影忍
次の日の昼過ぎ、予定通りに日下部冬馬と里は若狭屋を出立した。
冬馬は『若狭屋』と書かれた笠を被ると、背中には大きな行李を背負っている。もちろんその中には彼の太刀が忍ばせてあるのだ。
里は萌葱色の風呂敷を片手に抱えると、冬馬の少し後をついて歩く。
そしてこれよりも半時ほど前もこと、桂ら三人も若狭屋の裏手より店を出ると、細い油小路を人目を忍ぶように上京へと向かって行った。
冬馬と里の二人が西洞院大路を下京より上京へと入った頃、彼らの一町ほど後を、やはり同じように上京へと向かう四人の男達がいた。
四人とも身なりこそ旅の行商人の体を装ってはいるが、目深に笠を被りその腰には大小の太刀を携えている。中でも一人の男の眼光は獣のように鋭く、左の頬には刀傷がある。
彼らが近衛大路に差し掛かったとき、いち早く到着していた桂達は、簾越しに目の前を通るその四人の男達の姿を確かにその眼で確認した。
それから三人は土御門大路を西へ進み、そこから続く雑木林の中へと分け入った。
雑木林は長年の戦乱のためであろうか、人の手がほとんど加えられていないものの、三人が冬馬達を眼で追いながら進むには十分なほどの間隙がある。
一条大路に出た冬馬は、草鞋の紐を締め直す仕草をしながら、今歩いてきた道の方に眼をやる。
顔風体までは分からないものの、そこには確かに数人の男達を確認することが出来る。
「お里、これよりはわしの前を離れず歩くのじゃ。良いな」
冬馬は頭だけは下を向いたまま、里に呟く。
里もけっして後ろを振り返るようなことはしない。手の甲を口に充てひとつ大きく笑う振りをすると、下ろした手で冬馬の肩をぽんと叩いた。
遠目には、どう見ても仲の良い店の奉公人としか映らないであろう。それでも里は冬馬が言う通りに、彼の二三歩前を一条大路より西に向かって歩き始めた。
冬馬と里が雑木林の中の一本道に差し掛かったとき、にわかに烏の群が林の中で騒ぐ声がしたが、それでも二人は足を止めることなく更に西へと進んで行く。
一方、雑木林の桂達も今では片時も二人の姿から眼を離さずに忍んで行く。
もちろん、二人の後ろをずっとつかず離れず歩いてくる男達も視野に入れながらである。
それでも桂達はこの男らに気付かれぬよう細心の注意を払った。
与六の槍の穂先には茶色い布が蒔いてある。それは、光のない雑木林の中で所ならずして槍の穂先が光を反射させないためでもある。
もう一人の吉之助は、与六のそれよりも随分と短い槍を携えている。いざとなったら至近距離から投げるためのものであろう。
何れにしても彼らは、冬馬達がやっと見えるぎりぎりの暗がりを、足音を忍ばせるように歩いている。
不意に吉之助が声をあげた。
「おかしい、男の姿が一人少ない」
見ると、確かに冬馬達をつけている男の姿は三人で、近衛大路の所では四人いたうちの、一人の姿が消えている。
「きっと、わしらが見間違えたのであろう」
与六は意に関せずといった口振りであったが、吉之助は妙にこだわった。
そして、彼らの左手に西寿院の松林が見えてくると、冬馬達の後ろを追っている男達の足がにわかに早まってきた。
その音に気付いたのか、冬馬は姿勢だけは崩さずに、前を歩く里に大きく声を掛けた。
「お里、足早にわしから離れるのじゃ。そして、この先にある西寿院へと駆け込むのじゃ」
彼もすかさずこの異変を感じ取ったのであろう。言いながら背中の行李より片手を抜くと、その中から太刀を掴んだ。
すでに異変に気付いた桂と与六も、雑木林の中を冬馬の元へと駆けている。
桂はその弓に矢を番えると、冬馬とそれを追う男達との間を目指した。左には西寿院へと駆けていく里の姿が映っている。
冬馬の後ろより駆け寄る男達も、もうすでにその手には太刀の光を放っており、尚も勢いよく駆け始める。
冬馬も今ではその行李を投げ捨て、男達の方に向き直り太刀を正眼にかざす。雑木林には、彼を罵倒する男達の声が響き渡る。
「覚悟―っ」
