花園さんと僕が馴染むまで 3
「はい、紅茶。蜂蜜を落としてあるからもしかしたら甘すぎるかもしれないけど」
「……ふう。そんなことないわ。とても美味しい」
そう言ってふわりと笑う彼女。けれど前に見た笑顔とは違って、なんだか表情が固いような気がして、僕は気づかれないように眉をかすかに寄せた。
彼女が普通に笑うことすらできないほどに苦しんで、不安でいる。その事実がなんだか腹立たしい。
「……どうして、わかったの?」
紅茶の入ったマグカップを両手で持って、消えそうなくらい小さな声で呟く。
僕はさっき、彼女の言葉を無視して道をわざと間違えた。理由は神谷くんが立っていたからっていうこと。それに気がついたのは偶然でもなんでもなく、必然だったけれど。
彼女が疑問符を浮かべて僕に震える声で、
『み、道を間違えているわ…?』
と言った時、それは確信に変わっていた。
間違いなく彼女が不安がっている理由は神谷くんだと。
坂井さんの話からほぼ確実にそうだとは思っていたけれど、実際に見るとなんとも上手く彼は本性を隠しているものだと感心してしまう。
『ううん、間違えてないよ。君は今日、帰らない方が良いと思った。だから僕は君を帰さないよ』
少なくとも今日はね、と付け足してから、僕はどこのキザ男なんだろうと鳥肌が立ちつつも笑ってしまった。
僕の言葉に初めはキョトンとしていた彼女も、僕の気持ちを察してかふふっと笑みをこぼしていた。
それから僕らは僕の家に帰るまで、気を紛らわせるようにして会わなかった間の話をした。
あの教授の授業は楽だとか、食堂のメニューのハズレはあれだとか、サークルの活動ってほとんどしてないんだとか。
サークルに関しては僕も心を痛める部分もあったけれど、彼女との話はとても面白かった。
僕とは違い華やかな世界で生きている彼女の感じるものは、当然僕とは違ったし、彼女とは違って目立たない世界で生きている僕の感じたことは彼女とは違っていた。
「あれだけヒントを貰ったんだ、あれでわからないのはどこぞの鈍感系の主人公だけだろうね」
と肩をすくめると彼女はくすっと笑って、そしてちょっとだけ不満げな顔をした。
そして、笑うのを止めるとじっと僕を見て黙る。
ああ、その顔は説明をして欲しいっていう顔かな? 普通に順番に考えればわかるはずなんだけどなあ。
「多分だけど、彼のアプローチが始まったのは、ちょっと前に君が僕とコレを買いに行ってからじゃないかな?」
彼女と一緒に買いにいった伊達眼鏡を指差して、こつんと一回弾く。……そしてずれた眼鏡をかけ直した。
「ど、どうしてわかるの?」
流石にそこから突っ込まれるとは思っていなかったのか、彼女はとても驚いている。
「これだって考えれば簡単にわかることなんだよ。もう一つ確認しておきたいんだけど、彼は君が大学に行き始めてから、なんだかんだ近くにいなかったかい?」
「…そういえば、グループワークとかは同じだったことが多かった気がするわ」
やっぱりね。そんなに早くから目を付けてたっていうのに、僕みたいなのが出てきたから…ってことなのかな。でも、それだったらそれでもっと上手くやれそうだと思うけど…そんなに頭は良くないのかな?
