けれどその日は最後にお父さんからこんな報告があった。

「これから三か月後、八月の話だが、帝都大学の教授と助手の二名が、研究のために数週間この宿に滞在したいと申し出てきた」

「…ええっ!?」

 私も含め、従業員はみな目を丸くする。

「て、帝都大の教授!?そんなすごい方が、なんでまたこんな田舎に。お遍路さんじゃないんですよね?」

 食堂の従業員の井田さんが尋ねた。

 四国には、四国八十八箇所と呼ばれる空海ゆかりの寺院があり、全国から観光客が訪れる。と言っても、対象となっている寺院はこの近くにはないため、お遍路さんがこの宿を利用することはめったにない。ここに泊まりに来るのは、お遍路ついでにもっと讃岐の田舎まで巡りたいという物好きや、製麺所に美味いうどんを求めて来るうどん好き、この宿の裏手に山があるため山登りに来る人、あるいは農業関係者などが多い。それ以外では学生の下宿の売り上げが大半を占めているような宿なのだ。

 それに、鉄道がだいぶ整備されてきたと言っても、本州から四国までは船で移動するしかない。港から離れたこんな田舎にまで帝都の人間が来ることは極めてまれな上に、帝都大学の教授ともなれば、華族などそれなりの身分の人間だろう。ここはもちろん、そんな身分の人が宿泊先として選ぶような質の宿ではない。

 …つまり、そんな人が客として訪れるのはたぶん創立以来一度もなかったことではないだろうか。私たちにとって一大事だった。

「ちなみに研究目的って、何の?」

 私はお父さんに尋ねた。

「…“あやかし”の研究、だそうだ。つまりはうちのとこのお狐さまだな」

「…!?」

 私たちは再度驚いた。

 なるほど、それならばうちの宿が滞在先に選ばれたのは納得できる。

 けれど…。

「あやかしの研究って…。お狐さまの何を調べるってんだ?罰が当たらんかね?」

「帝都大ってのは、そんなわけのわからない研究をしてるの?」

 従業員たちが不安を口にする。


 ここの従業員は、皆この讃岐の田舎で生まれ育った者ばかり。都会の上流階級の人間をおもてなしするというだけでも緊張するのに、この村の守り神を研究するというおよそ理解しがたい目的でやってくるのだから、私たちの混乱は相当なものだった。



***


「自分は、柴原秀典しばはらひでのりと申します!帝都大学理学部生物学科三回生、朱鷺野先生の研究室で生物学を勉強中の身であります。此度は朱鷺野先生の助手として共に参りました。雑用はなんでもこなします!なにとぞ、よろしくお願いいたします」

 宿帳への記入を終えた短髪の男も、そう自己紹介をして恭しく頭を下げた。目や鼻筋ははっきりとして、眉はやや濃く、品の良い顔立ちをしている。そして若い見た目通り、やっぱり学生さんだった。

 二人は、さすが都会の上流階級の人間(多分…)だけあって、田舎ではめったに見ることのない洋服姿であった。朱鷺野さんは白いシャツの上に濃い茶色のベストを着ていて、下も茶色のズボンだ。柴原さんはシャツとズボンで、サスペンダーを付けている。

 帝都では洋食屋やカフェ、バーなど、洋風の飲食店が年々増えているというが、それに伴ってそうした店にふさわしい洋服もかなり普及しているらしい。そういう店に行くときは女性も和服ではなくワンピースやブラウスというものを身に着けて出かけるのだとか。私は残念ながら、そんな服は雑誌でしか見たことがないのだけれど。


「では、早速ですが館内を案内しますね。どうぞ私についてきてください」

 私は、うっかりすればじろじろと朱鷺野さんを見てしまいそうだったので、慌てて視線を館内に移した。

「まず、うちは学生さんの下宿も兼ねております。一階は、学生さんのお部屋があります。一般の宿泊客の方は二階のお部屋にご案内してまして、お二人のお部屋も二階にあります。階段はここです」