詰め寄る刺客達は、桂らの存在にも気付いてはいたが、それには眼もくれずに冬馬との間合いをみるみる縮める。
桂は弓を構えると、その弦を大きく引いた。次の瞬間、刺客の一人が太股を矢で射抜かれたのである。
男はぎゃっとひと声発すると、転がるようにとその場に崩れた。一方、与六は槍の穂先の布を剥ぎ取るや、大声で叫びながら彼らの中へと突進する。
桂がその弓で、二人目の男に狙いを定めようとした時、期せずして西寿院の方角から女子の悲鳴が聞こえてきた。
「しまった、奴らの仲間が先回りしていたのか」
途端に彼が射った矢は勢いを失い、二人目の男の太刀で弾き飛ばされてしまった。
小道では、すでに与六と冬馬の二人が木内源内を相手に対峙している。
与六は源内の繰り出す太刀にその朱槍で良く凌いでいるものの、冬馬では到底太刀打ちできる相手ではない。
彼は与六の背後へと着くように足を運ぶと、時より源内が繰り出してくる刀に太刀先を合わせている。それでも、彼にとっては精一杯の奮闘振りである。
「なんと、吉之助は如何いたしたのじゃ?」
辺りを見て、与六は大声をあげた。見ると、当然ここにいるはずの吉之助の姿が無いのである。
「奴め、やはり敵の回し者であったか」
与六はにぎにぎと歯ぎしりをすると、唾をひとつ吐き捨てた。
藪を走り抜けた桂は弓を放り投げると、彼の矢を避けたもう一人の男と向かい会った。
男はその太刀を、今度は上段へと構え直す。
桂にはその男の顔が不敵に少し笑ったようにも見えた。そうしながらも、その男の背中越しに西寿院の門へと続く塀を見つめたが、そこにはもう里の姿を見つけることは出来なかった。
不意に男は剣先を桂目掛けて振り下ろしてきた。
桂はそれを交わすだけで、精一杯である。男との力の差は歴然としている。
今度は男が突いて出た剣先が、桂の右袖を切り裂いた。その刹那、一瞬男の刀の動きが桂の袖布に絡んで止まったように感じられた。
彼は男の太刀の背に滑らせるよう自分の刀を這わせると、男の左肩より袈裟に振り下ろした。桂の手には、男の肉と骨を断つ感覚がはっきりと伝わってくる。
男は桂に抱き掛かるように倒れてきた。しかし、その男は二度とその首を桂へと上げることはしなかった。
男の返り血を浴びた桂もまた、その顔を真っ赤に染めることとなる。彼はすぐに着物の袖で拭おうとしたが、眼の中に入ったそれは、彼からしばしの間視力を奪ってしまった。
桂は大声で叫んだ。
「与六、眼が利かん。そちらはどうじゃ」
しかし、この時木内源内と対峙していた二人も、桂の問いかけに答える余裕など微塵もない状態であったのだ。
源内の太刀捌きを何とか凌いできた与六ではあったが、実は腕を切られていたのである。幸い傷は浅いものの、傷口から流れ出た血が二の腕から手の甲までを赤くした。
どうやら源内は、先に与六を仕留めてから、ゆっくりと日下部冬馬を葬るつもりらしい。それが証拠にこの時まで、冬馬は未だ無傷のままである。
源内は上段から、与六目掛けて一気にその太刀を振り下ろした。
与六はそれを両の手で握った朱槍で受け止めた。しかし、それも虚しく、彼の朱槍は真ん中から真っ二つに割られてしまった。
槍を失った与六は、反動でその場にて仰向けに転んだ。冬馬とてこの状況に為す術もない。
与六は再び太刀を振りかざす源内の形相に改めて死を覚悟した。とその時である。雑木林の木の上より、複数の影が舞い降りてきたのである。
複数の影と言っても恐らくは忍びの者に違いない。しかし、この時の冬馬と与六にとっては、それがとても同じ人間の成せる技のようには感じられなかったのである。
その人間の形をした影達は木内源内を取り囲むや、一瞬にして彼の身体の動きを封じた。ある者は手裏剣を使い、またある者は縄を使っている。
源内は、その中の一人が放った吹き矢が首筋に当たると、まもなくその場に片膝を付いた。
それでも、尚も彼は太刀を杖のように刺して立ち上がろうとしたが、最後は彼の背後より近付いてきた影によってその喉元を割られた。