そもそも彼女の意識に残っていない時点で彼のアプローチに意味はないってことになんで気づかないかな。そんな悠長に構えてたら彼女を横から掻っ攫われるだろうに。
「なるほどね」
「…私にもわかるようにちゃんと説明してちょうだい」
むっと膨れる彼女は実際の年よりもずっと可愛らしく見える。こういうのを自然とやってしまうから敵が増えるのかもしれないね。
「まず、神谷くんは大学始まってから……ひょっとしたらくらいの可能性だけど、もっと前から、君に好意を抱いていたんだ」
「…え?」
「だからなんとなく、少しずつ、自然とそうなるように君との距離を詰めていっていた。まあ、そこでどうして同じサークルに入らなかったのかって理由は、多分基くんだろうけど」
基くん、地味に鋭いところもあるし、なんだかんだ顔は良いし、彼にとっては邪魔な男の一人だったんだろうな。でも、基くんには彼女がいるからそういう敵としてではなくただの邪魔者として見ていたから、気に留めていなかったんだ。
「えっと、どうしてそこで舟木くんが?」
僕は彼女の質問を笑顔で黙殺した。
「けれど彼の計画は途端に変更せざるを得なくなった。その理由はおそらく、僕だ」
彼は何処かから僕と彼女が一緒に出かけたという情報を得て、意味のない焦りを感じたんだろう。
僕が彼女とどうにかなるだなんてそんな分不相応なことを考えるはずがないのに。
「今までノーマークだった僕が急に出てきたせいで、彼は混乱し、嫉妬し、焦ったんだろうね。僕は君と同じサークルだし、仲良くなってしまう可能性も高いから。実際は僕はサークルにほとんど顔も出さない幽霊部員だったわけだけど」
「ほんとにそうね、もう少し顔を出してくれても良いんじゃないかしら?」
拗ねた顔で紅茶を飲む彼女を見てなんだか子供みたいだって笑うとむっとした顔で睨まれた。
「ま、まあそれは置いといてだね。僕が邪魔なら僕の噂を流せば良いと僕だったら思うんだけど…残念ながらそれは上手くいかなかった」
「どうして?」
首を傾げる彼女に僕は笑いかける。それはひどく簡単な理由で、とても悲しい理由だから。もっとも、僕は気にも留めていないんだけど。
「噂を流して気にするほど僕の存在はみんなにとって興味がなかったってこと。僕はみんなの記憶に残るようなことしないし」
サークルにはほとんど参加せず、授業は基本一人でばかり受けていて(基くんもいたりするけど)、ご飯を食べるのもほとんど一人(同じく基くんいたりするけど)。そんなつまらない人間に誰が興味を持つんだろう。
僕だったら共感できるから興味を持つけれど、普通の華やかな大学生活を送りたい人たちからしてみれば僕なんて隠キャの鏡だよ。
「焦った彼はさらにミスを重ねる。それは君に対して無駄にアプローチをかけたこと。いくら顔が良くてもやっていることはただのストーカーまがいの行為だ。それに、君には優しい味方が付いていたようだし、その子にも感謝した方がいいね」
もちろん、坂井さんのことだ。彼女がいなかったら、もう少し彼は過激になっていてもおかしくなかった。
「それで、僕にバレた理由だけど…」
ここまで話したところで、彼女を見るとなんだかおかしな顔をしている。なんだろう、別に得意げに話していたつもりじゃないんだけど。
「…ええと、なに?」
気になってしまったので思わず聞いてしまう。
「……やっぱり、戸塚くんって思っていたのと全然違う人だったわ」
「それがどういうことなのかは、後で聞くとして、だね」
僕は彼女の最初の質問に答えるべく話を続けることにする。
「僕がどうしてわかったのか、それは神谷くんを見たときの君の反応だよ」
「…私の?」
「僕と会った瞬間、明らかに表情が固くなった。その後に神谷くんが来たからもしかしたら神谷くんが好きだから僕に見られたくないのかなって思ったんだけど」
「…違うわ」
「うん、違った。君は神谷くんから逃げていたんだよね? 僕を見て表情が固くなったのは神谷くんが僕と顔を合わせるのが嫌だったからじゃない?」
ピシリと固まってしまった彼女を見て、自分の予想が合っていたことを確信した。
純粋に、僕を巻き込むまいとする君の気持ちは嬉しいけれど、それはいらない心配だ。僕は僕に降りかかってくる火の粉くらい自分で払える。
僕の問いかけに彼女はこくりと頷いた。
あまりに大人しい彼女を見ていると、なんだか小動物みたいで思わず手が伸びてしまった。
とすんと頭に乗った手にピクッと反応したけれど、それ以外はなにも動きはなかった。
柔らかくてツヤのある髪。なんだろう、前に肩を抱いてしまった時も思ったけれど、女の子ってどこでも柔らかいものなのかな?
彼女の髪を手で梳くと、何にも引っかかることなくするりと指が通った。ふわりと女の子独特の甘いような香りが僕の花をくすぐる。
髪を梳いた時に彼女の首にかすかに当たってしまった僕の指に反応して、彼女はピクリと震えるけれど、嫌がったりはしていないようだった。
ああ、愛おしい。
そう、思ってしまった。
僕は彼女の頬に手を添えて、こちらを向かせた。潤んだ瞳が僕を誘惑する。ああ、これはまさしく病気だ。
「大丈夫だよ、僕が君を…」
守るから? 救うから? 助けるから?