 私はそう言いながら、二人を連れ立って歩く。

「食堂やお風呂などの共用施設はすべて一階にあります。まずこの廊下を右手に曲がったところが食堂です」

 二人はこそっと食堂の中を覗き込む。

「毎日朝食と夕食をこちらでご用意しています。昼は、この村にも定食屋やうどん屋がいくつかございますので、そこで召し上がっていただければ。ですが、山に入られる場合など、朝食時に注文いただければ、おにぎりなどの簡単なお弁当をお作りしますので」

 それから、共同浴場を紹介して二階に上がる。

「こちらが朱鷺野さんのお部屋、隣が柴原さんのお部屋です。一応、うちの中で一番広いお部屋をご用意してますので…。家具も自由にお使いいただいてかまいません。何かありましたら、従業員にお声がけください」

 朱鷺野さんが部屋に入って、一通り設備を確認する。いたって普通の和室で、床の間に置いてある壺も、飾り棚に飾ってある皿も、部屋の隅に置かれた箪笥も、何一つ高級なものはない。きっと豪華な宿に泊まり慣れているであろう人をこの庶民的な客室に泊まらせるのはなんだか気が引けた。

 と、彼はちゃぶ台の上に置かれた小箱を開けて、目を丸くした。

「これは…!ずいぶんと高そうな砂糖菓子だね。もらっていいのかい?」

箱の中には、向日葵などの花の形をした砂糖菓子がいくつか入っている。

「あ、これは和三盆と言いまして、讃岐の名産なのでいつもお客さんにお出ししてますが…。そんなに高級品というわけでは…」

「讃岐の和三盆!これがそうか。いや、噂には聞いていたが、本物は初めて見た。ずいぶん繊細に模様が彫ってあるんだね。こんなの帝都じゃそうそう手に入らないよ」

「自分、和三盆は銀座のデパートで見たことがあります。確かにいいお値段だったような気が…」

「やはりそうか。いやあ、さりげない素敵なおもてなしだ。ありがたく頂戴しよう」

 手放しで褒められて、なんだか照れ臭い。地元じゃ茶菓子として当たり前のように出されるものだけれど、銀座で売られるような代物だとは知らなかった。

「あとでこれをつまみながら一服しようじゃないか。なぁ、柴原くん」

「はい」

「それと…。山の案内は君がしてくれるんだよね。君も作戦会議に加わってくれないか?仕事中に時間を取らせるお詫びに、横浜で買ったおいしい紅茶を淹れてあげるからさ」

「…!」

 朱鷺野さんが私を見てにっこりと微笑んで、私はドキッとしてしまう。さらりと揺れる彼の長い髪に大人の色香を感じる一方で、彼の話し方や笑顔は気さくで、親しみやすいお兄さんと言う感じもする。なんだか、ちぐはぐで不思議な人だ、と思う。

「まだ少し仕事が残っているので、四時ぐらいになってもいいですか?」

「ああ。こっちも荷物整理してるから、ゆっくりでいいよ」

 私は一礼して、部屋を出た。


 部屋を出て階段を下りたところで、私はふうと一息ついた。

 とにかく緊張した。

 失礼はなかっただろうか。

 宿のあまりのみすぼらしさに、がっかりしてはいないだろうか。

 話が聞きやすいように極力標準語を使うようにしているけれど、発音はおかしくなかっただろうか。


 私が胸に手を当てて心を落ち着かせていると、食堂のほうからお母さんが顔をのぞかせた。

「あんた、大丈夫やった!?」

「あ、うん。もう部屋にいるよ。私の仕事が落ち着いたら、あやかしの話するって」

「なんかさ、めっちゃええ男やなかった!?背も高いし、鼻も高いし、足も長いし!」

「お母さん!声大きい!聞こえたらどうすんの!」

「こんな田舎じゃあんなええ男おらんからねぇ。帝都にはああいう人がごろごろおるんやろか。あんた、これからあの人と一緒に過ごせるなんてええなぁ〜。独身かどうか聞いときや」