源内は一言も発することなく、その場に崩れ落ちる。
ところが不思議なことに、再び与六が立ち上がったとき、それらの影は跡形もなく消え去っていたのである。
冬馬も半分夢でも見ているかのように、その場に立ちつくしている。
そこに桂が走って戻って来た。
近くの川の水で顔も眼も洗ってきたのであろうか、やっと視力を取り戻した彼は、眼の前に横たわる木内源内を見下ろした。
「今のは何じゃ?」
桂も一瞬の出来事に、まだ信じられないと言うような顔をしている。
「わからん。恐らくはどこぞの忍びであろうが、何故源内を襲ったのかわしには検討もつかん」
与六も冬馬と顔を見合わせる。
「ところで桂、弓で射抜いたいま一人は如何したのじゃ?」
与六は二つに割られた朱槍の柄をそこへと放った。
「わしが戻ったときには、すでに自ら首を突いておったわ。明らかに三方盛房殿が放った刺客とはいえ、やはりわしらに自分達の素性を知られてはまずいのであろう」
言いながら、桂は俯せに倒れている源内の身体を仰向けに返す。
「これは棒手裏剣と毒矢じゃ。やはり忍びの者の仕業か」
「しかし、何故忍びの者がわしらを助けるようなことをしたのだろうか?」
与六もまた合点がいかない。
それでも桂は二人と供に、急いで西寿院の方へと向かおうとした。先程の女子の悲鳴が確かに里のものであったからである。
彼らは足早に西寿院の壁伝いの道を駆けた。そして院へと向かう門を左に折れたとき、そこに里の姿を見つけたのである。
傍らには頭から血を流した杉吉之助が座っている。
「おのれ、吉之助―っ」
与六は吉之助の胸ぐらを掴んで起き上がらせようとする。
「待て、与六。吉之助を見よ」
見ると吉之助の頭には、すでに白い晒しが巻かれている。
里が手当をしたものであろう、晒しは血で染まっているものの、吉之助の意識ははっきりしている。
「里を守りに来てくれたのか?」
本堂の脇に横たわる一人の男を見ながら桂が問いかけた。
よほど激しく斬り合ったのであろう、その男の服は幾重にも切り裂かれ、血の塊が服に大きな紋様を作っていたばかりか、身体と足とが不自然な方向を向いているようにも感じられたからである。
「それにしても、よくぞ待ち伏せに気付いたもんじゃな」
冬馬が吉之助の横に座りながら、彼の肩をひとつ叩いた。
「上京を渡っていた時には、確かに四人だったので・・・」
吉之助は雑木林の中でこの疑問を抱くと、桂達とは行動を別にし、真っ直ぐに西寿院へと向かったのである。
案の定、院には逃げてくる者達を狙って、先回りしたもう一人の刺客が身を潜めていた。
それを知らずに院へと逃げ込んだ里は、危うくこの男に斬られそうになったところを、寸でのところで吉之助が助けに入ったというわけであったのだ。
彼にしてみれば、自分の身を挺してでも里だけは守り抜かねばならないと思っていたに違いない。それが証拠に、吉之助は刺客による最初の一撃で額を斬られたものの、鬼の形相でその男に向かって行った。
怯んだ男は一瞬隙を作ってしまった。この時、空かさず吉之助の繰り出した短槍が、偶然にもその男の脛を貫いたのである。
後はお互い血塗れになりながらも、相手の身体目掛けて闇雲に太刀を振るい合った。
結局のところ、最後は気力で勝った吉之助の方が男にとどめを刺すことが出来たのである。
それでも彼もまた、大きな代償を払うことにもなった。
見ると、吉之助の左耳はそのほとんどが斬り落とされた状態でぶら下がっている。
「吉之助、すまなんだ・・・」
与六は彼の血塗れの腕を吉之助の背中へと回すと、ぐっと引き付けるように彼を抱き寄せた。
冬馬は吉之助の肩を抱きかかえるように起こすと、もう一方の肩を与六が大きく抱える。
里は返り血で真っ赤に染まった桂の胸にしがみ付きながら、大声を出して泣いている。桂は里の身体をきつく抱きしめた。
それから五人は、雑木林の中で日が落ちるのを待ってから、若狭屋までの道を急いで戻って行った。