どれも薄っぺらく思えてしまう。確かにしようと思っていることはそれと同じだけど、言葉にすると途端に意味のないように思えてしまう。
なんと言ったらいいのだろう。そう思った時、ふと思ったことがあった。これにしようと思うと、自然と言葉が口から溢れていた。一歩間違えると犯罪のような香りのするその言葉を告げる。
「離さないから」
そう言って僕は彼女を抱きしめた。
初めは彼女の体は驚いて強張ってしまっていたけれど、だんだんと体の力が抜け、僕に体を預けていった。
僕が彼女のことを、そして彼女が僕のことを好きなのかはわからないけれど、少なくとも今は、この問題が片付くまでは、彼女のことを離さないと決めた。
神谷くん、僕は彼女を君に渡さないよ。
十分くらいはそうしていただろうか、そろそろ僕の理性も限界なので離れようとすると、彼女の腕が僕にしがみついて離れない。
「あの、もうそろそろ離して欲しいんだけど」
「…だめ」
「……」
僕は無言で彼女の腕を離そうとするけれど、どこにそんな力があるのか、まったく離れる気配がない。
「どうして離そうとするの?」
「どうして離れてくれないの?!」
「…離さないって言ったのに」
「それはそうなんだけど、僕と君は付き合っているわけでもないし、少なくとも彼の問題が解決するまではって話なんだけど…」
と、そこまで話したところで彼女の腕と顔から力がストンと抜けた。
これ幸いと彼女の身体を僕から離すと、彼女の目には大量の涙が浮かんで…って?!
「どうして泣いてるの?」
再び彼女を抱きしめたい気持ちをぐっと堪えて、彼女の涙を少しずつ指ですくうけれど、次から次から溢れる涙のせいで僕の指からつつっと雫が伝って床に落ちた。
「わからないの?」
息をするのが苦しいのか、鼻声で、悲しそうに言う。
「……わかってあげたいけれど、僕にはわからないよ」
可能性がないわけではない。けれどその可能性に期待を持つのは僕にはできそうもない。
だって彼女は華やかな世界で生きている人で、僕みたいな日陰者にすら光を与えてくれる側の人だから。
「……そう」
そう呟いて、彼女は僕に身体を預けてくる。
思わずそれを支えてしまうと、だんだんと力が強くなって…って痛いよ!
「あの、すごく痛いんだけど」
「……」
無言でキリキリと力を入れないで!あと肩に爪を食い込ませないで!足を踏まないで!!
ひとしきり僕を痛めつけて満足したのか、彼女は僕から離れるともう泣いてはいなかった。
「私、もう寝るわ」
「そ、それは良かった」
彼女が寝ると言ってくれて良かった。……良かった?
手を差し出しているので、なんだろうと不思議に思い首を傾げる。
「ん」
よくわからないので、試しに手を乗せると、ギリギリとゴリゴリと手を握られた。…彼女は思っていたよりも武闘派のようだ。
「そうじゃなくて、寝る服、貸してちょうだい。この服じゃ寝られないわ」
そう言われて彼女の服装を見ると完全によそ行きのおしゃれな格好をしている。
確かにこれで寝たら服にシワがよって大変そうだ。
「あれ、お化粧とかは落とさなくていいの?」
「私、お化粧してないわよ?」
嘘だ、と思わず言いそうになってしまったが、よくよく見ると彼女の肌に粉っぽさは感じないし、唇が無駄に光ったりもしていない。
すっぴんでこれって正直喧嘩を売っているんじゃないのかなって思ってしまったけれど、そもそも僕は男なので気にすることもなかったよ。
「えっと、じゃあ……」
僕はクローゼットを開いて適当なシャツとズボンを渡す。まあ、スウェットだけどね。
「シャワー浴びたいならそっちにあるけど……どうする?」
「借りるわよっ」
…なんでちょっと怒ってるんだろう。女の子ってよくわからないなって思う。
彼女は僕から服を受け取るとすたすたと脱衣所に行ってしまった。
一応言っておくと、タオルとかは全部脱衣所に置いてあるので、タオル置いとくよ〜的なラッキースケベは発生しない。というかそんなことをしたら余程でもない限りは通報で逮捕だと思うんだよね。
「…疲れた……」
僕は着替えてどさっとベッドに倒れこんだ。
今日は色々あった。
授業が……神谷くんに会って…中華に………彼女が……………。
気がつくと、僕の意識は旅立っていた。