「聞けるわけないってば!」

 お母さんののんきさにはあきれる。お父さんも私も、昨日は緊張してほとんど眠れないぐらいだったというのに。

 …とにかく、これからあの人たちが帰るまでは失礼のないように、満足していただけるように日々気を引き締めて接客しなければならない。…それに、彼らがおかしな行動を取らないように監視もしなければいけないのだ。本来なら宿の責任者であるお父さんが前面に出て接客をするはずだれど、今回はある理由によって私が彼らの世話係兼監視役をやることになっているのだ。


 それは、私が村で一番、山でお狐さまを見かける回数が多いからだ。


***


 夏を迎えるまでに、お父さんは朱鷺野さんと何度か手紙のやりとりをして詳細を確認していった。

 あやかしの研究とは具体的に何なのか、滞在中はどのように過ごすのか、滞在の期間が正式に決まるのはいつか、滞在中にこちらが準備するものはあるか──等々。

「どうやら実際にお狐さまに会って、どういうところを棲み処としてるか、何を食べてるのか、どんな能力があるか、みたいなことを知りたいらしい。山に一緒に入ってお狐さまの居場所を教えてほしいらしいぞ」


 山や海、あるいは村の中、家の中──日本各地に存在すると言われる “あやかし”。

それが具体的に何を差すのか明確な定義があるわけではないけれど、主に人でも動物でもない、不思議な力を持った存在がそんな風に呼ばれている。地域によって、それは神として崇められていたり、化け物として恐れられていたり、空想上の生き物として語られるだけであったり、様々だ。そして、私たちの宿の裏手の山にもあやかしがいる。村の人間からはお狐さまと呼ばれている、三尾の狐だ。

 お狐さまは私のおばあちゃんが生まれるずっと前からこの山にいて、私たちはお狐さまを村の守り神として崇めてきた。

 おとぎ話の存在ではなく、実際にお狐さまは、いる。

 毎日のように見かけることはないけれど、山に入って山菜などを採っていると、ふた月に一、二回ぐらいはお目にかかる。

 お狐さまは私たち人間に襲い掛かるでもなく、なつくわけでもなく、一定の距離を保ってじっと私たちを見つめて、すぐにひらりとどこかに消えてしまう。

 私たちも、お狐さまを見るとその幻想的な美しさに目を奪われ動けなくなってしまい、とても自分からお狐さまに近づくことはできない。金色に輝く美しい毛並み、ときおり妖艶な赤色の光を帯びる透き通った瞳、上品で軽やかな足さばき…。一目見るだけで息をするのも忘れそうになるぐらい、惹きつけられるのだ。

 身近でありながら、一方であまりに神聖すぎるその存在を研究しようなどとは、村の誰も考えたことがない。

 

 お母さんが不安げに言った。

「別に会いに来るぐらいはかまわんけど…。お狐さまは人を襲ったりはせんからね。けど、もし捕まえて檻にでも入れて観察しようなんて考えやったら、一大事やで。罰が当たって村が滅びてしまうわ」

「手紙では、もちろん危害を加える気は無いと書いとった。それに、山には村人の付き添いがなければ入らないとも。だけん、ちゃんと村の人間が監視してたら大丈夫やないかな?」

「そうかもしれんけど…。そもそも、お狐さまなんて私らですらそんなしょっちゅう見かけるもんでもないし。一か月の滞在で、一回も会えへんかもしれないでしょう?それはちゃんと向こうに伝わってる?」

「もちろん伝えた。向こうは、会えなければ会えるまで、できる限り滞在日数を増やすと言っている。最長で一か月半ぐらいだそうだ。大学が夏季休暇の間だと」

「それでも一か月半でしょう?足りないんじゃないかと思うけど…」

「もちろんそれでも会えなければ仕方がないと言ってるし…それに、ひよりの案内やったら、一回ぐらいは会えるやろ?多分…」

「えっ」

 突然私の名前が出てきて、私はびくっとした。

「朱鷺野さん、教授っていうぐらいやから四十、五十代ぐらいのお偉いさんやと思ってたんやけどな。どうもよくよくやりとりしていくと、助教授になりたての、若い人らしいねん。大学を卒業して数年助手をやって、それでやっと助教授になれたと。やから、たぶんまだ二十代か三十代前半やと思う。年齢も近いし、何よりこの村で一番お狐さまになつかれてるんはひよりや。ひよりに案内させるのがいいと思う」

 思いもよらなかった発言に私は戸惑った。

「なつかれてるって!?そんなんたまたま、ほかの皆より見かける回数が多いだけで…」

「いいや、お狐さまを見つけても、ひよりがおったら逃げへんやろ。俺だけの時は、見かけてもすぐ逃げよる。ひよりが誰よりなつかれてるのは間違いない。数年見かけてないって人もおる中で、毎月のようにお狐さまを見つけてるんはお前だけや」

「でも…。私そんな、帝都大学の人をおもてなしなんてできひんよ…。普通に接客するだけでも大変そうなのに、もしお狐さまに会わせられなかったらと思うと、胃が痛い…」

「何を言いよんや!見合いで相手を突き飛ばすぐらいの度胸の持ち主が、帝都のボンボンにビビってどうすんねん!」

「!!そ、それとこれとは関係ないでしょ!?」

 最初は朱鷺野さんに怯えまくっていたお父さんだけど、相手が若造だと知って多少気が大きくなったようだ。そして、朱鷺野さんを案内するという大役を私に押し付けようとしている。

(度胸があろうがなかろうが、帝都のボンボンを相手になんてしたことないんだからおもてなしなんてできないってば!)

「あらま、若い男の人やったんか。よかった!うちの食事って、学生さんが多いから質より量って感じやろ?帝都のお偉いさんの口に会う献立、どうしようかと思ってたんよ〜。若い男の人が喜ぶガッツリ料理なら、自信あるけん安心やわ」

 食堂担当のお母さんは、私の気も知らないでのんきに食事の話を始める。

「お母さん!今はそんな話どうでもよくて…!」

「んじゃ、朱鷺野さんの案内役はひよりに決定ってことで!」

「ほんなら、私が普段やってる仕事はどうすんの!毎日山登りなんかしてたら、宿の掃除なんか終わらんよ!」

「そんなん、やっちゃんとこに来てもらったらええやん」

 やっちゃんというのは近所に住んでる親戚の八重子さんのことだ。普段は農業をしているが、宿の繁忙期にはよく手伝いに来てくれる。

「でも…!」

「それに、あんたはこの村で誰よりもお狐さまを大切に思ってる。その気持ちと度胸があれば、都会のもんがお狐さまに失礼なことしようとしてもちゃんと止めることができるやろ?」

「………そう、かも、しれないけど…。」


 …………。

 その後うまい反論もできず、お父さんとお母さんに押し切られてしまって今に至る。



***


「すみません、少し遅くなってしまいました。失礼します」

 午後四時を過ぎたころ、仕事を終えた私は朱鷺野さんの部屋を訪れた。

 戸を開けると、朱鷺野さんと柴原さんが座椅子に座っているのが見えた。部屋の奥の、半分ほど開けられた障子から西日が強く差し込んでいる。朱鷺野さんの明るい色の髪は金色に光り、すらりと整った体の線が整った形の影を畳に映していた。

「かまわないよ、入っておいで」

 西日の橙色と髪に反射した金色の光を纏いながら微笑む朱鷺野さんは、より一層浮世離れして見える。人ではない何か…それこそお狐さまのように、美しく幻想的で…。

「お、お邪魔します…」

「ちょうど食堂からお湯をもらってきたところだったんだ。今から紅茶をごちそうしよう。日が傾いて涼しい風も吹いてきたし、熱い飲み物でもいいよね?」

 私は小さく頷いた。それを見た朱鷺野さんは、薬缶からコポコポと軽快な音を立てながら…何やら丸みを帯びた白い容れ物に湯を注ぐ。

「…ずいぶんとお洒落な食器ですね?」

 うちの食堂にあるものではない。私がまじまじと見ていると、「ティーポットとカップを見るのは初めてかな?紅茶葉と同じく、これも横浜で買ったものだ。西欧ではお茶をこれで飲むんだよ。お気に入りのカップだからわざわざ持って来たんだ」と朱鷺野さん。

 ティーポットもカップも、白地に金色で細かい幾何学模様が描かれている。西日がその金色に反射してきらきらと眩しい。

「西洋の絵画で見た、お姫様の持ち物みたい…」

 思わず出てしまった言葉に、朱鷺野さんはさらに笑みを深くした。

(し、しまった。これじゃ庶民丸出し…。紅茶が上流階級の間で流行ってるっていうのは聞いたことがあるけど、こんな器で飲むなんて知らないし…)

「さ、どうぞ。お姫様」

 朱鷺野さんがそんな風に言いながら紅茶を差し出すものだから、私は顔がかっと熱くなってしまう。

(お、お姫様って…!)

 私は赤くなった顔を隠すように、うつむいたままカップを受け取ろうと手を伸ばした。すると、カップを持つ朱鷺野さんの指が視界に入る。海辺で採れる桜色の貝殻のような美しい色合いの、手入れされた爪に私ははっと息を飲んだ。

 この人は文字通り、爪の先まで綺麗だった。

 恐れ多くて自分の手を引っ込めてしまいたい、そんな気持ちをぐっと抑えて、私はカップを受け取った。

「はい、柴原くんも」

「ありがとうございます」


 私たち三人はさっそくその紅茶を二、三口飲み、しばし休憩をした。


「さて…では早速、明日からの動きを確認しようか」

 しばらくして朱鷺野さんが口火を切ったので、私は姿勢を正した。これからどのようにお狐さまの研究をしていくと言うのか。

「お父さんから話は聞いているんだよね?君が、あやかしのいる山中を案内をしてくれて、あやかしに関して知っていることを話してくれると聞いているんだけど」

「はい、それで間違いないです」

「では、明日は日が昇ったら朝食を食べて出発、ひとまず歩けるだけ歩いて山で昼食を取って…。初日に頑張りすぎると疲れるだろうから、未の刻ぐらいには戻りたいかなと思っている。これぐらいの時間をかけると、頂上付近まで行って帰って来れるかな?」

「お狐さまを…、あ、あやかしのことを私たちの村ではお狐さまと呼んでいます。お狐さまを比較的見つけやすいのは、まず一時間半ほど登ったところにある祠です。お狐さまの石像が祀られていまして、私も山菜などを採る際はついでに立ち寄って、お供え物をします。その時にたまに、祠の周辺でお狐さまが歩いたりくつろいだりしているのを見かけることがあるんです」

「ほう…」

 お狐さまを見かける、という言葉に二人は少し顔色を変えた。おそらく、全国的に見てもこんなに簡単にあやかしに会えるのは珍しいのだろう。私自身、四国の中であやかしの存在が噂される地域をいくつか知っているけれど、実際に会える場所はここ以外に聞いたことがない。だからこそ、この古ぼけた小さな民宿が朱鷺野さんに選ばれたのだ。

「それから祠を越えてさらに行くと少し開けた展望所があります。そこがほぼ頂上ですね。そこで昼休憩を取って下山して、村に戻れるのがちょうど未の刻ぐらいになると思います。祠や展望所までは村人もよく行くので、道も整備されていて歩きやすいですよ。もっと険しい山道を通るのはひとまず後回しにして、簡単な道から行きましょう」

「うん、わかった。そんなに険しい山ではないと聞いているけど、道が整備されているのは助かるな。初日はとにかく、お狐さまに会えるか会えないかは別として、山の雰囲気や生き物を観察できたらいいかな。関東ではお目にかかれない動植物もあるだろうからね」

「わかりました」

 生物学を研究しているぐらいだから、きっとあやかし以外の生き物にも詳しいのだろうなとぼんやり思う。

「あと、少し聞いておきたいんだけど」

「はい?」

「お狐さまって、君たちにとってどういう存在?」

「えっ…?」

 急にそんな風に言われて、私は一瞬言葉に詰まる。しかしすぐに、

「大事な神様です。村の守り神です」と答えた。

「何かご利益があるということ?どんなご利益があるか、具体的に教えてほしい」

と、朱鷺野さんはさらに質問を重ねてくる。

「え、ええっと、それは…」

 どう言葉にしていいかわからなくて少し考えていると、

「なんとなく昔からそう言われてるから、ご利益があるような気がしているだけ…っていうのでもいいよ」

と返されて私は少しむきになった。

「そんなことはないです!」

 すぐさま否定する。

「お狐さまは村人たちの願いを理解して、叶えてくれると言われています。私たちの村は気候が穏やかで、土砂崩れや洪水や竜巻みたいな災害はほとんど起きたことがないんです。それに、香川県は雨が少ないので夏に水不足になりやすいのですけど、この村は夏でもちゃんと雨が降って、水が枯れることも滅多にないんです。きっと、夏になれば私たちみんながお狐さまに『雨をお願いします』ってお祈りしているからだと思います!お供え物もたくさんしていますし!あ、ちなみにうちの宿の中庭にもお狐さまの石像があるんですよ。私が毎日掃除して、平和な一日になりますようにって祈ってるんです」

 私は一気にまくしたてたが、そんな私を遮るようにして朱鷺野さんが口を開く。

「でも、それはたまたまこの土地がそういう気候の土地だからってだけかもしれないよね。災害だって、今まで起きていないからといってこれからも起きないとは限らない。狐には、人間に化けるとか不思議な力を持っているというような昔話がたくさんあるけれど、それにしたってここのお狐さまの話はちょっと大げさすぎる」

「お、大げさと言われましても」

「僕だったらお狐さまをしばらく離れた土地に置いてみて、それでもここの温暖な気候が持続するか観察するな。そういう実験、興味ない?やってみたいと思わない?」

「なっ…」

 お狐さまを、離れた土地に置く……?

 あの神聖なお狐さまを物扱いするような言い方…しかも百年以上もこの山に住んで村を守ってくれているのに、この土地から離すって…?


 この男はケロッとした表情で、自分がどれだけお狐さまに失礼なことを言ったかすら気づいていない様子だった。

 彼のそんな顔を見ていると、怒りが腹の底から湧いてきた。

 そして、『いけない、怒りを抑えなきゃ』と理性が働く前に、

「な…、なんてことを言うんですかっ!!お狐さまに対して…無礼すぎます!!」

口が開いていた。


「……」

「……」

「……」

 大きな声が部屋中に響き渡って、三人の中で一番驚いたのは他でもない私である。


「す、すみません吾妻さん。先生は根っからの研究者ゆえ、相手が神様でも人間でも動物でもなんでも、観察対象にしてしまうんです。でも本当に悪気はないので、どうかお許しください!ほら、先生も謝ってください」

 凍り付いた空気に、柴原さんが慌てて仲裁に入る。

「いやぁ、驚いた。ごめんね、そんな風に怒らせるつもりじゃなかったんだ。お狐さまが君たちにとってどれだけ大切な存在かこれでよくわかった。もう変なことは言わないから、許しておくれ」

 そう言って朱鷺野さんも頭を下げた。

「お狐さまは君たちの大事な神様で、そして君は僕たちにとってお狐さまのことを教えてくれる大事な先生だということを肝に銘じるよ。もう二度と無礼なことは言わないし、君を怒らせるようなこともしない」

「あ、そ、そんな…。頭をあげてください!こちらこそ、その…!朱鷺野さんに対して無礼だなんて言ってしまって…一番無礼なのは私です!申し訳ありません!」

 私も頭を下げて、二人して頭を下げ合う妙な光景になってしまった。

 あまりのいたたまれなさに(もう消えてしまいたい…)などと思っていると、部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。

「朱鷺野さん、夕食の支度ができたので、そろそろ降りてきていただけますか?」

 食堂の従業員の、井田さんの声だ。

「あ、はい。すぐに降ります。今柴原も部屋にいるので、一緒に行きますね」

 朱鷺野さんがすぐに返事をしたため、井田さんは部屋の中に入ることなくそのまま下がっていった。

「もう顔を上げてよ、お姫様。僕はまったく君に対して怒ってないんだから」

 まだ顔を上げられないでいた私の頭をぽんぽんして、朱鷺野さんが顔をのぞき込んできた。

「…!!」

 朱鷺野さんの整った顔が目の前に来て、私は思わず後ずさってしまう。

「…そうだ。君のこと、いつまでもふざけてお姫様と呼ぶわけにもいかないしね、“ひより先生”って呼んでもいいかな?“吾妻先生”だとちょっと距離がある気がするし」

「せ、先生っ!?」

 ──天下の帝都大学教授から先生と呼ばれるって?

 冗談かと思ったが、朱鷺野さんの顔は大まじめだ。どうやら本気で言っているらしい。

「お狐さまのことを教えてもらうわけだから、先生と呼ばせてほしいんだ」

「いや、あの、それはさすがに…。本物の先生から先生と呼ばれるのは違和感しかないので、やめてください…!私のほうが年下ですし、名前をそのまま呼んでいただいて大丈夫ですから…!」

「そう?じゃあ“ひよりちゃん”にする」

(あ…それだと少し子供っぽい気が…。ま、まぁ先生呼びよりはいいか…)

「わ…わかりました。あの、むしろ私が朱鷺野さんのことを先生とお呼びしてもいいですか?」

 どう考えても朱鷺野さんのほうこそ先生と呼ばれるべきだと思って、私はそう提案した。

「僕?まぁ、いいけど…先生に先生って呼ばれるのは違和感だなぁ」

「だ、だから私は先生ではありません!」

「ふふふ、冗談だよ。ひよりちゃんはいちいち反応が面白いね。これからは、朱鷺野先生って呼んで」

 朱鷺野さ…先生は楽しそうに笑った。その表情は決して馬鹿にしている風ではなかった。反応が面白いというのは喜んでいいのかよくわからないけれど、朱鷺野先生のこの嬉しそうな表情を見るとそんなに悪い気はしない。

「そうだ。ひよりちゃん、夕食は?一緒に食べる?」

「あ、いえ!私は食堂の給仕も担当していますので、お二人と一緒に降りたら、仕事に戻ります。食事はいつも食堂で余ったものや、まかない飯を食べていますので」

「そっか、残念。いつか食事も三人で食べよう。君のお父さんにお願いしてみるよ。これからおよそ一か月、一緒に研究をしていく仲間だから。君とは仲良くなっておきたいんだ」

 そう言って朱鷺野先生はまた優しい笑みを浮かべた。


 その後私は仕事に戻り、八時を過ぎたころにやっと仕事が終わった。部屋で一息ついて、今日の出来事を思い出してみる。

 朱鷺野先生のお狐さまに対しての発言はかなり頭にきたけれど、彼の笑顔は優しく、柴原さんの言うように根は悪い人ではなさそうだった。それから、年下の私を先生と呼ぼうとしたりして…。

(なんというか…ちょっと普通の人と感覚がズレてるような…不思議な人?というか変な人?帝都大の人間だからって偉ぶるような人じゃなくてよかったけど…これからうまくやっていけるのかな?)


 明日から約一か月、朱鷺野先生たちとどんな日々を過ごすことになるのか。

 不安と期待で頭の中がぐるぐるして、その晩はよく眠れなかった。

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